ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

掟(おきて)破り

 九月八日(木曜日)、小雨模様の夜明けを迎えている。九月になって早や一週間が経つけれど、ちっとも秋らしくない天候が続いている。せっかくの好季節にあっては、至極残念無念である。しかし、自然界の営みゆえに、恨みつらみはない。恨みつらみは、人間界の営みからもたらされる。これまでの私は、この手のメディアニュースの追認(引用)だけはすまいと、心して避けてきた。ところが今、その掟を破っている。事件、事故という、言葉は使いたくない。あえて言えば出来事、いやこれとて適当ではない。結局、事の表現に詰まって私は、「人間、愚か者のしくじり」と書く。確かに、わが固い掟を破っている。大きな罪作りである。
 罪滅ぼしに、メディア記事の全容の引用だけは止めれば、こうである。すなわちしくじりは、静岡県牧之原市の川崎幼稚園における園児(三歳)の、送迎バス中における置き去り死である。私はこれには平静になれず、書かずにおれなかった。もちろん、この先を書く気分にはなれず、この文章はこれでおしまいである。
 天災とは異なり、人災には無性に腹が立つ。このたびの愚か者のしくじりは、何よりの確かな証しである。人の命には、本人個人と両親の命、三つが宿っている。

わが人生における最大難渋、それはデジタル社会

 九月七日(水曜日)、いまだ夜明け前の暗闇である。目覚めたゆえに起き出している。文章を書く時間はたっぷりとある。ところが書けない。文章は心象風景が醸す描写である。気力充実、気分上昇のおりにはやたらと書ける。しかし、その逆のおりはまったく書けない。文章ほどあからさまにみずからの精神状態を露わにするものはほかにない。「南無阿弥陀仏」、ネタなくこれで結文としたいところである。
 きのう書いた文章の表題には、『わが人生の最大幸福』と、書いた。すると現在、わが心中に浮かんでいるのはその逆である。あえて文字にすれば「わが人生の最大不幸」である。しかしながらこれは大袈裟すぎて、見え透いた言葉遊びにすぎない。実際のところはわが人生において、期限を切って現在、難渋しているものではと、言い換えるべきものである。遠回しの表現は止めてズバリ言えばそれは、わが手先の不器用と脳髄の劣弱とが相まって、私自身のデジタル社会への不適合(不適応)である。それなのに社会は、日々デジタル社会への加速度を強めている。おのずから私は、その潮流に乗れずに「置いてきぼり感」を強めて、それにさいなまれている。逆に言えばデジタル社会に適合し、あらゆるデジタル機器を駆使できれば苦悩せず、どんなに快楽であろうかわが身の回りのデジタル(電子)機器は、おおむねパソコン、スマホ、デジカメ、これらに加わるものでは、印刷機、固定電話のファックス機能がある。電気機器ではテレビ、エアコン、固定電話、給湯器、レンジ、冷蔵庫、掃除機などである。要はこれらがちょっとでも壊れると、にっちもさっちもいかずに狼狽(うろた)えて、私は慌てふためいている。銀行の出入機、スーパーの支払い機にさえ戸惑うばかりである。どうにかすんなりとタッチしているのは、電車やバスの乗降口における、乗車券代わりの「スイカ」くらいである。もとよりデジタル社会は、人間社会の利便性を眼目にして、日進月歩を続ける人間社会協同の施策である。それに乗り遅れて、余儀なく苦悩をこうむっているのは、だれに転嫁のしようもないみずから種を蒔いた、「わが人生の最大不幸」と言えそうである。確かにこれは、最大不幸とは大袈裟すぎてその予備軍、すなわち「わが人生における最大難渋」くらいに、留め置くものであろう。
 現在のわが心象風景は渋っていている。それゆえ、こんなことしか書けない。朝日薄っぺらく、のどかな夜明けが訪れている。人為のない、もちろんデジタルのない自然界は、人間社会に付き纏う憂さを晴らしてくれる。だから私は、こよなく自然賛歌を唱えている。きのう続いて、きょうもまた、表題のつけようのない文章である。

わが人生の最大幸福

 九月六日(火曜日)、体調崩れて憂鬱気分に取りつかれている。身体が損なわれるのは加齢のせいであり、もはや抵抗のしようはない。しかし一方、精神の傷みは、加齢とは関係ない。それは、わが克己心の弱さである。大袈裟に書いたけれど、いまだに夏風邪が癒えない上に、突然歯痛が襲い重なっている。こちらは買い置きの薬剤で抵抗を試みている。けれど、さしたる効果は顕れない。内科医はそうでもないけれど、歯科医には足と気持ちの竦(すく)むところがある。なぜなら歯科医は、通い始めればエンドレスとなる傾向にある。しかしながら私は、歯痛だけは自然治癒にあり得ないことくらいは、とうに知りすぎている。結局、どちらもわが天邪鬼(あまのじゃく)の祟りである。精神安定剤に変わるのは、やはり通院というわが決断である。
 さて、「ひぐらしの記」は、随筆集とは名ばかりの私日記にすぎない。それゆえにそれに甘えて私は、実際のところは継続の寸断に怯えて、わが身辺の芥(あくた)ごときネタまで書いて繋いできた。換言すれば、わが身の恥晒しである。だけど、恥晒しを恥と思えば、私日記とて文章は書けない。それゆえに、文章を書き続けるためには、恥晒しは承知の助である。憂鬱気分に苛(さいな)まれるなかで、目覚めて私は寝床の中で、こんな思いに耽っていた。私日記ゆえに書ける恵みである。人類の最大幸福は、人為の戦争がないことである。これになぞらえて、わが人生の最大の幸福は何か? と、思いをめぐらしていた。するとそれは、同様にわが身辺に諍(いさか)いのないことである。とりわけ血縁、すなわち親子かつ兄弟・姉妹にあって、諍いや喧嘩のないことがわが最大幸福である。私の場合、戸籍の上では異母、その子どもたち(異母きょうだい)、そしてわが母、その子どもたち、並べて何ら隔てのない多くの兄弟・姉妹に恵まれている。(戸籍上のきょうだいは、十四人と記されている)。もちろん異母と、早死にした姉の一人は、対面叶わずである。きょうだいのなかで私は、十三番目の誕生である。しんがり十四番目の唯一の弟は、生後十一か月のおり、わが子守どきの不始末で、生業の水車の水路にドボンと落ちて、この世から去った。多くのきょうだいたちの中で現在、生存は次兄と私だけである。老少不定は世の常である。
 結局、わが人生の最大の幸福は、親子喧嘩一つすることなく、また見ることもなく、さらにはきょうだい喧嘩一つすることなく、また見ることもなく、わが人生を閉じそうだということである。もちろん、次兄と私の仲は、全天候型に晴れ渡っている。もとより、「ひぐらしの記」は私日記である。それゆえに、こんなことまで書けるのである。さらには、恥晒しを恐れていては、もちろん書けるはずもない。結局、憂鬱気分著しい寝床の中で私は、わが人生の幸福感に浸りきっていたのである。ご常連各位様には、平にお許しを乞うて、かたじけなく思うしだいである。わが憂鬱気分を癒してくれそうな、清々しい秋の夜明けが訪れている。

表題のつけようのない、戯言(ざれごと)

 九月五日(月曜日)、いつもの習性すなわち二度寝にありつけず、真夜中みたいな時に起き出している。このことだけですでに、十分疲れている。私の場合は、安眠こそあらゆる薬剤に勝る、効果覿面の薬剤である。安眠、すなわちこんなたやすいことさえ叶えられないことには、精神異常であろうかと、思うところがある。
 ここ二日は、文章を休止した。書けば、こんなことしか書けない。それゆえにきょうもまた、書くつもりなかった。早起きしたための空き時間は、仕方なく生涯学習に当てていた。ところが、もとよりいやいや気分の学習では空き時間は埋めきれない。つまるところパソコンにすがり、これまた仕方なくこの文章を書き出している。それでも夜明け前まで、まだたっぷりと時間がある。だとしたら腰を据えて、文章を書けばと思うところはある。ところが、その気にならない。おのずから、空き時間の埋めようをめぐらしている。その処方箋には、三つほどが浮かんでいる。最も手っ取り早いものでは、寝床へのとんぼ返りである。もう一つは、外灯を頼りに道路の掃除への早駆けである。最後の一つは、雑草きわまりない庭中の草取りである。ところが、どれもが決め手にならず、パソコンにすがっている。確かに、この先を書けば、最後には慌てふためくほどに空き時間は埋められる。しかし、それにも気力がともなわない。嗚呼、なさけない。「ひぐらしの記」は、ただ生きているだけの証しに成り下がっている。
 きのうは、東京へ向かった。都下・国分寺市内に住む、次兄の機嫌伺いである。出かけるたびにだんだん、わが気分は沈んでくる。次兄とわが年齢差は、十(とお)である。優しい次兄なくしては、この世に私の存在はあり得ない。だから、恩返しに果てはない。わが体調不良は、機嫌伺いの可否の言い訳にはならない。行けば次兄は、逆に真っ先にわが体調を案じてくれる。いや、妻、娘、孫へいたるまで、私同様に案じてくれる。いつものことだけれど、出かけるときは気懸かりだけれど、帰りには気分が晴れている。しかし、これも期限付きである。
 きょうは気分の晴れに恵まれて、休むつもりの文章が書けたのである。いや実際には、空き時間潰しである。ところが潰し切れずに、夜明けまではまだたっぷりと空き時間を残している。生きている証しだけの文章は、つくづく遣る瀬無い。三日連続の休止を恐れた文章でもある。表題のつけようはない。沈んだわが心を癒す、さわやかな秋の訪れを願っている。

梅雨明けは、やはりそうだった

 九月二日(金曜日)、私は体調不良に陥っている。それゆえに継続だけを願って、メディアニュースの引用だけで留めるものである。今年の気象庁の早い梅雨明け宣言にたいして、私は「間違っているのでは?」という、一文を書いた。「梅雨は、すんなり明けるはずはない。日本列島のどかに豪雨災害をもたらしたのち、ようやく明けるものだ!」。このことは、過去からのわが体感上あるいは体験上の確かな学習だったのである。ところが、気象庁の梅雨明け宣言後にあって、日本列島のあちこちは、豪雨災害に見舞われたのである。やはり、そうだった。私は確信犯でも愉快犯でもない。しかしながら、当てずっぽうのわが考察に、今、ちょっぴり自惚れている。【気象庁は1日、「観測史上最も早い」とされていた関東甲信地方などの梅雨明け時期について、速報段階の「6月下旬」より約1カ月遅い「7月下旬」に確定したと発表した。「速報値」と「確定値」が変更されるケースは少なくないが、ここまで広い範囲で大幅に変更されるのは初めてだという。】

防災の日

 九月一日(木曜日)、夏が去りまごうことない秋の訪れにある。その証しでもあるかのように、久しぶりに気候のさわやかな夜明けが訪れている。ただ惜しむらくは、八月の二度目の夏風邪は治りきらずに、九月へ持ち越している。それでも、憂鬱気分を蹴散らしてくれる天恵である。しかしながら一方、ゆめゆめ油断がならない地震や台風の多い月の訪れである。時あたかも、きょうは「防災の日」である。それゆえに、例年であれば際立って、「天災の恐ろしさとそれに備える防災」が叫ばれる。そして、この日にちなむ「防災訓練」や、いろんな行事も営まれる。
 ところが、新型コロナウイルスの発生以降は、そちらの対策や報道に明け暮れて、防災の日にかかわる行動や行事は、かなり後塵に拝している。しかしながらやはり、天災列島と揶揄される日本の国に住むかぎりは、天災の恐ろしさとそれにたいする備えは肝要である。九月にかぎらず台風は現在、十一号の号数を数えて、日本列島に向けて北上中である。しかも十一号台風は、史上稀なる大型台風と予報されている。そのうえ、新たな台風の発生が伝えられている。もし、二つの台風が抱き合わせで襲ってきたらと、気象庁はその恐ろしさを伝え始めている。
 台風は予報付きだから、いくらか身構えることはできる。しかしながら地震には、まったくの無抵抗である。その挙句、国や国民の混乱ぶりは、いかなる大型台風の比ではない。一瞬にして国が滅び、国民の命が絶えるほどの様相(災難)に見舞われる。防災の日とは、ズバリ地震の恐ろしさを忘れてはならないという、警(いまし)めの日である。確かに、いっときも忘れはしないけれど、事前の備えはまったくできずじまいである。それゆえ、最も憎たらしい天災は、ずば抜けて地震である。確かに、コロナも恐ろしいけれど、天災とりわけ地震、台風、豪雨、竜巻、雷、などに及ぶものではない。言うなればコロナ禍は、天災と異(こと)にする別次元の恐ろしさである。
 きのうは防災の日を前にして私は、もちろん事前の備えではなく、事後対策として名ばかりの「防災グッズ」を買ってきた。何ら役立たずの、お金の無駄遣いとは承知の助である。しかし防災グッズは、お金無駄で、役立たずで済めば、至上の幸運である。すなわち、事後であろうと防災グッズは、役に立っては困るのである。こう心に決めて、「おまじない」のつもりで、いくつかを買ってきた。私はいつなんどきも、天災の恐ろしさは忘れていない。それは、台風にわが家の屋根を飛ばされた痛い体験の教えである。あれ! こう書いているうちにのどかな夜明けは、雨嵐になっている。気が揉む、恐ろしい防災の日である。

八月末日

 八月三十一日(水曜日)、台風十一号が北上中のせいなのか、夜明けの空はシトシト降りの雨である。台風は自然界のしわざであり、人間界に罪はない。座して望むところは、できるだけ災難・被害なく、彼方へ遠ざかることである。知りすぎている四字熟語だけれど、電子辞書を開いた。
 【自業自得】:「(仏)自らつくった善悪の業の報いを自分自身で受けること。一般に悪い報いを受けること。自業自縛」。
 これと、ほぼ同意義の言葉が浮かんでいる。ズバリ、悪行(悪い行い)の報いである。すなわち、わが悪行の祟りやしっぺ返しである。かなり大袈裟だから換言すれば、実際にはこうである。ほぼ毎日、私は似たり寄ったり、かつ実のない文章を書いている。それゆえの悪の報いは、掲示板に訪れる人様が、だんだん減り気味である。すなわち、わが罪と罰である。もちろん私は、身の程をわきまえず、のぼせあがっているわけではない。なぜなら、掲示板へのわが貢献度はなく、それゆえ罪もない。だから、書くネタなく、言葉遊びにすぎない。
 きょうは八月末日(三十一日)、よくも似たり寄ったりの実のない文章を書き続けてきたものだと、思うところばかりである。もちろん、反省しきりだけれど、出口への展望はない。このことを恥と思えば、九月への継続は沙汰止みである。二度目の夏風邪はいまだに治りきらず、こちらはなんなく九月へ持ち越しである。シトシト雨は、土砂降りに変わっている。私は、心静かに降りようを眺めている。わが罪と罰を思う、月替わりの嘆息である。

継続だけの文章は、切ない

 八月三十日(火曜日)、夏らしくない夏、秋らしくない秋、冬みたいな気分の夜明けを迎えている。すっきりしない季節変わりのせいである。きのうから私は、着衣にあっては軽装の夏スタイルに未練を残し、 防寒の冬スタイルに変えた。実際には、上半身は半袖から厚手の長袖に替えた。下半身は短パンやステテコなど未練なく、布地の下着と長ズボンに替えた。就寝時には、重たい冬布団に潜った。どれもが、突如の防寒対策だった。(なんで、こんなに寒いのだろう……)、わが実感だった。
 傍らの妻にたいし、わかりきった警告を告げた。
「寒いね。風邪をひいたら大損だよ。絶対、風邪ひくなよ!」
 同時に、私自身にたいする警(いまし)めの言葉でもあった。
 私はいまだに治りきらない二度目の夏風邪に手を焼いている。それゆえに、かなり後ろめたい気分の警告ではあった。いや、それだけに身に沁みた警告でもあった。確かな、異常気象の秋の訪れにある。
 わが実感は、メディアニュースにも現れていた。それはぐずつく天候のせいで、体調を崩す人が多いというものだった。夏は夏らしく、秋は秋らしく、冬は冬らしく、そして春は春らしい、まっとうな季節変わり望むところである。春・夏・秋・冬、すなわち四季を分ける日本の国特有の季節変わりが崩れたら、災害列島の汚名を雪(すす)ぐ特長を失くすこととなる。そうなればきわめて残念無念である。
 今朝は、寒さに加えて雨模様の夜明けである。きのうの夜明けにあって私は、昼間の胸の透く秋空を願った。ところが、この願いは空念仏に終わった。雨模様の大空を眺めながら、私はきょうも再び、懲りずに願うところである。
 このところのわが文章は、実のないものばかりである。そのうえ、ミスも目立っている。異常気象は、わが精神状態に異状をもたらしている。いや、異常気象のせいにはできない、わが脳髄の不出来のせいである。それゆえ、きょうもまた、書かずもがなの文章を書いてしまった。過ぎ行く八月は、とことん恨めしい月である。急に大空が明るくなり、朝日が射し始めている。わが憂鬱気分直しは、やはり自然界にすがるしか便法はない。

「冠の秋」が来た

 八月二十九日(月曜日)、夜明けの空は朝日の光を強めている。天気予報は見ていないけれど、昼間には胸の透く天高い秋空になるだろう。きのうは、曇天と言うより雨空だった。このところは暑気が去って、早やてまわしの秋モードにある。もはや夏風邪とは言えないが、名残の夏風邪はいまだに治りきらず、鼻先ムズムズの不快感が尾を引いている。いつものことだけれど、「後悔、先に立たず」と「後の祭り」という、同意義の成句を抱き合わせて、浮かべるなさけなさである。風邪の兆しが現れたら市販の風邪薬には頼らず、掛かり医者の処方箋をたずさえて、行きつけの調剤薬局に行くべきだった。確かに、市販の薬は、効果覿面(てきめん)とはいかないところがある。反面、市販の薬には容易に買えて、買い置きもできる便利さがある。それゆえに、面倒くさがり屋の私は、ついつい市販の薬にすがっている。挙句、私は小さな夏風邪さえ長引かせる愚か者である。優柔不断すなわち決断力の不足は、わが生来の性癖(悪癖)の一つである。
  再び書くけれど、このところは秋風とともに、急に風の冷たさが身に沁みている。このためまずは、就寝にあっては掛布団が必需品になっている。さらに、肌身には重ね着が必要になってくる。おのずから夏の醍醐味は、遠のいて薄らぐばかりである。一方で、残暑の暑気の厳しさは知りすぎている。だとしたら欲張って、肌身に優しい季節変わりを願っている。さらに欲張って、台風の来ないさまざまな「冠の秋」の訪れを願っている。欲張りの私には、まだ欲張るものがある。それは、夏風邪の退散である。満天、日本晴れに変わっている。あれ! 鼻先のムズムズ感がとれている。「冠の秋」が来た。

人間

 八月二十八日(日曜日)、東京都下(国分寺市内在住)の次兄(92歳)伺いのため、朝駆けいたします。このため、文章はこれだけです。きのうの夕方は、妻の四回目のワクチン接種の引率同行でした。幸い妻は、痛みのない夜明けを迎えています。効果はわからず気休め程度です。接種会場は混雑しており、人みな生き続けるために必死です。それらを優しく支えてくださっていたのは、数多いスタッフです。人間のすばらしさを垣間見られて、私にはうれしいひとときでした。確かに、個々の人間はすばらしいです。ところが、党を組むとなさけなくなります。改めてこんなことを知り得て、私にはとても時間でした。