「文は人なり」。わが器量「小」

9月20日(金曜日)。久しぶりに梅雨の朝みたいに、今にも雨が落ちそうなどんよりと曇った夜明けが訪れている。きのうの夕方にあっては、稲光と雷鳴をともなって、しばし激しく雨が降った。雷鳴には肝を冷やしたけれど、雨は待ち望んでいた。なぜなら、このところは雨の無い日が続いていて、私は庭中の樹木や雑草の仲間になり、共に一雨を望んでいた。幸いにも雷鳴や雨は、程良い時間で切り上げて、見知らぬ彼方へ去った。今朝(9月20日・金曜日)の曇り空は、きのうの名残なのであろうか。しかし、昼間へ向かうにつれてたぶん、胸の透く秋日和になるだろう。そうなれば天界の粋なはからいである。きのう、きょうの天気予報は聞かずじまいである。あれれ今、前面の開けっ広げの窓ガラスを通して、タイワンリスが電線をすばやく這って、横切り消えた。寝起きの私は、掲示板上のご投稿文を読んで、こんな思いに耽っていた。「文は人なり」。高橋弘樹様と大沢さまの文章は常に前向きである。ところが、私の文章は常に後ろ向きである。すなわち、あからさまに器の違いを露わにしている。悔いてどうなることでもないけれど、ないものねだりはわが欲ボケであろう。夏風邪を長く引きずり、さらにはこれにいろんな体調不良が重なり、わがモチベーション(意識、意欲)は、下降線をたどるばかりである。もとより、これを撥ね退ける気力は失せて、きのうはとうとう「休みます」の表題に、逃げてしまった。確かに、きょうもまだ、その延長線上にある。けれど、こんなみすぼらしい文章に託して、みずからを鼓舞している。おやおや、雲間が晴れて、昼を待たず、朝日射す清々しい秋日和へなり変わっている。それにさずかりわが気分は、いくらか持ち直している。