ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

十月一日

 月が替わって十月一日(土曜日)、文字どおり中秋から晩秋にかけての、秋たけなわの夜明けを迎えている。朝日は照らず、台風に前触れみたいな風が吹いている。けれど、まずは穏やかな月替わりの朝を迎えている。しかし、わが身の場合は、必ずしも穏やかではない。もちろん、気分もすぐれない。
 さて、きのう夜明けにあっては、早とちりをしてしまった。すなわちそれは、「鼻風邪は持ち込まずに済んだ」と、書いたのである。確かに、夜明けから昼過ぎあたりまでは、風邪症状は消えていた。ところがこの間は、不完全状態をひた隠しにしていただけだった。なぜなら風邪症状は夕方頃からぶり返し、私はたちまち憂鬱気分に取りつかれた。そして、一夜明けた現在もなお、風邪症状に悩まされて、おのずから気分は憂鬱状態にある。挙句、とんだ月替わりを招いている。S医院からもらっていた風邪薬はとうに服み尽くし、今は妻が貰っていた「葛根湯」を盗み服みし、さらにそれに買い置きの市販の総合感冒薬を重ねている。ところが、罹り始めの夏風邪は名を秋風邪に代えて、未だに治りきらないままである。
「風邪は大病の基」。そうであれば現在は、肺炎の惧(おそ)れを気にせずにはおれないところはある。だったら風邪などと侮(あなど)らずに、早々に外来患者となるべきときかもしれない。
 きのうのNHKニュースでは、落語家・三遊亭円楽さんの訃報が伝えられた。私より十も年下(享年72歳)である。きわめて惜しまれる、他界(肺がん)だった。他人様(人様)とは思えず、心からご冥福を祈るところである。わが年齢をかんがみれば、風邪症状を蔑(ないがし)ろにするところはまったくない。もちろん、承知の助ではある。しかし、通院にさえ決断力不足(優柔不断)がともなうのは、わが生来の「身から出た錆」である。
 秋本番、すなわち好季節の真っただ中にあっては、季節にふさわしい明るい文章を書きたい、書くべきである。しかしながら書けず、とんだ月替わりに成り下がっている。「可もなし、不可もなし」、いや不可だらけの月替わりである。平に詫びて、御免蒙(こうむ)りたい思い満杯である。強風に朝日が加わり始めている。

九月最終日

 九月最終日(金曜日)、いつものように(万古不易)、夜明けが訪れている。時々刻々、変わるのは人の世である。起きて私は、小難しい成句を浮かべている。生噛りの覚束ない成句ゆえに、電子辞書を開いて復習を試みる。自分勝手なお浚いゆえに、平に詫びるところである。説明文は、電子辞書の転記である。
 【兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)げども外その務(あなど)りを禦(ふせ)ぐ】「兄弟(きょうだい)は家の中では喧嘩をしても、外から侮(あなど)られるようなことがあれば、力を合わせてそれを防ぐということ」。例文「―、兄弟とは本当にいいものだね」。
 秋は物思いの季節である。異母兄弟を含めて多くの兄弟姉妹(戸籍の上では14人)にあって、次兄(九十二歳)を残すのみとなった。だれもが喧嘩一つしない兄弟愛を育んだために、必ずしもこの成句は、ピタリ適当と言えないところはある。しかし、幸運にもこの成句を浮かべずにはおれない、わが身のありがたさである。ネタ切れが招いた、とんだ報酬、すなわちわが身に沁みる成句である。
 「物思いの秋」は月を替えて、いよいよ特有の愁(うれ)いを帯びて深まりゆく。鼻風邪は、月替えに持ち込まずに済んだ。爽秋は、秋愁(しゅうしゅう)の季節である。視界、秋の朝日が輝いている。この先、私はどんな物思いに耽るであろうか。

カンフル剤は「ふるさと便」

 九月二十九日(木曜日)、夜明けは今にも雨が落ちてきそうな、どんよりとした曇り空です。生きて目覚め、起き出して、パソコンを起ち上げています。しかしながら、心象は乱れて、文章が書けません。モチベーション低下のせいです。このところ、生きる気力が萎えています。ふるさと在住の姪っ子から、秋恒例の「柿、ふるさと便」が届きました。ふるさと便は常に、最良かつ最高の生きるためのカンフル剤です。早速、柿を剥き、四つ切にして、「旨い、旨い!」と言って、頬張りながら食べました。ふるさと慕情がムクムクと溢れました。傍らの妻も、「パパ、美味しいね!」と言って、笑顔で同調してくれました。この言葉で、わがふるさと慕情は、さらに風船みたいに膨らみました。それなのに、こんな惨めったらしい文章を書いてしまい、ほとほとなさけないです。焦らず、モチベーションの回復に努めるしか、便法はありません。わが心中は、すでに土砂降りの状態です。空中および心中の晴れ間を望んで、戸惑っている指先を閉じます。気狂いの自覚症状はありません。だからなお、厄介と言えるかもしれません。せっかくの好季節にあっても、清々しい気分は遠のいています。書くまでもないことを書いてしまった、わがお里の知れる約十分間になりました。すみません。

続「通院日」

 九月二十八日(水曜日)、半眠りの朦朧頭で起き出してきたため、なさけなくも文章の体をなすものが書けません。そのため、きのうの『通院日』」の続きを殴り書きして、文章を結びます。
 診察時間は、予期したとおり三分足らずで済みました。それゆえ、私は拍子抜け気分をつのらせて、診察室を後にしました。もちろん長い時間、診察室に留め置かれるよりは、ありがたいことです。診察はいつもの男性・院長先生とは異なり、いまだ中年にも満たないと感じた初見の女医先生でした。私が両耳に集音機を嵌めていたのを咄嗟に察知されたのであろうか。先生は、大きく明るく弾んだお声で相対されました。私は優しさを感じて、気分は患者らしくなく、すぐに解れました。マスク越しのため向き合っても、先生のお顔の全容を見ることはできません。しかしながら私は、女医先生は「美貌」と、決め込みました。
 診察は主に、事前の視野検査の画像を眺めながらでした。
「変化はありません。大丈夫です。薬はまだありますか?……」
「5本ほど、お願いします」
「次も、半年先に、診てみましょう」
「わかりました。ありがとうございました」
 診察室を出ると、ドア近くの椅子に並ばれていた次の人の顔には、驚いた様子があらわれました。お顔には、わが診察時間の短さにたいする、驚きとうれしさが交錯していました。私は予約時間の午前11時前に出向いて、午後2時過ぎに当院を後にしました。いつものことながらこの日もまた私は、目病み患者の多さにびっくり仰天していました。
 きのう・この日(九月二十七日)の日本社会は、故元安倍総理の国葬の日でした。待合室で見たかぎり下々の国民は、病をこらえ、治しては、生きることに懸命です。きのうに続く、きょうの夜明けの日本晴れは、秋の復調の確かな証しと、言えそうです。長く待ち望んでいたことだけれど、半面寒さがに身に沁み始めています。実のない駄文、やはり、休むべきだった。もちろん、「朦朧頭だから、仕方がない!」と、言い訳の効かない文章です。

通院日

 九月二十七日(火曜日)、どうやら不順続きの天候は正規軌道へ戻り、地上に穏やかな夜明けを恵んでいる。すると、残るはわが不良体調の良化である。ところが、こちらは未だしである。実際には、夏風邪の尾を引く鼻風邪は、未だに治りきらないままである。気分もすぐれず、またとりたてて書くネタもなく、それゆえにきょうは、端から休筆を決め込んで、起きてきた。しかしながら、それはそれで、気分はしっくりしない。仕方なく、パソコンを起ち上げた。浮かんだネタは、このことだけである。きょうの私は、半年ごとに訪れる「大船田園眼科医院」(鎌倉市)への通院日である。実際の施療は、緑内障の半年ごとの経過診察である。
 私の問いは、
「先生、死ぬまで続くのですか?」
「そうですね」
 わが言葉に変えれば、「死がゴール」のエンドレス通院と、言われたことになる。あえて、聞かなきゃよかったのだ。聞いたゆえに、つらい宣告を被ってしまったのだ。私には、何らの悪い自覚症状はないのに。
 治療には、一日に一度だけの点眼薬の一滴こぼしが、もう何年も続いている。診察室に入っても、三分の診察時間さえ与えられず、いつも二分程度でおさらばである。それはそれで長引く診察よりいいわけだけれど、私は半日がかりの通院日にあっては物足りなさを感じている。確かに、「念のため、日を替えて精密検査をしてみましょう」と、言われるよりは大ましではある。だけど私は、「こんにちは」「ありがとうございました」の間隔のあまりの短さにいつも、狐につままれた面持ちで診察室を後にしている。おそらく、きょうの診察もそうなること、請け合いである。もちろん私は、異状宣告を望んでいるわけではない。しかし、半日、半年、がかりの診察であれば、私にはもっと長い時間診て欲しいという、願いや思いはある。
 書くつもりのない文章だっただけに、これでおしまい。日本晴れに朝日が映えて、清々しい夜明けである。それなに、こんなことを書いて、とことん、バカな私である。

文明の利器の祟り

 九月二十六日(月曜日)、起き出してきて夜明けの空をしばし眺めている。朝日こそ見えないけれど、風雨のない穏やかな夜明けにある。どうやらこの先は、秋本来の好季節にありつけそうである。ところが、わが気分は穏やかではなく、なさけなさが充満している。いまだに治りきらない夏風邪のせいもあるけれど、それよりはるかに痛手のなさけなさに見舞われている。それすなわち、わが脳髄の衰えと、それによる様々な不都合が加速しているせいである。おや! 認知症の兆しかな? とも思える、へまも多くなり始めている。具体的に大きなショックを受けているのは、脳髄の衰えにともなう記憶力喪失である。
 そんなかにあって最近驚愕した体験では、本来、容易な漢字であっても、手書きではまったく書けなくなっていたことである。なさけなくもこれには、大きなショックを受けている。明らかに、文明の利器すなわちデジタル文字(漢字)に頼りすぎてきた大きな祟りである。パソコンで長いあいだデジタル文字(漢字)を叩き続けたことにたいし、逆らいでもするかのように、手書きの漢字が書けなくなっていたのである。確かに、この傾向には以前から気づいてはいた。しかしながら最近、手書きしたいくつかの容易な漢字で、その加速度が増しているを知らされたのである。ショック、つらい確認だった。
 これに懲りてこのところの私は、夏風邪特有の鼻先グズグズの不快感丸出しのなかにあっても、手書き漢字のおさらい(書き取り)に大わらわになっている。具体的には、小学用と中学用を主とする、常用漢字(1950余)の手書き漢字の復習である。それゆえに私は、余生短いなかにあって突然飛び込んで来た、お邪魔虫(再度の手習い)さながらの思いに打ちひしがれている。小学校低学年時代に学んだ漢字にさえこうだから、後学の熟語、四字熟語、諺、成句などの記憶喪失には、はかり知れないものがある。ところがもはや、これらを復習する余生の時間はない。あまりのショックを受けたものだから、恥を晒してまでも私は、きょうの文章のネタに用いたのである。
 脳髄の衰えは加齢のせいにはできない、もとよりわが脳髄の脆(もろ)さ、貧しさではある。ようやく中秋らしい、胸の透く清々しい、朝日が輝き始めている。ところが私は、パソコンを閉じれば、小学用漢字の手書きをする羽目になる。表題は、なさけなくも「文明の利器の祟り」でいいだろう。

ままならず、過ぎ行く九月

 九月二十五日(日曜日)、ようやく雨上がりの夜明けが訪れている。しかし、朝日は雲隠れにある。このことではまだ、正常の秋の夜明けとは言えない。九月も最終週にかかっている。それなのにこれまでの九月は、天候およびわが体調共に、すぐれないまま過ぎようとしている。言葉を替えればなんらなすすべなく、初秋の好季節を台無しにしている。おのずから私は、無念感と焦燥感を募らせている。
 こんななかにあって、いくらか胸をなでおろしているのは、過去の気象データがらみで天災多い月にあっても、これまでは大きな地震を免れていることである。確かに、台風情報には始終おろおろし通しだった。しかし、わが身は免れた。ところが、手放しに喜べるものではない。なぜなら、テレビニュースは、日本列島どこかの台風状況に明け暮れていた。すなわち九月にあって、日本列島のどこかの地方あるいは地域は、台風災害を被っていたのである。やはり人間界は、自然界の猛威には抗えない。大雨の衰えと台風が過ぎ去るのを、身を縮めて願うしかない証しだった。
 一方、九月にあって新型コロナウイルスの感染者数は、幸運にも漸減傾向にある。しかしながらこれまた、手放しには喜べるものでもない。なぜなら、死亡者数は高止まりのままにある。結局、最終週を残しての九月は、あれやこれやとわが気分はすぐれないままに、十月への月替えとなりそうである。特に、夏風邪に続く秋風邪の持ち越しだけは、真っ平御免である。しかし、なお風邪症状を引きずり、本格始動にはありつけないままに、こんな煮え切らない文章でお茶を濁している。一方、肝心要の秋の天候もまだ、不順を脱しきれず、いまだに今朝の太陽は陽射しを閉じている。

表題、無し

 九月二十四日(土曜日)、この秋の天候不順は、極めてしつこいところがある。大袈裟に書こう。明けて来る日も来る日も、雨や曇りあるいは雨上がりの夜明けばかりである。今朝もまた、小雨が降ったり止んだりの夜明けにある。これまでの秋の足取りは、まったく秋らしくない。だからと言って、自然界の営みには腹を立てても仕方がない。しかしながらこうまで天候不順が続くと、かなり恨みつらみつのるところがある。
  一方、私の場合は、天候不順を超えて風邪症状のしつこさに、今なお見舞われ続けている。風邪症状は夏風邪をひいて以降、治りきらないままに秋風邪へとつないで、いまだにその状態にある。夏風邪が罹り始めゆえに、すでに一か月をはるかに超えて、風邪症状に取りつかれている。この間の文章には、おのずから風邪のことと、それが因の憂鬱気分のことばかり書いてきた。そのせいで、ときには文章書きを休んだり、継続だけを願っての文章に甘んじた。省みて、なさけなさが募るばかりである。ところが今も、そんな精神状態にある。すなわち私は、いまだに治りきらない風邪症状のせいで、早々と休養を決め込み、寝床の中で風邪症状と闘っていた。挙句、「ひぐらしの記」は、すっかりわが身辺のことだけを、いやいやしながら書くだけの私日記に成り下がっている。それゆえにずっと、かたじけない思いが続いている。
 きのうの「秋分の日」(九月二十三日・日曜日、祝日)が過ぎて、いよいよ秋は深まりゆく。それゆえ私は焦りに焦って、二兎を追って秋の名に恥じない好季節の訪れと、わが風邪症状の治りを切に願っている。これは、書くまでもない文章の見本である。やはり、休めばよかった。表題のつけようはなく、風邪症状を長引かせるだけかもしれない。雨は降ったり止んだりの状態から、雨一辺倒に変わっている。

秋分の日

 好季節・秋は、どうしたんだろうか? 「秋分の日」(九月二十三日・金曜日)にあっても、雨の夜明けである。短い期間限定の彼岸花は、さぞかし悔しがっていることだろう。再びの三連休初日にあって、物見遊山を目論んでいる人たちもまた、雨空を仰いで悔しがっているであろう。墓場に眠る御霊たちも、雨のせいでお墓参りを渋る子々孫々を思い浮かべては、これまたさぞかし悔しがっていることであろう。これらをかんがみれば、私とて雨の夜明けを悔しがらずにはおれない。わが悔しがりにはオマケがついている。それはせっかくの好季節にあって、夏風邪を長引かせて気分を滅入らせていることである。それゆえにきょうは、出まかせにこんなことを書いて、指を擱くこととなる。わが命は時々刻々削られていくのに、胸の透く秋空を遠のけている天の事情が恨めしく、憎たらしくも思えている。朝御飯の楽しみだけは欠かせない。茶の間へ急ぐだけの朝の行動である。

「つまらない秋、盛り」

 九月二十二日(木曜日)、今なお私は風邪症状を引きずり、休養状態にある。夜明けて窓の外は、強風が吹き荒れている。これには、一つの恩恵がある。それは、強風すがりの道路の掃除の免れである。なんだか、うれしい悲鳴である。ところが、気分は今なおすぐれない。もちろん、字を替えて、風邪症状のせいである。
 台風14号には、喜ぶべきことだけれど、なんだか肩透かしを食らって、どこかへ過ぎ去った。私は身構えていた。だからそのぶん、かなり気抜けしている。もちろん、「不幸中の幸い」という表現は当たらない。台風には前後、こんな言葉がつきものである。すなわちそれは、「前触れと余波」である。今朝の強風はおそらく、台風14号の余波であろう。いや、新たな台風発生の前触れなのかもしれない。
 きょうの私は、きのうに続いて、のっけからずる休みを決め込んでいた。ところが、強風の夜明けに遭遇し、咄嗟にこんな文章を書いている。実際には台風にまつわる、前触れと余波という言葉のおさらいを試みているにすぎない。それゆえに、これで結文とするところである。どちらのせいにしてもこのところの日本列島は、秋とは思えないぐずつく天候に見舞われている。
 明日は「秋分の日」(九月二十三日・金曜日)である。「暑さ寒さも彼岸まで」。ところが、早やてまわしに寒気が訪れている。私の場合、寒気は真っ平御免である。私は、風邪と風(台風)に翻弄されている。それゆえ、「つまらない秋、盛り」である。