きょうから3月(1日・金曜日)。「年老いて」、季節、歳月・日時の速めぐり(感)には、ただただ驚くばかりである。きょうはこのことだけを書いて、ここで閉じてもわが思いは十分に尽くされる。起き出してきてわが心中は、この思いでいっぱいである。あえて、「年老いて」と、書いたことにはこんな理由がある。単刀直入に言えば子どもの頃にあっては、それらのことなどまったく気にせず過ごしていた裏返しである。いや、ちょっぴり季節はともかく、歳月・日時のめぐりなど、まったく気に留めなかった。このことに関しては無関心、子どもゆえの同義語を用いれば、無邪気そして天真爛漫を添えてもいいくらいである。だからこそやはり、「年老いて」という現在のわが身が、惨めさをともなって浮き彫りになる。どうしゃちほこだってあらがっても止めようのない、季節、歳月・日時の速めぐり(感)である。
過ぎた2月は節分・立春が過ぎて、春待つ心が沸き立っていた。ところが、カレンダーの日めくりが春へ向かうにつれて、季節狂いの天候不順、実際には雨・風それに付き添う寒気のいや増しに脅かされどうしだった。それゆえに3月への月替わりにあってのわが願いはただ一点、春に見合う正常な季節の訪れだった。
ところが現在、この願いは虚しく断たれている。雨戸を閉めていない前面の窓ガラスには、雨だれが幾筋も零れ続けている。傍らの窓ガラスには、雨戸を覆っている。すると雨戸には、まるで間欠泉のごとく的確に、風の音が打ち鳴らされている。共に、雨・風まじりの大嵐の証しである。わが身体は冬の名残なのか、冷え冷えである。わが願い叶わず、季節気狂いのままに、春3月への月替わりである。だからこの先、どんな3月になるのか、わが心身は恐々・びくびくである。
きのう、NHKテレビで「茶番、政倫審」を観ていると、二つのテロップが相次いだ。一つは千葉県を主にする地震の発生、一つはドジャース球団所属の大谷選手の結婚にまつわるものだった。なんだかなあーと思う、愛憎入り乱れる月替わりである。薄く、夜明けが訪れた。やはり、大嵐である。