起き立ての下種の一念

1月22日(月曜日)、夜明け間近に起き出している。起き立てにあって未だ暗い中、一基の外灯の光を頼りに私は、カーテンと窓ガラスを開いて外を見た。霙や霰、雪も雨もない。寝起きの気分が落ち着く、静かな夜の佇まいである。前週末の二日にかけての降雪予報は見事に外れて、老夫婦の日常は身構えていた雪の日の難渋な生活を免れた。あえて、「見事に」と記した。もちろん、予報を外した気象予報士を嘲ったわけでなく、いや逆にかぎりなく崇めたい心境(気分)の表れである。生誕地・熊本における子どもの頃とは違って老いの身の私は、チラチラとちらつくくらいの雪降りだって、まったく望んでいない。だから、雪模様を免れた前週末の二日間の私は、カタツムリのごとくに茶の間のソファに背もたれていても、内心には明朗快活気分が溢れていた。気象予報士という職業は、高給を得てなおかつ、予報が外れても文句を言われるどころか、私の場合はいっそう誉めそやしたい気分である。それゆえにわが感慨には、(いい職業だなあ…)と、羨むところがある。いやズバリ、憧れる職業(仕事)と言っていいのかもしれない。もちろん気象予報士になるには、超難関試験を突破しなければならない。それにもかかわらず就活にあって人は、意を決して憧れの気象予報士という、職業へ立ち向かうのであろう。もちろん空夢であり、正夢にはありつけないけれど、再び職業選択の機会があれば私とて、何度落ちても受験へ臨むであろう。へそ曲がりの私の悔いごと多い述懐である。それほどに気象予報士は、私には到底叶わぬ憧れの職業である。なぜなら、当たっても外れても損のない、そしてなおかつ高級を食み、専門家として特段に崇められる職業(仕事)である。降雪予報の外れくらいであっても、こんなに気分が弾んでいる。するともし仮に、地震予報の外れであった場合の私は、気象予報士を現人神のごとくに崇めて、額づいては合掌を繰り返すであろう。気象予報士という職業は、予報が外れても敵愾心を被ることは稀である。いや、万々歳である。夜明けて、満天にのどかなあさぼらけが訪れている。このところの私は、いたずらに長い文章を書き続けて疲労困憊にある。それゆえにきょうは、心身休めにこれで結文とする。表題のつけようはないけれど、何かを考えよう。