梅雨明けまでには、梅雨の合間の気分をたずさえて書くことになる。ゆえに、雨に濡れた気分、濡れた文章になりがちである。確かに、思い出に浸れるのは、人間固有の特権である。思い出には、好悪(是非)がある。懐かしさを添えた楽しいものがある。しかし一方では、それを超える悲しいものがある。いや思い出は、好悪の数で比較できるものではない。結局、思い出は数の多寡ではなく、心に残る刻みの深浅であろう。そして、思い出に残る出来事や媒体も様々である。こんなことを心中に浮かべながら書いている。
すると、わが思い出の中心をなすのは、「故郷、内田川にまつわる思い出」である。つらくよみがえるのは、主に梅雨明け間近に見舞われた、豪雨による川の氾濫時の恐ろしかったことである。内田川の氾濫だからと言ってもちろん、村人(子どもの頃の行政名は内田村)のすべてが恐怖に慄いていたわけではない。実際のところは、内田川の水量を当てにして、分水を引いて水車を回していたわが家だけだったかもしれない。当時のわが家は、狭い河川敷を挟んで裏に流れている内田川にすがり、水車を回して生業(なりわい)を立て、大家族を成していたのである。こちらは今なお、夢まぼろしにはなり得ない、かぎりなく内田川がもたらしていた恩恵である。
ところが、一旦暴れ川になると家族は、水嵩(みずかさ)が低くなるまで、恐怖に晒されていたのである。豪雨のおりに時々刻々に水嵩を増して、わが家の軒下へ近づく激流、そしてその轟音の恐怖は、月並みの「生きた心地がしない」という、心象をはるかに超えていたのである。もちろん私には、このときの恐ろしさをここで、臨場感をともなって書き著す能力はない。
一方で内田川が恵んだ好い思い出は多くあり、これまた数えきれるものではない。もとより、内田川は水車の水を恵み、また明滅するホタルの光をもたらしてくれた。これらのほかにあって内田川の恵みには、水温む春先の川魚釣りと、夏の間の楽しい川遊びがあった。内田川には、こんな魚がいた。当時の私には遊び心だけがあって、学習心はまったく無かった。だから、日本全国に共通する川魚の名前など、今なお知る由もない。ゆえに、内田川に棲んでいた魚を当時の呼び名で連ねればこんなものが浮かんでくる。以下は記憶のままに、まさしく順不同である。ウナギ、ナマズ、ドンカチ、カマドジョ、アブラメ、シビンチャ、ハエ、ハヤ、アカソ、シーツキ、ゴーリキ、ドジョウ、ゲギュ、カマヅカ、コイ、フナ、メダカ、イダ、ヤマメなどである。漏れがあればふうちゃんに添えてもらうけれど、彼もこれ以外には知らないかもしれない。なぜなら、ふうちゃんの家は、内田川から遠く離れていて、かつ当時のふうちゃんは、耳の不調で医者から川遊びを禁じられていたと言う。
いつもは時間の切迫にあって、書き殴りの文章に甘んじている。ところがきょうは少し時間に余裕があり、こんなことを書いてしまった。共に、書き殴りに変わりない。座して詫びるところである。夜明けの空から、梅雨の雨が音なく落ちている。ウグイスはひと休み、アジサイだけが威張っている。