ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

『おんな太閤記』

 十月三十日(日曜日)、二度寝にありつき遅く起きて、慌てふためいている。すっかり夜が明けて、見渡す限りまったくの雲なく、青く澄んだ晩秋の日本晴れにある。本当であれば気分良く、長い文章がスラスラ書けそうである。ところがそうとはいかず、殴り書き、走り書きの挙句、尻切れトンボの文章に成り下がる。その理由は、日曜日朝の七時十五分からNHKBS3で始まる『おんな太閤記』の視聴のためである。この番組はあらゆるテレビ番組の中で、私が見終わってすぐに、一週間前から待ち構える番組である。この番組だけにはテレビのありがたさと、しばし視聴料の高さに文句を言うのを戒めている。この番組には、佐久間良子さんをはじめとする、あまたの美しい女優連のお出ましを観る楽しさがある。この番組は、故橋田寿賀子さんの名作の一つである。録画しておけば慌てることはないけれど、私は臨場感をともなって観たいのである。制限時間いっぱいである。予期どおり尻切れトンボを恥じず、推敲することなくここでこの文章を閉じて、三段跳びで階下の茶の間、テレビ桟敷へ下りる。かたじけなく思うばかりである。青空は、朝日の輝きを満遍なく帯びていっそう輝いている。気持ちの良い夜明けである。

憂鬱気分直しの、愉快な柿の話題

 十月二十九日(土曜日)、夜明けの空は朝日の見えない曇り空である。しかし、雨は免れそうである。わが起き立ての気分もまた、どんより曇っている。ただ、かろうじて涙は免れている。人生行路は茨道である。それゆえ常に、悲涙が寄り添っている。愚痴こぼしは専売特許、すなわちわが人生の証しである。私は愚痴を溜め込むことなく、恥晒しを省みず、「ひぐらしの記」に吐露している。それで、愚痴を緩めている。この点、ひぐらしの記は、わが愚痴こぼしを受け止めて、和らげる万能薬である。
 きょうは書くまでもないことを書いて、文章はここで結ぶつもりだった。ところが、憂さ晴らしにはこの上ないメデイアの配信ニュースに遭遇したのである。頃は目下、晩秋の熟柿の季節である。小、中学生頃の校外写生時間にあっては、私は決まって「内田川」の土手に腰を下ろし、川向こうの「相良山」の麓に散らばる民家の庭先に生る、柿の風景ばかりを描いていた。今では毎日、買い置きの柿をムシャムシャ食べている。柿は食べ物を超えて、わが人生に自然界が恵む人生最良の友達である。
 現下の日本社会にあって国民は、日々物価値上げ報道に音を上げている。それゆえ、柿二つの高値が憎たらしく思える話題だけれど、半面憂鬱気分直しには格好の愉快なニュースでもある。だから、休むつもりの文章に替えて、全文引用を試みている。もちろん、私自身の身勝手な気分直しではある。
 【最高級ブランド柿!最高額2個100万円‼ 岐阜の「天下富舞」今季初競り】(10/28(金) 11:52、ぎふチャンDIGITAL)。岐阜県が誇る高級ブランド柿「天下富舞(てんかふぶ)」の2022年度の初競りが28日行われ、これまでで最も高い2個100万円で競り落とされました。「天下富舞」は、糖度が20度を超える甘みとサクサクとした食感が特徴です。22年度の初競りは28日朝、名古屋市中央卸売市場で行われました。 毎年、初競りでは高値で取り引きされていて、去年は2個86万円で競り落とされた「天下富舞」。28日も価格はどんどん上がり、これまでで最も高い2個100万円(税抜き)で競り落とされました。  競り落とされた柿は、天下富舞の中でも最高ランクの「天下人(てんかびと)」で、糖度は25度を超えます。早速、名古屋市中川区にあるスーパーマーケット「バロー千音寺店」の店頭で販売されます。天下富舞の競りは来月上旬まで続きます。

デジタル社会、私は生きる屍(しかばね)

 十月二十八日(金曜日)、まだ夜明けの明かりは見えない。それゆえ、天気の良し悪しはわからない。だから今のところは、朝日に気分賦活の手助けを託すことはできない。夜明けて、できれば晩秋の日本晴れを望んでいる。そうなれば、格好の気分癒しとなる。なぜなら、私は目覚めて寝床の中で長く、こんなことを浮かべては、甚(いた)く精神を脅かされていたのである。
 デジタル蔓延する現代社会にあっての私は、分別ごみになぞらえれば再生の利かない無価値の生き物である。ただ、生きている姿をかこつだけの屍(しかばね)である。幸いにも現在は職業(仕事)を離れて、まともにデジタル無能のつらさ、悲しさ、衝撃を免れている。言うなれば私は、デジタル蔓延の現代社会よりいくらか前の時代に労働し、素晴らしい職場にも恵まれて、それらの悲哀を緩やかにできた。顧みて、今ではまったく不可能な快事だった。なぜなら、必ずしも無難だったとは言えないけれど、途中解雇に遭わず、定年(六十歳)までまっとうできたのである。それゆえ私は、会社の恩顧が身に沁みて、今なお有難さの極みにある。
 現在は、定年後の二十二年にある。現在も勤務の身であれば、職場不適合の誹(そし)りを受け、途中解雇の憂き目を見て、わが精神は気狂い、錯乱状態であろう。科学の進歩、デジタル社会は、日進月歩を続けている。具体的には、AI(人工知能)、IT(情報技術)など、旺盛・進化の到来にある。すると生来、脳髄凡愚、指先不器用の私は、これらに適応できず生きる屍状態となる。
 きのうの私は、妻をともなって久しぶりに、バスと電車を乗り継いで、鎌倉市役所本庁へ出向いた。用件は、浅ましくもマイナカード作成によるポイント申請だった。このおり垣間見た職場のすべでは、職員みんながパソコンを前に置いて、画面を凝視し指先繁く画面をなぞっていた。私にすれば、空恐ろしい光景だった。この光景の後遺症により私は、きょうはこんな文章を書かずにおれなかったのである。夜明けてみれば朝日の見えない雨模様である。きょうのわが気分は、朝日の助けなく一日じゅう燻(くすぶ)りそうである。

欲深いわが精神

 十月二十七日(木曜日)、すっかり明けきった夜明けは、満天かぎりなく胸の透く晩秋の青空にある。このところの文章の冒頭は、夜明け模様の定型文へ成り下がっている。もちろん、こんなことではまずいと思うけれど、パソコンを起ち上げてまず見るのは、前面の開けっ広げの雨戸越しに、窓ガラスを通して見る夜明け模様だから仕方ない。そして、空模様しだいでわが気分は、すぐさま良し悪しになる。すると、きょうの寝起きの気分は、空模様に助けられて晴れ状態にある。これは、自然界から無償で賜る恵みである。ところが、欲深いわが精神は、それだけでは足りず、人様から賜るエールにもすがっている。
 きのうは高橋様からエールに加えて、いつまでも治りきらない鼻炎症状にたいする、貴重なアドバイスをいただいた。ありがたいことにこれまた、ありがたさきわまりない無償の恩恵だった。このことにより、鼻炎症状をともなって萎えていたわがひ弱い精神は、賦活した。このとき私は、自然界の恵みを凌いで、人様から賜るエールの有難味と大きさをあらためて知らされた。感謝の気持ちはお伝えしたけれど、再び御礼を重ねるところである。
 年老いて私は、日々生きることの困難さに打ちのめされている。具体的には、生きるための気分あるいは気力が萎えゆくばかりである。それに抗(あらが)う賦活剤には、まずは起き立ての空模様の良さにすがるところがある。ところが、これを凌ぐものはやはり、人様から授かるエール(応援歌)である。「人は、誉めて育てよう」という、万民が認める教育観がある。すると、私にはエールを身勝手に誉め言葉と曲解し、これで萎靡(いび)きわまるわが精神の賦活剤にあずかろうという、さもしい魂胆がある。そして確かに、エールを賜ると、わが萎えていた精神は賦活する。なんて虫の良い、わが欲深い精神であろうか。いつもの言葉に換言すれば、わが小器とお里の知れるところである。
 ちょっとばかり時が過ぎて、朝日はいっそう青く輝いている。つれてわが気分は、明るさを増している。それでも、人様から授かるエール(激励の言葉、しかし私は、身勝手に誉め言葉と曲解している)にはかなわない。きのうの場合は、いくらかぶっきらぼうに言えば、「高橋様に、恩に着る」ところ莫大である。もちろん、浅ましくこの先もおねだりしているのではなく、この文章を書かずにはおれなかったのである。

こんな私的なこと、書かなきゃよかった

 十月二十六日(水曜日)、夜明け前の五時過ぎにパソコンを叩き始めている。しかし、眠気眼で朦朧頭である。最低、一週間ほどはと願っていた安眠は、中ほどで虚しく途切れた。二度寝にありつけないままに寝返りを繰り返し、挙句、悶々気分に脅かされて、仕方なく起き出している。最も気分が休まるはずの睡眠がこうも体(てい)たらくでは、もはや気分が休まるところはない。何かの罰当たりを被(こうむ)っているのであろうかと、自問を試みる。しかし、その根拠や自覚はない。生きて、安眠を得られないようでは、その解決策は永眠しかない。だからと言ってすぐには、永眠願望はないけれど、ちょっぴり憧れるところはある。
 こんな棒にも箸にもかからない私的なことを書き続けているせいであろう。「ひぐらしの記」は、読む人離れのドツボに入りつつある。自業自得のなれの果て、確かな証しである。こんなことではなさけないと、世の中のこと浮かべれば、行きつくところは、目下の新型コロナウイルス状況である。コロナへの感染状況は漸減傾向を深めていたけれど、メデイアの報道によればこれに歯止めがかかり、また増勢傾向を強めはじけていると言う。そうだとすれば私は、コロナには罹らずとも、マスクを着けて永眠する羽目になりそうである。
 これまでも何度か書いたけれど、私の場合、マスク着けの日常生活はまったく楽しくなく、もう懲り懲りなのである。それは人様と比べて、余計神経を使う生活を強いられているからである。実際には、難聴対応の集音機、近眼正しの眼鏡、さらにはコロナ感染防止のマスクの紐などが、両耳にかかっているからである。これらにより私は、鬱陶しさ、煩わしさ、神経の尖り、すなわち三竦みの状態に悩まされている。大袈裟でもなくこの状態は、結構面倒である。
 きょうもまた、こんな書くまでもない私的なことを書いてしまった。確かに、「ひぐらしの記」は、尻すぼりに留まらず、必然的に潮時にある。夜明けの空は、大海原の日本晴れ。私は両目を見開いて、眠気眼(ねむけまなこ)を癒している。

気鬱治しは、椎の実で!

 十月二十五日(火曜日)、きのうの文章でできれば、一週間程度は続いてほしいと願った起き立て時は、四日目へと続いて夜明け前のほぼ同時間帯にある。しかしながらわが精神状態はきのうとはまったく異なり、鼻水たらたらの不快・鬱状態にある。一時、治ったと嘯(うそぶ)いた鼻炎症状はぶり返し、かつ根づいて持病になりかけている。ただ、持病というほどの持ち時間(余生)はない。みずからへの戒(いまし)め、単なる鼻炎症状と言って侮(あなど)るなかれ! 気鬱のつらさは軽病とは言えない。わが枕元には医師の処方箋による風邪薬、加えて四ブランドの市販の鼻炎薬が散らばっている。ところが、どれもこれもにも未だ著効にありつけず、ゴキブリ同然の散らばりかたである。案外、内臓器官のあちこちに、副作用だけはもたらしているのかもしれない。恨みつらみたらたらの、天邪鬼あまのじゃく)の下種(げす)の勘繰りである。手元に置くテイッシュ箱代わりの丸々のトイレットペーパーは、みるみるうちに細身になるばかりである。
 さて、わが清掃区域にあってこの頃は、道路のあちこちにドングリが転げている。御池がわりに、側溝にもたくさん嵌(はま)っている。転げているドングリを目にして童心がよみがえり、私は果て無い郷愁に馳せている。それはこの季節にあって、子どもの頃の里山の中での、まん丸・真っ黒の椎の実拾いの思い出である。もちろん、拾うばかりの遊戯ではなく、心躍り勇んで持ち帰ると、待ち構えていた母がすばやく、フライパンでゴロゴロと炒(い)った。なんと旨いことだろう!。椎の実の旨さは、言い伝えではわからない。「百聞は一見に如かず」。いや、椎の実の旨さだけは、「百聞は体験に如かず」である。
 きょうはこんなくだらないことを書いて、この先の文章は打ち切りである。今なお、治りきらない鼻炎症状のせいである。パソコンを閉じれば、鼻かみ作業に大わらわとなる。この先、一週間程度で終わりそうにない。もちろん、こちらの長引きは願っていない。薄っすらと夜が明けた。朝日の見えない、曇り空である。

べらぼうな果報

 十月二十四日(月曜日)、このところの三日、未だ夜明け前にあって、ほぼ同時刻に起き出している。二度寝にも恵まれている。できれば三日程度で終わらず、欲張りはしないけど、一週間くらい続くことを願っている。もちろん、定着は最大願望である。人間の欲望にはキリがなく、望んでも果たされることはない。それゆえさしあたり、一週間程度の継続を願うところである。三日目の言葉「未明」を添えて、きょうの天気は知るよしない。文章を書き終えて、爽快感に浸ることはめったにない。それは、常に文章の出来不出来に悩まされているからである。それでも、書き終えると、安堵感だけは味わえる。それはずばり、きょうも続いたという、安堵感である。表現を替えればそれは、「継続」のもたらす安堵感である。
 私は身の程知らずの欲張りではないけれど、それでも常に文章の出来を願って書いている。しかしそれは、いつも叶わずじまいである。確かに、文章を書かなければ、生き恥を晒すことは免れる。ところが一方、私は「語彙」の生涯学習を掲げている。語彙は、文章の道具である。だから、文章という実践をすることなく、語彙を心中におぼえるだけではつまらない。それゆえ私は、文章においては六十(歳)の手習いを発意した。
 そんなおり、「ひぐらしの記」という命題で、大沢さまから語彙の実践(文章)の場を授かったのである。こののちの私は、大沢さまのご好意には背くまいという、一念をいだいてひたすら書き続けてきた。繰り返すと私は、継続だけが大沢さまへのお礼返しと心に決めて、書き続けてきたのである。同時に、「ひぐらしの記」は、私にとって、願ったり、叶ったりの語彙実践の場となったのである。おのずから私は、もっとましなもの書きたいという強い願望、いや、かすかな欲望をいだいていた。しかしながらそれはかなわず、どうにかとぎれとぎれの「継続」で、いくらかの恩返しにありついている。もちろん継続には、限られたご常連の人たちのご好意と支えもまた、大沢さまのご好意に上乗りしている。
 起き立にあってきょうの私は、これらのことを書かずにおれなかったのである。結局、「ひぐらしの記」は、わが人生行路において、人様から授かっているわが身に余る、「べらぼうな果報」である。文章は能力を超えた「上出来」など欲張らず、しがない脳髄相応の「継続」でいいのかもしれない。夜明けの空は、彩雲をいだいてのどかである。

晩秋の一日

 十月二十三日(日曜日)、きのうの起き立の表現を繰り返すと、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば「未明」と、書いた。それゆえにきょうの天気模様は、夜明けてから知ることとなる。きょう一日の天気は、まだわからない。けれど、季節は暑くもなく寒くもなく一年じゅうで、最も心地良い晩秋の候である。確かに季節の恩恵は、わが肌身をすこぶる心地良く潤している。晩秋という言葉のひびきも良く、まさしく好季節の真っただ中にある。
 ところがどっこい、きのうのわが夫婦は、連れ立って住宅地内にただ一つある、S開業医院へ出かけた。普段の妻との外出行動におけるわが役割は、覚束ない歩行の妻にたいする引率・介添え同行である。ところがきのうの場合は互い身、外来患者であった。二人して、診察室に入った。先に、妻が診察を受けた。私は側近の丸椅子に座り、妻の診察の様子を眺め、主治医の診立ての一部始終に聞き耳を立てた。両耳には集音機を嵌めて、なおかつ最大音量にして、先生の言葉を聞き入った。診断や診察のやり取りは、主にもらっている薬効の確認程度だった。最後には、インフルエンザ予防の注射が上腕に打たれた。
 妻に代わり、私は馴染みの先生と向き合った。中年の男性医師は物腰が和らかく、いつも丁寧で優しい診察をしてくださる。後世でなく、生まれつきの高人格なのであろう。それゆえご多分に漏れず、当医院の患者の多くは高齢者である。まさしく、高齢患者にはうってつけの先生である。その確かな証しは切れ目のない、待合室の外来患者数に表れている。わが夫婦にかぎらず高齢の患者には、とてもありがたい先生である。
 ありがたさの一つは、ぶっきらぼうの診察ではなく、笑顔と優しい言葉(会話)の多さである。高齢患者にはこれらの応対こそ、効果覿面の薬効がわりを成している。私の主訴は、長く治りきらない風邪症状だった。きのうの文章にあって鼻炎症状は、ようやく全快と書いた。ところが本音は、いくらか嘘っぱちだった。ほかには、自覚する皮膚の痒みと便秘症状を訴えた。血圧は測定の前に、「血圧は正常です」、と言ってしまった。それゆえ、先生の測定は免れた。けれど、言わずもがなの言葉だったゆえに、わが愚かぶりを恥じた。たぶん、先生も気分を悪くされたはずである。しかし、そのそぶりはなかった。信頼するに足る優しい先生である。診察の最後には妻同様に、インフルエンザ予防の注射を上腕に打っていただいた。わが夫婦の診察を終えて、夫婦異口同音にお礼の言葉を添えて、診察室を後にした。
 こののちは、夫婦それぞれの処方箋をたずさえて、最寄りの行きつけの調剤薬局へ出向いた。予期どおりそれぞれ、たくさんの薬をもらって外へ出た。秋天高く、のどかに晩秋の陽ざしがそそいでいた。わが肩に連れ添う妻にたいし、「こんなに多く薬をもらうようじゃ、もう死んだほうがましだね!」と言った。妻は逆らわず、「そうね!」と言った。なんのために、ヨロヨロ足で、医院へ行ったのだろうか?……。朝日輝く、夜明けが訪れている。

実りの秋、真打「新米、ふるさと便」

 十月二十二日(土曜日)、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば、ズバリ「未明」である。寝床に寝そべっていたおりのわが心中は、こんな思いに脅かされていた。それはこうである。つくづく私は、現代社会に適応できないたわけもの(落伍者)である。この思いの発露は、これまでも何度か吐露し、また書いてもきたデジタル社会への不適応、すなわち置いてきぼりである。実際のところは、デジタル社会の便利さへの乗り遅れである。挙句、私は日々鬱陶気分に陥り、落伍者感情がつのるばかりである。このところのテレビニュースでは、紙の健康保険証をデジタルに切り替えるというものがあった。どうなることやらと、あわてふためくばかりである。便利は不便利と裏腹である。その証しはこれまで、何度となく体験し、舐め尽くしてきた。私はそのたびに戸惑い、みずからの無能をさらけ出し、落伍者感情に陥ってきた。現代社会にあっては、「不便のもたらす心の通い合い」は、加速度に価値無しになるばかりである。
 さて、常にわが文章は愚痴こぼしまみれである。もとより、わが小器とお里の知れるところである。晩秋にあってこのところの二、三日は、ずいぶん後れてきた秋空を取り戻している。それでも、遅すぎた! と、恨みつらみはつのるところがある。挙句、ようやく私は、冠の秋の一つへ漕ぎつけた。それは果物の秋である。実際のところは果物の秋の先駆けで、それを包含する実りの秋を体験していた。それは二度にわたり姪っ子から送られてきた、「柿、ふるさと便」であった。ところが、それは涎を流してすでに食べ尽くし、おととい、きのうと連日、店頭の柿を買い込んできた。この秋の蜜柑は、すでに二度買っている。おととい一度目だった栗は、味を占めこれまたきのう二度目を買ってきた。これらに重ねて、いよいよ実りの秋の真打を成す、ふるさと産「新米、ふるさと便」が甥っ子から送られて来た。
 わが家は新米にかぎらず米は、甥っ子に面倒掛けてふるさと産を購入している。それにはこんな理由がある。どうせ市販の米を買わずにおれないなら、甥っ子に面倒をかけても、ふるさと産を購入したいという、わが浅ましい魂胆である。理由を付け足せば、食べなれた美味しさに加えて、ふるさと心を失くしたくないという、わが思いからである。甥っ子とて、すでに老身をたずさえている。そのため、打ち止めがちらついている。しかしながら実りの秋にあって、旺盛なふるさと慕情を断つには、かなりの勇気と決断がいる。そのうえに、堪えきれない哀しさが付き纏うところがある。
 夜明けてみれば、あれあれ! 、どんよりとした曇り空である。秋空もいまだに本調子ではなさそうである。天候の回復に後れを取っていたわが鼻炎症状は、真打の「新米、ふるさと便」の到着で気分を良くし、やっとこさ全快に漕ぎつけている。天候のように逆戻りの恐れは多分にあるものの、わが身を省みず、いっとき自然界のだらしなさ(不甲斐さ)を詰りたい思いである。だけど、「図に乗ってはいけないよ!」と、みずからを戒めている。書き殴りの文章は際限なく続くゆえに、ここで意図し打ち止めである。

冠の秋、到来

 十月二十一日(金曜日)、きのうの好天気は、これまでの秋らしくない天候の償いをしたのであろうか。ほぼ一日じゅう、天高い胸の透く秋空に恵まれた。それを引き継いできょうの夜明けは、まったく風雨のないのどかな朝ぼらけが訪れている。私はこんな夜明けをどれほど長く、待ち望んでいたことだろうか。このことにたいして、「恩に着る」という言葉はなじまない。けれど、その言葉以上に自然界の恵みを称賛せずにはおれない。確かに、人間心理は自然界、直截的には天候の良し悪しに左右されるところ大ありである。その証しには、今なお鼻炎症状を引きずっているけれど、現在の気分は九分どおり爽快である。鼻炎症状が完全に遠のけば、ようやく心身、壮快という言葉に置き換えてよさそうである。しかし、それまでは未だしである。つまるところわが鼻炎症状は、この秋の天候不順よりさらに長引いている。挙句、さしたる書くネタもないため、冒頭からこんないたずら書きを長々と書いている。
 「ひぐらしの記」、風前の灯が消えないように私は、竹筒の火起こしでフーフーと吹いている。この表現は、子どもの頃の家事手伝いの一つ、すなわち風呂沸かしのおりの火起こしの真似である。しかしながら、実際には大きな違いがある。なぜなら、風呂沸かしのときの火起こしは、焚きつけた火が消えないように懸命に吹いていた。そして、消えずに火が燃え出すと、そのあとは火起こし用無しに、火は音を立てて燃え盛った。ところが、「ひぐらしの記」の火起こしは、いくら吹いても燃え盛ることはなく、いや叶わず今にも消えそうである。
 きのうの買い物にあってはこの秋、一度目の栗(茨城産)を買ってきた。栗は、妻の手で栗団子に変わった。味見の栗団子はきょう、食べどきの本番を迎えている。ようやくわが家には、冠の秋のもたらす恵みが現れ始めている。朝ぼらけは満天、青々しい日本晴れとなり、天上、空中、地上に満遍なく輝いている。天界の恵みのおかげでわが鼻炎症状は、きょうで打ち止めになりそうである。そうなれば、果物の秋の買い出しが忙しくなる。もちろん、うれしい悲鳴である。