4月13日(土曜日)。目覚めると部屋の中は昼間のように明るい。陽射しこそそそいではいないものの、私は寝坊助を被っていた。慌てふためいて起き出すと、見渡す眺望には朝日がピカピカと輝いている。ウグイスは、朗らかに鳴いている。私は心が急いている。半面、待ち望んでいた自然界の恵み旺盛で、わが気分は晴れ晴れの夜明けである。心地良い気分は、春季節特有の恩恵、すなわち熟睡がもたらしている。まさしく、春の恵みである。
一方、私は寝坊助の祟りにあっている。いや、このことは、夜明け前に書くわが習性の祟りである。もちろんこの祟りは自認し、ゆえに常に自戒している。もとより、この習性を改めないかぎり、私自身が求める文章は書けない。挙句、継続を断たないだけ目的になり替わり、いたずらに殴り書きと走り書きの協奏に甘んじる。確かに、文章の不出来はこのせいではない。ところが、独り善がりに私は、そのせいと思い込んでいる。気分は煮え切らず、常に生煮えの状態にある。みずからのせいとはいえ、恨めしいかぎりである。好気分に遭遇し、こんな文章を書くようでは、もとよりわがお里の知れるところである。
実社会の年度替わり、そして出会いの月4月にあって、それぞれに人の営みは、本格稼働に入っている。季節は初春、桜の花の頃の中春を過ぎて、晩春へ差しかかる。日々、山は緑を成し、里は葉桜を深めてゆく。ここにきてようやく、春の夜明けは落ち着いて、この先は季節の恵みをふりまいてくれるのであろうか。
再び記すと、胸の透く心地良い夜明けである。これまた再び書くと、私は寝坊助を被り心が急いている。目覚めて寝起きの私は、きょうは時間なく書けない、いや書くまいと、決めかかっていた。登山家は「山があるから登るのだ!」と言う。これに倣えば私は、「パソコンがあるから、駄文を恥じず書くのだ!」。私は蚤の気概ほどの決意を固めて、パソコンに向かったにすぎない。登山家の壮大な意志と気運に比べて、なんとわが意志のみすぼらしさであろうか。とことん恥じてこの先は書けず、仕方なく指先を擱くこととする。そして、朝御飯の支度前の残された短い時間は、のどかに朝日輝く大空を両頬杖ついて眺めることとする。
文章とは言えないけれど、慌てふためいてせっかく書いた文章だから反故にはせず、名づけて残し置くものである。浮かんでいる表題は、「朝書きの自戒」である。熟睡の心地良さは、切なさに変わりそうである。