6月17日(月曜日)。今朝も明るく晴れている。
関東地方にあってはいまだに、気象庁の梅雨入り宣言はない。ちょっぴりは降っても長続きしないから、宣言のしようがないのであろう。職業柄、気象庁に勤務の人たちは、かなり気を揉んでいるかもしれない。だからと言って私は、これらの人たちに同情する、天邪鬼(あまのじゃく)ではない。なぜなら、梅雨入りの遅れは、わが望むところだからである。「すでに、田植えは済みました」という、ふるさと情報は先日、軌を一にして平洋子様と、わが生家を守る甥っ子の奥方より、届いている。田植えが無事に済めばふるさともまた、梅雨入りの遅れは構わない。記憶にないけれど、熊本すなわち九州地方の梅雨入り宣言は、もう出ているのであろうか。夜明けは「来るな!」と、雄叫びしても必ずやって来る。「ひぐらしの記」もこれにあやかり、(休みなく続いたらいいなあ…)と、思う。もとより叶わず、私はべそをかいている。きのうは、休んでしまった。きょうもまた、心折れて休むつもりだった。気象には、心象の緩みや歪(ひず)みはないのであろうか。わが心象は常に曲がりくねって、大揺れ状態にある。ところが私には、これに抗(あらが)う能力(脳力)や気力はない。心折れて心象が揺れては、心象風景に縋って書く「ひぐらしの記」は、たちまちイチコロで頓挫の憂き目を見ることとなる。言い訳がましいことを書いたけれど、きのうの休みは、ほぼそれに近い状態のせいだったのである。おととい「ひぐらしの記」は、17歳の誕生日を迎えた。人間の17歳は、「成人の日」いまだ遠く、青春時代真っ盛りにある。心身はこの先の希望に向かって燃え盛っている。おのずから何かつけて、休むことなど埒外にある。しかし、「ひぐらしの記」、いや作者の私の場合は、そうはいかない。内心、(もう書きたくない)気分に晒されて、あっさり休んだのである。正直なところ私は、夜明けが訪れ、そして寝起きのままに駄文を連ねることに疲れ切っている。このせいで心象が揺らぐと、すぐにずる休みに逃げたくなる。きのうの休みは、確かなその証しだった。「捨てる神あれば拾う神ある」。そんなおりきのう、熊本市に住む「マーちゃん」(ふうちゃんと相並ぶ竹馬の友)から、こんな電話が届いたのである。「ひぐらしの記は17歳なったな、よう書くな…偉いよ。ばってん、きょうは書いてなかったな、何で?」。私は「疲れて、もう書くのは、止めようかと思っている」と、言葉を返した。しかし、やはり励まされて、パソコンを起ち上げたのである。17歳の「ひぐらしの記」は、作者のせいで大恥をかいている。