6月11日(火曜日)。やはり、気象庁の梅雨入り宣言は遅れるのであろうか、朝日がキラキラと輝く夜明けが訪れている。山の法面にわが手植えのアジサイは、艶を湛えて見事な色を成している。しかし、アジサイとて梅雨入り宣言を前にして、気分は穏やかではないのかもしれない。なぜなら、梅雨入りが遅れたうえに、梅雨明けが早くなれば、そのぶん「アジサイのわが世の春」は短く、十分には謳歌できないこことなる。アジサイは雨に濡れてこそ妖艶であり、陽射しに焦げつくような姿は哀れである。すなわちアジサイは、雨のしたたりにとことん濡れてこそ、人間に眼福をもたらしてくれるところがある。アジサイ自身、このことは十分に承知の助であるはずである。ゆえに窓の外に見るアジサイの心境は、泰然に見えていても内心は、穏やかではないはずである。ところがこんなおり気象予報士は、関東地方の梅雨入りは、月(6月)の後半になるだろうと予報した。梅雨入りが遅くなるからといってそのぶん、梅雨明けが遅くなるとはかぎらない。ゆえにアジサイは、気を揉むこととなる。「ひぐらしの記」は、すっかりわが生きている証しの文章だけに成り下がっている。ところがもはや、その文章さえ書けなくなった。なぜなら、わが心象に様々な難事が浮かんでは離れず、こびりついているからである。ひとことで言えば、人生の晩年を生きる苦悩に脅かされて、平常心の喪失状態にある。こんな文章を書くこと自体、その現象の確かな証しである。挙句、書くまでもないことを30分ほど書いて、ここで結文とするものである。もとより、継続文の足しにはならないけれど書いて、いくらか気分の安らぎをおぼえている。道路の掃除はきのうの夕方に終えている。だから、アジサイを眺めながら朝の散歩めぐりをする人たちへの配慮は済ましている。しばし立ち止って、「まあ、綺麗…」と言ってくだされれば、わが気分は癒される。人様すがりのわが人生は、消費期限切れ近くにある。