「惰性」、呼び戻しの文章

4月28日(日曜日)。人様のゴールデンウイークを羨むような、妬むような、挙句、旅心を誘われそうな、晴れてのどかな夜明けが訪れている。しかしながら文章は、恥を晒して様にならない。もとより、恥晒しは厭わない。きのう途絶えた惰性を呼び戻すだけが目的の文章を書き始めている。なぜなら、こうしなければ頓挫は、もはや再起不能に陥るためである。ゆえにこれを免れるためには、どんな文章でも書けばそれなりの価値はある。だけどやはり、こんな文章はほとほと身に堪えている。きのうのテレビニュースには、ゴールデンウイークの始まりを伝える映像が頻出した。一つは、「羽田国際空港」における混雑する出国情景である。一つは、渋滞きわまりない下りの「高速道路」の光景である。これらの映像を観た私は、この文章で言葉(語句)選びに悩まされている。すなわち、これまでもそのたびに呻吟してきた語句選びである。それらは漢字特有の語句選びの難解さである。文意にそって浮かんでいたものには、こんなものがあった。場面、情景、場景、状景、光景、風景などである。文章を書く妙味の一つは、文意に即した最もふさわしい言葉や語句(適語)が浮かんだときである。もちろん、そんな感興にはめったに出合えない。ゆえに文章を書くことには、常に苦痛、苦衷、呻吟がともなっている。挙句には(もう書きたくない、もう書けない)気分に苛まれることとなる。きのう私は、その証しを被ったのである。私は、掲示板に「書けません。休みます」と、印してずる休みをした。だからきょうの文章は、その怠惰な心を断つだけが目的化しているにすぎない。それゆに私自身は、文章の不出来は構わず、ここまで書いたことで十分である。そして、あすへ繋がれば万々歳である。身勝手をお許し願うところである。朝日の輝きは増している。きょうの私には、「鎌倉めぐり」の一員に加わりたい思いがつのっている。