この世に呱呱の声を上げて以降こんにちにいたるまで(83歳)、私はあらゆる面において劣等感情ではなく、正真正銘の劣等につき纏われている。二字の熟語に置き換えればそれは「生来」と言える。再び置き換えれば、「生まれつき」である。確かに、生まれつきの劣等を悔いるようではバカ丸出しである。しかしながら私は、常々悔いている。だけど、どうにもならない。だから、劣等をカムフラージュして、できるだけ楽天家を装ってみる。しかしながらこれまた、生まれつきの精神惰弱のせいで、常に劣等に脅かされている。まさしく私は、どうにもならないことを悔い、嘆いている「大バカ者」である。確かに、生まれつきの劣等はどうにもならない。そして、それを悔いてもまた、どうにもならない。幸いにも身体には、劣等を自覚したり、自認するところは少ない。体躯は、人並みに生まれついている。それでも欲を言えば、10ないし15センチほど高い身長に恵まれたかった。わが生まれつきの身長は170センチほどである。だから、中・高校生時代の部活のバレーボール部にあっては、身長のことを思い続けていた。しかし、身長は伸びなかった。児童、生徒、そして学生時代にかけては、近眼が進むにつれて(死にたい!)と呟いては、絶望感にうちひしがれていた。人生の晩年にあっては、すでに白内障の手術を終えて、現在は緑内障の進行経過を見るために、半年ごとの通院を余儀なくしている。まさしくエンドレス、通院のデッドライン(死線、最終期限)は、文字どおりわが命の絶え時までである。わが両耳は、日々難聴に脅かされている。ところが幸か不幸か、こちらには(死にたい!)という、思いは免れている。いや、(できればもっと生きたい!)という、思いが渦巻いている。その表れには年末にあっての私は、それまでの安価な集音器に換えて、高額の補聴器を買った。この買い替えには、苦悩ばたつく思案をめぐらした。なぜならそれには、今はやりの「コストパフォーマンス」(元をとれるかどうか?)、すなわち、可否や是非の選択がつき纏っていた。実際のところ私は、まもなく命絶えるのに40万円強を掛ける必要があるやなしやという、切ない自問自答の呻吟に苛まれていた。生まれつきの醜面や醜男は、もちろん大損である。だけどこれこそ、悔いて嘆いてもどうなるものでもなく、ばかばかしさがつのるだけである。結局、わが身を苛む劣等のすべては、脳髄の貧弱さと乏しさに起因している。それゆえに私には手に負えない。いや、診療科あまたにわたる掛かりつけの医師であっても、まったく手に負えないものである。さて、人生の晩年にあって日々、私が悩まされているものでは、デジタル社会からこうむる様々な難儀がある。逆に言えばデジタル社会に精通や適合が叶えば、現下の私の悩みの多くは雲散霧消することとなる。しかしながらそれは叶わず、ゆえにわが日常生活は暗雲に覆われている。その元凶は、劣等な脳髄である。具体的には、パソコンおよびスマホ操作共に、いまだにひよっこのヨチヨチ歩きさながらである。それでも頼らざるを得ないデジタル社会は、わが精神を日々疲弊させている。脳髄劣等の「恨み骨髄に徹す」ばかりである。寒気が緩んでいる。そのせいか、バカなことを長々、だらだらと書いてしまった。脳髄および指先共に、劣等の証しでもある。