ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

物事、人生の「二様」

 もし仮に寿命(命の期限)が無ければ、人はかぎりなく老醜(ろうしゅう)をさらけ出すであろう。このことでは、寿命や生涯(命の果て)を嘆くことはないのかもしれない。いや、惜しまれて尽きる命こそ、文字どおり寿(ことほ)ぐべき天寿であろう。私にはこんな哲学的なことを書く能力は、もとよりまったくない。ふと、心に浮かんだことを、出まかせに書いたにすぎない。
 文章は同じ内容や事柄であっても、書く時間帯によって、表現が異なるところがある。まさしく、時々刻々に揺れ動く、心象風景のせいであろう。現在、私はこの文章を夜間いや真夜中に書いている。だから、自分が不文律にしている投稿時間の締め切りまでには、まだあり余る時間を残している。おのずから、わが心には余裕が持てている。
 いつもの私は、夜間、未明、夜明けてまもないころ、あるいは夜明けのあとに書いている。それらの多くには必定(ひつじょう)、焦燥感がともない、実際には走り書きや殴り書きを余儀なくしている。さらには一度すらの推敲さえかなわず、投稿ボタンを押している。ところが、これで済むものではない。投稿ボタンを押したあとには、文意や文脈の乱れ、さらには誤字・脱字をしでかしたのではないか? と、後悔にさいなまれている。まさしく、「後悔は先に立たず」という、フレーズの実践さながらである。
 この点、昼間に書く文章には時間の余裕があり、ゆったりとした気分で書けるところがある。さらには推敲を重ねて、間違いに気づけば何度も直しが利く。このことは昼間書きの最大の利点である。反面、昼間書きの最大の難点は、ふってわいた家事に寸断されて、精神一到や沈思黙考に、ありつけにくいことである。未明、夜明け近く、夜明けて、焦燥感まみれで書く文章にもまた、おのずからこれらにはありつけない。その点、夜間、とりわけ夜の静寂(しじま)に書く文章には、これらにありつけるところがある。これすなわち、夜間書きの最大の利点である。
 物事にはおおむね、是非、善悪、好悪などと、相対する二様が存在する。確かに、私にかぎれば夜間に書く文章には利点とは裏腹に、脳髄が眠気などにとりつかれている。おのずから文章は、まるで夢遊病者のごとく、ウロウロとさ迷うこととなる。実際にも現在の私は、夢遊病に罹っている。このところ、いくつかの文章を昼間に書いてみた。もとより、難点はあるけれど、好都合と思えるところが多々あった。だからと言って、まだ決断や決定打にはなり得ず、現在の私は真夜中に書いている。実際のところは、トイレ起きのついでに書いている。
 壁時計の針は、二時近くを指している。会心の文章など、書けるはずはない。「生きてもいい、死んでもいい」。生きているかぎり、心の安らぐ人生はない。なら、もう死んで、いいのかもしれない。矛盾の解決には、天命の裁きに任せるよりしかたがない。「小人閑居して不善をなす」。私の場合は、「箸にも棒にも掛からぬ」ことを浮かべている。あり余る時間のせいかもしれない。

二人の恩人は、神様

 JR東海道線大船駅・駅ビル「ルミネ」(神奈川県鎌倉市)の中には、六階に「Anii」という書店がある。この書店は大船駅周辺にある三軒の書店のなかでは、駅ビルの中という至便に恵まれて、集客力がずば抜けている。この書店には買うあてどなくとも、私は日常的に立ち寄っている。
 店に入ると、真っ先に雑誌棚へ急ぐ。そして、整然と並べられている雑誌棚に眼を凝らす。それは『月刊ずいひつ』の陳列の有る無しと、売れ行き状況を確かめるためである。このことについては昨年(平成十一年)の七月末日に、随筆スタイルで一文を書いた。題名には、『並んでいた「月刊ずいひつ」八月号』と、したためた。
 昨年の五月にこの書店で、私は『公募ガイド』を買った。あわてふためいてページをめくると、多くの公募案内があった。それらのなかから私は、「日本随筆家協会」(主宰神尾久義編集長)が募る「日本随筆家協会賞」への応募を試みた。そのころの私は、平成十二年(二〇〇〇年)九月末日に訪れる定年退職(六十歳)に向けて、定年後の生き甲斐づくりに腐心していた。応募をきっかけに私は、電話で神尾編集長とお話をする機会を得た。初めての電話にもかかわらず私は、揺れ動く気持ちを率直に吐露した。
「随筆や文章を書きたいのですが、初めてでまったく自信がありません。協会へ入って、やっていけるでしょうか」
 私のぶしつけの相談にたいして、神尾編集長はこんなことばを返された。
「随筆や文章は、ふだんの日本語で書くものですから、なにもむずかしくはないですよ」
 かなり、安堵感をおぼえたおことばだった。
 すぐに、入会を決意した。入会後は、二〇〇〇字(四百字詰め原稿用紙五枚程度)を目安にせっせと文章を書いては、日本随筆家協会へ送り続けた。日を置いて、神尾編集長が赤ペンで添削された原稿が送り返されてくる。こんなやりとりが、協会と協会員とのならわしだった。
 入会後まもなく、月刊ずいひつ五月号の贈呈を受けた。一月後には、六月号が届いた。双方共に、掲載作品のすべてをむさぼり読んだ。六月二十五日過ぎには、七月号が送られてきた。月刊ずいひつの発行日は、毎月二十五日を一定日にしていた。(みんな、上手いなあ……)と嘆息しながら、私は最初のページから読み進んだ。実際には暑さを避けて、居間の板張りに寝転んで読み耽った。
 「あれれ……? これはおれが書いたものだ!」。私が書いた『めでたい戯れ』が載っていた。月刊ずいひつにおける、栄えあるわが第一号作品の掲載がかなっていた。ところが、こともあろうに協会、いや神尾編集長は大きなミスをしでかされていたのである。なんたることか目次に、残念無念!「めでたい戯れ」とわが名が脱落していたのである。のちに私は、電話で掲載にたいするお礼のことばを先にして、恐るおそるこのことを告げた。神尾編集長は平謝りされた。
 私は豹のように敏捷に跳ね起きた。勢い込んで台所へ走った。
「文子。おれが書いた文章が載ってたよ!」
「パパ。ほんとう? よかったじゃないの。パパ、よかったね! おめでとう」
 二人は、その場でハグしながら飛び跳ねた。自分が書いた文章が初めて活字になったときの興奮! それは経験者なら多言を要すまい。興奮度は、デカデカの風船のようにまん丸と膨らんだ。その日、私はやもたっても折れない面持ちで、「Anii」へ出かけた。浮かぶ人たちへ送りつける、冊数のカウントをめぐらした。そして、レジ係りの女性にたいして、七月号五冊の予約注文をした。なお足りず再び、七月の中ごろに三冊の追加予約を入れた。
 私は七月二十五日過ぎに、二度目の予約のものを受け取りに行った。レジ係りから受け取ると、踵(きびす)を返して雑誌棚へまわった。雑誌棚には、月刊ずいひつ八月号が並んでいた。このとき以来月刊ずいひつは、雑誌棚に並ぶようになった。私の予約注文がきっかけとなって、並ぶようになったのだ、と確信した。
 そののち、発売日やすぐあとには、必ず書店へ出向いた。協会員には毎月号の一冊は、必ず送られてきた。それでも私は、雑誌棚から毎月買い続けた。馬鹿丁寧にも毎月、二度に分けて一冊ずつ、サクラ買いまがいの行為を続けた。一年間限定と決めて、進んで実行した。二度目は次号が並ぶ五日前を目安に買った。意識して、間隔を空けて買った。みずから考えた、陳列カット阻止のための行為であった。これが功を奏すれば、たぶん月刊ずいひつの陳列カットはないはずだ。
 さて、その後の状況。月刊ずいひつは発行元の日本随筆家協会の消滅により、廃刊の憂き目に遭った。ところがこののちの私は、「現代文藝社」(主宰大沢久美子編集長)に救われたのである。実際には、初志の生き甲斐づくりの満願にありついている。二人の恩人は、男神、女神、あいなす神様である。

愛唱歌(哀唱歌)

 音程を外しわが生涯において双璧を成し、歌い続けてきた愛唱歌を口ずさんでいる。『誰か故郷を想わざる』(歌:霧島昇 西條八十作詞・古賀政男作曲。わが生誕年・昭和十五年の発表曲)。花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組みながら 唄をうたった 帰りみち 幼馴染のあの友この友 ああ誰か故郷を 想わざる ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸で さみしさに 泣いた涙の なつかしさ 幼馴染の あの山この川 ああ誰か故郷を 想わざる 都に雨の 降る夜は 涙に胸も しめりがち 遠く呼ぶのは 誰の声  幼馴染の あの夢この夢 ああ誰か故郷を 想わざる。
 『人生の並木路』(歌:ディック・ミネ 作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)。泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を捨てた 甲斐がない 遠い淋しい 日暮れの道で 泣いて叱った 兄さんの 涙の声を 忘れたか 雪も降れ降れ 夜路の果ても やがて輝く あけぼのに 我が世の春は きっと来る 生きて行こうよ 希望に燃えて 愛の口笛 高らかに この人生の 並木路。
 二曲目は哀唱歌となり、しだいに涙があふれて、歌いきることはできなかった。

六十歳の朝

 ふるさとは七月盆である。平成十五年七月十五日の起床時刻は、枕時計の針が午前四時三十五分をさしていた。鼻炎症状にとりつかれて就寝時の私は、勤務する会社製品である『スカイナー鼻炎用カプセル』の一カプセルを服んだ。すぐに、風邪薬特有の誘眠作用が顕われて、深い眠りに陥った。そのぶん、目覚めると鼻汁と頭重症状はすっかり消えていた。
 布団の中で、(とうとう、六十歳になったのか…)と怯えて、いろんな雑念にとりつかれていた。私の意識のなかに長くとぐろをまいていた「六十歳」という年齢を現実にして、寝起きの気分は鬱になっていた。私は神妙に身を起こし、ゆったりと身なりをととのえた。二階のパソコン部屋へ上がった。文章を書くためである。
 隣の部屋から、娘の寝息が漏れていた。娘に気遣い、窓ガラスを覆う、レースのカーテンをこっそり開いた。明けはじめていた空は、なお夜を引きずり薄くシルバーグレイの色をなしていた。バイク音が近づき、いっとき音を落とした。再び音を上げ、視界にバイクが現れた。バイクは、すぐに左折した。バイク音は、遠ざかり消えた。なぜか、いつもより遅い、朝刊配りのバイクだった。
 外気の明暗に応じて点滅する仕掛けの一基の外灯は、いまだに明かりを灯していた。外灯は、周辺の剪定漏れのいくつかのしおれたアジサイを照らしていた。木立には、カラスが二羽いた。山に棲みつくタイワンリスの一匹が、電線を行きつ戻りつしている。山際に住んでいるせいで、いつも見慣れた光景である。
 妻は階下でとっくに起きている。ドッキリ! 固定電話のベルが鳴った。すばやく、足音を殺して娘が寝ている部屋へ忍び込み、静かに子機を手にした。パソコン部屋へは戻らず、隣の部屋に入った。娘の寝息を遠ざけるためである。声のトーンを落とした。
「六十歳、おめでとう。先ほど、そのことを書いて、ファックスを入れたのだがね。うまく送れなかったもんで、朝早やいばってん、電話したたいね。まだ、寝とったろね。すまんね。ファックス、どうかしているのか」
「そうだったの。うちのファックスは、うまくいかないもんで……」
「おまえも、きょうで六十歳になったね」
「とうとう、なってしまった。だから、いやな気持になっている。今、そのことを、文章に書かこうとしていたころだった」
「おまえの誕生日は忘れんたいね。お盆だし、おっかさんの祥月命日だしね」
「うん、そう。とても、かなしい……。そうだ。あした、墓へ送って行くの?……」「なんの。きょう送るよ。十三日に迎えに行って、十五日に送る、習わしじゃけんね」
「お盆んて、そうだったかな?……。おっかさんがいたときには、十六日に連れられて、送りの墓参りに行ってたような気がするけど……」
「そうかもしれん、たいね」
「『おっかさんに、しずよしも、とうとう六十になったばな。ばってん、とても元気じゃけん、心配せんちゃ、ええばな……』と、言っといて!」
 現在、私は八十一歳。ふるさとの長兄は、先月(八月二十二日)永眠した(享年九十四)。ふるさと電話(受話器)は、不通ではないけれど、すでにまったくの無用になっている。

ふるさとごころ

 しょっちゅう、心の中に「ふるさとごころ」を浮かべていれば人は、罪など犯さないであろう。田園風景、「内田川」の流れ、里山を代表する「相良山」は、起きて寝るまで一日じゅう、意識することもなくわが家の庭先から眺めていた。確かな、わが家特等の借景だった。
 私は借景のなかに、のちの「ふるさとごころ」をはぐくんでいた。もちろん、借景に甲乙をつけることは馬鹿げている。それでも、子どものころの遊び場としては内田川に、イの一番と順位を付けざるを得ない。それは、多くのふるさとごころをはぐくんでくれたお返しでもある。内田川は、今でも生家の裏を流れている。しかし、河川工事という化粧直しがほどこされて、今では子どものころのむさくるしい川の姿はない。だからなお、わが内田川への思いは、子どものころへさかのぼり、いっそう懐かしさがつのっている。
 春先の水温むころ、うららかな陽気に誘われて私は、わが家の裏を流れている内田川へ駆けた。利き手の右手には、「おなご竹」の竹藪から切り出して作った、短い釣竿を持っていた。見慣れた春の田園風景はのどかに広がり、相良山には春霞がかかっている。内田川には陽光がそそいでいる。私は待ちどうしかった春の息吹を感じていた。内田川に親しむ、春が来たのだ。わが心は弾んでいた。清流の中に出ている川石を、ひとつ、ふたつ、みっつ、と飛んで、私は釣り糸を垂れる石間(いわま)を探した。目星をつけた石の上に、体を止めた。釣竿を握り直して、体をかがめて臨戦態勢を固めた。石間を覗いて、テグスの先につけた釣り糸を水中に下ろした。わが意に応えて,石間にいるはずの魚たちを誘(おび)き出してくれるかのように、餌のミミズは、水中にゆらゆらと身を揺るがしている。こんなうららかな日には魚たちも、背びれ、腹びれ、尾びれ伸ばしに、ちょろちょろするであろう。そんな魚たちの目先に、好物のミミズを垂らしたら、ドジを踏んでパクついてくるだろう。私には子ども心に宿る、浅はかでひねたずるがしこい考えがあった。今となっては、わが無慈悲な遊び心に魚たちを嵌めて、罪を作ったことを詫びている。けれど、遊び心はつぐなえない。
 魚釣りにかぎらず道端の草花などに至るまで、私は無慈悲になぎ倒し、わが遊び心は満たしていた。とりわけ魚釣りは、みずからに快楽を得て、同時に食膳の美味にありついていた。身勝手にも、このほかに無い楽しい遊びだった。澄んだ水の中を透して見ると、石間から小魚が出始めた。(いるな!)と思ったとき、指先に小さな衝撃を受けた。釣ことばでいう、「あたり」の瞬間である。私は釣り竿を上げて数回まわした。水面に飛沫が上がった。頃合いをみて回転運動を止めた。空中に釣り糸を垂らし、暴れている魚を凝視した。(何が釣れたかな?)。おおかたの予想はついている。予想は、ハゼの仲間のシーツキかゴーリキである。願っているハエなど、滅多にかからない。それでもふだんから私は、内田川の釣三昧に酔いしれていた。
 釣れるたびに私は、こんどは川石を逆に飛んで川岸へ戻った。草むらの澱みに浮かせていた魚籠(びく)に、釣れた魚を入れるためである。萎えた魚の口に刺さっている釣り針を外し、魚籠に入れた。魚はしばしバタついて、蘇生の苦しさをさらけ出した。万事休すかと思いきや、魚は魚籠の水に慣れたのか、腹びれ、背びれ、尾びれをひるがえし、鰓(えら)呼吸で生き延びたのか。仲間たちと押し合いへしあいしながら泳ぎ出した。しかし、生き延びたいのちの時は限られて、魚籠のなかのいのちにすぎない。それは、限られた人の命を見るようでもあった。
 懐かしく偲ぶふるさとごころとは、多くは罪作りにまみれて、切ないものばかりである。

内田川

 瀬音は風の音をさえぎり、降りしきる雪は風にちらちらと舞って、ほどなく川面に吸い込まれた。川上のほうからくねくねと曲り、ひと筋流れてきた水は、コンクリートで頑丈に造られた九段ばかりの堰(せき)にあたり、白い飛沫(しぶき)を高く跳ねあげている。堰に跳ね返されて岸辺にうち寄せられた戻り水は、あちこちに澱(よど)みをつくり、魚影をちらつかせていた。「内田川」は等間隔で、平行に架けられている二つの橋の下をくぐり抜けては川幅を広げて、川下へ流れてゆく。ちょっと下ると、川筋にわが生家が建っている。二つの橋の一方には真新しい金文字で「矢谷橋」と刻銘され、一方の橋にはなぜか「田中橋」と、書き換えられていた。わが子どものころには、「田中井手橋」と呼んでいたのに……。
 川の左岸には「矢谷」集落の民家が疎(まば)らに建ち、右岸には家人が「日隠山」と呼んでいた山裾が、谷をなして内田川へとどいている。わが生誕の地・「田中井手」集落は、矢谷橋も田中橋も渡らず、袂(たもと)に三軒ほどが点在する。私は、物心ついたときから田中井手という名に馴染んできた。季節迷いの春の淡雪は間断なくふり続けて、頭部、ほっぺた、首筋に冷たくべたついた。ひっそり閑(かん)として、周囲に人影はない。私はだれはばかることなく、矢谷橋の真新しい鋼鉄づくりの欄干のかたわらに立ち竦(すく)み、しばし見渡す風景に耽(ふけ)っていた。ぐるりと首をまわすと、見慣れてきた里山と、連なる遠峰が郷愁を駆りたてた。平成十三年二月十六日(金曜日)、ふるさとの朝の光景の一コマである。
 私は「同級生還暦旅行」へ参加するため、自宅のある鎌倉から早々と、ふるさと(熊本県鹿本郡菊鹿町)へ帰っていた。去年に続いて、二度めの「同級生還暦旅行」は、この日から二日のちの、二月十八日(日曜日)から十九日(月曜日)にかけて行われる。同級生には、昭和十五年生まれと十六年生まれが存在する。二年続けて行われるのは、同級生の誕生月を考慮し、公平をきすためである。ふるさとの幹事役たちの粋(いき)な計らいであった。一度めの去年は実施時期も同じころにあって、行き先は「宮崎への旅」だった。二度めの今年の行き先は、「天草・島原半島への旅」である。
 かつての田中井手橋は、村中を一本道(いっぽんどう)に走る、県道の主要区間をなしていた。ところが車時代になり、県道を広げて新たに矢谷橋が架かると元の田中井手橋は、旧橋とも言えないほどに置き去りにされて、今や通る人はだれもいない。しかし、寂れているとはいえ、わが子どものころの橋の姿をそのままにとどめていた。私は田中井手橋をゆっくりと歩いて、行き来した。懐かしさがよみがえり、涙が込み上げた。
 かつてのわが生家は、田中井手橋から150メートルほど下ったところに、隣家と並んで建っていた。しかし現在は、「内田川河川整備計画」の立ち退きに遭って、元のところから50メートルほど離れた田んぼの中に、新たに建て替えられている。子どものころのわが家と隣家の間には、鉄製の大きな水車がまわり、双方に動力棒を渡し、動力源を恵んでいた。互いの家は精米所を営んでいた。ところが、村中に電動の精米所ができはじめると水車では成り立たなくなり、水車は屑鉄屋に引き取られ、共に精米所を畳んだ。水車は内田川から分水を引き込み、私道みたいに長い私用の水路をつくり、ゴットンゴットンと音を立ててまわっていた。
 川中の取水口には、隣家と共同で手づくりの堰が設けられていた。取水口から水車までの水路は、共に「車井出」と呼んでいた。車井出にはウナギ、ハエ、ナマズ、はたまた雑魚(ざこ)がいっぱい泳いでいた。おとなたちは年に一度は取水口を塞いで水を止め、「魚取りをするぞ!」と、子どもたちへ呼びかけた。子どもたちははしゃいだ。双方共に一家総出でバケツいっぱいに取り合った魚は、均等に分けられた。
 手づくりの川中の堰は、大水のたびに落ち崩れた。たちまち、水路は水車の用水を失くした。水車は、堰の修復がなるまで止まった。水がひくのを待って、隣家と共同で堰のつくり直しが行われた。落ち崩れた堰のつくり直しには、いつも大きな川石と、破れた筵(むしろ)、笹竹、木の葉などが用いられた。堰づくりはおとなたちがそろって、力の要る大仕事だった。水車は隣家とわが家共に多くの命をはぐくんだ。今でもぞっとする、水車のバカ力と膨大な恩恵である。
 橋は新たにできても、内田川だけはいつ見ても変わらない、わがふるさと原風景である。

晩年

 またひとり、訃報が届きました。こんどは、元卓球クラブの仲間のおひとりです。自分が年を取ると、知己すなわち身内、友人、知人、ほか親しい人たちが年を取ります。このことは、とてもつらく寂しいです。
 昼間、日差しがこぼれると、まもなく尽きるいのちを惜しんで、セミが間断なく鳴いていました。かつては「うるさい」と思った心に、けなげに同情心が沸いていました。私はみずからの「命」をかえりみず、しばし、セミに憐憫の情を寄せました。子どものころのセミ取りの罪にたいし、自分自身に罰を与えて、届かぬつぐないをしたつもりでした。
 「生きとし生けるもの」のいのちは、すべて終焉を迎えるのです。今さら悟るまでもない、知り過ぎている「命の営み」です。晩年とは、重いことばです。九月九日(木曜日)、つつがなく夜明けを迎えています。

『思い出の歌』

 私は、すでに自叙伝あるいは自分史を書く年齢に達している。言うなれば後がないのである。それでも、書くつもりはまったくない。その理由は、書いても読んでくれるきょうだいは、もはや次弘兄ひとりしかいない。だから、呻吟して書いても、割に合わないからである。これまで、私はたくさんの文章を書き続けてきた。それらの文章が、十分に自分史になりかわるからでもある。
 さて、過去の文章にはこんな一文がある。『思い出の歌』。平成十年十月十五日、NHKテレビは、『あなたの思い出の歌』を特別番組で流していた。視聴者が、一つの歌にまつわる思い出を、はがき一枚に綴って局へ送り、それが元になって番組が構成されていた。採用されたはがきを、『思い出の歌』に合わせて、アナウンサーが読んでゆくスタイルである。はがきの朗読と曲が流れる前にアナウンサーは、会場に招いた投書者に短いインタービューを試みた。「あなたにとって、どうしてこの曲が思い出につながるのですか。どんな思い出があるのでしょうか」。番組のねらいの一つは、投書者の思い出の曲をひもといて、テレビの前の人たちにたいし、感動編を送りとどけることだ。そして、投書者にまつわる思い出の歌をみんなで共有し、過ぎた時代をふり返る仕立てだった。
 はがきが採用された方のなかに、わがふるさと・熊本からみえられたご婦人がいた。「わたしが五歳のときに戦争が終わって、母の、『お父さんはもうすぐ帰ってくるのよ』ということばを信じて、わたしは父の帰りを待ちました。しかし、父は途中シベリアに抑留されました。結局、父が帰ってきたのは、五年もあとでした。ところが、再会の喜びに浸りはじめていたころ、父はシベリア生活の疲れで病床に臥して、二年後に亡くなりました」。
 ここで、『異国の丘』のイントロが流れた。そばで、私と一緒に観ていた妻が、「『異国の丘』って、こういう歌だったのね」と、涙声で言った。私の両眼からも涙があふれ、「なに、知らなかったの?」と、口にするのがやっとだった。
 妻は、私より三つ年下で、生まれた年代はそう変わらないのに、家族に戦争犠牲者が出ていないためなのか、普段から戦争への思いは、私とは大きく違っている。はからずもご婦人は、年齢が私と同じで五十八歳だった。だから余計、私にはご婦人の心中を察すると忍びないものがあった。どんなにかつらく、くやしいお父様との別れであったことだろう……。
 戦争が終わって、私が小学生のころのあるとき、『鐘の鳴る丘』という、劇が中学校の学芸会で上演された。私の曖昧な記憶のなかに、兵隊さん役の良弘兄の姿がよみがえる。私と五つ違いの良弘兄は、兵隊さんの役のひとりとして出ていた。子どもたちの学校行事には父は、母に先駆けていやどこのだれより早く出かけて、その場に陣取っていた。「子どもたちを思う父さんの気持ちは、到底わたしがかなうものではなかったよ」。生前の母が、いつも私に語りかけていたことばである。
 父は、拙いながらも熱演する兄の姿をどんな気持ちで、観ていたのであろうか……。年齢を重ねるたびに私は、戦争にまつわる父の心模様を知りたくなっている。その一端として私は、父が戦争の結末に早くから懸念をいだいていたということを、兄姉たちから聞いていた。父は昭和十九年から二十二年の四年間にかけて、五人もの子どもたちを葬送している。父は先妻を病没し、のち添えに私の母を迎えた。四十歳と二十一歳、年の差十九の花婿、花嫁である。父は、異母に六人、わが母に八人の子どもをなした。文字どおり、父は「律義者の子沢山」だった。
 あえて、子どもたちの名を記すとこうである。「護、スイコ、利行、ハルミ、キヨコ、年清、セツコ、一良、テルコ、次弘、豊、良弘、静良、敏弘」である。これらのなかでは、年清が戦場で斃(たお)れ、利行は海軍の軍務半ばで病魔に見舞われて、自宅へ戻り病死した。ほか三人は、事故や病気で亡くなった。父は、昭和三十五年十二月三十日、病死した(享年七十五)。私が生まれたときの父の年齢は五十六歳であり、すでに好好爺然とした風貌であった。目立った特徴は、禿げ頭だった。おのずから父にまつわるわが思い出の歌は、「丸々坊主の禿げ頭……」という、子どもあやしの戯れ唄だった。
 『異国の丘』が歌い終わり、画面にご婦人の姿がクローズアップされた。戦時下はもとより、戦争が終わっても、じっと哀しさに耐えていた、同じ年齢の美少女が同郷にいたのである。美少女はお母さんのことばを信じて、ひたすらお父さんが帰ってくるのを待っていた。そして、会えてまもなくお父さんは病臥され、二年後に永遠(とわ)の別れが訪れたのである。
 <日本は、なぜ、戦争なんかしたのだ!>。涙をいっぱい溜め込んでいた瞼は、溜めきれず、ぽたぽたと落とした。

短い文章で、『常ならず』

 九月八日(水曜日)、秋彼岸を前にして残暑なく、身に堪える寒さが訪れています。生きることは常に艱難辛苦です。体(てい)のいい「自宅療養者」という言葉は、療養などありえない言葉の暴力です。きょうは、足取りおぼつかない妻の歯医者通いの引率です。平和な日常に飢えています。

手習い始めのころの一文、『秋の山』

 平成十年十月三十日、私は勤務する会社近くの歩道を歩いていた。ハナミズキの赤紫の朽ち葉が三、四枚空中に翻り、私の胸にあたっては舗道の方へ散らばった。歩きながら眠りこけそうな、のどかな秋日和だった。こんな麗らかな日は会社を離れて秋の山の陽だまりで、落ち葉の褥(しとね)に寝そべり手枕をあて、高く澄みわたる秋の空を眺めていたいものだ。
 先日の新聞には都会の人たちのなかで、林業に関心を持つ人たちが増えているという記事が出ていた。林業と言えばここ数年は廃(すた)れる一方で、国有林を統括する林野庁は、膨大な赤字をかかえているという。言うなれば身動きがとれない、国の厄介事業である。むかし、林業王と言われた山持ちのお大尽(だいじん)さえも、今では山の手入れができずに、山は無残な姿をさらけ出し、荒れ放題になっているという。こんな林業の衰退現象に歯止めがかかるとは到底思えないけれど、記事自体にはいくらか皮肉だけど、ほほえましさを感じた。いや、実際のところは都会生活に行き詰まり、背に腹はかえられない、切ない願望なのかもしれない。
 この記事は熊本県のはずれの農山村にはぐくまれたわが血肉が、いまなおふるさとの山野への郷愁を捨てきれないでいる証しだった。それはまた、不況や解雇の恐れなどによって都会生活に疲れを帯びた人たちが、自然願望をつのらせて行き着くところ、林業という山の中の生活に桃源郷を求めた切ない心象の証しでもあった。
 バブルの時期にあっては、耕作に向かないむさくるしい土地までもが地価の高騰を招いた。そのため、農地の宅地並み課税や相続税対策などで苦しむ都市近郊農家は、やむにやまれず休耕田を日曜農園や家族農園に開放した。借り受けた人たちの多くは、日ごろコンクリートジャングルに住み土や緑に飢えたり、あるいは懐郷の念ひとしおの人たちだった。加えて、野菜作りなどまったく初体験の人たちがそろって、にわかにミニ農夫・農家ブームを巻き起こした。借り受けた人たちは、子どもたちのままごと遊びのように土いじりに狂奔した。なかには、趣味と実益を兼ねるだけでは飽き足らず、いっぱしの篤農家まで上り詰める人たちもいた。それはそれで、日ごろ「消費者は王様だ!」などと煽(おだ)てられ、「米や野菜、そして魚は…どうしてこんなに高いの?」と、不満たらたらだった人たちに、農水産林業にたずさわる人たちの苦衷(くちゅう)を体験させたことでもあった。
 確かに人は、生活の重みに疲れて心身の癒しを求めるときには、自然への回帰や自然賛歌を声高にする。しかし、私にはこんな記事に出合うと、うれしい半面「いい加減にして……」と、遣る瀬無い気分に陥るところがある。それはサラリーマンがにわか樵(きこり)になるほどに、都会生活に疲弊したのか? という、切ないわが同情でもある。一方、これがかりそめの憂さ晴らしへの逃避行であれば、実際に農水産林業にたずさわる人たちにたいしては、失礼きわまりないものでもある。
 山の静けさ、木々を揺るがすそよ風、飛び交う小鳥たちを頭上に仰ぎ見る山の生活は、確かに憧れへ誘(いざな)う魅惑旺盛である。しかしながら山仕事が本業ともなると、もちろん美的風景と喜悦ばかりを堪能できるものではない。このことは林業が長年、後継者不足を露呈しているという、現実が如実に物語っている。
 確かに、ひと仕事ののちに、山の中で食べるおにぎりや弁当の美味しさは格別である。だからと言って、有閑マダムの職探しさながらに、興味本位ににわか林業マンになりかわり、山の中に入られても困るのだ。これでは、暴走族みたいに山荒らしになるのが落ちだ。自然や山、かつまた生業(なりわい)の林業マンの真摯な仕事を蹴散らすだけ蹴散らして、挙句には「山はきれいではなかった……」などと、捨て台詞(せりふ)を吐いて都会へとんぼ返り、悠々自適の年金暮らしでもされたら、子どものころから山を愛してきた私には耐えがたいものがある。
 薪割りや薪出し、柴刈りや柴拾いなどが毎日の仕事となったら、日曜農園のようにはいかないのだ。野菜作りには身近に収穫の喜びがある。しかしながら山の仕事は植えつけるだけで、自分の代で収穫や収入の喜びにありつけることなど滅多にない。多くは、長年ひたすら耐えるだけの根気のいる仕事である。
 私はふるさとの長兄に連れられて、スギ林や雑木林の中で、薪割りも薪出しもした。竹山では重たい竹を肩にかついで、汗たらたらに竹出しもした。クヌギ林の中では、原木に椎茸の菌打ちも体験した。それらのときの私は、長兄の仕事ぶりをつぶさに見ては真似をした。それでも、山の仕事に喜びを見出すことはできなかった。挙句、私は「兄さんは、ええな。こんな山の仕事があって……」とは、つゆも思わなかった。生業の山の仕事は、秋の山の中で寝そべって木々を眺めたり、空を見上げたりするのとは違って、ちっとも楽しいものではない。おのずから林業は、この先廃れてゆくばかりである。林業へのロマンは、未体験ゆえのロマンである。