梅雨入り前の心象風景

 5月26日(日曜日)。風雨なく晴れて、のどかな夜明けが訪れている。ところがわが心象は、どん詰まり状態にある。文章が書けない。ゆえに、書けない苦痛に苛まれている。わが文章は、職業や仕事ではない。だから、書けないときは休み、書けるときだけ書けばいい。おのずから、自分自身に課している鉄則である。しかし、この鉄則には常に危惧がともなっている。危惧とは文字どおり、休めば再びの始動のない惧れである。それを惧れて私は、いやいや気分でパソコンを起ち上げる。もとより、気乗りのしない文章では、気分が晴れることはない。だから心中には、(もう、潮時、潮時……)と、恨み節を唱えている。ここまで、ネタを誘い出す序文とは言えない、どん詰まりの嘆き文を書いた。
 だったらこの先は書かずに、おしまいにしたほうが身のためである。ところが一方では、継続の途絶えに怯えている。なぜなら、わが文章の唯一の取り柄は継続だけである。もちろん継続には、常に駄文に付きまとう恥晒しがある。ところが幸いにも私は、恥晒しを厭(いと)わない。なぜなら、恥晒しを恥と思えば文章は書けない。
 さて、関東地方の梅雨入り宣言はまもなくであろうか。梅雨の季節を謳歌するアジサイは、濃緑一色の大葉の中に、艶々の白い小玉が日々色づいて膨らんでいる。これは気象庁の梅雨入り宣言を待つまでもなく、確かな梅雨入り近しの証しである。梅雨は、人間にとっては鬱陶しい自然界現象である。反面、人間に恵む特等の自然界現象である。農家出身の私は、体験的にこの思いが一入(ひとしお)である。そしてこの点、梅雨を毛嫌いするばかりでないことは、勿怪(もっけ)の幸いである。心して私は、梅雨の鬱陶しさに耐える気構えは十分である。
 父は蓑笠、私は雨合羽を着けて、共に田植えに向かった光景がなつかしく偲ばれる。ネタ探しにともなう、よみがえるふるさと情景である。そしてそれは、嘆きながらも書いた報酬、すなわち愉しみの一つをもたらしている。「ネタ探しは愉しみ探し」。こう嘯(うそぶ)ききれないのは、やはり潮時なのかもしれない。
 梅雨入り前にはいろんな思いが駆けめぐる。夜明けの晴れ模様は、時が経ちどんよりとした梅雨空へ変わっている。