夏風邪治り、ネタ切れ文

 10月7日(月曜日)。ようやく中秋にふさわしく晴れて、のどかな朝が訪れている。このところの天候はまるで、好季節を忘れたかのように長く、愚図ついていた。わが身体は長く夏風邪を引きずり、この間のわが気分は、憂鬱(感)を極めていた。きのうの私は、雨上がりの乾いた道路を独り、3時間ほどかけて綺麗にした。いつもの倍ほどの時間がかかったのは、落ち葉の量の多さ、長雨の後の汚さなどに加えて、さらには普段はしない他人様の領域へ入り込みそのため余計、丁寧に仕上げたためだった。わが領域をしているうちに自然とそうしないと、わざと残していじわるでもしたかのように、気分が塞いでいたからである。
 起き出して傍らの窓際に立ち、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて、見渡せるかぎりの道路を眺めた。ところどころに夜間の落ち葉はあるものの道路は、いまだきのうのわが掃除の後の綺麗さを留めていた。私を長く苦しめていた夏風邪は、きのうでぴたりと消えた。だからこの間、ほぼ夏風邪一辺倒のネタは、幸いにもきょうから書き止めとなる。ところが一方、この先はネタ切れには悩まされる。けれど、憂鬱気分は去って幸運である。ネタなく、こんなことを書き出している。
 千切らずに一つ残している柿の実は、先ほど眺めるとかなり明るんでいる。柿の実は、生ったままに放っておけばやがては熟柿になる。そして、晩秋の野の絵になる風景の王者となる。一つ残したのは、郷愁に駆られてこの風景を見るためであった。ところが私は、たった一つだけどきょう千切り、食べようかと思っている。わがお里の知れる浅ましさである。浅ましさの発露はこうである。残しても、かつてタイワンリスに齧られた悔しさがよみがえるからである。しょっちゅう、カラスも飛んでいる。山のメジロにつつかれるのはいいけれど、無邪気なメジロがあくどいこれらに適うはずはない。結局、これらに負けず先取りできるのは、わが浅ましさである。しかしながら私とて、その敢行には今なお迷い、苦しんでいる。
 朝日は秋天高い日本晴れを隈なく照らしている。ようやく胸の透く秋晴れの訪れにある。この文章を閉じれば、綺麗になっている道路にしばし佇み、未練がましくたった一つ残る柿の実を見上げるつもりである。生来、優柔不断の質(たち)の私だからその場で、どうするかの決断はつきそうにない。