ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

連載『少年』、九日目

 国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、怒号まじりの説教と詳しい説明を受けた。兄の言葉が終わると少年は、濡れた猿股パンツを脱いで、乾いたものに取り換えた。この日はそののち、神妙に家の中に閉じ籠った。少年は戦争の勝ち負けがどういうものかも知らずに、終戦(敗戦)の日を迎えていた。
 少年はあくる日からまた、小魚取りや水浴びに行った。夏の間、猿股パンツだけで裸丸出しの少年の肌は木炭のように黒びかり、少年は内田村の山河を遊びまわった。少年はひと月前の七月十五日に、五歳の誕生祝いを終えていた。少年にとって昭和二十年は戦争が終わった年というより、三人のきょうだいを亡くしたつらい年として心に刻まれた。少年はこの年の二月二十七日に、自分の子守どきのへまで、唯一の弟・敏弘の命を絶った(生後、十一か月)。結局、敏弘は一歳の誕生日を迎えることなく、家族の言う敏弘は誕生日前に歩くだろうという予想をも覆し、短い命を絶った。少年の生涯から、弟を持つ兄の気分は幕を下ろした。少年にとって、弟との生活は短い間だった。だけど、敏弘が味あわせてくれた、兄の気分は最高傑作だった。弟のからだを抱き上げることで、兄の肌身に、弟の感触が伝わった。
 戦地に赴いていた異母三男の利清兄は、戦地から帰らぬ人となった。帰らぬ日となったのは、七月十七日。父は利清兄がフィリピン・レイテ島・ビリベヤ方面で、名誉の死を遂げたという公報を受け取った(独身、二十三歳)。「名誉の死などあるものか!」。父は憤慨した。少年は後日談で母長男の一良兄から、切ない話を聞いている。「利清兄には、戦地に恋人がいたらしい……」。利清兄は、異国の地に若い命を埋めた。
 少年の家には時を置かずに、またもや不幸が訪れた。体つきも性格も少年に似ていたという、母二女のテルコ姉が病魔に攫われたのである(若い身空の十八歳)。病は単なる盲腸炎から腹膜炎を併発していた。テルコ姉は、二日後に終戦となる八月十三日、病床で見守る家族のそれぞれに、途切れかかる声を細く絞り出し別れの言葉を告げた。テルコ姉は少年の手を取って、息絶え絶えに掠れる声で、「しずよし、力強く生きて、わたしの代わりに親孝行をしてね……」と、言った。今、このフレーズを書いている少年の両眼には、こらえきれなく悲しい涙があふれている。父と母はこのとき以来、「テルコは、戦争さえなければ死なずに済んだ」と、言い続けていた。この言葉は、家族に臨終を告げた村中のかかり医院・内田清医師からの受け売りでもあった。内田医師はこの言葉に添えて、「薬さえあれば娘さんは、盲腸炎くらいで死ぬことはなかった!」とも、言われたという。戦争が招いた、哀しい言葉だった。
 敗戦後のことなどわかりようのない少年には、この先の生活など気に懸けることはなかった。しかし、弟、兄、姉と、三人のきょうだいを亡くした昭和二十年は、少年の心の襞につらく悲しい記憶として刻まれた。戦争が終わって国民は、一様に脱力感に見舞われ、さらには悲壮感、疲労感、虚無感などの三竦みの気分にも襲われた。一方で国民は、これまで体験したことのない敗戦国の戦後処理とは、どういうものになるのであろうかという、不安に苛まれた。少年の家にも他家にも悲しみが伝えられて、戦争の傷跡が痛んだ。
 昭和二十年八月三十日、日本国民は神奈川県厚木飛行場で、タラップを下りてくる連合国最高司令官マッカーサー元帥の一挙手一投足に怯えた。敵軍の将は太いパイプをくゆらして、戦いを終えたばかりの適地に悪びれる様子もなく、また凱旋将軍の傲慢ぶりも見せずに、淡々とタラップを下りた。日本国民が懸念していた戦後処理は、敗戦国日本からみれば国民生活に配慮された、望外の温情に満ちたものだった。日本国民はひとまず悲憤慷慨の胸をなでおろしたが、以後七年間にわたり、敗戦を被った占領国の呪縛に耐えなければならなかった。敗戦であっても、ようやく戦争は終わった。夜間、人々の家の電燈からは灯火管制でかぶせていた布切れが外され、裸電球が明るく灯ったのである。

連載『少年』、八日目

 「日本軍、敵機を撃墜せり」。勇ましく始まった太平洋戦争も、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗北により、戦局はしだいに日本の不利に転じた。戦場の不利は精神力と大和魂で覆すのだと煽られ、日本および国民は一層戦意を強めて、日本社会ますます戦時色を濃くしていった。マスメディアは戦地の苦戦を善戦という言葉に置き換えて、まるで勝利者のように進軍ラッパを吹き続けた。マスメディアは国民を有頂天にさせながら、限りない我慢と士気の高揚に努めた。子ども同士の喧嘩であっても、負けを覚悟すれば最後のあがきから、一瞬蛮勇が湧いてきて、自分の勇気と腕力を疑うほどの胆力が出るものだ。この頃の戦況はもはや、それに似ていたのではないだろうか。
 ラジオや新聞で、「勝っているぞ。勝っているぞ!」と、囃し立てれば勝利を願う国民は、たちまち勝利者気分に酔いしれる。社会の木鐸をになうはずの当時の報道には、「嘘を真に」丸めたものが多かった。ところが昭和二十年には、敗戦の色濃いはずのアメリア軍が、忽然と日本本土に爆撃を激化させた。艦載機やB29が飛来し、日本の空に爆音を轟かせた。
 内田村にも、編隊を組む機音が地響きを立てた。南の空、西の空から現れる機影の恐ろしさは、少年を怯えさせ心に焼きついた。少年は綿入りでできた布製の防空頭巾を頭に被り、紐を顎の下で固く結んだ。警戒警報と空襲警報を伝える半鐘の早鐘が打ち鳴らされると、少年は近くの防空壕へ一目散に駆けた。銃後の守りは、戦場における戦意の高揚に重きをなしていた。全国民は、要の兵士の戦意の高揚とエール(応援歌)伝えに躍起となった。女性や子どもたちは竹槍の訓練、そしてまた、千羽鶴、千人針、慰問袋作りに勤しんだ。回覧板は、戦時下にかかわる美談で埋め尽くされた。国民は戦争の実態など知らぬままに、みんなが銃後の守りに営為した。
 一方、空襲や爆撃の多い都会からは恐れて疎開が始まり、辺境の内田村にまで、身寄りを頼り疎開者が来た。少年の家の近くで記憶にある人では、森さんという人が来ていた。精米業を営む少年の家では、他人様の家族構成や家族の人数の増減が真っ先に見えた。ときには見知らぬ人が訪ねて来て、母に「米を分けてください」と、せがんだ。そんなおりの母の応対は、飛びっきり優しく丁寧だった。母はたぶん、わが身に他人様の事情を重ねていたのであろう。少年の家では、異母二男の利行兄が海軍の軍務に就き、三男の利清兄は戦地に赴いていた。だから母は、相身互い身の思いで応対した。
 昭和十九年から二十年にかけては、なお意気軒高な報道とは逆に、戦地はいよいよ敗け戦の状態に陥っていた。少年の父は戦争の結末を案じて、秘かに(もう、降参)の手を上げかかっていた。もとより、父にそれ以上の勇気を望むのは、酷というものであろう。しかし、父がそういう見識をいだいていたことには、少年は父にたいし、十分に敬愛をつのらせることができた。
 アメリカ軍は、一向に白旗を上げず、終戦(敗戦)のシグナルを見せない日本政府に苛立ち、とうとうとどめの原子爆弾を広島市(八月六日)と長崎市(八月九日)に相次いで落とした。そしてこの年、昭和二十年八月十五日、NHKラジオの昼のニュースの中に、昭和天皇陛下のみことのり(玉音放送)を挟んで、終戦(日本の敗戦)が告げられた。
 この日の少年の年齢は、五歳と一か月だった。少年は隣の遊び仲間の子どもたちと、田んぼ脇の小川に入り小魚取りに興じていた。上の兄たちは、近場の「蛇渕」(淵深く、近場にあった人気の水浴び場)で、水浴びをしていたと言う。ところが少年と兄たちは、海軍の軍務半ばで病気になり、自宅療養中の異母二男利行兄に呼び戻されて、縁先に並べられた。軍務という職業柄、無念の表情を露わにした利行兄は、普段の優しい表情を鬼面に変えていた。「おまえたちはこんな日に、遊んでばかりいるな!」と、厳しく叱った。この後では、敗戦の事実と玉音放送の内容を兄の言葉で伝えた。少年は敗戦の悔しさより、兄の厳しい言葉に震えあがった。少年は戦争のとばっちりを受けて、平和な日の訪れを願った。

連載『少年』、七日目

 桜だよりが内田村のあちらこちらから伝わり、村中は花見の宴が佳境になり、にわかに賑わっていた。少年の家の赤ちゃんの誕生は、村人の花見の酒肴には格好の話題となった。「田中井手(少年の家)では、また、子どもが生まれたげな(生まれたらしい)、何人目、じゃろかねえ……よう、もたすばいね」。酒の席で村雀たちは、面白おかしく大笑いしていたはずだ。酒飲みは花より団子で、酒を飲む機会があればバッタのごとく、どこへでも高跳びで飛んで行く。酒飲みには理屈は要らない。金の亡者が金に溺れるように、酒飲みは酒に溺れて、人徳を捨てて野次馬に豹変する。
 赤ちゃんは、敏弘と命名された。少年を仕舞いっ子と思い、兵児帯も使い納めかと思っていた母に、また「おぶ(背負う)紐」が復活した。母が歌う「ねんねんころり、ねんころり」の歌に釣られて、敏弘は母の背中でスヤスヤと眠った。少年ののろまな動作に、かなりの不安を持ちはじめていた頃でもあり、母の目に映る不断の敏弘の敏捷さは際立っていた。這い這いする敏弘を見て、母でさえ最後になってもしや、傑物が生まれたのではないかと、思うほどであった。確かに、庭中を這いずり回る敏弘のスピードには、目を見張るものがあった。敏弘は一歳の誕生日を迎える前に、歩き始めるだろうと、家人のだれもが思った。実際にも敏弘は、ときたま立って歩こうとした。不断の母は精米業の内仕事に追われながら、庭中で少年と敏弘が遊ぶ行動にも目を遣らねばならなかった。
 内仕事のときの母は、いつも背中に敏弘を負ぶっていた。生後十一か月近くの背中の敏弘は重たくて、いつも母の神経は尖って疲れていた。背中に敏弘を負ぶっていた母が、母屋から前掛けで汗を拭きふき、急ぎ足で庭中に独りで遊んでいる少年のところへやって来た。母は「ちょっとばかり、敏弘を見ておいてくれんや!」と言って、敏弘を少年に託し、背中から敏弘を下ろした。母は踵を返して、母屋の中へとんぼ返りした。昭和二十年二月二十七日の夕方の頃、庭中に「魔のできごと」が起きた。母のおぶ紐から解き放された敏弘は持ち前の敏捷さで、チエーンから外された小犬のように、這い這いに勢いをつけて這いずりはじめた。あちらこちらへと這いずり回る敏弘の動きを、少年は恐れた。母に任されて、兄として弟を守る決意に揺るぎはなかった。何度も追いかけては、そのたびに抱きかかえて、庭中の奥へ連れ戻した。しかし、五歳に満たない少年の足は、のろまのうえにまだ頼りなかった。夕陽がさすのどかな庭中は、修羅場に一変した。春とは言え取水溝(内田川の一部を堰き止めて、水車用に設けられた私有の水路)の水はまだ冷たい。流れの先には鉄製の水車が荒々しく回っている。庭中を這って、水車へ流れ込む水路へ向かう弟を兄が追う。兄は弟の後背から、「敏弘、敏弘」と、大声で叫び続ける。兄ののろ足は、限界までに速くなる。しかし、兄の足はとうとう弟のからだを捉えることができなかった。兄の眼前で、弟は水路に落ちた。ドボンと大きな音がして、水しぶきが高く飛び散った。万事休す。荒々しく回っていた水車は、「ゴゴン」と音を立てて、止まった。
 母屋の中から、母が血相を変えて飛んで来た。母は、敏弘を水車の輪っかから引き出し、抱いて母屋の中へ消えた。敏弘の僅かに十一か月の命が断たれた瞬間であった。少年にとって、敏弘との生活は短い期間だった。少年にはたくさんの兄と姉がいて、弟冥利のきょうだい愛に恵まれた。しかし、兄として声をかける唯一の弟・敏弘への愛情は、兄や姉から受けるものとはまったく異なり、格別の和みを少年に恵んだ。それが、断たれた。しかも、自分のへまで、断たれた。少年は、生涯にわたり消えることのない傷を負った。少年は、生誕地に流れる「内田川」をこよなく愛する。しかしながらこのへまがなければ、内田川への思いはもっとさわやかになる。敏弘への罪つぐないは、果たせない。短い間、弟がこの世にいたという事実だけが重たくのしかかり、たえず悲しさが付き纏う。

連載『少年』、六日目

 のちに「少年」に育つ赤ちゃんの母親の名は、キラキラネームには程遠い、奇怪な「トマル」である。すなわち、前田吾一と前田トマルは、少年の父親と母親の名前である。産婆の児玉さんは、おおむね村中の赤ちゃんをひとり手にとりあげられている。児玉さんに産湯を浸かわされた赤ちゃんは、「オギャ」と、ひとこえ泣いた。赤ちゃんはおたまじゃくしのように丸まって、文字どおり赤いからだをこの世に現した。頭だけがバカでかく、二頭身にも満たない。頭部と腹部だけがヒョウタンのように膨らんでいる。
 昭和十五年の世界の空は、戦雲が垂れ込めていた。前年に太平洋戦争が勃発し、翌年には日本も参戦した。日本は昭和十六年十二月八日、アメリカ合衆国の一つ、ハワイ州のパールハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃を仕掛けて、戦端を開き戦時体制に入った。ここを先途に日本社会は、戦線と戦場そして銃後の守りを固めて戦時色を深めてゆく。気休めにも、「赤ちゃんは、良い時代に生まれましたね!」などと言う、時代ではなかった。それでも児玉さんは、「五体満足の、とても元気な赤ちゃんですよ!」と、産褥の母に告げた。「そうでしょうか。それならばいいですけど、まあ、五体満足であれば、それが一番です」。母は張りつめていた気持ちを解すかのような表情で言って、からだを返して赤ちゃんを見遣った。赤ちゃんのからだは骨太で、生まれたての体重は、はるかに赤ちゃんの標準メモリを超えていた。
 父親は赤ちゃんに「静良」と名づけた。彼は父と母の慈愛のもとに、幼児から『少年』へとつつがなく育ってゆく。しかし母の目だけはのちに、少年の動作が尋常でないこと見抜いていた。母が(この子は普通ではないのかな………)と、訝る少年の動作の一つは、食事時に見られた。少年は、よく御飯をポロポロポタポタと零した。もう一つに少年は、床に置く鍋や物にしょっちゅう足を引っかけた。二つとも、少年の注意力が緩慢であったり、散漫であったりする確かな証しだった。(この子は、どこかの神経が切れているのだろうか)。(心身のバランスに破綻があるのであろうか)。母は少年にたいし、こんな疑念をもった。少年は、父の五十六歳、母の三十七歳、時の誕生である。父はすでに、祖父とも言われてもいいほどの年恰好であり、母とてヤングママの呼称など過去に忘却していた。しかし、母の背中におんぶされると少年には、母の背中は楽しい「ゆりかご」となった。
 母の背中はたくさんの子どもたちをおんぶして鍛えられていたけれど、大柄の少年には窮屈なベッドでもあった。少年はまだ固まらない首をもてあまし、背中をカブトムシのように丸めて、母の背中にしがみついた。母は背中の少年の両足をカエルのように曲げたまま、兵児帯で自分のからだに確りと結んだ。その恰好は柴刈りのおりに背負う笈籠のようでもあり、茶摘みに背負う茶摘み籠のようでもあった。確りと結ぶことで母と少年は、離れてはいけない運命共同体になった。
 少年は退屈すると、指をしゃぶった。母の髪を引っ張った。「じっと、しとらんかい! もうすぐ下ろしてやるけんね……」。少年はいろいろなしぐさで、母を困らせた。しかしそれは、あどけない少年が母へ送る、甘い親愛のシグナルだった。少年は洟を垂れては、母の背中に擦りつけた。少年の涎は、垂れるままに母のうなじに流れた。生暖かい涎も冷えると冷やっとして、母の首はブルった。母は父へ嫁いで、子どもたちを産むたびに、こんな情景を繰り返した。
 戦況は少年の成長に合わせるかのように日増しにいっそう激しくなり、日本社会は一足飛びに戦時下の営みと戦時色を強めていった。少年の誕生で母の子育て人生は、打ち止めになるはずだった。ところが、ならなかった。父は六十歳になり、母は四十一歳になろうとしていた。少年の誕生から三年三か月ほど遅れて、少年の唯一の弟が誕生した。名は敏弘である。桜の花が咲く頃の昭和十九年三月三十日のことである。

連載『少年』、五日目

 母は道下の家で生まれた。明治三十七年二月、早田家の一男四女の二女として誕生している。母は井尻集落で生まれて、田中井手集落の前田吾一に嫁いだ。里と嫁ぎ先の間には高木や民家などはなく、ほかにも視界を遮るものは何もない。農家で生まれた母は、庭先から続く田んぼ仕事の合間に、農家を兼ねて水車を営む父の男ぶりを見ていた。少年の母と父は、大正十四年の七月に華燭の典をあげた。このときの母は二十一歳、一方、父は四十歳だった。父には途轍もない若い花嫁だった。母は初婚だったが、父は再婚だった。年齢が十九も開いているうえに父は、先妻のトジュ様との間に生まれ遺した五人の子どもたちを連れて、新郎の席についた。四十歳の子連れ男が、若い花嫁をもらったのだ。母と父は、口さがない村雀たちのやんやの話題になったであろう。少年はこの縁組をだれがとりもったのか? など、知るよしない。
 少年の母は、内田川を挟んだ里の田んぼから、遠目に眼を凝らして田中井手の父の姿をチラチラと見ていたであろう。たぶん、このときの母は、痛々しさに加えて憐憫の情に駆られていたのかもしれない。なぜなら母は、トジュ様の病没のあとに残された父と多くの子どもたちを、かなり不憫に思っていたはずである。それでも、優しい母はそれを承知で父へ嫁いだ。母の立場でかんがみれば、「なぜ? 結婚するの! 同情するのは止めといたら……」と、言いたくなる母の結婚条件だった。少年には父を助けるだけの母の結婚だったら、母がかわいそうに思えたはずである。少年がいくら頭をめぐらしても正解のない、母と父の出会いであり結婚に思えた。
 母は決意して井尻集落から田中井手の父のもとへ、「田中井手橋」を渡った。めでたさの中にあって、大きな賭けみたいな母の結婚だったのである。ところが父は、大きな真心と愛情に優しさを添えて、若い身空を思い悩める母の気持ちを受け止めてくれた。母の賭けは、村雀たちの嘲笑を見返すかのように勝利した。母は田中井手の父のもとで、確かに日々忍びながらも一歩一歩、母の新たな生活を固めていった。
 少年の父は、二度目の結婚だった。父は明治十八年二月、村中の「小伏野集落」で生まれている。少年にとって祖父にあたる前田彦三郎は、長女、二女、そして三番目に父をもうけた。姉二人がいるとはいえ父は、祖父の一人息子であり待望の長男だったのである。父の最初の結婚は二十三歳で、花嫁は近隣の「辻集落」の鶴井トジュ様だった。トジュ様は三つ年下で、二十三歳と二十歳のカップルが誕生した。祝儀の模様や、新居をどこに構えたかなど、少年の知るところではない。少年の生まれる前の遠い、明治四十一年七月のできごとであった。もちろん少年の推察のうえだが新郎新婦は好き合って、甘美な新婚生活をスタートさせたであろう。
 トジュ様は、長男護、長女スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清の五人の子どもたちを産んだ。少年はトジュ様を知ることはなかったが、トジュ様の兄で伯父様にあたる鶴井仁平さんは知った。伯父さんはとても人懐こいひとだった。いつもニコニコ顔の伯父さんを見ると少年は、妹のトジュ様もまた、心根優しい人だったろうと思った。少年にとって異母のトジュ様は、会うことのできない伝説の人だった。しかし、トジュ様が産んだ子どもたち(きょうだい)にかんがみて、母として思いを馳せ、偲ぶことはできる。少年はそうすることで、トジュ様からは「母の愛」を、異母の兄姉たちからは「きょうだい愛」を授かっていた。血のつながりはなくても、異母きょうだいを通して母親と子の縁はある。
 少年にとって、二人の母の愛情に耽れることは嬉しいことだった。二人の母は、宿命のように父を愛してくれた。父は、二人の母の愛に応えてくれた。その証しには父と二人の母の生活、異母と母がつないだきょうだい愛に、少年は十分にそれをみとれるものがある。母はトジュ様が遺した子どもたちを慈しみ、みずからも多くの子どもたちを産んだ。それらの名は、長女セツコ、長男一良、二女テルコ、二男次弘、三男豊、四男良弘、五男静良(少年)、そして、最後尾は六男敏弘である。少年は、昭和十五年七月十五日、呱呱の声を上げた。内田村においては、七月盆のさ中である。

連載『少年』、四日目

 少年の家のある所を村中では、「田中井手集落」と、呼んだ。田中井手集落には少年の家を含めて、四、五軒があるにすぎなかった。隣家とはくっついていたが、ほかは飛び飛びにあった。先に書いた、マキさんの家もその一つだった。きわめて小さな集落である。ところが、むかえの田中正雄さんが豪壮な家造りで権勢をもたれていた頃には、その一軒で人が寄り合いいつも賑わっていた。茅葺きの多い村中にあって田中さんの家の屋根は、分厚い瓦葺きで巨大な二階建てだった。二階には宴会場があり、富山県から巡って来る配置薬の人の一夜泊まりにもなっていた。一階では、よろずや風の商いをされていた。産交バスの定期路線・「山鹿市―内田村」間にあってここは一時期、内田村の終発着所になっていた。少年の家の隣は、古家さんと言った。
 少年の家と隣の家は、家の間に共同で水車を回し、どちらも精米業を営んでいた。田中井手集落から県道を上方へ進めば、内田川を越える「田中井手橋」がかかり、着けば矢谷集落になる。その先も県道は一本道で、いくつかの集落を越えて山道に入り、熊本県と大分県の県境をなす峠へ向かう。下方へ進めば「仏ン坂」を越えて、はるかに遠い来民町、山鹿市の街中へと向かう。夕闇が迫っていた。少年は空腹をおぼえた。夢中で野山を歩き回った。薄闇になり、仏ン坂が気になった。母の顔が浮かんだ。仏ン坂を下れば、少年の家は近くなる。少年は、わが家へ向かって急いだ。なぜならこのあたり一帯は、坂の名前から連想して普段から、少年にかぎらず子どもたちを怖がらせていた。特に夜間など、子どもたちは通りたくない道だった。県道とはいえ舗装はなく、小石が転がり、砂利が剥き出し、あちこちに穴ぼこがあった。バスが通ると砂埃が舞い上がり、一瞬視界を遮った。県道沿いには、田中井手橋の下から取水した農業用水が小出をなしていた。小出の脇には笹が生い茂り、葉擦れの音を「ササ、ササ、サササッ」と、震わした。足元で崩れる砂利の音、自分の足音、夜の静寂にあってはすべての音が、仏や幽霊を思わせた。夜に歩くと少年は、恐怖心にとりつかれた。臆病というより、少年には未だ、物音がもたらす恐怖心を払う、知恵や勇気が育ってなかった。少年の心は怯えた。物音は全部、仏や幽霊の声のような気がした。
 昼間であっても仏ン坂だけは、一目散に走った。いっときも早く、通り抜けたかった。ただ、自分が走ると、仏も幽霊も一緒に走っているように感じた。少年は、なお夢中で走った。左前方にわが家と隣の明かりが近づいた。仏ン坂を下りきると県道の脇から、石ころコロコロの狭苦しい石がら道になった。この道を踏めば、わが家までは100メートル足らずである。この道に辿り着けば恐怖心は去り、少年の心はようやく普段精神状態になりに和んだ。母が、「遅かったばいね!」と言って、毬栗頭を撫でた。
 母の里は矢谷集落からやや離れた「井尻集落」の中にある。母の里の家は、田中井手の少年の家から見遣れば、内田川を挟んで川向こうに見える。直線的に測れば200メートルほどである。しかし、少年の家の裏からは川橋がないため、川を渡って行くことはできない。だからいつもの母は、県道にかかる「田中井手橋」を渡り矢谷に着き、さらには左に回りしばらく歩く。やがて、また左に逸れて小道へ入る。遠回りというよりこの正規の道を踏めば、この間は500メートルほどである。井尻集落には、上の家、下の家と呼ばれる、二軒の家が建っていた。

連載『少年』、三日目

 少年の家から100メートルほどの先には、往還(県道)を挟んで同じ「田中井手集落」に住む、古田マキさんの家があった。マキさんは、少年には訳知らずの独り暮らしだった。庭の一角には裏山の地中から、冷たい山水が滾々と湧き出ていた。特に夏休みにあっての少年は、バケツを両手に提げて、ほぼ毎日もらい水に出かけた。「ごめんください。水をもらいに来ました」と大声を上げて、勝手に汲んだ。道々、溢れ出る水を零しながら持ち帰った。冷たい山水のもらいは、ソーメンを冷やすための、母への家事手伝いだった。
 隣家の遊び仲間の子どもたちも勝手に汲んでは、これまたほぼ毎日持ち帰った。少年から見るマキさんは、もうかなりのお年寄りだった。そのうえ独り暮らしのせいか、家の中はいつもひっそり閑としていた。少年はマキさんのお声で、「はい、自由に汲みなっせ……」という、許しを得ることはなかった。家の庭中には、時季物のニガウリがぶら下がっていたり、赤茶けたカボチャが転がったりしていた。家の周囲には、わが家や隣家にはない、高木の梨の木と枇杷の木があった。台風や大風のときには、少年と隣家の子どもたちは共に納屋奥にしゃがんで、落ちるやいな脱兎の如く拾いに走った。
 マキさんの家の裏山へ登ると、山下集落の人のクヌギ林があった。林の中には、青空に白煙たなびく炭焼き窯があった。少年は、いくつかのクヌギの幹を強く足蹴りした。クワガタがパラパラと、足もとの笹藪に落ちた。笹藪を分けて拾い上げると、クワガタは鋭い角をぎりぎりに立てて抵抗した。それでも少年は構わず、クワガタの角間に小指の先を入れた。少年は、クワガタの角の力を試してみたかったのである。クワガタは死ぬ物狂いで、少年の指先にくらいついた。「痛てて……」、少年は慌てて手首を強く振った。クワガタは少年の指先から離れて、笹藪のどこかへ飛んだ。少年の指先には、出来立てほやほやの鮮血が滲んだ。少年は、バカなことをしたことを悔やんだ。
 少年は、秋にはドングリを拾った。椎の木の下では、炒って食べるために椎の実を拾った。雑木林の中では、蔓を頼りにして山芋を掘った。あちこち探し回して見つけは、山柿、山ぶどう、木通(アケビ)、郁子(ムベ)などを千切って食べた。少年は、山の冷ややかな空気もたくさん吸った。里山は少年の家からごく近くにあり、突っかけ草履でも登れるほどに馴染んでいた。クヌギ山に入らず左に曲がれば、狭い段々畑が二、三枚あった。そこには季節を変えて、サツマイモ、アズキ、ジャガイモ、エダマメ、トウキビなどが植えられていた。
 マキさんの家の脇には一本の往還(県道)が走り、一日に何往復かの定期路線バス(産交バス・九州産業交通)と、馬車引きさんが引く馬車の主要道路を成していた。村人はそれらが通ると路肩へ寄り、通り過ぎるまで道を空けた。
 里山の奥に入ると谷あいには一か所、小さな溜まりがあり、山鳥たちの格好の水浴び場となっていた。同時にそこは、少年にとっても、とっておきの場所だった。溜まりにはメジロやウグイスなどが、水浴びに舞い降りた。少年はそれを狙って、長く飼い慣らしている愛鳥のメスのメジロを囮(おとり)に入れたメジロ籠を、溜まり近くの小枝に吊るした。メジロ籠には、鳥もちを満遍なく塗ったくった細木を差した。鳥もちのついた細木の先には、小鳥が好む熟柿やツバキの花をすげた。仕掛けを終えると少年は、20メートルほど離れた高木の陰に身構えた。メジロが鳥もちにバタつくとドドッと駆けて、神妙に鳥もちから外した。メジロはともかく、利口なウグイスは少年だけでなく、隣家の遊び仲間の子どもたちのだれにも、たったの一度さえ捕らえることはできなかった。腹いせに子どもたちと呼び合うウグイスの名は、「バカ」となっていた。

連載『少年』、二日目

 少年の家は、内田川の川岸に建っていた。川をじかに背負っていた。家は山背に建てば、四季折々の山の移ろいが楽しめる。そのぶん、山崩れが隣り合わせにある。川背に建てば、春先の水面の陽炎に目を細めて、瀬音に身を委ねることができる。だけど、洪水の恐怖に慄くこととなる。
 少年の家は内田川の水量を頼りにして水車を回し、精米業を営んでいた。内田川が精米業を恵んでなりわいが立ち、大勢の家族はつつがなく暮らしていた。矢谷、滝の下、二又瀬、深瀬などにも水車が回っていた。水車の音は、のんびりと「コトコト、コットン」とか、「ゴットン、ゴットン」ではなく、轟音を唸らして速回りをしていた。水車の回転は水量の加減で変調し、水量しだいで速くも遅くもなった。いっときも家族は、水車の音に気を懸けていた。戸外の取水口には、水量調節機能の「さぶた」がしつらえてあった。水車の回転音に変調を感じると少年の母は、矢玉のごとく飛び出し、一目散にさぶたの所へ走った。
 水車の家内仕事は、主に母の役割だった。水車は、母の動きと手捌きで回っていた。少年の母は、水車番の家中のエンジニアであった。母は大家族を支え一方では、せわしなく回る精米機や製粉機などをエネルギッシュに操っていた。母の働きぶりを見る少年は、母は何に憑かれてこんなに働くのだろうかと、思った。母の左の手首には、大きな傷痕があった。それは少年に記憶が芽生える前に、製粉機のベルトに巻き込まれたおりのものと言っていた。大参事なのに、少年には母の事故の記憶はない。しかし、いつもの母は、怯むことなく、働きどうしだった。少年は、このことだけでも「母は強い」と、実感した。
 水車は大水の日などでは恐怖まじりに、真っ先に村人の口の端にのぼった。どこどこの家が水に浸かったとか、もう危ないとか、村中の被害状況は一番先に、あちこちの水車の家から伝わった。その証しに地区の消防団は、先ずは水車の家に見張りに張り付いていた。
 周囲の山並みは、少年の心を離さなかった。はるかに望む連山の風景もあれば、庭先からちょっと入るほどに近い里山もある。内田村は自然界の織り成す山・川のなかにあって、村人は農山村の産物で暮らしを賄っていた。少年にとって山は、風景を愉しむ山と、生活の場としての山に、分かれていた。眺望を愉しむ山は、東方遠くに県境の峰を望み、近くには里山の雄「相良山」を眺めていた。
 少年の家から相良山は、内田川を挟んでいた。川向こうには、川岸伝いに平坦な田んぼが連なっていた。やがて田んぼは狭隘な畑地へ変わり、その先はなお狭い段々畑の重ねを成していた。段々畑は、相良山の山裾へせり上がっていた。相良山の裾野は地元・相良地区共有の村山を成し、人工の耕地となり一面、栗林になっていた。遠峯の稜線は主に国有林の杉林になり、下る所の合間には孟宗林が混じり、空の色と山の色をくっきり分けていた。
 少年の家から眺める相良山は、典型的なおむすび形で、里山の風情を漂わせて、少年、家族、村人を和ませていた。生活の場の山は、少年の家が加わる近くの山下集落の山だった。ここにもまた、この地区の共有林があり、シイタケ目当てのクヌギ林と、炭焼きや薪取り用の雑木林が山を成していた。竈(かまど)の薪(たきぎ)は、ほとんどこの共有林から取り、ようよう背負って、ヨロヨロと持ち帰った。

連載『少年』、一日目

 4月24日(月曜日)、ほぼいつもの時間に目覚めて、起き出している。しかし、現在の心境は、普段とは様変わっている。わが人生は、すでにカウントダウンのなかにある。未来はなく、過去にしがみついても、もはやいっときである。私は聖人君子ではなく、やはり心寂しいものがある。私は定年後の有り余る時間を考慮して、定年(60歳)間近になると、文字どおり文章の六十(歳)の手習いに着手した。手元には何ら資料(記録)もなく、浮かぶままにほぼ一日がかりで、書き殴りの文章を書き終えた。ところが、苦心したことがもったいなくて、全国公募誌に応募し、急いで最寄りのポストへ投函した。すると、2000年2月・第234号の目次にわが名を見つけた。そして、こんな表彰に浴していたのである。第72回コスモス文学新人賞奨励賞(ノンフィクション部門、「少年」(99枚)、前田静良 神奈川県。
 「ひぐらしの記」には場違いなので、私は大沢さまにお許しを請うた。私は2000年9月に、六十歳で定年退職をしている。焦る気持ちで、『少年』を読み直し、身勝手にもこの先長く、連載を決めたのである。これまで私は、だれも読まないたくさんの文章を書いてきた。もちろんこのたびの連載も、読む人はいない。しかし、わが文章手習いの原点であり、余生短いための焦燥感もある。心して、『少年』の連載のお許しを願うものである。
 『少年』、連載一日目である。
 内田小学校一年生になったばかりの少年は、わが家に向かって石蹴り遊びをしながら帰っていた。いつ帰り着くやらあてどもない。緊張した入学式から日が経って、少年は学校生活に馴染み始めていた。石がコロコロと転げた。転げて、道路の路肩の草むらに止まった。少年は大きく息を吸った。また少年は、石を蹴った 。追っかけて走ると、背中のランドセルがカタカタと鳴った。ランドセルは、まだ少年の背中に馴染んでいない。少年が走るたびに、ランドセルは上下左右に跳ねて、よそごとのようにソッポを向いた。
 蹴った石が、こんどは遠くへ飛んだ。昼間の「仏(ほとけ)ン坂」は、少年の家が左手に見えて、少年から恐怖心は取り除かれていた。一年生の帰りを待つ母の顔が浮かんだ。少年は気ままに石を蹴って、わが家との距離を詰めていた。そのたびにランドセルの中で、真新しい教科書は、あちこちへぶつかった。教科書は少年の遊び心に、とばっちりをこうむった。
 昼下がりを歩く少年の下校姿は、眠気を誘うほどにのどかである。少年の目に太陽の白い光が、石がら道に照り返り、少年はまぶしさで目の上に手をかざした。「内田川」の川面に沿って、村を貫く一本の県道がくねくねと曲がっている。少年の家と学校を結ぶ通学路は、この道以外にほかにはない。周囲を山並に囲まれた、当時の熊本県鹿本郡内田村(現菊鹿町)は、山背の鄙びた農山村の佇まいを見せていた。
 内田村は県の北部地域に位置し、遠峯は熊本県、福岡県、大分県との県境をなしている。現在の菊鹿町は、旧内田村、旧六郷村、そして近隣の菊池郡旧城北村のとの三村合併のおりに菊鹿村となり、十年後に町名に変えたものである。村の中央には一筋の川が流れていた。村人は、内田川とも、「上内田川」とも、呼んでいた。山あいから流れる川は、蛇行を繰り返してその先は大海へ向かう。内田川は途中、菊池川に呑み込まれて川の名を消して、有明海へとそそいでいる。
 村の南に開けた鹿本・菊池平野は、平野とは名ばかりで、狭い盆地の中に田園風景を広げていた。北の山部に向かっては、猫の額ほどの段々畑が重なり合い、山裾を踏めば奥深い国有林へと連なっている。村には自然界の息遣いだけが聞こえて、人の暮らし向きはひっそり閑としている。

御礼

 平洋子様。お義母様(恩師)の近況報告と元気なお姿(写真)を賜り、感謝にたえません。ありがとうございました。この先は、恩師がうら若い受け持ちの頃の呼称、「渕上先生」で記します。心中に根づいている懐かしさを、いっそう強く蘇らせるためです。渕上先生のお母様は、わが母の里・矢谷集落における、共に生涯にわたる幼馴染の仲の良い同級生でした。生誕地はいくらか離れて、お母様は尾上地区、わが母は井尻地区です。わが記憶によればお母様のお名前は、「たか子様」だったと思います。しょっちゅう母が、「たか子さん、たか子さん」と、言っていたと記憶しています。記憶間違いであれば、御免なさい。さらには、渕上先生とわが長兄は同級生、これに留まらず四兄にも、仲の良い同級生がおられました。お名前は、こちらは間違いなく、「たえ子様」でした。私の知るお母様、渕上先生、たえ子様は、村一番の美人系で、名を馳せていました。このまえお電話したおりの洋子様は、こうお話されました。
「義母が里へ行ってみたいと、言ってます」
 私はこう応えました。
「お里は、尾上ですね。ご実家は、長い上り坂の右脇にありました。そこは、精米済の米の配達のおり、最も汗をかいて立ち止まり、二人で一息ついたところです」
 四兄が米俵を積んだリヤカーを引き、私は後ろから懸命に押していました。私は、(渕上先生、おられるかな?)と、四兄は(たえ子さん、おられるかな?)と、期待を弾ませて、チラッと家の中を見遣っていました。
 洋子様、今度は渕上先生の願いを叶えてやってください。たぶん、無理かもしれません。もし、叶えられたら、身勝手ながらまた、ご投稿文をお願いします。末尾になりましたけれど、早々の「タケノコ、ふるさと便」を賜り、重ねて御礼申し上げます。柔らかで滋味強く、鱈腹食べました。揮毫の掛塾は、名人・ご主人の作ですね。生け花、鯉のぼり舞う、ふるさと風景もいいですね。添えられている写真のすべてを目を凝らして、篤と眺めています。