寒気に震えて、ほろ苦い文章

2月2日(金曜日)。やはり、すんなりとは暖かくならない。私は、寒気が戻った夜間に身を置いている。多くの人たちはスヤスヤと眠り、安眠と熟睡を貪っている時間帯(2:57)にある。このところの私は、執筆時間を意識して夜明け前からから、かなり前倒しにしている。もちろんこの先、このあたりの時間に定着することはなく、やがては「元の時」へ戻ることとなる。執筆時間が前倒しになり、そのぶん余裕が生まれている。しかし、無意味な余裕かもしれない。おのずから、文章は無駄に長くなる。確かに、夜明け前に書くことと比べれば、時に追われて慌てふためくことは免れる。ところが、その返り打ちに遭って文章は、だらだらと長くなる。私は再始動に就いた以降の文章には、二か月余の空白をしでかした自分自身への償いを課してきた。さらには、怠け心を戒めるために自己発奮を促してきた。挙句、この間の私は、いたずらに長文を書いてきた。きょうもまたここまでは、何らかのネタを心象に誘い込むための序章にすぎない。わが凡愚は、ほとほとなさけない。さて私は、自分自身にたいしてこんな問いを投げかけている。そして、正答とは言えないまでも、合格点すれすれの答えを用意している。なさけないどころか自分自身にたいし、(おまえ、バカじゃなかろか…)の心境にある。問いの一つめは、季節めぐりの早さの証しは、どんなことで感じるのか?。その答えは有象無象あるけれど、その多くは自然界現象で感じている。ごく身近なところで最も早く感じるものでは、庭中の雑草の一年めぐりの萌え出しがある。これこそ一番だ! という思いは、確かに一番、手を焼くせいであろう。問いの二つめは、日めぐりの早さの証しは、どんなことで感じるのか?。これにもまた、無数にある。それらの中からこちらは二つを上げれば、一つは三度の食事の早めぐりである。そして一つは、ひと月ごとに訪れる、常備薬をもらいに出かける日めぐりの早さである。これには常に、嘆息まじりのこんな声出しがともなっている。「あれれ! もう、薬がない。もう、一か月が過ぎるのか。日にちが過ぎるのは、なんでこんなにも早いんだ…」。そのたびに私は、掛かりつけの病医院をかえて、渋々出かけることとなる。そしてこれには、処方箋代と薬剤費が付き纏う。それゆえであろうか、このときの日めぐりの早さは、とことんわが身に沁みている。心中に浮かんだこれらは、季節のめぐりそして日めぐりの早さ共に、常々いたくわが強く実感するものである。こんな文章は眠気眼と朦朧頭で、さらには夜中の寒気に身を置いてまで書く価値は毛頭ない。こんなことしか浮かばなかった、わが身は哀れである。ならば、自愛するのみ! 早くなっている夜明けはまだ先にある。