春は「節分」(2月3日)、明けて「立春」(2月4日)からスタートする。そして、「ひな祭り」(3月3日)と「啓蟄」(3月5日)を越えれば、いよいよ「春到来」のゴングが鳴る。こののち、春本番すなわち春の真っ盛りは、「春分の日」(3月20日)辺りであろう。
きょう(3月4日・月曜日)の私は、カレンダーが記すことをあえて、心中に浮かべて起き出している。書くまでもないことを書いたのは、これまであれほど虐められてきた寒気が緩んでいて、待ち望んでいた「春」を体感しているからである。現在のデジタル時刻は、4:59と刻まれている。きょうの文章は春到来を告げる、すなわちこのことだけで十分である。なぜなら、季節の恵みが深々とわが心身を潤している。
一方では矛盾するようだけれど、わが気分が萎えている。それは、常にわが心身につきまとう六十(歳)の手習いの難儀ゆえである。難儀を類語に置き換えれば苦悶と苦衷になる。六十の手習いにあってわが文章は、何年書こうと育ちきれない雛(ひな)、すなわち「ひよっこ」のままである。だから、女児の「ひな祭り(雛祭り」になぞらえて、わが文章の「雛祭り」でもして、気分を癒したいところである。
わが文章の不出来は、凡庸な脳髄と指先不器用の抱き合わせのせいである。それでも、これらにすがらなければ文章は書けない。「針供養」という歳時(記)がある。真似てきょうは、わが脳髄と指先の供養日として、この先は書き止めである。そしてしばし、春到来気分に耽り、これまでの寒気で疲弊している心身を癒すつもりである。
この文章の恥晒しは厭(いと)わない。なぜなら、文章を書くたびに私は、恥を晒している。もとより、恥カキは「なれっこ」である。無償の春が来た。十分、満喫したいものだ。寒気は遠のいている。こののち寒気が訪れれば、私は「寒のぶり返し」あるいは「寒の戻り」と書く羽目になる。