ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

書き殴りを「御免」と思う

 十一月二十一日(月曜日)、今なお治りきらない口内炎の痛さに遭って、七転八倒しているうちに時は流れ、挙句に寝坊して起き出してきた。夜明けの時刻はとうに過ぎている。けれど、雨戸開けっ放しの前面の窓ガラスの外は、いまだに夜中のたたずまいにある。太陽光線の恩恵は、はかり知れない。この世いや地球にあって、無償の恩恵に授かる筆頭は、太陽光線であることをあらためて知る。
 寝起きのわが脳髄は、空っぽである。こんなことではこの先を書くのは止めて、現在は「三十六計逃げるに如かず」の心境にある。しかしながら私は、口内炎の痛さを我慢して、パソコンを起ち上げてしまった。飛んだ、わがしくじりである。それゆえに脳髄の乏しさ、いわゆるバカ状態をさらけ出している。
 確かに、物事において「継続は力なり」である。ところが、こんな駄文で継続の力を求めるのは、本末転倒の誹(そし)りを免れない。それでも継続を求めるのは、わが浅ましさと貪欲さの証しであろう。私はいつも、こんな実のない、味気ないことを冒頭に綴っている。そうこうしているうちに、何か? 脳髄に浮かぶことを待っている。ところがきょうは、この先を続けても何も浮かびそうにない。
 「ああー、痛い!」。ベロ(舌)の突先マンホールみたいに、ぽっかりと穴を空けている。いや、一つの穴だけでなく、左右横広がりに爛(ただ)れている。ピロリ菌を退治して以来、幼年の頃から取りついていた口内炎は、バッタリと遠のいてくれていた。ピロリ菌退治は、鬼退治に勝る朗報だった。だから今回の口内炎の発症には余計、怖さを感じるものがある。すなわち、ピロリ菌退治の賞味期限はもとより消費期限切れにあっているのであろうか。次回の通院のおりには主治医にたいして、真っ先に「ピロリ菌は、生き返るのでしょうか?」と、尋ねるつもりでいる。
 たかが口内炎ではあるけれど、私の場合は確かな難病である。やはり、この先は書けずにパソコンを閉じる。はなはだ忝(かたじけな)く思う、二十分間程度の書き殴りである。継続文に値するかどうかは、わが知ったこっちゃない。寝坊助のせいで、焦って書いた。ところが、半面そのせいか、朝御飯の支度まではたっぷりと余裕時間を残している。薄闇の夜明けは雨降りである。

案外、私は「食通」なのか?

 十一月二十日(日曜日)、夜明けまではまだ、行き着きないところにある。口内炎にともなう胃部不快、すなわち抱き合わせの不快感は、未だに極限状態にある。寝起きの私は、不意に美食家という、言葉を浮かべている。だから、これにともなって、三つの言葉を浮かべている。きわめて簡易な言葉だけれど、まずは電子辞書を開いた。
 美食:うまいものや贅沢なものを食べること。また、その食べ物。美食家。
 素食:①肉類を加えず野菜だけの料理②平生の食べ物。
 粗食:粗末な食事をすること。またその食べ物。
 美食にはいくらか揶揄的に、「家(か)」が添えられている。すなわち不断、最も有体(ありてい)に添えられるのは「美食家(びしょくか)」である。ところが、この言葉は電子辞書にはない。こんどは、スマホに搭載の「国語英語辞典」を開いた。これには明確に、美食家の説明文が記されていた。
 美食家:ぜいたくでうまいものばかりを好んで食べる人。グルメ。
 ところが、素食と粗食にあっては、それぞれに素食者そして粗食者の説明が付くくらいだった。もちろん私は、美食家ではない。また説明書きに従えば私は、必ずしもズバリ素食者や粗食者でもない。
 私の場合、三度の御飯(主食)は、ほぼ米飯(白米)一辺倒である。麺類やパン類は好まない。御数とて手の込んだ手料理などは好まない。言うなれば「レシピ」施しの、あれこれと煮たくったものは好まない。納豆一品の御数で十分である。だからと言って、粗末な御数とは言えない。
 付け出しだけれど、わが好む特等の食べ物は、「赤飯にごま塩」まぶしである。これには魚の刺身、タイの尾頭つき塩焼き、寿司さえお手上げである。確かに私の場合は、美食家ではないことはもちろんのこと、素食者および粗食者とも言えない、より下位に甘んじている。だけど、満足している。
 「食通」:「料理の味などに通じていること。また、その人」
 案外いや結構、私は食通なのかもしれない。口内炎と胃部不快のもたらす憂鬱気分消えず、この先は書かずおしまいである。夜明けの明かりは見えず、未だ薄暗い夜明け前にある。それゆえにきょうの天気模様は、書けずじまいである。きのう、きょうの天気予報は聞いていない。

人情、他人様から賜る情け

 十一月十八日(土曜日)。寝床から抜け出して来て、パソコンを前にして椅子に座り、壁時計を横目で見遣った。時計の針は、四時あたりをさしている。夜明けの遅い仲冬の夜明けまでは、未だ夜の静寂(しじま)にある。それでも、きのうの「丑三つ時」の寝起きに比べれば、二時間ほど長く眠れていたことになる。口内炎の痛さは峠を越して、下り坂に向かっているようである。そうであれば、ささやかとは言えない朗報である。つれて、憂鬱気分も緩和傾向にあり、どうにか「文章の体・態(てい)」を為している。
 きのうは口内炎のもたらす憂鬱気分に陥り、文章を書く気分になれずじまいだった。挙句、出まかせの石ころみたいな創作川柳でつないだ。人の世は、「捨てる神あれば拾う神あり」。この定則を露わにしたのは、文字どおり他人様(ひとさま)の情けと優しさであった。実際には掲示板上の高橋弘樹様のご投稿文から、こんなアドバイスを賜ったのである。「前田さん。口内炎には『KAGOME野菜生活100オリジナル』(200ml)が良いですよ」。「牛に引かれて善光寺参り」:他人に誘われて知らぬうちに善い方へ導かれることのたとえ。この成句にいくらか似ているけれど、実のところはまったくそうではない。なぜなら私は、常日頃にエールを賜る高橋様のアドバイスにすがり、定期路線バスに乗って大船(鎌倉市)の街へ出かけたのである。そして、セブンイレブンに立ち寄り、高橋様お勧めの目当て「野菜生活」を買い込んだ。きのうは、たちどころに二本飲んだ。効き目はわからない。しかし、買い込んだおりのわが心中には、咄嗟にこんな成句ができていた。「親の声、絶えて代わりの、他人(ひと)の声」。
 わが晩節の生存は、人様の声に「助けられ、支えられ」て、叶っている。「痛い、痛い、口内炎」は、他人様(ひとさま)の人情を篤くもたらしてくれたのである。だから痛くても、ありがたくて我慢のしどころである。まだ、夜明けの明かりは見えない。パソコンを畳んで、寝床にとんぼ返りをしたら、案外いや結構、二度寝にありつけそうである。

口内炎の夜

 十一月十八日(金曜日)、口内炎の痛さに耐えきれず起き出してきた。夜明けまでは、はるかに遠い「丑三つ時」(午前二時から二時半頃)にある。こんな気分ではこの先、文章は書けない。それゆえにきょうは、起き立てに浮かんでいる、三つの創作川柳を記して、おさらばである。しかしながら、おさらばの先が寝床へのとんぼ返りとなりそうなのは、泣き面に蜂である。
 俳句は苦吟するけれど、川柳は楽ちん(楽吟)である。その証しには、石ころみたいなものが、ころころと転がっている。それらの中から、浮かんで出来立てほやほやの三つの川柳を晒して、文章の代わりに役立てる。一つは、松尾芭蕉の俳諧を真似て、川柳仕立てにしたものである。「古池や老い顔隠す濁り水」。ずばり、わが姿の実写である。二つは日頃、わが心境を脅かしている事柄を模写したものである。「ポイントに客引きされて銭失い」。「デジタルの意味さえ知らず明け暮れる」。みずからの老い顔は、嘆いても仕方ないことである。けれど後者は、面倒な世の中になったものだ! と、日々嘆いている。挙句、仕方がないと悟るまもなく、「命」切れるであろう。
 こんな文章には、表題のつけようはない。だけど、文を結んだのち考えてみる。夜明けの明かりは見えようなく、私日記定番の天気模様を記すことはできない。私にとっての口内炎は、難病である。

生きてます

 十一月十七日(木曜日)、夜明け間もないところで起き出している。ぐっすり眠れて、気分安らかにパソコンへ向かっている。寝起きの気分の安らぎは、二度寝に恵まれた「成果」である。長く、成果という言葉にはありつけず、それゆえ死語になるのを恐れて、へんてこりんなところで意図して使ったまでである。本当のところ成果の表現は大袈裟すぎて、単に「せい、あるいは、ため」くらいが適当語である。精神の疲れの場合は、二度寝にはありつけない。ところが一方、身体の疲れの場合は、二度寝にありつける。きょうの寝起きは、如実にこの証しを示している。
 きのうの私は、久しぶりに長く歩いた。そのせいで、身体が疲れた。その報いがきょうの寝起きに顕れたのである。「報い」とは自分自身、常に気をつけないと用い方に誤りを招く言葉である。なぜなら、報いに変えて熟語の「報酬」を用いればそれはずばり、自分がいいこと(善行)をしたことにたいする対価(見返り)となる。ところが、この言葉には善行だけではなく、わるいこと(悪行)にたいする、仕返しの意味もある。すなわち、よく定型的に用いられるものでは、「悪の報い(仕返し)」という表現がある。
 きょうの文章は、書き殴り特有にまったく締まりがない。この先、こんな文章を書き続けては、せっかくの好気分はたちまち変転し、滅入るばかりである。それゆえこれで、急転直下の結び文とするところである。のどかに、仲冬の朝日が昇り始めている。文章と言えないものには、表題のつけようはない。生きている証しのいたずら書きである。

バカなことを書いている

 十一月十六日(水曜日)、窓ガラスの外は未だ暗闇の、夜明け前に起き出している。起きて、心中にぼんやりと浮かべていたのは、こんなことである。一つは、またコロナが勢いを増している。怖いなあー。結局、罹らずには済まないのかもしれない。自分は罹らなくても、体力が落ちている妻は、罹るかもしれない。仕事や学業中の娘や孫は、もっとその渦中にいる。困ったなあー。一つは、私には読書歴がない。それゆえ、言葉や文字の学習、すなわち習得がない。わが人生における大きな損失である。「後悔先に立たず」、さらに重ねれば「後の祭り」である。一つは、私は起き立てに書き殴りの文章ばかりを書いている。だから、腰を据えて、推敲を重ねた文章を書きたいなあ……。寝起きに浮かべていたことゆえに、何らの筋立ても繋がりもない。ボウフラみたいに、突然わいて出た脳みその屑にすぎない。
 きのうはパソコントラブルに見舞われて往生し、挙句、文章は書かずじまいだった。幸いにも、トラブルは修復した。しかしながら、こんな文章しか書けない。私は「生きる屍(しかばね)」状態にある。夜明けを待つまでもなくこれで閉じて、壊れている気分の修復にかかろうと思う。もちろん、コールセンターには頼れず、自分自身にすがるしか便法はない。
 こんな文章、書かなきゃよかった。まったくの無価値である。早起きは、三文の徳ならず大損である。

トラブル

 マウスがまったく反応しない。それゆえ、マウスに頼らず指先を滑らしている。しかし、これでは不便きわまりなく、文章を書くことはできない。不断のかぎりない嘆息に、突然また一つ、嘆かわしい問題が加わっている。デジタル社会は、大嫌いだ。夜明けの空はこれまでの長い好天気を断って、地上に音なくシトシト雨を降らしている。わが心中は、轟轟と音を立てて土砂降りの雨である。好天気が断たれたことだけは記そうと、ヨタヨタと指先を滑らした。この文章は、「ひぐらしの記」の書き止めをもたらしそうである。

続いている「好天気」

 十一月十四日(月曜日)、起きてパソコンを起ち上げ、しばし机上に両頬杖をついていた。頬杖を外し、ポコポコとキーを叩き始めている。片目で見遣る壁時計の針は、五時近くを回っている。夜明けが早い頃で晴れであれば、燦燦と朝日輝く夜明けにある。しかし仲冬の時は、「冬至」(十二月二十二日)へ向かって、いっそう夜明けを遅らせている。それゆえ、前面の雨戸開けっ放しの窓ガラス越しに見る外界は、未だに暗闇である。ところが、私には夜明けの遅いご利益(りやく)がある。それは、執筆に焦燥をおぼえないというご利益である。確かに、私はのんびりとキーを叩いている。めっぽう、うれしいご利益である。
 きのうは、書き殴り特有の締まりのない文章を長々と書いた。挙句、草臥(くたび)れ儲けだけの文章に甘んじた。そののち、草臥れは尾を引いて、きょうは休養を決め込んでいた。しかし、書き出したからには寝起きにあって、心中に浮かべていた一つを書いておさらばである。自然界は、天変地異の鳴動で人間界に罪をつくる。そしてその償いは、四季折々の恵みで果たす。とりわけ、好天気のもたらす償いは、天変地異の罪を蹴飛ばす感さえある。これはこのところの好天気にありついて、わが実感である。きのうの道路の掃除にあっては、自然界のこんないたずらに遭遇した。掃き清めたところに、まるで「待っていました!」とばかりに、ほぼ同量の枯れた枝葉が舞い落ちてきた。憎たらしく、かつ業(ごう)を煮やすところだけれど私は、もはや手に負えず苦笑(にがわらい)を浮かべて、山を見上げた。このときの心境は、好天気恵んだ心象の余裕だったのである。確かに、自然界は罪をつくり、一方で確かに、罪償いをしている。人間界はどうであろうか? しばし、落ち葉時雨の中にたたずみ、あらためて学んだ自然界の健気(けなげ)さであった。
 夜明けて、朝日の見えない曇り空に、数えきれない彩雲が散らばっている。是れ、また好しの夜明けである。

自然界の恵み

 十一月十三日(日曜日)、未だ薄闇の夜明け前にある。闇は時を追って消え朝日が昇り、明るく夜が明ける。すると、わが気分もまた晴れる。もちろん、曇りや風雨のない晴れの夜明けの場合である。晩秋の「文化の日」(十一月三日)前あたりから、「立冬」(十一月七日)を挟んで、このところまでの自然界は、人間界に胸の透く好天気を恵んでいる。気象予報士は、東京都にははつか(二十日)近く、雨が降っていないと言う。すると、すべてが晴れの日ではなくても、それより前から好天気が続いていることになる。それ以前は異常気象にも思えていた、気分の乗らない天候不順が続いていた。だから、このところの二十日近くの好天気は、自然界の罪償いとも思える粋な計らいである。
 それなのに寝起きの私は、こんな無粋なことを心中に浮かべている。とことん、大損な性分である。人生とは、文字どおり生存の期間である。期間は、様々な言葉に置き換えられる。すぐに浮かぶものには、生涯や寿命、そして尽きるところは終焉である。生存期間の区切りには年代を見据え、様々な区分の言葉がある。それらの一つを浮かべれば、生年、幼年、青少年、壮年、そして晩年(晩歳・晩節)という、命の繋がりがある。晩年の後をあえて書けば、それは最期である。大まかな二区分では、若年・弱年(じゃくねん)もある。現在の私は、老年・晩年に相寄るところにある。
 初冬がしだいに仲冬へ深まるにつれ、山の小枝は枯葉となり、微風(そよかぜ)なくともヒラヒラと道路に舞い落ちて、日に日に落ち葉の嵩(かさ)が弥増(いやま)している。現下の自然界は、風情(ふぜい)たらたらと山、黄色や紅(くれない)に染まる好季節にある。ところが私は、それらの煽(あお)りや好天気のもたらすダブルピンチを食らっている。実際には嘆息まじりに額に汗を滲ませ、せっせと落ち葉を掃き寄せては、七十リットルの透明大袋に押し詰めている。それでも、命尽きて枯れて落ちた小枝の姿に私は、ちょっぴり愛(いと)おしさをつのらせている。それは人生晩年から終焉にいたるわが生き様が、落ち葉の姿に重なるゆえであろう。もちろんこんなことでは、心の安らぎすなわち、安寧な日常生活は遠のくばかりである。
 枯れ葉と落ち葉の多いこの季節は、儚くもわが晩年の写し絵でもある。それでも私は、寒気をともなわなければ私の好む季節である。わが身の斃(たお)れ方、できれば枯れ葉の落ち方に肖(あやか)りたいと願うのは、叶わぬわが欲望であろう。日本晴れに雲の欠片がわずかに浮いて、きょうもまた清々しい仲秋の夜明けが訪れている。わが限りある人生は、自然界のお恩恵に気分を癒され、やっとこさ生存の喜悦にありついている。きょうは、自然界讃歌つのる、仲秋の晴れの夜明けである。道路の掃除はは、落ち葉多い道路の掃除は厭(いと)わない。

「糧」と「絆」

 十一月十二日(土曜日)、夜明け前というより、夜明けの遅い初冬の真夜中あたりに起き出している。二度寝を阻まれてきのうとは異なり、現在の私は、眠気眼と朦朧頭に加えて、憂鬱気分の三竦み状態にある。寝起きにあって冒頭より、いつもながらの愚痴こぼしの暗い文章を書いている。
 私の場合、人様に愚痴こぼしの文章を諫(いさ)められればまったく書けない。なぜなら愚痴こぼしは、わが生来の「ネクラ性分(錆)」の祟りにある。もちろん、嘘っぱちの愚かな表現だけれど、わが愚痴こぼしは文章継続に留まらず、生き続けるための「糧」(かて)と、言ってもよさそうである。世間一般にも人様は、何かというと糧と「絆」(きずな)という、言葉を多用される。耳障りなく響きよく、よっぽどこの言葉が気に入っているせいでもあろう。ところがこのとき、へそ曲がりの私は、これらの言葉にかなり辟易し、挙句、こんな野暮なことを脳裏に浮かべている。それは、これらの言葉を遣う人たちは、言葉の本当の意味を知っているのであろうか? という下種の勘繰りである。電子辞書を開いてみよう。
 「糧・粮」(かて):「①古代、旅行などに携えた食糧②食糧。特に蓄え置く食べ物。③活動の本源。力づけるもの」。
 「絆・紲」(きずな):「①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱②断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし」。
 絶えず復習するは、わが掲げる生涯学習の一端である。実際のところは人様への懸念ではなく、私自身への諫めである。すなわち、自分自身、不断よく遣うゆえに、うろ覚えで疎(おろそ)かに用いてはならないという、みずからへの戒めである。現在の私は、六十(歳)の手習いのツケに見舞われている。ツケ払いはできず、もうやめ時であろう。三竦みが痺(しび)れている。二度寝にありつけない夜は、「生きる糧」にはならない、憎たらしい魔物である。