ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

大阪市の「都構想」、否決

 十一月二日(月曜日)、目覚めの気分は重たく、そのまま起き出してきた。そのため、文章を書く気分がまったく殺がれている。明らかに、起き出して来たままに書く、習わしの祟(たた)りである。
 私はこの習性をこれまで、何度あらためようと思ったことであろうか。そして、実際にもなんども、昼間への移行を試みた。しかしながらそのたびに実らず、元の木阿弥を繰り返してきた。昼間に文章を書く難点は、雑念に惑わされることだった。
 現在の私は、気分の開かない眠り病の状態にある。もちろん、こんなことでは心象風景で書く文章は書けない。そのためきょうは、引用文にさずかるお茶濁しである。しかしそれは、きのう書いた二つの関心事のうちの一つの結果報告であり、あながちまったくのお茶濁しとは言えないところもある。東京都と東西を分かつ、西の大都市のことゆえに住民投票の結果には、私にも少なからず関心があったのである。
 【大阪都構想、反対多数 大阪市存続へ】(朝日新聞デジタル)。「大阪市を廃止して四つの特別区に再編する大阪都構想の是非を問う住民投票が1日行われ、約1万7千票の僅差で反対多数となった。前回2015年に続く否決だ。大阪維新の会代表の松井一郎市長は23年4月の任期満了で政界を引退すると表明した。当日有権者数は220万5730人、投票率は前回を4・48ポイント下回る62・35%だった。」
 別段、わがコメントはない。強いて言えば大阪市民の揺れ動く心境を見る思いである。すなわちそれは、住民投票という、大阪市民の意志の反映の悩ましさである。
 いよいよあす(三日)は、もう一つの関心事として記したアメリカ大統領の選挙日である。関心事とはいえこちらは、異国のイベントにすぎない。
 秋の夜長にあってこの文章は、単なる継続文みえみえであり、もちろんなんらの価値もない。引用文にすがる文章はほとほと切ない。それでも、わが無能ゆえに、しかたない。

晩秋から初冬へ、

 十月より月が替わって、十一月の初日(一日・日曜日)の夜明け前に身を置いている。寒さはそんなに感じなく、気分的には可もなく不可もない、いまだ真夜中のたたずまいにある(3:30)。
 現在、胸中に浮かべているものの一つには、歳月のめぐりの速さ感がある。今年すなわち令和二年(二〇二〇年)は、日々新型コロナウイルス感染恐怖に慄いているうちに、早や二か月を残すのみになった。なんたる時の流れの速さ感であろうか。まさしく、きりきり舞い状態にあり、もちろん、オチオチできない気分に晒されている。
 もとより今年は、「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催年だった。しかしながらそれらのイベントは、世界中が新型コロナウイルスの渦中にあっては、余儀なく来年への延期となっている。ところが、新型コロナウイルスに終息の兆しさえ見えないなかにあっては、来年開催の確証は未(いま)だしのままである。
 人の営みは新しい生活様式というふれ込みや要請の下に、さまざまなところで新型コロナウイルスへの対応が求められてきた。おのずから人の生活は、わが身の感染を恐れて忠実に対処してきた。それでも、日本社会における新型コロナウイルスがもたらしている災禍は、こう伝えられている。すなわち、感染者数十万一五七五人、死者数一七六九人、入院・療養中六一〇八人、うち重傷者一六一人、退院者数合計九万三一三四人である。(朝日新聞、十月三十一日午後八時現在)。 今や定番となっている日々のカウントの更新模様は、この先いつまで続くのであろうか。すると、いま現在恐れていることは、わが余生は新型コロナウイルスまみれになったままで、人生の終焉(しゅうえん)を迎えることである。しかしながらその恐れは、まんざら馬鹿げた杞憂には思えないところがある。いやいや、現実になる確率のほうが、はるかに高いように思えている。
 歳月のめぐりでは過ぎた九月になるやいなや、お節料理の予約を急かすはがきやダイレクトメールが郵便受けに投げ込まれていた。それに続くものではきょうは、年賀はがきの売り出し日である。はたまた、街中にはすでに喪中はがきの印刷案内も目立っている。祝賀気分、不祝儀(ぶしゅうぎ)気分、入り乱れて、歳末商魂はけたたましいばかりである。
 さて、十一月の初っ端にあっては国内外において、他人事(ひとごと)とも思えない二つの政治ショーがある。その一つ、日本国内においては、きょうには「大阪の都構想」にかかわる住民投票が行われる。そして一つには、三日に予定されているアメリカの大統領選挙がある。どちらの選挙も、私には関心事である。そして、季節めぐりは一週間のちにはカレンダー上に、「立冬」(十一月七日・土曜日)の表示がある。寒気に極端に弱い私には、最も恐れる季節の到来である。
 やや気分が緩むものでは、「小春日和」という、季節用語がある。ところが、それに対(つい)をなして気分が滅入るものもある。それは、「木枯らし一号」である。新型コロナウイルスの勢いが衰えないかぎり、これまでに引き続いて、それに戦々恐々とする十一月の始まりである。「アーメン」とは言えず、「くわばら、くわばら……」である。

「悪徳の栄え」、人間不信

 言葉は必要に応じて生まれる。もちろん、事象が無くなれば死語となる。そして古来、事象が無くならないため、今なお存在する言葉は数多(あまた)ある。その一つには、「正直者は馬鹿を見る」、という成句がある。必ずしもすべてが意図した不正ではなく、制度(ルール)の不備、つまり申請等のわかりづらさもあるであろう。しかしながらこんな記事に出合うと私は、一緒くたに人間不信に陥るところがある。
 実際には、人間につきまとう悪徳にうんざりする。もちろん私は、世の中にはこのことだけではなく、さまざまなところでこれに似た事象があることを知りすぎている。そう思うと、今さらだけど人の世が、つくづく厭(いや)になる。
 【持続化給付金、返還申し出6千件 不正受給逮捕後に急増】(朝日新聞デジタル)。「新型コロナウイルスの経済対策の持続化給付金を不適切に受け取る事例が相次いでいる問題で、経済産業省は30日、返還の申し出が6千件以上あったと発表した。不正受給による逮捕報道を受けて申し出が急増しているという。」
 この記事では返還の申し出をしないままの人がどれくらいいるのかは、まったく分からない。すなわち、どれだけ多くの人が不正をたくらみ、今なおほおかぶりしているのかは分からずじまいである。まさしく、悪徳がのさばる「正直者が馬鹿を見る」現象である。こんなことでは、せっかくの善政に水を差されたこととなる。
 この件にかぎらずまるで泥縄式の政府の施策にあっては、さまざまなところで悪徳をのさばらしているようなメディアの報道が絶えない。すなわち、「GO TO トラベル(旅)」キャンペーンのほか、さまざまな施策において、付け焼刃施策による綻(ほころ)びが出てきているようである。この挙句にはこれまた、「正直者が馬鹿を見る」ことともなる。なんだか、「悪徳の栄え」を見ているようで、私はすっきりしない気分である。
 きょうは十月の最終日(三十一日・土曜日)、秋の夜長はこの先、いよいよ深まるばかりである。長い夜にあって、切なく人間不信がつのるばかりである。こんなことを書くようでは、歯を抜いた傷跡がズキズキと痛むばかりである。

遅すぎた決断

  十月三十日(金曜日)、ぐずついていた決断を実行する日がやって来た。予約時間は午前十時である。結構早い時間のため、起き出すとその準備のため気分のソワソワを強いられている。もちろん、虚しい気分である。決断が遅れていた歯医者への通院である。このため、きょうは端(はな)から文章を書く気分を殺がれていた。つまり、休みます。私は三日坊主の性癖に輪をかけて、意気地なしである。起き出してきたのは五時三十五分、現在のデジタル時刻は5:46である。
 薄暗く夜明けが訪れている。憂鬱気分直しに道路の掃除へ向かうつもりである。

久しぶりの「卓球クラブ」

 きのう(十月二十八日・水曜日)は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。体育室へ入る前にはおでこの近くで体温計が翳(かざ)されて、女性スタッフ(職員)による検温があった。体温計は、三十六度と示していた。私はにっこり、「平熱です」、と言った。
 マスクをしたままで体育室へ入った。三台のピンポン台には二対二の向き合い、すなわちつごう四人で十二人が打ち合っていた。控えのベンチには、ひとりの仲間(女性)が腰を下ろしていた。いつもと比べれば少ない人数だった。しかし、体育室の賑わいはいつもと変わらなかった。
 早出の仲間たちは、みな元気に打ち合っていた。私だけが元気から取り残されている気分だった。卓球はマスクを着けたままの決まりになっていた。やはり、気乗りがしないところがあった。私は一人の仲間とやっただけで、ロビーへ出てテレビの前に座っていた。しばらく休んで、自宅へ引き返した。汗かきはもちろん、足慣らしにもならない、卓球クラブの再始動だった。
 それにしても仲間たちのうち高齢の女性たちは、みな元気溌剌だった。私は、男女の平均寿命の違いを目の当たりにした思いだった。とりわけ私は、周回遅れの気分に打ちのめされていた。挙句、みずからを鼓舞し、自己発奮を促さざるを得ない証しに晒された思いだった。きのうの卓球クラブにおける唯一の収穫は、この思いを強く自覚したことであろう。まさしく、「人の振り見てわが振り直せ」の直感だった。
 さて、この思いは、この先どうつながるであろうか。みずからの気分に、疑心暗鬼をいだく秋の夜長である。

やんぬるかな! 吐息

 今さら言うのも烏滸(おこ)がましいけれど、新型コロナウイルスの終息の兆しはいまだに見えない。それどころか、メディアの報ずる感染者数を見るかぎり、再び勢いを強めて増える傾向にある。世界的にもこの傾向は、日々伝えられてくる。きわめて、厄介なことである。この先なお続けば、人の営みすなわち日常生活は、おのずから大きく様変わることとなる。なかんずく強いられる行動の抑制や自粛は、人間社会の本質を変えそうである。仕方なく、行動自体をびくびくする人間社会の現出となる。すなわち、人の行動が抑制されたり、自粛を余儀なくする社会になれば、おのずから人の集合体の社会は様変わる。実際にもこのことは、すでにこれまで様々なところで変化を強いられてきた。
 人の個人生活はもとより社会は、人の行動を当てにして組み立てられている。このところ、数値をともなってその現象が伝えられているものには、空の便すなわちANA(全日空)やJAL(日本航空)などの航空業界の業績不振(多額の赤字)がある。この先もなお、欠航や減便を余儀なくすれば、業績不振はさらに深まることが予測できる。ほかさまざまな業界においてもこのことは、容易に予測できるところである。確かに、経済社会が病めば必然的に人の生活不安は、破綻の恐怖をともなって増幅する。現下の日本社会はその渦中にある。そしてなおこの先、新型コロナウイルスの終息が長引けば、人はこの渦に怯(おび)えることとなる。もちろん、私が喚(わめ)いてもどうなることでもない。しかし、どうにかならない! かと、喚きたい秋の夜長である。
 十月二十八日(水曜日)、白々と夜明けの空が訪れている。

日本社会の動きの一端

 きのう(十月二十六日・月曜日)には、第二〇三回臨時国会における菅政権の本格スタートを飾る、菅総理の初めての所信方針が行われて、テレビ中継があった。いよいよ、菅政権の本格船出となった。国民としても新たな期待を持って、菅政権に舵取りを託す日となった。
 国の舵取りに比べればごく小さいイベントだが、同様にテレビ中継に見入ったものがあった。きのうはプロ野球の世界にあって、ドラフト(新人選択会議)が行われた。テレビ中継という公開の場において、あらかじめプロ野球への入団を希望する者の中から、選択(合否を決める)する就活模様の中継であった。喜び勇む菅政権の船出とは異なり、こちらには人様の悲喜交々の人生行路の一幕を垣間見る興奮を共有していた。
 いささか興ざめは、スポンサー(大正製薬など)とテレビ局(TBS)の煽り番組だったことである。例年のことだ!と、心構えての視聴だったけれど、やはりすっきりした気分にはなれなかった。それは人生行路にはつきものの選ばれる者と、選ばれない者とを、公開の場で分けるせいである。ドラフト自体は仕方ないとしても、イベント仕立てではなく、結果の報道くらいでいいのではないかと、私は思った。そうは言っても私は、関心深く中継に見入った。結局、私のような者がいるかぎり、公開の場のドラフトは、この先ずっと続くであろう。そうであればひねくれずに、選ばれた者の前途を祝し、涙をのんだ者の捲土重来(けんどちょうらい)を願うところである。
 新型コロナウイルスは、なんだか第二波が来そうである。きょう(十月二十七日・火曜日)の目覚めはいつもと違って、四時半過ぎだった。約三十分の殴り書きで、日本社会の動きの一端を記したのである。

休み明けの切ない一文

 十月二十六日(月曜日)、きょうもまたほぼ同時刻に目覚めて、そのまま起き出してきている。良いのか悪いのか? 秋の夜長にあってはいまだに夜中(二時半頃)であり、やはりありがたくない習性になりつつある。ただありがたいことは、まったく寒さを感じない夜の佇まいに身を置いていることである。
 きのう(十月二十五日・日曜日)は、心ウキウキした前日の秋の陽射しをはるかに凌いで、天高い好天気に恵まれた。私は朝食を済ますと、予定していた行動を開始した。ほぼ片道二時間半ほどをかけて、東京都国分寺市内に着いた。次兄夫婦とその長男夫婦が住む、宅へのお決まりの訪問である。
 次兄夫婦は、共に九十歳を超えた。もう何年も、月に何度かの表敬訪問を続けている。しかし、新型コロナウイルスのせいでこの頃は、黴菌を持ち込むのを恐れて、意識して控え気味になっている。次兄宅は第二のふるさとであり、次兄夫婦は実在する父親と母親代わりである。共に優しく、現在私あるのは、二人のおかげである。このことはひとときも忘れず、ずっと慕い続けてきた。かつては異なり、年老いた次兄夫婦に会うのは、今や愉しみばかりとは言えない。いや、実際のところは、健康状態を確かめるためのつらい訪問である。しかしながらそれは、強く肝に銘じているわが身の為せるただ一つの恩返しである。
 久しぶりに電車に乗ったけれど、新型コロナウイルス禍の騒ぎにあっても車内風景は、そう変わらなかった。車内風景とは、ずばり乗客数である。私の定例の訪問は土曜日か日曜日である。もとより、乗客数は平日より少なめである。しかし、いつもの日曜日と比べても乗客数は、新型コロナウイルス禍にあっても、少ないとは思えなかった。たぶん、秋晴れの好天気に誘われて、滞り気味だった人の行動が促されたのかもしれない。やはり、人の足と心の動きは、天気の善し悪しに左右されるところが大きいと、言えそうである。
 この秋晴れ、今週まで続くのか? と、気が揉めるところである。気が揉めることのイの一番は、やはり第二波が来そうなこのところの新型コロナウイルスの感染者数の地方や地域への広がりかたである。「GO TO トラベル(旅)」、「GO TO イート(飲食)」など、「秋の戯(たわむ)れ」とも思えるのは、それにありつけないわが金の乏しさと心の貧しさであろうか。
 きょうもまた懲りずに、私は秋の夜長の冥想(迷想)に耽っている。

休みます

 きのう(十月二十四日・土曜日)は、待ち焦がれていた秋天の暖かい陽射しに恵まれました。私は心勇んで、いつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけました。どこかしこのお店、買い物客で賑わっていました。
 きょう(十月二十五日・日曜日)、現在のデジタル時刻は、3:51です。二度寝ができないままに起き出して来て、パソコンを起ち上げました。人生の終盤になると、心中の平常心はごたついて、まったく保たれません。挙句、私は文章を書く心地、気分を失くしています。書くまでもないことを書いて、休みます。この先の日々は、こんな心境にさいなまれそうです。
 余生とは文字どおり余りの生命であって、もはやどうでもいい人生のひとしずく、あるいはひとかけらかもしれません。そうであれば安寧な気分を望むのは、高望みすなわち欲張りなのでしょうか。寝床へとんぼ返りを試みますが、寝付けず悶々とする長い夜になりそうです。
 わが気分のせいで、ご常連様の楽しい日曜日の気分を塞いで、申し訳ありません。

浮かれ気分に水差す数値

 新型コロナウイルスにかかわる文章はニュースにもならず、もちろん妙味に欠けるため、意識して書くのを避けてきた。そのため、私は無理やりネタ探しに努めてきた。きょう(十月二十四日・土曜日)もまた、そんな気迷い気分をたずさえて、パソコンを起ち上げた。ところが、この配信ニュースに驚いて禁を破り、仕方なく新型コロナウイルスにかかわる記事の引用を決意した。東京都にかぎれば、このところの感染者数はいくらか減り気味であり、虚を衝(つ)かれた驚きである。
 【全国で748人が感染 北海道は1日あたり最多の51人】(2020年10月23日22時31分、朝日新聞DIGITAL)。「新型コロナウイルスの国内感染者は23日、午後9時現在で新たに748人が確認された。死者は12人。北海道では新たに51人の感染を確認した。緊急事態宣言下の4月23日の45人を上回り、道内では1日あたりで最多の感染者数となった。東京都は186人で、4日連続で100人を上回った。大阪府では、新たに100人を確認。府内で1日あたりの感染者が100人以上となるのは120人だった9月11日以来、42日ぶりとなった。また沖縄県は、県議会の会派『沖縄・自民党』所属の県議10人が新型コロナウイルスに感染したと発表した。同会派の県議18人は18~21日に離島の与那国町や石垣市、宮古島市を訪れ、自衛隊基地などを視察。日程表では18~20日に『夕食(懇談会)』と書かれており、県議会事務局によると居酒屋を貸し切りにした懇親会が開かれたという。国内の感染者+748人(96112人)死者+12人(1710人)退院者+579人(88904人)10/23 21:00時点 退院者数はクルーズ船の乗客らを含めた数。厚労省などによる」。
 「GO TO トラベル」、「GO TO イート」、「GO TO 商店街」などのキャンペーンは、いよいよ盛りになっている。この先、いくらか気になる人の世の他人様(ひとさま)の浮かれ気分である。もちろん、浮かれ気分に乗れない、わがやっかみではない。秋の夜長は、人の世を知らず深々と更けてゆく。