ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

昼間書きの文章

 6月25日(日)、四囲の窓ガラスのすべてを網戸に変えた。すかさず、ウグイスの鳴き声が「ホウー、ホケキョ」と、頻りに耳穴に入ってくる。騒がしいと言うと罰が当たる。いや、千金はたいても買えない、無償の贈り物である。夏至が過ぎればやがてウグイスは、人の声に「老鶯(ろうおう)」呼ばわりされる。そして、セミが鳴き出せばこんどは、「あれ、ウグイス、まだ鳴いているの?」と、気狂い呼ばわりされる。ウグイスは、まだ鳴きたい声をしかたなく抑えて、鳴き止める。だから、この時期のウグイスは期限付きに余計、人懐っこく鳴き続けるのであろうか。それとも欲深くウグイスは、私に同情と憐憫の情をせがんでいるのであろうか。
 醜い姿を隠さずにいられないことでは、ウグイスと私は似た者同士である。しかしながらウグイスは、生来、人が羨む美声に恵まれている。この点ではウグイスは、何らの特徴も有しない私より、はるかに長く生きる価値がある。それなのに、セミが鳴き出すとそれまでの恩恵など顧みられずに、翌年の春先まで忘れ去られてゆく。そののちのウグイスの命の成れの果てなど、もちろん私は知る由ない。
 まるで、盛りの梅雨空を忘れたかのように大空から、のどかな陽射しが空中と地上にあまねくふりそそいでいる。雨に打たれ続けて、小枝を曲げてうつむいていたアジサイは、いくらか背筋を伸ばし、花をもたげて一息ついている。これまで、ほぼ閉め切っていた部屋の中には、網戸からいくらか湿り気を落とした風が通り、沈んでいたわが気分に心地良さを恵んでいる。頭上の風鈴がチリンチリンと鳴り、梅雨明けを待たずとも、いっとき夏気分にひたれている。
 昼間に文章を書けば、眠気眼と執筆時間に急かされての書き殴りは免れる。それよりなにより、ゆったりとした心の安寧に恵まれる。それゆえに、昼間書きが定着してほしいと思う半面、明け行く空の描写と、厳かな朝の気分を味わうことはできない。どっちもどっち、私は自然界の恵みに生かされている。
 ウグイスは、暮れ行く頃まで鳴き続けるであろう。お礼返しに庭中に最高等級の米をばら撒いても、コジュケイのようには山から飛んでこない。醜い風貌を持つ、ウグイス固有の孤独な宿命の証しであろうか。鏡面に写るわが醜面を眺めて、私も(隠れたい!)思いを重ねている。ひねくれて、美声を持つウグイスへの憧れは尽きない。梅雨の合間の、のどかな昼間にあって、一コマの戯れの文章を書いてしまったけど、昼間書きの文章の気分は悪くない。

「夏至」における嘆き

 「夏至」(6月21日)が過ぎれば夏が訪れる。夏が過ぎれば秋が訪れる。「立冬」(11月8日)を挟んで冬の季節になると、「冬至」(12月22日)が訪れる。この間の7月には、年齢を重ねるわが誕生日がある。半年ごとの季節のめぐりは短く、毎年、心が急かされている。ところがこの先は、焦る心になおいっそう拍車がかかることとなる。おのずから今より、季節感に浸る気分もまた、いっそう殺がれること、請け合いである。
 夏至と冬至、この相対する季節用語は、このところとみに私の気分を苛立たせるようになっている。もちろん、かつての私はこんな気分にはならなかった。いやむしろ、この二つには途轍もなく気分が和んでいた。夏至の場合はわが好む夏が近くなり、足早に過ぎてもこんどは、秋の夜長を十分に楽しめる。冬至の場合は、我慢の一冬さえ越えれば、確かな春の季節が訪れる。しかし、年齢を重ねた現在の私は、悠長な気分にはなれずに、こんななさけない心境をあからさまに吐露している。人間心理とはこうも変わるものかと、ひたすら呆れかえっている。
 梅雨明け間近の昼下がりにあって、穏やかな気分になれず、「夏至」が過ぎて苛立つわが嘆きである。確かに、季節の速めぐり感に脅かされて、齷齪(あくせく)するのは愚の骨頂、トコトン馬鹿げている。しかし、人生晩年においては避けられない、人ゆえの切ないさだめである。寝起きとは違って昼日中に、再び「夏至」にちなんで書き留めた文章である。

「夏至」過ぎていて、慌てて書く

 6月23日(金)昼間、NHKテレビは、78回目の「沖縄・慰霊の日」にかかわるニュースを盛んに報じている。毎年、同じようなニュースの繰り返しだけれど、実際には現地の風景を変えている。なぜなら、沖縄戦の記憶を伝える人たちは、年年歳歳減少するばかりである。すると、残された者がそれを知るには、記録にすがることとなる。しかしながら記録だけでは、沖縄戦の実相を知ることはできない。戦争の厳しさはやはり、体験ある者が伝えなければならない。このことを肝に銘じて私は、後がない思いで神妙に、つらいニュースを見聞きしていた。
 午前中はまだ、このところの悪天候を引き継いでいた。ところが、しだいに日光がさしはじめた。私は濡れていた道路の渇きぐあいを待った。(よし、掃けるぞ!)。私は掃除の三種の神機(箒、塵取り、半透明のビニール袋)を携えて、すばやく道路へ向かった。1時間ほどかけて、綺麗に掃き終えた。この間、山のウグイスは、わが姿を見て安心してくれたのか、うれしくなったのか、歓迎の鳴き声を高らかに奏(かな)で続けていた。山の法面に沿って長く横列に並んでいるアジサイは、帯びていた露玉に光をあて返してひときわ輝いた。
 このところの私は、「ひぐらしの記」に連載物を書き続けていた。そのため、季節の日めくりを遠のけて、可惜(あたら)季節感から遠ざかっていた。だから、きょうの私は、久しぶりに心地良い季節感を味わっている。季節感忘却の筆頭はこれである。すなわち、「夏至」(6月21日・水曜日)という、文字を書かずに梅雨明け、そして夏日へ向かうところだった。
 人間にとっていや私にとっては、季節感を失くすことは、「生きる屍(しかばね)」同然である。確かに、ぼろ家のわが家では、ゴキブリ、ムカデの這い回る季節ではある。だからこの季節、必ずしも手放しに喜べるものでもない。だと言って季節感を失くして、いたずらに時が過ぎゆくのはもったいなくて、元も子もない。

無題

 パソコンを起ち上げた。ところが、書くことがなく、休もうと、閉じかけた。すると、私を助け、「ひぐらしの記」の継続を叶える、出来事が浮かんだ。とうとう、多くのきょうだいの中で、生存者は私一人だけになった。寂しさ、無限につのるものがある。「捨てる神あれば拾う神あり」。突如、LINEの中に、こんなチーム名が誕生していた。それは、「前田チーム、静良叔父ちゃんを励ます会」である。メンバーはとりあえず、首都圏に住む、甥と姪たちが主である。出来立てであるのに、10名のメンバーが記されている。二兄(東京都国分寺市)にかかわる甥2名、姪1名、都合全員で3名。三兄(東京都昭島市)かかわる甥全員で2名。四兄(東京都国分寺市)にかかわる甥1名、姪1名、義姉1名、都合全員で3名。私にかかわる娘1名。私。都合全員で2名。ここまでのメンバーで10名である。妻はまもなく入会するはずだ。とりあえずと書いたのは、ふるさとの長姉と長兄にかかわる、甥と姪へも入会が呼びかけられている。加えて、私より年上になる異母長兄の姪3人と甥1人。さらには異母長姉の甥2人も、呼びかければすぐに入会しそうである。これらには子・孫あるいはひ孫のいる家庭を持つ者もある。みんな、わが父、異母、そして母との繋がりの一員を形成している。とりあえずの10名は、メールのやり取り盛んに、私の励ましにおおわらわである。
 きょうはこんなことを書いて、継続の足しにしておしまいである。恥晒しではないけれど、かたじけなくおもう。私は、死ねなくなっている。文章とは言えそうにないから、題はない。

おっちょこちょこの人生

 パソコンを起ち上げて、のっけから電子辞書を開いている。「徳俵:相撲で、土俵の東西南北に、俵の幅だけ外側にずらしておいてある俵」。力士にすればオマケの俵である。だから、徳俵と名がついている。これくらいの説明書きがなければ、電子辞書の価値はない。徳俵のことはどうでもいいけれど、文章の都合上、冒頭で徳俵の由来を記したのである。わが人生はオマケの「徳俵」さえ踏んでしまい、いよいよ後がない。
 きのうは下歯に詰めていた岩石みたいな詰め歯が、まるで西の空の日没を見ているかのように静かに外れた。このため下歯は、前歯周辺の何本かを残して、左右には噴火口みたいな旧い穴ぽこに加えて、新たな穴ぽこが並んだ。上歯はすでに詰め歯がとれていて、いたるところが穴ぽこだらけになってしまった。歯医者嫌いで、これまでは痛みが出ないかぎりほったらかしにしていた。しかし、きのうの下歯の詰め歯の外れは、「万事休す」、と宣告を受けたのである。上下すなわち、歯並び全体が「穴ぽこ」だらけになり挙句、大好きな御飯さえ(もう、食べなくてもいいや)と駄々をこねて、敬遠する状態になりつつある。
 すわ! これでは歯どころか、「命」が一大事だ! と、慌てふためいて私は、間遠になっている掛かりつけの歯医者に予約を入れた。そのとき決められた診察時間は、きょうの午後2時である。運よく修復できるのか。それとも運悪くもはやお手上げで、また穴ぽこのままにほったらかしにし、やがて訪れる痛ささえ我慢して、自然死まで耐えるのか。きょうは、わが生来の優柔不断の決断をどちらかに迫られる日になりそうである。もちろん診察を終えるまでは、わかりようはない。ただ、残存のわが命に突然、大きな出来(しゅったい)が生じたことだけは明白である。
 もう一つ、知りすぎている言葉だけど、電子辞書調べをした。「パンク:①自動車や自転車のタイヤのチューブが破れること②物が膨らんで破裂すること③適量を大幅に越えて機能が損なわれること」。調べるまでもない言葉なのにあえて、電子辞書を開いたのは、これまた文章都合上のためである。そしてそれは、電子辞書の説明書き③の記述に該当する。私の歯、いや体全体は、徳俵でこらえてももはや、後がないパンク状態にある。あすと言わずきょうにも、息の根が止まりそうである。いよいよ私は、人生の総括をしなければならない焦燥感に見舞われている。確かに私の体は、歯のみならず日に日にどこかの不良をいや増し続けている。ところが、わが体の不良や衰弱ぶりばかりではなく、身内、友人、知人の訃報は途切れることなく続くようになり、おのずからわが気分をむしばんでゆく昨今(さっこん)である。
 三度目の電子辞書すがりは、これまた知りすぎているこの言葉である。「昨今:きのうきょう。この頃」。わが体いや命は、焦眉の急に脅かされている。大袈裟に書いたけれど、創作文(虚構)の真似事をしたまでのことである。こんな文章など身のため、書かなければよかったのかもしれない。しかしながら、書かないと文章は、きのうで頓挫の憂き目を見たことになる。継続とは恨めしいかぎりである。継続は世に言う、わが人生に力を与えてくれているのだろうか。
 梅雨とアジサイの季節は、私にとっては物憂い季節である。ただ、きょうの診察しだいでは、すぐに明るくなることはある。表題は「おっちょこちょこの人生」でいいだろう。

人生終盤における、一つの述懐

 現在の私は、人生の最終盤を生きている。来月7月には83歳になる。最終盤というより、余命はほんの僅かである。この間の私は、もちろん仕事ではなく、趣味でもなく、ただいたずらに四半期を超える長い間、文章を(作る、書く、生む、綴る、紡ぐ、記す)ことの一つの行為を続けてきた。いや私の場合は、その序の口とも言える文章を作る(作文)ことに甘んじてきた。作文とは、与えられた課題やみずから気ままに選ぶ自由題を浮かべて、文意に添って語句(言葉と文字)を連ねて、文章を完成させることである。難しく書いてしまったけれど、もともとはそんなに難しいものではない。なぜなら、就学し立てにもかかわらず、小学校1年生と2年生の頃には「綴り方教室」の時間があり、書けない者などだれもいなかった。すなわち作文は、習い立ての語句を用いさえすれば、文字どおり十分に作れるものである。
 文章は語句の習得が増えるにつれて入り組んで、見栄えが良くなるところはある。換言すれば確かに、見た目、読む意、共に華やかにはなる。ところが、必ずしも語句が多く見栄えの良い文章が上手で、良質とはかぎらない。なぜなら、肝心要の文意がごちゃごちゃなら文章にはなり得ない。結局、文章は文意に添って単純明快に、できれば最も適語を嵌め込む作業である。そしてこれこそ、上手く良質の文章と言えるものである。もちろんこんな、当たるも八卦当たらぬも八卦の文章論など、六十(歳)の手習いさえ未完成の私が語るべきことではない。
 ただ、四半期を超える長いあいだ文章を書き続ければ、何か一つぐらい学びたいものではある。するとこのことは、たった一つだけの体験上のわが学びと言えそうである。しかしながらこれでも、私には易しいとは言えず、難しいところだらけである。繰り返しになるけれど作文は、まずは文意を浮かべること、次にはそれに添った語句を浮かべることである。これが叶えられれば作文は、見事という飾り言葉を付されて完成する。だから私は、このことだけを意に留めて、文章を書いてきた。そして、「綴り方教室」における作文同様の文章は書けたと、自負するところはある。しかしながら私には、種無しからネタを作るすなわち無から有を生じる創作文は書けない。そのため私は、常に文意を浮かべるネタ不足に見舞われて、いつも同じような文章の書き殴りに甘んじてきたのである。挙句、ネタに新味がなく、私自身書き飽き嫌気がして、このところは一気に疲れがいや増している。
 おのずから文章書きは、終焉のドツボに嵌まりそうである。なんでもいいから書かなければならない継続文は、やはりわが凡庸な脳髄には荷が重すぎて、トコトン恨めしいかぎりである。私の場合、継続は力というより、自分虐めの総本山になりつつある。総本山? 適語とは思えないけれど、これに替わる語句が浮かんでこない。もとより私は、望んでも叶わぬ熟練工(練達)は望まない。しかし、せっかく長く書いてきたのだから、できれば見習工(初歩技術)くらいは修めて、疲れ癒しにあの世へ急ぎたいものである。

人生行路における「不運と幸運」

 「合格証書一級前田静良 あなたは文部省認定平成八年第三回漢字能力試験において頭書の等級に合格したことを証明します。平成九年二月二十四日 財団法人日本漢字能力検定協会理事長大久保昇 第九六三00000六一号」。私の人生行路における文章書きにかかわる不運は「三日坊主」より生じて、のちのち後悔と祟りに苛まれ続けている。何度か日記を試みたけれど、そのたびに三日ともたずに挫折を繰り返し、断念の憂き目に遭遇し続けた。もし仮に日記が続いていたら六十(歳)の文章の手習いにあって、おぼつかない脳髄の記憶頼りにならないで済んだはずだと、いまなお悔み続けている。「後悔は先に立たず」と「後の祭り」の同義語を重ねて、至極残念無念である。
 冒頭の認定証は、定年(平成12年)後のありあまる時間を危ぶみ、かつそのときのわが日常生活をおもんぱかって、やり始めた確かな証しとして用いたものである。すなわち、わが本棚の上に置く、埃まみれの額入りの日付証明書である。これを見て顧みるとわが文章書きの手始めは、定年を間近に控えた4年前の頃からである。
 一方、私の人生行路における文章書きにかかわる幸運は、街中の本屋における「無償の立ち読み」からもたらされている。具体的には漢字検定一級への挑戦は、勤務する大阪支店における単身赴任のおり、大阪・梅田の「紀伊国屋書店」の立ち読みが発意である。書棚の雑誌を手にとりめくりながら、(これくらいなら、自分もできるかな?)。初受験にもかかわらず下級を飛び越え、最上位級(一級)を受けて一発で合格できたものである。もう一つの幸運は、買い物の街・大船(鎌倉市)に在った本屋の立ち読みから生じている。雑誌コーナーに競い合って並んでいたものから、一つの雑誌を手にとりつらつらとページをめくったのである。そして、出合ったのは「日本随筆家協会」(神尾久義編集長、故人)と、そのときからのちのち現在にいたるまで厚誼を賜り続けている「現代文藝社」(主宰大沢久美子様)である。
 結局、定年後を見据えたわが文章書きは、「不運と幸運の抱き合わせで」で発端を成している。そのスタートラインは平成8年(1996年)頃、そして現在は令和5年(2023年)。長いなあー、能無しの私は、疲れるはずである。

 父は先妻を喪い、後添えに母を迎えて、二人の妻から生まれた14人の子どもたちを養い育てた。そして、戦争が終わった昭和20年8月15日から15年後、父は昭和35年12月30日に他界した(享年77)。それから25年後、母は昭和60年7月15日に亡くなった(享年81)。母の枕辺を、子どもたち、孫たち、親類縁者たちが囲んでいた。母は常々、「おとっつあんが良か人じゃったけんで、自分は幸せじゃったもんね」と、言っていた。奇しくもこの日は45年前、母が私を産んだ日であった。また、七月盆のさ中にあり、異母と自分が産んだ子どもたちのみんなも、御霊の父に付き添って枕辺にそろっていた。母はこの日に、みずからの祥月命日を重ねるという、離れ業をやってのけたのである。
 今や私だけが生き残り、親、きょうだいを偲ばなければならない役目にある。私の脳裏には、大学に合格したことを伝えるために帰郷したおりの、やつれた病顔に笑みを湛えた父の温和な眼差しがよみがえる。―自分の中では、父はいつまでも元気なままの姿で生き続けているー 私には、この思いがあらためて膨れ上がっている。父の葬儀へ参列しなかったことへのわだかまりなど、些細なことのように思えている。一方、父のことを和んだ表情で話す、皺を重ねた母の潤んだ目元がひときわ懐かしくよみがえる。そしてこれらは、幼くして命を絶った唯一の弟・敏弘を父と母に替わって、いつも思い続けてやることで、(敏弘のぶんまで生きるんだ!)という思いを一層、私に強くつのらせる。文章を書くかぎり、(もう、書き厭きた)などとは、言ってはいけない思いが、ひしひしと私を責め立てる。だけど、疲れた。謝っても謝り切れない胸の痛みは、もはや私だけである。「鶴は千年、亀は晩年」。だけど、「生きとし生けるもの」、命尽きぬものはない。

連載『自分史・私』、22日目、中途完結

 私は苦慮している。とても、後悔している。自分史とは、自分の記憶や記録を書き留めているものであり、もちろんブログ等で公開する読み物ではない。私日記のように書き留めて置けば済むものである。ゆえに自分史は、書き殴りであろうと、雑多なことの繰り返しになろうと、自分的にはなんら構わない。それを恥じることもない。私は恥を晒すことにはやぶさかではない。しかし、公開するかぎり、これらのことはご法度である。今書いていることもこの先へ書けば、雑多な文章の繰り返し、すなわちエンドレスとなりそうである。それを恐れて私は、きょうの文章で中締め・中途の完結とするものである。
 「嘘も方便」。多くの子どもたちを育てるためには母は、余儀なく生活面においていろんな工夫や秘策を講じなければならなかった。秘策と思えるものの一つには、「置き座」のやりくりがあった。置き座とは、母が考えついた物の隠し場所である。母屋の土間には、精米機、製粉機、その他の機械類が密に寄り合って配置されていた。置き座は、土間の一隅で最も奥にあった。それは、ベッドのように平たく作られた板張りだった。それには、長いあいだ溜め込んできた世帯道具類が、わざとてんでんばらばらにでもしたかのように置かれていた。確かに、てんでんばらばらに置いて隠すことこそ、母の秘策だったのである。
 置き座があった土間の一隅は昼なお暗く、上方には一つの裸電球がぶら下がっていた。しかし、裸電球は用無しのごとくに、ほとんど灯されていなかった。これまた案外、母の秘策だったのかもしれない。なぜなら、暗いところへ行き、雑多なうえに製粉の粉まみれの中から、物を探すことには勝手知った家族にもためらいがあった。母が意図したことの第一は、外部からの侵入者(泥棒)の目眩(めくら)ましだったのかもしれない。ところが、泥棒というほどではないにしても、泥棒(コソ泥)は、外部からの侵入者ばかりではない。獅子身中の虫・わが子だって、油断すればコソ泥になり得た。いや、母の秘策の本当のところは、わが家のコソ泥除けだったような気がする。
 母はいろんな物を意図して、置き座のどこかに隠し、必要に応じて出してきた。置き座は、家族のだれもが知る母の必要悪の「へそくり」の場所だった。母は子どもたちの目眩らましには、日替わりで置き場所を変えたりもした。まさしく、母の苦心のコソ泥除けである。そして母は、「もうない、もうない」と言った後でも、もうないはずの物を小出しして、何度か置き座から出してきた。
「母ちゃん。甘納豆、もうないの?」
「もうない、もうない」
 もうないはずの甘納豆は、何度か出てきた。母の小出しは、楽しみをいっぺんで終わらせることなく、のちまで楽しみをとっておいてやりたいという、親心だったのであろう。
 また、早い者勝ちや独り占めを防いで、子どもたちにたいし平等に与えるという、これまたせつない親心だったのかもしれない。母は、置き座を操ることに腐心していた。母は、隠すことと、出すことのバランスの妙で、家事をやりくりしていた。ゴキブリの住み処のようにしか見えない置き座は、母の意を酌んで魔法の置き座の役割を演じていたのかもしれない。なぜなら、子どもたちの操縦術も、不意の訪問客への接待術も、母が置き座を操ることで保たれていた。総じて置き座の操縦術は、母が生み出した生活の知恵だった。同時にそれは、大勢の子どもたちをかかえ育てるための、母のやむにやまれぬ苦心の秘策だったのであろう。忙しく、釜屋と土間を駆けずり回る、母の面影がチラチラ浮かんでいる。

連載『自分史・私』、21日目

 主治医にとってほかの医院や病院の医師との立ち合い診察は、みずからの技量の未熟さを認めるようであり、耐えられない屈辱でもあるという。そのため主治医がそれを拒むため患者は、可惜(あたら)命を亡くす人が多々いるという。ところが幸いにも内田医師には、そんな自己保身の考えはまったく無く、ひたすら母の病気の快復にみずからの命をかけてくださったのである。内田医師はみずからの意思で、町中の某医院のK医師に立ち合い診察を依頼された。そして、K医師と内田医師の立ち合い診断の結果、とうとう看護団に「敗血症」という病名が伝えられたのである。当時はもとより、現下の医療にあっても敗血症は、きわめて厄介な病気の一つと言われている。
 手許の電子辞書を開いた。
 「敗血症:血液およびリンパ管中に病原細菌が侵入して、頻呼吸、頻脈、体温上昇また低下、白血球増多または減少などの症状を示す症候群。重症の場合は循環障害・敗血症性ショックを起こす」
 病名が分かっても安堵することなく、いやむしろ内田医師の苦悩の様子はいっそういや増した。病名を告げられた看護団もまた、敗血症? まったく聞き覚えのない病名に不安を募らせた。看護団のなかで内田医師にたいして、「どんなもんでしょうか? 治りますでしょうか…」と聞く、勇気ある者はだれひとりいなかった。
 内田医師はこんな不安な空気をみずから絶つかのように覚悟を決めて、まるで自分自身に言い含めるかのように表情を崩さず硬い面持ちで、看護団にたいしてこう言われた。
「この病気は何かの拍子に、血液に細菌が入り、その毒素が中毒症状を引き起こし、いろんなところに炎症をもたらし、高熱が出るのです。幻覚は高熱のせいです。難しい病気だが、諦めちゃいけません」
 こののちは内田医師主導の下、看護団に臨戦態勢が指示された。指示に基づいて看護団は、看護体制の強化を図った。内田医師の下、看護婦役を務めたのは、異母長兄の二女だった。二女は内田中学校を卒業するとはるかに遠い、兵庫県西宮市のS外科医院に就き、看護婦になり立てだった。ところが二女は、たまたま休暇をもらい帰省していた。看護団の祈るような期待を担って若い二女は、手慣れた看護役になりきって内田医師を助け、自分は孫にもなり伯母にもあたる母を懸命に看護した。
 高熱対策には切れ目のない氷が必要だった。村内にはアイスキャンデー屋はあっても、製氷を商いとするところはなかった。このため、必要な氷の対応には四兄が庭先にバイクを留めて、看護団から頼まれればすぐに町中の製氷屋へ走る態勢を構えていた。もっとも肝心で急を要したのは、輸血の補給体制だった。幸い母の血液型は、人には二番目に多いと言われるO型だった。看護団は、親類縁者を頼りに血眼でO型の人を探した。看護団の中にもO型の者がいて一時しのぎには救われた。記憶は薄いけれど、たぶん四兄はO型だったような気がする。ところが、輸血に最大の貢献をしてくださったのは、それまでまったく見ず知らずの他人様だった。
 自衛隊に入隊していた三兄は、「母、危篤」の知らせを受けたときには、北海道空知郡滝川駐屯地にいた。当時の三兄は飛行機ではなく、汽車を乗り継いで帰って来たと言う。普段の便りで三兄は、「長距離競走では、いつも上位に入っています」と書いて、訓練の頑張りぶりを父と母そして家族に、誇らしげに伝えていた。家族には三兄がはるかに遠い異郷で頑張っている様子を知る、何よりのうれしい便りだった。三兄は「汽車があまりにものろいので、床を走り続けてきた」と言って、憤懣やるかたない面持ちで家族に伝えた。
 三兄の熊本・健軍駐屯地時代の同僚に吉野さんという人がいた。元同僚と三兄は、駐屯地は変わっていても、友情はまったく変わらなかった。母と看護団は、未知の吉野さんに助けられた。三兄から連絡を受けた吉野さんは隊務の合間を縫って、熊本市内から駆けつけてくださった。吉野さんの血液型はO型だった。時間をおいて内田医師の注射針で抜き取られて注入される、自衛隊で鍛えた吉野さんの体の新鮮な血液は、そのたびに母を救い生き長らえさせてくれたのである。
 文章を書いている私の目から、こんどはたらたらと涙が落ちている。看護団はそろって、吉野さんに拍手したい気持ちをじっとこらえていた。吉野さんは隊務をやりくりしたり、所定の休暇を変更したりして幾日か病床の母の脇で、輸血の補給要員を務めてくださった。母の命の恩人・吉野さんのお名前は、わが生涯において消えることはない。吉野さんは今いづこ、どこにおられるのだろうか。つつがなく、ご存命だろうか。90歳近くになられるが、ご存命であってほしい。三兄は、もうこの世にいない。
 母を襲った難病「敗血症」との闘いは、内田医師、吉野様、看護団の一糸乱れぬ熱意と連携の下、今にも絶え消えそうな母の命を奇跡的に蘇らせた。母の命は、まさしく見事に「蘇生」したのである。母の命を救ってくださった内田医師は、後日、いつもの端然とした温和なお顔の満面に笑みをたたえて、「快気祝いは派手にやるんでしょうね」と父に言って、相好を崩された。同時に、母の病気ではじめて、本格的な治療にたずさわられたと思われる、二代目内田医師の評判は内田村に沸騰した。私の心残りは、内田医師と吉野様にたいして、御礼の言葉を言わずじまいになったことである。現在、内田医院は村中にはなく、その後の内田医師は、熊本市内で「内田医院」を開業されている。
 母の病気の快癒は、人間神様・内田医師が成し遂げられた大偉業だった。これまた、自分史に書かずにはおれない、途轍もなく切なくも、それを超える大きな果報だったのである。母は元の元気な体に復し、また働き尽くめだったが、子孫に慕われた豊かな人生をまっとうした。