ネタ切れを救うのは「望郷」

5月24日(金曜日)。真夜中に目覚めて、二度寝にありつけず、寝床で悶々として夜明けが訪れている。筋肉痛は、すっかり緩解している。ゆえに、不快(感)の一つは消えている。しかし、人生の晩年を生きる私には、まだ多くの不快事がある。ただ、どれもこれもがどう藻搔いても、解決をみないものばかりである。だったら、嘆くだけ大損である。わかっちゃいるけど、嘆くのはわが生来のマイナス思考の祟りである。ネタのない文章は、ほとほと哀れである。パソコンがなければ、こんななさけない文章は書かないで済むのに。恨みは、とんだ的外れである。生きていればネタは、あちこちに転がっている。それを拾いきれないのは、わが能力(脳力)の欠乏のせいである。つくづく歯がゆいと思う、寝起きのわが心境である。
 いつも、ネタ無しを真っ先に救うのは望郷である。望郷には、歳月の隔たりはない。いや、歳月が遠くにあればそのぶん、望郷はいや増してくる。心象の醸す情念は、確かに人間のみがさずかる特権である。故郷には今は亡き、父、母、きょうだいたちがいた。現在は、たくさんの甥や姪たちがいる。これらこぞって、わが望郷の念をつのらせる。望郷の念は、人にかぎるものではない。人を取り巻く、山河自然が輪をかける。わが家の庭先から、始終眺めていた借景「相良山」。わが家の裏を流れている「内田川」。わが家の前景そして後景に広がる田園風景。春は菜の花に飛び交うモンシロチョウ。畦道や原っぱに萌えるツクシンボ。クヌギ林のクワガタ捕り。里山のメジロ落とし(捕り)。梅雨の合間の田植えやホタル狩り。夏は内田川の水浴びと魚取り。秋は指先に止まる赤とんぼ。冬は家族そろって、炬燵の中での炭火餅焼き。どれもこれもが望郷を掻き立てる。
 きょうのネタ切れは、望郷に救われたのである。ウグイスが鳴いている。望郷を繋げれば、縁の下の鶏の鳴き声、座敷の柱時計の音、共にも懐かしく望郷を掻き立てる。朝日輝く、のどかな朝ぼらけである。無念、後れて、眠気が襲っている。