ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

復習「身につまされる」

 意識して新型コロナウイルスにかかわる文章を避けようと思えばネタなく、無理やり書けばこんなことしか書けない。きのうは慣用句、「狐につままれたよう」の復習を試みた。するときょう(十二月四日・金曜日)は、目覚めて寝床の中で、このことばを浮かべていた。それは、「身につまされた」ということばである。わが生涯学習は、常に枕元に置いている電子辞書すがりである。
 なぜ? このことばを浮かべていたかと言えば、言葉の響きが似ていること、さらにはことばの意味も難しいところがあるからである。そのためのお復習(さら)いであった。このことばの意味を難しくしているのは、ずばり「つまされる」ということばである。このため先ずは、「つまされる」を見出し語に置いて、電子辞書を開いた。
 【つまされる】:①情愛にひかされる。恩愛にほだされる。②(「身にー・れる」の形で)ひとごとでなく感じられて、哀れに思われる。
 次には、ずばり「身につまされる」を見出し語に置いた。
 【身につまされる】:わが身にひき比べる。特に、他人の不幸などがひとごとでなく思われる。
 私は長年、多くの文章を書いてきた。かつてはあらかじめネタを浮かべて、四百字詰め原稿用紙五枚分、すなわち二〇〇〇字を基準にして書いていた。もちろん、いくらか筋書きを浮かべて書いていた。ところが現在は、こんなに長い文章を書くことは滅多にない。それと同時に現在は、起き立ての書き殴りや、走り書きに甘んじている。このことでは、端(はな)から文章を書く姿勢が大違いである。もとより、文章の出来自体、大違いである。唯一、似ているところは、過去、現在ともに、書いた量の多さである。それなのに私は、今なおありふれた慣用句、そしてフレーズ(成句)にさえ、電子辞書すがりである。わが掲げる生涯学習のせいとは言え、ほとほとなさけなく、また体(てい)たらくきわまりない。きのう同様にこんな面白味のない文章は早々に閉じて、同時に読者各位様にはかたじけなく思うところである。
 さて、文章を用いて、再び復習を試みる。新型コロナウイルスの感染に遭われた人の悔しさは、「身につまされる」思いである。きのうに続いて、新型コロナウイルスのことは書かずに済んだ。しかしながら私は、長い夜の過ごし方を案じている。

慣用句「狐につままれたよう」

 きのう(十二月二日・水曜日)の文章で私は、気温高く暖かい日をもたらしている、自然界の恵みのことを書いた。この時期にすれば思いがけない暖かい日の恵みを、私は素直に喜んでいたのである。ところがきのうは、急転直下気温低く、途轍もない寒い日に見舞われた。昼間には、そぼ降る冷たい雨がともなっていた。私は茶の間に居座りながら心中で、一つの慣用句を浮かべていた。言葉の理解にいくらかこころもとないところがあり、電子辞書を開いて復習を試みた。あまりの天気の変わりように私は、「狐(きつね)につままれたよう」な思いをたずさえていたのである。
 おのずから見出し語に置いたのは、「狐につままれたよう」である。電子辞書の説明書きはこうである。慣用句:狐につまされる。解釈:狐にばかされたときのように、わけが分からなくなり、ぼんやりすること。今やありふれた日常語にもかかわらず、あらためて電子辞書にすがった理由はこうである。子どもの頃から人をばかすのは狸(たぬき)と教えられてきたので、私は狐のことばに戸惑っていたのである。そのため、狐に変えて狸とすれば、いくらかすんなりとするところがある。
 もうひとつ、馴染みの薄いことばがわが理解(力)を妨(さまた)げていたのである。それは「つままれる」という、ことばである。このため、こちらも電子辞書にすがった。先ずは狐と狸について、わが無知にかかわる正解を書けば、こう書かれていた。それは狐と狸共に、人を化かしたり、騙したりするものの象徴として用いられてきたという。わが無知は、狸だけにかぎっていたのである。私はそのしっぺ返しをこうむり、短い慣用句の一方の理解(力)を薄められていたのである。さらに、理解(力)を妨げるもう一方のことばが、「つままれる」であった。このことば調べに私は、動詞「つまむ」を見出し語に置いた。
 【撮む・摘む・抓む】「①指先で挟みもつ。②転じて、指先や箸で取って食べる。③要点を取り出す。④人をあざける。ののしる。⑤(受け身の形で用いる)狐・狸などが人を化かす。」
 わが恥を晒して長々と書いたけれど、「つままれる」ということばは、「化かされる」の同義語として、厳然と存在していたのである。
 きょう(十二月三日・木曜日)はのっけから、書き飽きしている新型コロナウイルスのことを書くのは避けようと思っていた。ところが、その代替のこの文章は、書いても読んでも、ちっとも面白くない、わが無知の晒し文である。私自身にはさておいて、読者各位様にはかたじけない思い、つのるばかりである。もとより、「狸にばかされたよう」という、慣用句であれば、恥を晒すこともなかったのかもしれない。ちょっぴり、残念無念である。それでも、急転直下の寒気がもたらしたわが生涯学習、曖昧な慣用句の意味を深めたことには、いくらかのご褒美と受け止めている。「痩せ我慢」と、言えなくもない。「痩せ我慢」:無理に我慢して平気なように見せかけること。きょうは、新型コロナウイルスのことは書かない。

めぐりきた年の瀬

 きのう(十二月一日・火曜日)から、今年(令和二年・二〇二〇年)の最終月に入っている。残りひと月とはいえ世の中が新型コロナウイルス禍にあっては、オチオチしておれない年の瀬となりそうである。まさしく、恐々(きょうきょう)とする年の瀬である。
 降って湧いた新型コロナウイルスの恐怖なくとも人生は、だれしも艱難辛苦(かんなんしんく)の茨道である。そうであっても人は、みずから生存を放擲(ほうてき)することはできない。それゆえに人は、日々歯を食いしばり、茨道を踏んでいる。
 こんな日常にあって、ありがたいことの一つには自然界からたまわる恩恵がある。今年にかぎればずばり、この時期の昼夜の気温の高さである。すなわち、このところは寒気の遠のいた暖かい日に恵まれている。もちろん、いつなんどき天変地異の鳴動に見舞われるかもしれないと、このことでは気分の休まるところがない。しかしながらこのところの暖かさは、わが日常生活に確かな恵みをもたらしている。
 高い気温が続いているせいか木々の枝葉は、例年より早く枯れ落ちている。そのため、今では道路に散り敷く落ち葉の量を減らしている。さらに加えて、道路を掃除するにも、北風、木枯らしに身を縮める日は滅多にない。これらのことは、このところの自然界からわが身にさずかる恩恵である。いやこの恩恵は、私にかぎらず人様共通のようにも思えている。その証しは道路を掃きながら、散歩めぐりの人たちとの出会いの多さである。確かな実感をともなって出会いは、いつもより増えている。この現象には、是非それぞれに一つずつの誘因がありそうである。是は、高気温がもたらす恵みである。多くの人たちは、高気温にさずかり散歩めぐりを発意されているのであろう。一方で非は、新型コロナウイルスのせいで、やむにやまれず散歩めぐりをされているのであろう。すると私は、箒の手を休めてしばし道路にたたずみ、初対面の人たちと会釈を交わす場面が多くなっている。
 出会う人たちの多くは高齢者である。年齢を尋ねることは野暮だけれど、高齢者の筆頭は、たぶん私自身なのかもしれない。なぜなら、初対面でありながら私は、温かいまなざしを受けている。ときには立ち止まられて、私はひと声の激励を受けている。もちろん私は、不断のへそ曲がりを封じてひねくれることなく素直に、「ありがとうございます」のことばを返している。そして、束の間の生きる喜びに浸っている。
 人間が出会いを失くしたら、もはや生きる屍(しかばね)である。ところが、新型コロナウイルスは、出会いの機会を妨(さまた)げている。これだけでも、ほとほと恨めしいかぎりである。道路上の出会いの多さは、人様が街中への出向きを阻(はば)まれた証しと、言えそうである。同時に、人みな、生きることに必死の確かな証しとも、言えそうである。人様の年の瀬の無事安寧を祈るところである。いやいや、綺麗ごと、他人事(ひとごと)ではなく、わが身の安寧こそ、いっそう欲深く願うところである。

なさけなく、そして無念

 令和二年(2020年)十二月一日(火曜日)、悪夢に魘(うな)されて起き出してきて、文章が書けません。現在、2:10。新型コロナウイルスには罹病してなくても、意馬心猿(いばしんえん)、百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)に脅(おびや)かされる年の瀬を迎えています。ひたすら、煩(わずら)わしい人間を演じています。長い夜はまだ先、「冬至」(十二月二十一日)まで続きます。休みます。

ああーあ、パソコン

 私にとってパソコンは、文明の利器と言えるのか? おそらく、最重要な利器と言えるであろう。一方でパソコンは、そうとも言えないところもある。私はパソコンがなければ、文章が書けない。一方、パソコンが無ければ、文章を書くことから免れる。私にとってパソコンは、確かな文明の利器である。一方、精神を虐め尽くす悪魔でもある。
 実際のところ私は、日々心中で「もう書けない、書きたくない」と、呟きながらパソコンを起ち上げている。登山家は「山があるから登るんだ!」と、言う。これに準(なぞら)えれば私は、パソコンがあるから起き立てに開いている。確かに私は、パソコンが無ければ文章が書けない。一方、パソコントラブルに見舞われたときの私は、たちまち精神破綻を招いて半狂人さながらになる。これらのことをかんがみればパソコンは、私にとってはどっちつかずの文明の利器と言えるかもしれない。
 パソコンにかぎらず世の中には、文明の利器ともてはやされるものにあっても、必ずしも便益ばかりをもたらすことはない。ふと浮べても、芋づる式に連なって浮かんでくる。自動車が無ければ、自動車事故は免れる。嗜好するアルコール類が無ければ、アルコール中毒は免れる。日常生活にあってこんな得失現象は数多あり、もちろん一々挙げれば切りがない。すなわち、文明の利器と思えるものであっても得ばかりとは言えず、多くは得失相まみれにある。その挙句、人は得失をコントロールしながら日常生活を営んでいる。その決め手は、コントロールの巧拙と言えそうである。上手くコントロールできる人にとっては文明の利器となり、一方コントロールできない人にとっては、人間喪失さえ免れない悪魔ともなる。
 パソコンの利便性に救われて私は、ブログ上に文章を書き続けている。そのことで私は、多くの人様との出会いにさずかっている。私にとってのパソコンは、やはり文明の利器と言えそうである。パソコンには、長い夜の時間潰しの恩恵にもさずかっている。文章を書く苦難を強いられているのは、パソコンのせいではなく、わが無能力すなわち「身から出た錆」のせいである。

蔓延(はびこ)る「新型コロナウイルス」

 感染症の恐ろしさを新型コロナウイルスのせいで、私は日々実感している。もとより、日本社会は為すすべなくお手上げ状態にある。このところ、新型コロナウイルスは蔓延状態になりつつある。
 『第3波「見えにくい」クラスター、感染拡大か』(産経新聞)。「新型コロナウイルスの『第3波』の感染拡大要因に、『見えにくい』クラスター(感染者集団)の存在が指摘されている。無症状や軽症の感染者が検査前に水面下で感染を広げ、職場や大学、外国人コミュニティーなどの多様なクラスターを生み出している可能性がある。専門家は市中感染の蔓延期に差し掛かっているとみており、接触機会の削減を求めている。」
 目に見えない水面下であれば、もはや防御のしようはない。唯一、カタツムリやミノムシのごとくに、身動きを止めて静止状態を貫くことこそ、最大かつ最良の防御策であろうか。しかしながら、動きを止めた人は、それこそ生きる屍(しかばね)であり、寸時さえそれはできない。だとしたらどうすればいいのか? その答えは、まるで幼(いと)けない子のままごと遊びさながらに、老若男女(ろうにゃくなんにょ)一様に、マスクを着けて行動するよりほかはない。
 確かに、思いついた浅知恵のごとくにだれもかれもが、マスクを着けて動いている。ところが、新型コロナウイルスはその行為をあざ笑うかのように、へこたれず感染力を強めている。だから、「打つ手なし」、と言って防御策を諦めてはおれない。おのずから現下の日本社会は、新型コロナウイルスの防御策に大わらわである。しかしながら、いまだ確たる効果の見える決め手はない。つまるところ、だれしもがみずからを守ることこそ、ひいては日本社会の蔓延を防ぐ、社会貢献と言えそうである。
 きょう(十一月二十九日・日曜日)、現在のわが身は新型コロナウイルスの感染恐怖に怯(おび)え、さらには突然の寒波に見舞われて、わが身はブルブル震えている。確かに、生きることは、日々苦難の闘いである。

来る日も来る日も、「コロナ、コロナ」

 わが下種の勘繰り、すなわち未熟な私見にすぎない。そして、きのう(十一月二十七日・金曜日)書いた文章の二番煎じを免れない。政府もっと具体的には関係者は、(来年・二〇二一年)の「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催にこだわり、新型コロナウイルス対策を意図的に小さく抑え込んでいたきらいがある。このことにからんで、再び記憶をそのときへ戻すと、IOC(国際オリンピック委員会)・バッハ会長の来日のおりの主たる関係者のはしゃぎようがよみがえる。ところが、皮肉にも新型コロナウイルスの感染力は、そのときから堰が切れたかのように勢いを増して、日本列島を蹂躙し始めたのである。そして、現在の日本社会(国民)は、感染の広がりに恐怖(感)をいだいて、日々あたふたとしているありさまである。ひと言で言えば新型コロナウイルスの感染の広がりにあって、今や政府は打つ手なしの状態にある。だからと言って、政府の対応を非難することはできない。なぜなら、まさしく魔界のウイルスがもたらしている、人類への脅威だからである。
 結局、新型コロナウイルスへの対応策は、人類こぞってのそれに打ち勝つ英知しかない。言わずもがなのことだけど、英知の確かな現われはワクチンである。アメリカを先駆けに、ワクチン投与が近づいているという。そうであれば人類共通の願いとして、開発されているワクチンの著効に期待するところである。さらには、「ワクチンに国境無し」を切に願うところである。
 さて、政府の分科会の尾身茂会長は、衆議院厚生労働委員会で、「多くの人に分科会のメッセージに対して協力してもらい、個人の努力を十分にやってもらったが、ここまで来ると、個人の努力だけで、今の感染が拡大している状況を沈静化することはなかなか難しい。問題の核心は一般の医療との両立が難しくなっている状況であり、個人の努力だけに頼るステージはもう過ぎたと認識している」と述べられた。関係者のメンツや保身にかかわる、オリンピック開催願望などかなぐり捨てて、新型コロナウイルスにたいし待ったなしの、いよいよ政府の本格出番を望むところである。
 オリンピック開催で日本の国の力を誇示しようとするのは、もはや関係者の傲(おご)りと言えそうである。もちろん、国民はそんなことは望んでなくて、目前の新型コロナウイルスのやっつけだけを望んでいる。そして、それが叶えば世界の人々は、おのずから日本の力を称賛するであろう。こうありたいものである。

目覚めのいたずら

 十一月二十七日(金曜日)、二度寝叶わず仕方なく、起き出して来た。現在、パソコン上のデジタル時刻は1:55である。この頃は、こんなどうでもいいことを書いている。寝床に寝そべりながらしばし、心中にこんなことを浮かべていた。今さらながらに日本社会は、新型コロナウイルスのせいで、ごちゃごちゃめちゃくちゃである。どうせまともな大会など望めようがないなら、「東京オリンピックおよびパラリンピック」(来年・2021年)は、潔(いさぎよ)く返上したらいいと、思う。なぜなら、これが足枷(あしかせ)となって日本社会は、新型コロナウイルスの本格的な防御策が打てないのであろう。オリンピック開催願望は、もはや関係者のメンツと、本音隠しの独りよがりにさえ思うところがある。臆測をしたがえたこういうわが思いは、おそらくバッシングを受けるであろう。しかしながら一方、日本社会の非常事態であれば、バッシングを恐れず本音を吐露しなければならない。オリンピックを目指している「アスリート(競技者)の思いをおもんぱかれば……」という建前は、もはや必ずしも適当ではなさそうである。アスリートとて、個々の練習環境の違いに直面しているはずである。さらに言えばこんな状況下にあっては、オリンピックにおける日本選手の活躍(金メダル)が、日本社会の鬱憤晴らしになるとは思えない。憚(はばか)らず言えばオリンピック開催願望は、もはや関係者の幻想の隠れ蓑と言えそうである。
 私はこよなくスポーツ好きである。まして、このたびのオリンピックは、わが生存中における有終の美を飾る一大イベントである。それでもやはり、新型コロナウイルス禍にあっては、私はオリンピックの返上を願うところである。大会返上の理由は、素直に「新型コロナウイルスに負けた!」と、言えばいいはずである。案外、世界中の人々から、さらにはアスリートから、拍手喝采を浴びるかもしれない。とうに日本社会は、新型コロナウイルに負けているのである。この負けを長々と引きずるのは、日本社会の面汚しとも言えそうである。
 きょうもまた私は、悶々とする長い夜に身を置いている。時刻は、いまだ真夜中(2:52)である。

長い夜

 十一月二十六日(木曜日)、現在の時刻は3:02と表示されている。ほぼいつもの起き出しである。体感温度はそう低くはない。きのうはくだらないという理由で、久しく視聴を止めていた国会中継(参議院予算委員会)に、チャンネルを回した。ところが、やはりくだらなかった。国会審議は審議とは言えず、めちゃくちゃである。なぜなら、討論の体(てい)を成していないからである。わが一つだけ望むのは、質疑の内容はともかく、真摯な討論会である。これが見えないと、端(はな)からくだらないこととなる。
 これまでの私は、国会中継で胸の透く質疑応答に出合ったことは滅多にない。きのうの国会中継を見たかぎり、おのずからこの先、またまた視聴が遠のくであろう。憤懣やるかたない思いでいっぱいである。新型コロナウイルス禍にあって、現在の日本社会は混乱状態にある。それゆえに真摯な質疑応答は、待ったなしのはずである。しかし、まったくそれが見えなかった。日本の国の舵取りは為政者の善し悪し、すなわち一つ言葉で言えば為政者の「良心」にかかっている。つまり、良心の見えない舵取りや質疑応答は、私にはくだらないと思うところがある。万事、良心あってこそ、人の世である。至極、残念無念である。
 長い夜にあって、書くこともない。この先、夜明けまで悶々とするばかりである。

夜長を脅かす悪魔、ままならない睡眠

 十一月二十五日(水曜日)、零時頃、二時頃、そして三時頃、とろとろと三度寝にありついて、起き出して来た現在は、4:13の時刻表示である。二度寝ならず三度寝にありついて、私は子どもみたいな心境で、うれしい気分である。普段は一度目覚めれば二度寝がままならず、布団の中で時を浮かべて悶々とすることが多いからである。
 かつての私はこの季節の夜長を、寝ても起きても心ゆくまで堪能できていた。ところがこのところの私は、日々夜長の時間を持て余し、恨めしくさえ思うところがある。寝ては熟睡できず悪夢に翻弄され、無理やり起きればおのずから文章を書く気分を殺がれている。
 身近なところで人間は、睡眠なかんずく熟睡ほど、幸福につながるものはない。正直者と言えばそうだけれど、せっかくの夜長にあってこんなことを書くようでは、私はほとほと愚か者である。ときには初恋物語などを浮かべて、スヤスヤと長く一度寝をまっとうしたいところである。いかんせん、私には初恋はない。結婚とて、友人すがりの出会いがしらにすぎない。この頃の私は、夜長を堪能することに全神経を遣っている。つくづく、バカな私である。
 きょうは決まって水曜日にめぐって来る、歯医者通いである。夜長にあって、「嗚呼、無情」の一文である。私には睡眠薬服用の体験はない。もとより、容易で愉しい睡眠に際し、薬剤にすがるバカではない。自然体の睡眠こそ、わが幸福である。