9月には三連休が二度ある。一度目はきょう、「敬老の日」(9月16日・月曜日、祝日)にかかわる三連休である。そして一つは、「秋分の日」(9月22日・日曜日、祝日)にともなう、「振替休日」(9月23日・月曜日)を含む三連休である。自営業や私のように職業(勤務)のない者にはともかく、勤務ある人にとってはうれしい月と言えそうである。もとより、わが勤務時代を顧みての実相である。
今さらながら敬老の日を見出し語にして、電子辞書を開いた。「敬老の日」(国民の休日。1966年、従来「老人の日」だった9月15日を名称を変えて祝日としたもの。2003年より9月の第3月曜日)。次には、敬老の日にちなむインターネト上の記事を読み漁った。すると、敬老に値する明確な年齢の基準はなく、おおむね65歳あたりからだろうという。敬老の日自体の趣旨とて、あやふやであいまいである。一つだけ趣旨と言えるものでは、「長年社会に尽くしてきた人を敬愛し、長寿を祝するもの」という、記述に出合ったにすぎない。結局、わが身に照らし私は、自分祝いにこんな感慨を抱いている。すなわちそれは、私84歳、妻81歳、良くも共に80の年齢を超えたものだという思いである。まさしく長寿であり、共にみずからに感謝し、寿(ことほ)いでかまわないことであろう。
もとより、わが身体は両親譲りである。すると、先天的欠陥と言えるものでは、近眼、難聴、虫歯質、口内炎質くらいで、病体質は免れている。このことでは両親への敬愛はつのるばかりである。欲を言えば身体的には、もっと面(顔立ち)良く生まれればよかった。頭脳的には、もっと冴えて生まれればよかったと、思うくらいである。しかしながらこんなことは、もとより叶わぬ欲張りである。だから、敬老の日にあっての私は、素直に自分自身の長寿を祝し、そして妻の長寿を祝し、互いの亡き親にたいし敬愛心をつのらせている。敬老の日は、このことで十分であろう。
一人っ子(娘)から、長寿の祝いが届くあてどはない。そんなことより私は、闘病中(難病)の娘の長寿を願っている。そして私と妻は共に、娘にたいし、すまないと思うばかりである。