きょうの文章は無題でも、書き捨てでも、惜しくない

夜明けの遅さは、日々加速度を増している。壁時計の針は、6時あたりをめぐっているのに、未だ夜の佇まいにある。私は、次のようなことを心中に浮かべながら起き出している。文章は格好のネタやテーマがあり、そのうえ語彙(力)が豊富であれば、六十(歳)の手習いにすぎない私でも、下手は下手なりにどうにか書けるものである。このことがわが文章書きの発端である。しかしながら、容易(ようい)に思えるこの二つを叶えることは、もとより容易(たやす)いことではない。あえて二つのことを比べれば私には、語彙の学習や習得より、ネタやテーマ探しのほうがはるかに容易く思えていた。ところがどっこい現在の私は、文章を書こうとすれば逆に、ネタやテーマ不足に苦衷を舐めている。語彙の学習においては定年を前にしていた頃の一時期、私は定年後の六十(歳)の手習いを鑑みて、国語辞典を愛読書にしたり、漢検一級の合格を果たした。今では当時学習した語彙の多くは、日々、忘却の彼方に晒されている。しかしまだいくらかの余燼(よじん)があり、狙いどおりの助け舟にさずかっている。するとやはり、私の場合、文章書きの決め手は、その都度のネタやテーマの有無に掛かっている。この克服には、進んでネタやテーマ探しの行動が肝要になる。端的に言えば、行動力すなわちあちこちへの取材行動である。いや、ネタやテーマ探しには行動に頼らずとも、椅子に座しての文物の調べや学習も極めて有効である。ところが残念無念、私の場合はどちらも怠り、日々起き立てに心中に浮かぶ事柄のいたずら書きに終始している。そしてここまで、その証しとも言える「当たるも八卦当たらぬも八卦」の、わが野暮天の幼稚な文章論を書いてしまった。ゆえに恥じて、自分自身に併せて、ご常連の人たちにたいし、平に詫びるものである。さて、衆議院の解散にともなう総選挙の選挙戦は、今週末(10月27日・日曜日)の投開票日に向けて、余すところはきょう(10月25日・金曜日)とあす(26日・土曜日)だけである。だから今さらになるけれど、この選挙戦におけるわが二つの思いを下記してみる。これまた、わが「当てずっぽう」のところ大ありで、外れであればこれまた、双方(私と人様)に伏して詫びるところである。先ずはこのことだけれど、すでに一度書いた記憶があり、重ねて詫びなければならない。各党総じて「政治改革」を選挙公約の筆頭に掲げて、NHKテレビが報ずる政見放送、あるいは街中や村はずれにいたるまで関係者は、すべからく声高に喋りまくっている。政治改革とは、端的には自分たちがしでかした罪を改めるということであり、これが総選挙の公約の第一義を為すことには、みずからの恥晒しであろう。一方、有権者にすれば「政治改革」を日々聞くことには、馬鹿げていてかぎりなくつらいことである。もとより、一票を得るために有権者に阿(おもね)り、訴えることこそ恥の上塗りであり、彼らの面汚しの最たるものである。政治改革を為せるのは政治家自身に限られるものであり、もとより有権者は改革の外にある。「政治改革を公約にするのはみっともないから、いや、不断の政治活動で各党そろって改めましょうよ」と言って、実践躬行すれば済むことである。もう一つ各党並べて公約に掲げているものには、「物価上昇を超える賃金の上昇」というものがある。確かにこちらのほうは、公約に異質はなく、私も異存ない。しかしながらこれとて、わが下種の勘繰りをすれば、しっくりこないところがあり、有権者が冷めて反発を買うところはある。端的に言えば現下の日本社会には、私もそうだけれど、賃金にありつけない層(人たち)が数多いる。現下の日本社会は、世に言う高齢化社会の現況にあり、一方ではパートタイム労働者(時間制限・非正規労働者)の多さもある。これらの人たちは必ずしも、賃金の上昇を享受できない。確かに、各党並べて「最低賃金を1500円あるいは1500円以上にします」という、公約を掲げてはいる。しかし、「物価上昇に見合う、あるいはそれ以上の賃金の上昇を目指します」の公約にはやはり、享受できる層が限られていて、大きな違和感をおぼえるところはある。たとえまやかしであってもずばり、「わが党は物価上昇を抑えます」のほうがすっきりする。なぜなら、公約のほとんどは、選挙戦においてのみ有権者に響きの良い、果たせないまやかしにすぎないからである。書き殴りの文章はまたもや長くなってしまった。尻切れトンボを恥じず、大慌てで結文とするものである。きょうの文章はきのうとは異なり、無題としても、捨ててもまったく惜しくはない。曇り空の朝は、昼間へ向かうにつれて、雨を降らしそうである。雨傘さして、雨合羽を着ての街頭演説には、あまねく悲壮感がただよいそうである。