ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
緊急事態宣言等、延長決定
窓ガラスを開いて道路を見遣れば、のっぺりと黒ずんでいる。就寝中にあっては気づかなかったけれど、夜間に小雨が降っていた。ところが夜来の雨はすっかり上がり、五月八日(土曜日)、明るい陽射しの夜明けが訪れている。時刻はいまだ夜明けの頃(六時あたり)だけれど、太陽のもたらす朝日は、明るく昼間の輝きを放っている。
このところの自然界は人間界に、晴れまた雨も良し、のどかな日々を恵んでいる。一方、人間界は、新型コロナウイルスという魔界の魔物により、その恵みをはねのけられて、日常をはてしない気鬱に晒されている。恨めしいはやり言葉を用いて、ひと言で表現すれば現下の日本社会と国民は、まさしく新型コロナウイルス禍の渦中に喘いでいる。
全国的にはきのう一日で、6054人の感染者数がカウントされている。併せて死亡者数に至っては、なんと146人と伝えられた。一日当たりでは前者は、過去二番目の多さであり、後者はこれまでの最大の数値という。しかし、この先なお打ち止めの目途が立たず、政府はいっそう多くの自治体へ拡げて、対応策が延長および追加されることとなった。
きょうはそれを伝えるメディアニュースを引用し、日本社会の現下の世相として記し置くものである。もちろん、引用文へ逃げる姑息なものではない。やむなくそしてひたすら、日本社会の一大事を留め置くものである。
【政府、4都府県の緊急事態宣言延長決定 31日まで 愛知、福岡も】(5/7・金曜日、17:22配信 毎日新聞)。政府は7日夕、新型コロナウイルス対策本部を首相官邸で開き、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に発令している緊急事態宣言を5月31日まで延長すると決定した。感染が拡大している愛知、福岡両県も12日から31日まで新たに対象に追加する。変異株による感染増加が続く中、対策の継続や対象地域の拡大が必要と判断した。酒類を提供する飲食店への休業要請は継続し、客による酒類の店内持ち込みを認める飲食店も休業要請の対象に加える。路上での集団飲酒は規制を強化する。一方で、百貨店など大型商業施設(床面積1000平方メートル超)への休業要請は見直し、午後8時までの時短営業要請に緩和するが、各知事の判断で休業要請も継続できる。これまで原則無観客としてきたスポーツなどの大規模イベントは5000人か収容率50%のいずれか少ない方を上限に入場を認める。緊急事態宣言に準じた対策が可能となる「まん延防止等重点措置」の対象地域は北海道、岐阜、三重の3道県を9日から追加し、感染が落ち着いた宮城県を12日以降除外する。現在対象の埼玉、千葉、神奈川、愛媛、沖縄の5県は期限を31日まで延長する。
薄らぎゆく、会話の愉しみ
人様と出会い言葉を交わし合うこと、すなわち「会話」は、人間の楽しみの最上位に位置している。とりわけ、普段から気心が知れて親しい人との出会いと会話は、まぎれもなく互いの人生に生き甲斐をもたらし、文字どおり滑らかな潤滑油ともなる。
出会いの席に互いの嗜好類(アルコールや好物の食べ物など)がともなえば、おのずから会話はいっそう弾んで、共に愉快な気持ちになる。そしてたちまち、互いのパラダイス(楽園)へとなり替わる。なかでも人の群がる酒席や宴席であれば群像劇さながらに、会話はあちらこちらへ弾んで小踊り光景さえ現れる。挙句、ほろ酔い気分になり、千鳥足で帰宅の途に就くことも多々ある。
こんな大掛かりな会話ではなく、見ず知らずの人との出合いがしらの短い会話であっても、気分は弾んでくる。この場合はおおむね、互いに短い挨拶言葉である。挨拶言葉が会話の範疇に入るのか? と自問すれば、わが答えは確かな会話である。その証しにはこれまでの私は、スーパーなどにおけるレジ払いのおりには、その会話を求めて係りの人に意識して「こんにちは。あるいは、ありがとうございます」などと、ひと声かけを貫いてきた。もとより、一方通行のわが気分癒しであり、多くは会話にはなり得なかった。それでも、わが気分が崩れることはない。もちろん、相手を責める気分もまったくない。なぜなら、身勝手な自分自身の気分癒しにすぎないからである。
いやわがひと声は、その場にふさわしくないありがた迷惑であろうと、自認するところがある。なぜなら、前後に並ぶ人たちはみな無言のままに、レジ道を通り抜けてゆく。おそらく、この行為こそ、寸刻を惜しむその場にはふさわしいのであろう。言うなれば私は、お邪魔虫なのであろう。それでも私は、カードを渡して支払いが済み、カードを受け取り、所定の籠を運ぶときには「こんにちは。ありがとうございます」と、ひと声かけを習わしにしてきた。ときには言葉が返り会話がなりたち、たちまち金を払うという、重たい気分が解(ほぐ)れた。
ところが、いつの間にか互いのカードの手渡し行為が、無くて済むようになっていた。それはレジ通りの末端に、みずからカードを差し込んで支払いを済ます、自動のカード払い機(精算機)が据え付けられているせいである。この文明の利器のせいで私は、レジ通りにあってはもはや、ひと声かけのチャンス(機会)を閉ざされている。おのずから私は、ささやかな会話の機会の自然消滅をこうむっている。
確かに、込み合い、レジ打つ(計算する)その場にはふさわしくなく、無用のひと声かけかもしれない。しかし、わがひと声とできれば返り言葉に、わが気分癒しを求める私には寂しさつのるものがある。
古来人間の知恵は、さまざまな機械類を生み出し、それを道具にして人の営みを豊かにしてきた。ところが、このところの人間社会はややもすると逆転し、道具と思えていた機械類すなわち文明の利器に精神をボロボロと翻弄(ほんろう)されつつある。(なんだかつまらないなあー…)と、思うこの頃の私である。
幸か不幸か私には、この先を案じる余生はほとんどない。夜明けの気分は、いつもつれづれである。ウグイスがさわやかに鳴いて、朝日が明るく輝いている。
雨の夜明け
五月六日(木曜日)、大型連休中にあってはまるで、遠慮していたかのように、雨の夜明けが訪れている。きょうは「昭和の日」(四月二十九日・木曜日)を含めて、五月へ月替わり通して四日、すなわち「憲法記念日」(五月三日・月曜日)、「みどりの日」(五月四日・火曜日)、「こどもの日」(五月五日・水曜日、立夏)の祝日をカレンダー上に記した大型連休の明け日である。この間にはいつもの週末二日(土曜日と日曜日)を挟んで日本社会は、文字どおりゴールデンウイークという大型連休に浸っていた。さらには政府や自治体の呼びかけに応じて、きょう・あすの平日を有給休暇の取得日にかえて、週末二日の休日へつなぐ人たちもいる。そうであればいくらか余儀ないこととはゆえ、まさしく休日満喫の大型連休の継続に浴することとなる。
だからと言って日本社会および国民ともに、必ずしも極楽とんぼではおれないものがひかえている。それは休日明けにともなう、新型コロナウイルスの齎(もたら)すさまざまな数値の推移である。なかんずく、「緊急事態宣言」下の自治体にあっては、所定の期限(五月十一日・火曜日)における、解除の可否あるいは是非の判断が迫られる。
わが下種の勘繰りをめぐらせば大型連休中のメディア情報をかんがみて、解除なく延長やむなしであろう。そうだとすれば、その先の鬱陶しさが思いやられるところである。これにわがことを加えれば、鬱陶しさは増幅するばかりである。その因(もと)は、鎌倉市の公報によるわが年齢(八十歳)へのワクチン予約開始(五月十日・月曜日)への対応である。
気象庁は早くもきのう、沖縄および奄美地方の梅雨入りを宣言した。季節いや一年は、こんなにも早くめぐるのか! と、私は唖然とするばかりである。人間界には新型コロナウイルスのもたらす鬱陶しさに加えて、この先には自然界のもたらす鬱陶しさがいや増してくる。七月と八月に予定されている世紀の祭典、すなわち「東京オリンピックおよびパラリンピック」は、なんら鬱陶しい気分癒しにはなりそうもない。なぜなら現下の人間界は、日々生き続けることの困難さの渦中にある。言うなればその日暮らしに明け暮れている。それに耐えて人々は、つつがない日々を願って生き続けることに懸命である。
もちろん、他人事(ひとごと)とは言えない。私もまたその渦に嵌(は)まり、樽の中の里芋洗いのごとくに、ゴロゴロと揉(も)まれている。雨の夜明けは、関東地方の梅雨入りの走りであろうかと、恐れて気を揉むところである。
「こどもの日・立夏」
五月五日(こどもの日・水曜日、立夏)、宮仕えの人たちが気兼ねなく休める、大型連休の最終日の夜明けが訪れている。現下の日本社会にあっては、新型コロナウイルスのせいで、外出や行動の自粛を強いられて、さらに週末の日曜日(五月九日)まで、自制の休暇(多くは有給休暇)を決め込んでいる人たちがいよう。政府や自治体の呼びかけ、これに呼応し役所や企業などが余儀なく休暇促進のさ中にあっては、これまた気兼ねなく休めることもあろう。理由はどうあれ休暇が続くことは、宮仕えの人たちにとっては、まさしく夢見る「パラダイス(楽園)である。
現役中の私であれば文字どおり、小躍り(あるいは小踊り)すること請け合いである。ところが現在の私は、もちろん欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する気分をすっからかんに失くしている。当時の気分にもう一度ひたりたい思いは山々だけれど、もちろん今や叶わぬ願望である。ほとほと、残念無念である。
「あなたは、何たることを言われるのか! 罰が当たりますよ。あなたは、私たちからすれば涎が出るほどの幸せ者ですよ。果て無い、長い休暇にありつかれているじゃないですか」
「はいはい。確かにそうです。だけど、この休暇には小躍りする気分はありません」
こんなケチなことを書きたくなる日本社会の大型連休は、今週で打ち止めとなる。そして、十日(月曜日)には現役の人たちは、文字どおり休日明けの休日病や月曜病に罹り、終日悩まされることとなる。いやいやわが体験上、その一週を丸々休養に当てざるを得なくなる。挙句、明らかな給料泥棒に成り下がる。ところが、幸いなるかな! 今の私は、この悪習からは免れている。これらのことをかんがみれば、やはり現在の私は、現役の人たちを妬(ねた)まず、「極楽とんぼ」と、言うべきであろう。確かに私は、現役の人たち同様の大型連休にはありつけなかった。しかし、気分的には妬みなく「おあいこ」である。
きょうもまた私は、実の無い文章を書いた。もちろん、ありつけない子ども心、すなわち「こどもの日」を妬んでいるわけではない。だとしたら案外、「立夏」すなわち季節めぐりの速さに、肝を潰されているせいなのかもしれない。このところの私には、「書かずに、休めばよかった!」と、思う日が続いている。とことんなさけなく、そしてかぎりなくやるせない。
世代交代
「みどりの日」(五月四日・火曜日)の夜明けにあっては、のどかに明るい陽射しがふりそそいでいる。書きたい文章のネタなく、私は仕方なく実の無いいたずら書き始めている。
さて、ありふれた簡単明瞭な言葉であっても、それぞれには重たい意味を含んでいる。たとえば、単なる机上言葉とも言える「世代交代」は、命の入れ替わりという厳かな意味合いを含んでいる。すなわち、これまでの命はみな尽き果て、次代の世になりかわる言葉である。重ねて言えばそれには、それまでの人の命がみな尽き果てるという、厳粛さが存在する。
わが目覚めはいつも、ふと浮んだ言葉のおさらいや、再考察どきにある。今朝の目覚めどきには、世代交代という言葉が浮かんでいた。なぜ、浮かんだのかはかわからない。強いて因(もと)をめぐらせば、わが年齢(八十歳)が世代交代の時期にさしかかっているせいなのかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの発生以降、感染者や死亡者の年
齢区分をほぼ毎日、いやおうなく見せつけられているせいなのかもしれない。確かに、年齢区分一覧表を見遣れば、わが年代は世代交代の狭間(はざま)というより、れっきとしたところに位置している。年齢区分上位には、九十歳もあるにはある。しかし、実際のところは付け足しとも思えるほどに、私にはまぼろしの感をぬぐえない。やはりわが年代こそ狭間というより、世代交代の真っただ中にある。
世代交代という、言葉の意味がいや増すこの頃である。老いてなお矍鑠(かくしゃく)たる御仁(ごじん)には、わが不徳を詫びるところである。わが目覚めどきには単なる言葉遊び、いや身に染みて、言葉の重みをめぐらしている。確かに、書くネタのないときには、「三十六計逃げるに如(し)かず」である。なさけなくも、きょうはその証しである。
憲法記念日
朝日の輝きさやかに、「憲法記念日」(五月三日・月曜日)の夜明けが訪れている。しかしながらわが気分は、晴れない。いや、晴れようがない。就寝時にあって私は、頭部の一部に痛みと違和感をおぼえていた。脳の病の前触れかなと? と、いくらか驚いた。ところが目覚めてみると、幸いにもこの現象は去っていた。それでも寝起きの私は、憂鬱気分まみれにある。憂鬱気分をもたらしているのは、日本社会に渦巻く新型コロナウイルスにかかわる社会現象である。なかんずく、日々加速度的に伝えられてくる医療崩壊の恐怖である。
実際のところ私は、医療現場の崩れ様など、まったく知るよしない。それでも、テレビ映像などからもたらされる恐怖(心)は身に染みて、日々いっそうつのるばかりである。これまでの日本社会にあっては、病に罹れば病医院へ駆け込めるという、安心感が根づいてきた。ところが、現下の日本社会にあっては、新型コロナウイルスと感染の拡がりのせいで、現在この安心感が閉ざされている。そのことによる恐怖(心)は、もはや想像するに余りある。この恐怖(心)は人間だれのせいでもなく、もちろん新型コロナウイルスのせいである。だから、余計抗(あらが)う手立て無く、日本社会にかぎらず人間社会は、苦難を強いられている。いや苦難では言葉足らずで、実際には感染者と死亡者を世界中、あまねく累増させている。ところが人間は浅ましく、罪(対策の不備)のなすりあいや、ののしり合いなどが、いっこうに止まないところがある。
憂鬱気分に輪をかけて目下の日本社会は、いっそう濁り水状態に陥りつつある。これから抜け出すには、一筋縄ではいかない。一年経っても人間社会は、魔界の異物すなわち新型コロナウイルスのさらなる蔓延状態にある。人間躍動の季節、加えて日本社会は、大型連休真っただ中にある。ところが私は、身を絞るような文章を書いた。いや、おのずから書かずにはおれなかった。ほとほと、なさけない。休むつもりで起き出し、そして書き出した文章は、生煮えどころか少しも煮立たず、結びとするものである。「休めばよかった」と、悔いるところがある。新型コロナウイルスのせいで、憲法記念日は色あせている。
初夏と大型連休、しかし……
月が替わって五月一日(土曜日)、もう晩春とは言えなく、明らかに初夏の季節である。朝日の輝きには「晩」という暗さは微塵もなく、明るくさわやかな夜明けが訪れている。窓ガラスに垂れるカーテンを開ければ、目先の山は緑色に映えている。
春から夏へと季節替わりを告げる確かな証しは、「立夏」(五月五日・水曜日)を記して、今週半ばに訪れる。カレンダーにはきょうからその日まで、三日の赤字の祝祭日が記されている。すなわち、憲法記念日(三日・月曜日)、「みどりの日」(四日・火曜日)、そして「こどもの日」(五日・水曜日、立夏)である。あすの日曜日(二日)を挟んで今週は、まさしく五日間の連続休暇の訪れにある。日本社会はこれに先立って、過ぎた「昭和の日」(四月二十九日・木曜日)から、すでに大型連休すなわちゴールデンウイークに入っている。頃は良し、海・山賛歌の季節真っただ中でもある。連休や好季節に応じて多くの国民は、物見遊山の楽しみに耽るときでもある。
ところがこんな好機会にあって、去年と今年のゴールデンウイーク共に、邪魔者が人々の行楽の足に通せんぼをしている。それは言わずと知れた、憎さ百倍の新型コロナウイルスの妨害である。こんなに朝日が輝き、自然謳歌あふれるなかで、足止めの呼称「ステイホーム」を食らっている国民は、恨みつらみ満タンである。つくづくもったいない、初夏の朝日の輝きである。
今朝はステイホームの呼びかけに甘んじて呼応し、普段にも増して見知らぬ散歩めぐりの人たちが多そうである。そうであれば私は、大慌てで周回道路の掃除へ向かわざるを得ない。年じゅうステイホームを強いられているわがささやかな「おもてなし」である。このことを口実にして、実の無い文章の結文とするところである。
私にはまったく代わり映えしないけれど、世の中の人たちが待ち望んできた大型連休の訪れである。「ちくしょう、新型コロナウイルスめ!」。煌煌と照る朝日の輝き、「もったいない、もったいない!」。
大型連休、「生きています」
四月三十日(金曜日)、目覚めてすぐに起き出して来た。現在のデジタル時刻は、5:32と表示されている。しかし、慌てる気分は遠のいている。それは、開き直りをみずからに課しているためである。きのう、一日じゅう降り続けていた雨は止んで、朝日が明るく大気を照らしている。うっかりしていたけれどきのうは、「昭和の日」という祝祭日だった。
早やはや日本社会にあっては、きのうからゴールデンウイークという、心地良いひびきのする大型連休に入っている。こんな甘い言葉と習わしを忘れるようでは、もはや私は、朴念仁(ぼくねんじん)の世捨て人へと、成り下がっている。そのせいか、「バカは死ななきゃ治らない」という成句が、にわかに心中に浮かんでいる。
現在のわが脳髄は、まったく文章のネタのかけらもない空っぽである。パソコンを起ち上げて書こうと決めたのは、生きている証しにすぎない。実際のところそれには、一行だけでも書こうと、決意したにすぎない。なぜなら高齢の身には、おのずからあすも生きているという保証はない。ところが、すでに一行は超えている。しかし、こんな身も蓋もない文章を書くようでは、すでに死んだも同然の「生きる屍(しかばね)」状態に変わりない。「嗚呼、なさけなや、なさけなや!」。現在のわが心地である。
振り返れば、一年経ってもまったく代わり映えのしない、現在のわが心境である。大型連休などわが身にはまったく無縁であり、もちろん夢見る気分はさらさらない。老齢の身であれば十分に予知していた、一年めぐり後のわが心境である。ところが、例年であれば変転きわまりない日本社会にあっても、まるで映し絵を見ているような一年めぐりの実相にある。それをもたらしているのは、一年経っても衰えず止まらない、新型コロナウイルスのせいである。確かに、私にはなんら代わり映えしない大型連休である。
ところがびっくり仰天、大型連休が去れば私には、文字どおり一つの大きな決断と、それによる実践行動が待ち受けている。それは、すでに鎌倉市の行政から届いている新型コロナウイルスに抗(あらが)う、ワクチンの予約開始への対応である。実際には五月十日から始まる、市民一斉の予約行動である。接種の優先順位は、高齢者が先駆けとなっている。するとああ無念、わが身はこの範疇にカウントされている。すでに、まるで赤ちゃんに教え導くかのような懇切丁寧な実施要項が届けられている。それでもなお分かりづらいのは、たぶんわが老い耄(ぼ)れのせいであろう。こんなにも税金と手間暇をかけて、私にはこの先へ命を繋ぐ価値があるであろうか。いやいや自分自身、価値があるとは思えない。だからと言って、「ありがた迷惑」と嘯(うそぶ)けば、わが身が廃(すた)ることとなる。
確かにこれまでの私は、躊躇(ちゅうちょ)なく右の上腕にブスッと、注射針を突き刺されることを心待ちにしていた。ところが現在の私には、かなりの躊躇(ためら)い心がフツフツと沸いている。それはわが身に、接種するほどの価値があるやいなやへの疑念である。それでも結局、接種に向かわざるを得ないと思うのは自分が罹り、人様へうつしてはならないという、世のため、人のためでもある。
大型連休の朝日の陽射しは、憎たらしいほどに明るくさわやかである。生きている証しの文章は、単なる書きの書き殴りである。わが身を恥じて、平に御免こうむりたいものである。
寝起きの戯言(ざれごと)
横文字やきらびやかな言葉の多用は、確かに多能や多才の証しにはなろう。しかしながら半面、頼りない才能の見せびらかしにも思えてくる。実際、時と場合においては、緊張感をともなわない実の無い言葉になり下がる。たとえ簡易な日常語であっても、分かり易い言葉がイの一番である。できれば用意周到にあずかり、「寸鉄人を刺す」言葉に出遭えば、素直に応じたくなる。
こんな柄でもないことを浮かべて書いているのは、指示・命令あるいは要請として、突如「人流(じんりゅう)」という、言葉が多用されているせいである。わがケチな考察をめぐらせばこの言葉は、行為や行動の抑制を求めるには、はなはだ緊張感に欠けるものに思えている。確かに私は、この言葉を聞いて呆気にとられていた。挙句に、ことの趣旨をわが言葉で言い換えてみた。「今は人の流れを止めて、出会いの楽しみをしばらく我慢しましょう。コロナを止めるには、これしかありません」。私にすれば「人流」では、行動抑制の真髄からかけ離れた、緊張感をともなわない言葉に思えたのである。
見出し語に無いことは承知の助であえて私は、電子辞書を開いた。案の定、「人流」という言葉(熟語)はない。もちろん、「人の流れ」で十分である。いやこの場合は、「人の流れを止めましょう」こそ真髄となり、私はおのずからその言葉に従いたくなる。横文字の多用もまた、必ずしもピッタシカンカンとくるものでもない。
古来、日本社会にあってはいまだに廃れることのない、日本人にふさわしい秀逸な日本語がたくさんある。これらの言葉の中から時と場合に応じて、最もふさわしい言葉を用いられてこそ、私は使用者の多能と多才ぶりを称賛したくなる。わがへそ曲がりの証しであろう。
四月二十九日(木曜日)、久しぶりの早起きによる寝ぼけまなこと、脳髄の空っぽのせいで、わがお里の知れる戯言(ざれごと)を垂れたようである。これまた、久しぶりの雨の夜明けである。
わが疲れ癒しの処方箋
猫の額にも満たない庭中にあってこのところの私は、百円ショップで買い求めたプラ製の腰掛に座る日が続いている。この主目的は、イタチごっことも思える、雑草取りのためである。ところが、主目的変じて腰掛に座れば逆に、私は雑草に憂鬱気分を癒されている。確かに、無心に雑草と向き合えば心が癒される。ときには地中のミミズが指先に当たり地上に現れて、ミミズ特有に身をくねくねと伸縮させて、大慌てで這いずり逃げ回る。「逃げなくてもいいよ、ミミズさん。今のぼくは、決してあなたを捕らないし、捕る必要もない。子どもの頃の罪滅ぼしに、日光で干からびないように、ホラ、土を掛けてやるよ!」。
ミミズ捕りは、子どもの頃のわが日常で定番をなしていた。わが家の裏に流れている「内田川」へ、魚釣りに向かうにあっては釣り餌に、ミミズは欠かせなかったのである。もちろん私だけでなく遊び仲間のみんなが、テグスに釣り針を着けてミミズを餌にして水中に垂らしていた。私はミミズを犠牲にして雑魚(ざこ)を釣り、わが家は晩御飯の御数の一部を賄っていた。ミミズのおかげで私は、子どもながらに家事手伝いの真似事にありついていたのである。
さて、庭中の草取りにあって私は、雑草には憂鬱気分を癒され、ミミズには深く懺悔(ざんげ)し、そして真打のウグイスにはいたく励まされている。人間界からこうむる疲れの癒しにあって、このところの私は、万能薬を凌いで庭中の腰掛に託している。雑草の中には、名を知らない草花がチラホラと入りまじっている。するとこれらはいっとき、目の保養を恵んでいる。雑草呼ばわりするにはしのびない。穏やかにふりそそぐ日光の恩恵、さらに輪をかけている。頃は良し、自然界の恩恵は底無しである。このところのわが憂鬱気分の癒しには、私は自然界のもたらすコラボレーション(協奏)にすがりきっている。
遅まきながら私は、ガラケーからスマホへと、変えた。案の定、その操作に梃子摺り、このところのわが心身は疲れ切っている。その癒しのために庭中の草取りは、薬剤に頼らない無償の処方箋をなしている。言わずもがなのことだけど、天変地異さえ無ければ自然界の恵みははかり知れないものがある。このところの私は、その恵みに浸りきっている。
四月二十八日(水曜日)、きょうもまた夜明けにおける飽きないわが自然賛歌である。援軍を率いるウグイスは、朝っぱら持ち前の高音(たかね)をさわやかに奏(かな)でている。きょうもまた私は、庭中の腰掛に腰を下ろしそうである。会話無しにひたすら黙然とするだけだから、鬱陶しいマスクはまったくの用無しである。