「『ひぐらしの記』がもたらしている僥倖」

 3月10日(日曜日)。歳月日時はまるで、鉄棒競技の大車輪のごとくに速く駆けめぐる。もちろん、知恵多い、人間の手に負えるものではない。とりわけ、老いの身を生きる私には、唖然とするばかりである。嘆いてもしようがないことだけれど、私は日々嘆いている。
 春3月もきょうで、上旬(10日)が過ぎてゆく。わが身に堪(こた)える速さである。3月になれば寒気は、日を追って遠のくばかりと思っていた。だから余計、現在(3:39)の寒気の戻りには、わが身体は箆棒に堪えている。しかしながら寒気の戻りは、気分を引き締めて堪(こら)えることができる。
 堪えようのないのはやはり、実感する歳月日時の速さである。年周りの速さでは、来月4月に早や、次兄の一周忌が訪れる。月のめぐりの速さでは、これまで何度か書いたけれど、月ごとの薬剤切れにともなう通院の速さである。そして、日時の速さでは、時を空けず「ひぐらしの記」の執筆がめぐってくる。長いことでは定年(60歳)後、そして「ひぐらしの記」を書き始めて以降の歳月の速さである。止めようなく歳月日時は、先々へ駆けてゆく。先のないわが身にあってはそれでもやはり、嘆いてもしょうのない痛恨事である。
 さて、起き立ての私は、心中にこんなことを浮かべていた。「ひぐらしの記」を書いてきたことで私は、凡庸な脳髄をさらけ出し、数多(あまた)の恥をかいてきた。一方、ひぐらしの記にめぐり合えたことで、恐れていた定年後の空虚な「時」を免れてきた。顧みればこのことは私に、夢のようないや「正夢の僥倖」をもたらしたのである。このことには大沢さまのご好意をはじめとして、友人知人そして声なき声のご常連様の励ましとご厚意にさずかってきた。わが真摯きわまりないうれしい述懐である。
 きのうは短い文章を書いた。続いてきょうも、短い文章を書こうと決めていた。そして、わが心中に浮かんでいたことはこのことだった。それゆえに表題は、「『ひぐらしの記』がもたらしている僥倖」でいいだろう。確かに、「もう潮時、もう潮時」と脅かされながらも私は、ひぐらしの記がもたらす僥倖にありついている。実際には人様からさずかる温情(わが身に余る情け)に浸り、常に喜びを嚙みしめている。うれしいことを書いたゆえであろうか、寒気が緩んでいる心地にあり、わが気分は和んでいる。確かに、人様が恵んでくださる箆棒な「情け」のゆえである。歳月日時の速めぐりだけは手に負えない。そのぶん私は、人情の温かさに浸りきっている(4:43)。春は自然界に頼らず、みずからの心の持ちようで育(はぐく)むものなのかもしれない。