10月29日(火曜日)。いまだ夜明け前の外気にあって、私は真っ暗闇のなかに起き出して、パソコンへ向かっている。寝床から抜け出して来るやいなや傍らの窓辺に佇み、掛かる二重のカーテンを開き、なお窓ガラスと網戸を開いた。空中へ右腕を伸ばそうと思った瞬間、直下の道路上には懐中電灯の明かりが揺れて、足早に人様が前方より近づいてきた。雨模様を確かめるはずの私は、揺れる明かりに驚いて、伸ばした右腕をすぐに引っ込めた。明かりの揺れは、懐中電灯を持つ人様のしぐさだった。人様の姿は薄っすらと見えだけで、性別や年齢の程など、分かるはずもなかった。歩く人様の姿を薄っすらと照らしたのは懐中電灯ではなく、山の法面に立つ一基の外灯の淡い明かりだった。急ぎ足の人様は雨傘をさしているのだろうか? と思い、私は揺れる明かりの周辺をじっと凝視した。だけど、雨傘は見えなかった。就寝時の雨は、止んでいたのである。そのことを見届けると私は、すべての行為を元へ戻した。そして椅子に座り、机上のノートパソコンを起ち上げたのである。雨が上がったばかりで未だ暗闇の中にあっては、散歩をするほかには用無しのはずである。このことを心中に浮かべて、姿の見えない人様の努力とかつ執拗な生き様にたいし、私は度肝を抜かれていた。たぶん、歩いていた人は高齢者の枠を超えて、なおいっそう年寄りであろう。なぜなら、普段の朝夕の散歩のご常連には若者はいなく、また中年も少なく、多くは高年齢者である。ところが高齢者であっても、いまだ夜中そして雨上がりを待って歩く人はたぶん、この先なお生き長らえることに必死の人なのであろう。確かに、私とて生きながらえることには欲張りである。しかし、怠け者の私は、それに見合う努力はしないままにいたずらに生きている。とりわけ、散歩は長生きの秘訣とは知りながらも、億劫で大嫌いである。だから、根っからのわが怠惰(心)を省みて私は、やっかみ半分をたずさえて見知らぬ人様にたいして、心中では声無しの喝采のエール(応援歌)を叫んでいた。このときのデジタル時刻は、4:44と刻まれていた。もとよりきょうは、こんなことを書くつもりはなく、久しぶりに用意周到のネタをたずさえて、パソコンを起ち上げたのである。ところがいまだ夜明け前にあっては、執筆時間はたっぷりとある。それなのにもう字数の多い長い文章になっている。これにネタの文章を書き加えれば、この先はエンドレスになりそうである。それを恐れて私は、尻切れトンボの恥を晒して、ここで書き止めにする。夜明けはまだ薄く、きょうの天気模様は知ることはできない。しかし、先ほどの人様の様子と併せて、確かな雨の無しの夜明けになりそうである。きのうも書いたけれど、この秋は雨の日が多く、胸の透く秋晴れには縁遠いままに季節は移りゆく。10月はきょうを入れて、あと三日残しにすぎない。11月へ替われば、すぐに「立冬」(11月7日)が訪れる。冬入りは、この秋の悪天候を引きずるのであろうか。私は、「文化の日」(11月3日・日曜日)の前後には晴れの日が多いという、気象(気象庁)データにすがっている。きょうもまた、昼間へ向かうにつれて、雨がぶり返してきそうな雲行きである。夜明けは時は過ぎて、晴れてほしいと願う、せつない晩秋の朝にある。