私は幸運児(爺)

 5月19日(日曜日)。梅雨の走りみたいなどんよりとした、夜明けが訪れている。つれて、わが気分もどんよりとしている。しかしこの時間、地震さえ起きなければ、わが気分は穏やかである。いつもの寝起きに違わず、ネタ無しでパソコンの起ち上げにある。だからと言って出まかせで書けるほどには、文章は容易くない。
 就寝中は悪夢に魘され、目覚めれば文章のネタ探しに苛まれる。挙句、心中ではしょっちゅう、(もう書けない、もう書かない)という、さ迷う決断を強いられている。これまでの私は何度、こんなフレーズを繰り返し記してきたことだろう。決断(力)の鈍さは、わが生来の優柔不断の証しとはいえ、つくづくなさけなく思うところである。ゆえに現在の私は、意識して自己慰安に努めている。
 六十(歳)の手習いにしてはこれまで、私はたくさんの文章を書いてきた。だからもう、書き足りないことなどまったくない。いや、反吐が出るほどに十分に書き尽くしている。半面、その確かな証しはネタ切れにともない、様にならないこんな文章である。道理、書かなければ、恥を晒すことはない。書くから、恥を晒すのである。間抜けにさずかり私は、恥を晒すことを厭わないのかもしれない。いや、恥晒しには慣れっこになり、今ではその利得にあずかっているのかもしれない。なぜなら恥晒しは、わが生きるエネルギーの一端を成し、そして恥と抱き合わせの愚痴こぼしは、文章の継続の支えを成している。
 わが文章書きは、常に呻吟・苦衷にまみれである。それでも、書き続けていることにより私は、数多の幸運にありついてきた。私は幸運児(爺)である。幸運のいくつを記すと、これらが浮かんで来る。定年後の生活がぐうたらにならずに済んでいること。加齢が進むにつれて遠のくはずの人様との交流は、途絶えず続いていること。絶えず心中に語彙を浮かべていることで、認知症の予防を成していること。書けば、大沢さまのご好意にさずかり、単行本に編まれて、わが宿願を叶えていただいていること。書き続けていることでふるさと慕情、さらにはまぼろしになりかけている肉親愛(親、きょうだい)は、眼前にいや増してよみがえる。
 この先を書けば、かぎりなくだらだら文となる。ゆえに、このくらいで書き止めである。ネタ無し文章は、ほとほと骨の折れる難行である。確かに、継続是非の決断を迫られている。しかし書けば、しがないわが身に余る果報、僥倖もある。朝日、先送りの曇り空である。