知友、あまた多し

5月18日(土曜日)。のどかに朝ぼらけの夜明けが訪れている。緑を深める山の木々は揺れている。ウグイスの美声を妬むかのように、名を知らぬ山鳥がひと声、鳴いた。邪魔をしたのかもしれない。しかしながらこれとて、自然界および人間界こぞって、平和の証しと思えば、わが腹の立つこともない。主治医に訴えて、薬剤を変えてもらった。ところがいまだに、そのための確かな実感はない。けれど、肉体の筋肉痛はいくらか和らいでいる。だけど、気分を緩めて「ヨシヨシ…」と、安寧を貪るところはまだはるか遠しである。さて、現在の私は、今にも途絶えそうな文章を掲示板上の高橋弘樹様に励まされて書いている。人様すがりは、わが根性無しの証しである。先日にはかつての随筆仲間(女性)から、冊子『随筆の友』が送られて来た。誌面には多くの人の名を替えて、読み応えのある文章が掲載されていた。この冊子は、年に二度送られてくる。早速、お礼の電話を入れた。老齢者同士の電話を通しての会話(通話)である。けれど共に、相手は異性である。恋ならぬ、ちょっぴり愛ある通話が弾んだ。「いつも、良い文章ばかりで、楽しく読んでいます」「前田さんは、まだ書いているんでしょ?…」「はい、書いてはいるけれど、代り映えのしない日記風を書いています。だから、あなた様が羨ましいです」「前田さんこそ凄いわ。書き続けることが大事なのよ!」「そうですね。励まし、ありがとうございます。元気が出ました。共に、頑張りましょう」これまた、人様すがりの証しである。「ひぐらしの記」の恩恵は、声無し声の励ましを含めて、人情が通い合うことである。まさしく、年老いたわが身に余る箆棒なトクトク(得々)である。それなのにもはや、自力では継続が叶わず、ひたすら人様の励ましすがりである。いや、ウグイスのエールにさえすがっている。すなわち、年老いてまで私には、面識なくとも「知友、あまた多し」である。そしてこれこそ、人様すがりのわが生きている価値を成している。