十一月六日(水曜日)。時刻は:5:00と刻んでいるけれど、外気はいまだ暗闇にある。寝起きにあっては久方ぶりに、両耳には補聴器を嵌めている。雨の音なく、風の音なく、そして山鳥の声もない。ただ聞こえるのは、五月雨式に響くキイー叩きの音だけである。夜長は年の瀬の「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、正規軌道をずんずん進んでいる。きょうの私には、妻を「大船中央病院」(鎌倉市)へ、引率同行する予定がある。整形外科における予約時間は午前十時である。このこともあって、現在のわが心模様はいくらか逸(はや)っている。予約を為して定期的に訪れるこの通院は、わが家にとっては面倒であり、しかし必要悪とも言える、大切な繰り返しである。恨みつらみのごとく、妻の引率同行のことばかりを言っておれない。なぜなら、来週の十二日(火曜日)には、私自身の「大船田園眼科医院」への単独通院がある。この通院は、妻の通院よりはるかに質(たち)が悪く、わが命が果てるまでのエンドレスとなりそうである。通院理由は緑内障の経過観察であり、それにかかわる予約は、半年ごとと決められている。ところが、通院しても三分間診察にさえとどかず、二分ほどで「はい、いいでしょう」と、主治医の一方的宣言を聞くだけである。これだけでは会話にさえならず、私はいくらか腹立ちまぎれに主治医にたいし、こんな無謀な問いを投げかけた。薬剤は、一日に一度の点眼である。「先生。自覚症状はまったくありません。それなのに通院と目薬は、まだ続くのでしょうか。死ぬまで続くでしょうか。私の自己診断では、もうどちらも打ち切りでいいかなと思っています」。すると、ようやく会話が成り立ち主治医は、怒りの表情や悪びれる様子もなく、「まだ、続けましょう。命果てるまでこのままで済めば、儲けものじゃないですか」「はい。分かりました。きょうは目薬を六本、お願いします」。書き殴り特有に突然、用意しないネタを入れ込み、無駄な文章を長々と書いてしまった。いまだ途中だけれど、早やてまわしに平に詫びるところである。薄々と夜が明け始めているけれど、朝日はまだ隠れていて、空の色は鉛色である。きょうの天気予報では午前中は曇り、午後にはしだいに晴れ間が覗くという。さて、アメリカ合衆国では、長い間の「大統領にかかわる選挙戦」を終えて、日本時間のきのうの夜から開票が始まっている。共和党候補・トランプ氏と民主党候補・ハリス氏の一騎打ちは、日本の総選挙とは異なり、全世界の関心事で明け暮れてきた。選挙戦は終了間際まで両者、ほぼ五分五分と伝えられていた。こんなことでやはり、海の向こうとはいえ私も、新たな大統領の誕生には関心がある。他国の選挙ゆえに、わが意を披露することは構わないであろう。両者の政策などには関係なく、テレビ画面を通して見た目、私はハリス氏の当選を願っている。そしてそれが叶えば、アメリカ合衆国における初めての「女性大統領」と言われている。現下の世界は、ロシアとウクライナの戦争のみならず、あちこちの国々おいて戦争勃発の危機が高まっている。こんなおり、トランプ候補の仏頂面は、真っ平御免蒙りたいものである。ここまではきょうの文章の出まかせの付け足しであり、書き出す前に構えていたネタの本旨は、このことだったのである。すなわち、「晩秋の空に映える、柿の生る風景」だった。表題もあらかじめ決めていたのに、付け足し文のお邪魔虫に遮られてしまったのである。自分自身、わが頓珍漢には呆れるばかりではなく、もったいない気分横溢である。机上のカレンダーを見遣ればあすには「立冬」(十一月七日・木曜日)とある。わが好む語呂のいい「晩秋」は、中途半端にこの文章の尻のところでちょっぴりの書きおさめである。残念無念の思いつのる、晩秋の無駄な一文となってしまった。大空は予報どおりに昼過ぎから晴れるだろうか。その兆しは見えて大空は、少しずつ鉛色を蹴散らして、薄青く日本晴れになりつつある。実のない書き殴りは、草臥れ儲けさえにもならず、もう懲り懲りである。未練たららに「晩秋」、表題だけでも留め置くものである。文尾にあってはやはり、二度目の詫びを入れなければならない。いやいや、何べんも詫びを入れたい心境にある。