ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
歴史的「記念日」
五月二十日(木曜日)、私は寝惚けてはいない。案外、気象庁の職員が、寝惚けているのかもしれない。なぜなら、梅雨入り宣言を忘れたかのような、梅雨空の夜明けが訪れている。夜間には、小雨が降ったのであろうか。窓ガラスに掛かるカーテンを開いて道路に目をやると、道路一帯が黒ずんでいる。ところどころはなお乾ききれずに、薄っすらと濡れたままである。側壁上のアジサイは、いまだ彩りは見せていないけれど、玉を大きくしている。自然界は、すでに梅雨入りした光景を醸している。おのずからわが気分も、梅雨入り状態にある。関東地方の梅雨入り宣言は、きょうあたりであろうか。この言い方は、先日の二番煎じである。そのときは、空振りに終わったからである。寝起きのわが脳髄には、大袈裟な表現が浮かんでいる。
きょうの私は、まぎれもなく世界人民共通の行為に駆られている。不幸にも、こんなことは滅多にない。一方、余儀ないことながら、歴史的とも思える貴重な体験に遭遇している。すなわち、国を替えて世界の人々が体験しているテレビ映像を、まったく同様にみずからも写すこととなる。結論を急げばきょうのわが行動のハイライトには、新型コロナウイルスに抗する一回目のワクチン接種がある。
ワクチン接種は、つごう二回で完結と言われている。鎌倉市の行政から届いている接種案内によれば、二回目の日取りは三週間後に必然的に決められるという。明かな日取りは、きょうの接種後にスタッフから伝えられるのであろう。そうであれば二回目の予約には、一回目のようにあたふたすることは免れることとなる。友人・知人に聞けば、一回目の予約にありついたことには、「君は、幸運だ!」と、言う。なんだか、キツネにつままれた思いである。すなわち、一回目の予約にありつくことは、困難きわまりない証しである。一回目の予約にあってはまさしく、人みな命を惜しむ競争場裏の修羅場に放り込まれたのである。
このところの私は、幸運にありつけることどなく、このことでは思いがけない棚ぼたの幸運である。しかしながら幸運とはまったく思えない、人騙しのなんと微々たる幸運であろうか。ワクチン接種における早い者勝ちの幸運など、もちろん憂さ晴らしにさえならない悪運である。二度のワクチン接種が、はたして「効果、有る無しや!」と、疑うところもある。しかし一方で、人類の知恵の結実であれば、人体実験を厭(いと)わず、試してみる価値はありそうである。
私は梅雨空とまがう空の下、鎌倉市ほどこしの無償のタクシー券を利用し、十時半頃に決められている接種会場へのお出ましである。こんなことを書くようでは、私は慢性の寝惚け、いや「寝とぼけ病」に罹っているのかもしれない。ともあれきょうは、わが人生における歴史的「記念日」と、言えそうである。無事に済まなければ、あながち、大袈裟とは言えない。
人生の楽しさは、心優しい人との出会い
五月十九日(水曜日)、現在のデジタル時刻は、1:13です。きょうは、平洋子様から届いたふるさと情報と、恩師・渕上先生(わが小学校1年生と2年生当時のご担任、美しくうら若き頃の旧姓)の近況報告で十分です。わが駄文は書きません。大沢さま、洋子様から事前のお許しは得ていませんけれど、「ひぐらしの記」への転載をお願いいたします。
人の世は、心優しい人に出会えば、たちまち楽しくなる。洋子様、ガラス越しに、「ひぐらしの記」の単行本を翳して、まだ続いていることを伝えてください。先生には当時の「綴り方教室」の様子がよみがえり、きっと微笑み返しをされると思います。そして、声なき声で、わが頑張りぶりを褒めてくださるはずです。
先生は教師時代はもとより、わが人生において常に優しい人です。恩師の優しさは、そのまま洋子様へ継がれています。感謝感激です。洋子様、ありがとうございました。
梅雨になりました
投稿者:平 洋子 投稿日:2021年 5月18日(火)20時32分28秒
今か今かと待っていた梅雨ではなく、突然に来てしまった感の梅雨入りでした。
コロナ禍の外出自粛と早々と来てしまった梅雨で家に引きこもっています。草取りや花の植え替えなど、することはたくさんありますが、この雨では外に出ることができず雑草を眺める毎日です。
田舎のいいところで、ご近所のちょっとした寄り合いや立ち話などできていたのがさっぱりなくなり、人影が見えません。たまの散歩も帽子にマスクでまるで不審者です。
今年も今年も車庫の天井でツバメが賑やかに子育てに頑張っています。いま、二組が子育て中で、早いペアはえさを運んでおり、もう一組は抱卵中です。三組目が今新居の作成中です。ほほえましいやらうるさいやら、コロナに関係なくやってきて飛び回る姿を見ているとうらやましい限りです。
栗の花が咲き始め、庭の花々も季節の移り変わりとともに入れ替わってアジサイが咲き始めました。チューリップの球根を掘り上げた後に何を植えようか思案中です。昨年はマリーゴールドを植えましたが、ほったらかしでいいので楽でした。義母はサルビアと決めていましたが、マリーゴールドもいいかなと思っています。
義母は元気で「つどいの杜」で過ごしています。施設の方のお話では、自力歩行はできませんがリハビリにも積極的で、昼間は起きている時間が長くなっているそうです。相変わらず窓越し面会しかできないので部屋での様子はわかりませんが、写真に撮ってくださっているので様子を想像するとができています。入所時より元気になっているのが実感です!ワクチン接種が進んで、直接会える日が来ることを待ってるところです。
施設でとっていただいた写真をご紹介します。レクリェーションの一コマのようです。
人の世は一喜一憂、いや哀憂
五月十八日(火曜日)、きょうあたり気象庁の梅雨入り宣言かな? と、思えていたきのう(五月十七日・月曜日)の雨はすっかり上がり、見渡す青空から朝日が煌々と輝いている。わが予知は空振りに終わったけれど、嘆くどころかこれ幸いである。だからと言って、すっきりした気分の寝起きではない。この気分はわが生来の悪癖によるものであり、ジタバタしても直しようはない。わが文章はおおむねこんな書き出しであり、なさけなくも自認しているところである。もちろん、身体にも精神にもいいはずはない。「身から出た錆」とは、わがかなしい性(さが)である。みずからでは直したり、抗(あらが)えないことに一喜一憂することなど、これまた心身によくないことは知り過ぎている。いや、こちらは、ほとほと馬鹿げたことである。ところが私は、すでに一年半近くにわたり、新型コロナウイルスにともなういくつかの数値に一喜一憂を強いられている。それには、いやおうなく喜怒哀楽気分がともなっていた。
実際のところ、この四字熟語の用い方は嘘っぱちである。なぜなら、喜びや楽しみなど、一切あるはずもない。このことでは私は、ほとほと馬鹿な思いに陥っていた。そしてなおこの先、新型コロナウイルスの終息を見ないかぎり私は、この思いから逃れることはできない。
きのうの全国レベルの感染者数は、週間では数値が最も低く出る傾向にあると言われる月曜日にしても、喜ぶべき低い数値を示した。とりわけ、東西の大都市すなわち東京都と大阪府の感染者数は、様変わりに減っていた。まさしく、一喜すべき数値だった。たちまち、ピークアウト(天井を打った)という、言葉が目立ち始めた。しかし、きょうの数値が伝えられれば、再び一憂に陥るかもしれない。
きょうの文章はどうでもいい、わが言葉遊びである。いや知り過ぎている四字熟語の実践にすぎない。わが人生行路は、一喜一憂そして喜怒哀楽という、似たもの言葉にさらされて歩んできた。多くは、「喜・楽印」の少ない一方通行の道を歩んできた。いや、私にかぎらず人みな人生とは、おおむねこんなものであろう。きのうの妻のワクチン予約は、感染を怯(おび)える人様の出足に負けて叶わず、ひと月延ばしとなった。憂いや哀しみは、人の世のならいである。
梅雨空模様の夜明け
五月十七日(月曜日)、小雨まじりのどんよりとした梅雨空模様の夜明けが訪れている。空模様から察すれば、関東地方の梅雨入り宣言もまもなくであろう。梅雨には十分に慣れているとはいえ、それでもやはり、梅雨の鬱陶しさには身構えるところがある。しかし、日本列島にあっては天水に恵まれて早苗や田植えの季節とあっては、歓迎こそすれ毛嫌いすることはできない。いやいや、天恵すなわち天水を喜ぶべきであろう。そうであれば集中豪雨や長雨など無く、すんなりと梅雨明けを願うところである。
今年(令和三年)にかぎれば長雨となり梅雨明けが遅れれば、予定されている「東京オリンピックおよびパラリンピック」の準備や開幕にたいし不都合となる。国と国民としては、これは避けなければならない。さらには梅雨の長雨が、新型コロナウイルスに新たな変異株を呼び込むかもしれない。このことでは今年の梅雨入りは、例年にも増して気が揉めるところである。
きょうは妻の年齢(七十七歳)が該当する、鎌倉市における六十五歳以上の人たちのワクチン予約の開始日である。そのため、起き立てにあって私は、すでに到着済みの予約案内文書をあらためて丁寧に読んだ。私と違って妻の場合は、さまざまな疾患を抱えている。これらの疾患が、禁止事項に書かれている基礎疾患との違いを確認するためであった。するとやはり、妻の場合は予約をためらうところがあった。ワクチンとはいえ、異物を体内(筋肉)に入れ込むには相当の覚悟がいる。私はこの文章は殴り書きに留めて結んで、今一度当該文書を読み直してみたいと思う。なぜなら、念には念を入れて、損なことはない。年老いたとはいえ、愛妻の身を守るためゆえにあしからず。ほぼ十分間の書き殴りなどやめて、休めばよかった。
小降りの雨は、強風をともなって勢いを増し、大降りになっている。きょうあたり関東地方は、気象庁の梅雨入り宣言をみるかもしれない。人間、生き続けることはほとほと困難である。
郷愁
きのう(五月十五日・土曜日)、気象庁はわがふるさと県・熊本を含む九州北部地方の梅雨入りを宣言した。あまりの早さに虚を衝かれた私は、ドギマギした。次の引用文は、それを伝えたメディア配信の一部引用文である。
【熊本県内梅雨入り 統計開始以来2番目の早さ】(熊本日日新聞 2021年05月15日20:00)。「福岡管区気象台は15日、熊本県内を含む九州北部地方が梅雨入りしたとみられると発表した。平年より20日早く、1951年の統計開始以降、54年(5月13日ごろ)に次いで2番目に早い。九州北部の梅雨明けは、平年が7月19日ごろ。昨年は7月30日ごろだった」。
閑話休題、文中記載の相良寺(あいらじ)は、直線距離にしてわが生家から500メートルほどの距離に位置する観音様である。近郊近在では昔から「安産のお寺」として、多くの参拝客を呼び込んでいる。なかでも、参段脇の「トビカズラ」は、寺の名声に大きな役割を担っている。こちらは送られてきた新聞からの全文転載である。ふるさと便と共に、熊本日日新聞(通称熊日)が意図して添えられていたのである。送ってくれたのはわが姪っ子の渡辺康子さんである。姪っ子は嫁いで冨田姓を変えて、現在は相良寺の近くに住んでいる。文中の冨田靖明君は、姪っ子の三男である。
「国の特別天然記念物『相良のアイラトビカズラ』が山鹿市菊鹿町相良の自生地で見頃を迎えている。推定樹齢千年にもなるマメ科の古木で、ツルから垂れ下がったブドウの房に似た紫色に花を咲かせる。市によると、冬場の霜などで花数は例年の半分ほどだが、5月の連休中まで楽しめるという。名前の由来は源平合戦の頃、近くの相良寺が焼き討ちされた際、千手観音がカズラに飛び移って難を逃れたという伝承にちなむ。現在は相良寺でも花を咲かせている。自生地では昨年、一部が誤って伐採された上、豪雨で斜面の一部が崩れるなどした。見回りを続ける菊鹿市民センターの冨田靖明さん(45)は、『困難に負けず、花が咲いてよかった。自生地の6割はまだ立ち入り禁止なので気を付けて』と話した。」
記事は写真添付だけれど、私には写真転載の技術はない。できれば写真愛好家のふうちゃんから、手持ちの写真の張り付けを願いたいものである。姪っ子は、今なおきわめて子煩悩である。記事にわが子の名が載った嬉しさを抑えきれなかったのであろう。もちろん、いたくわが共鳴するどころである。郷愁とは、「百薬の長」にもはるかに勝る、天からさずかる飛びっきりの恩恵である。早い梅雨入りの中の、ふるさとそして人々の安寧を願うところである。
モチベーション
人間社会には、モチベーション(意欲、意識)の有無あるいは高低という言葉が根づいている。人間が万物の霊長と崇められるのは、生きとし生きるもの中にあって、とりわけ精神や知能を働かすゆえであろう。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、わが下種の勘繰りである。それゆえに人間の行動や行為は必定、そのときどきのモチベーションに左右される。このことは物心ついて以来こんにちまで、自分自身、何事においてもわがこととして、体験してきたことである。気分の良い日のままごと遊びは楽しく、文字どおり遊び惚けていた。学童になって気分の良い日の宿題や漢字の書き取りは、親に言われることなくみずから進んで飯台(食卓)に就いて、またたく間に済ましていた。おとなになり仕事をするようになっても私は、常にモチベーションにつきまとわれてきた。現在の私は、いっそうモチベーションにつきまとわれている。すなわち、人間ゆえにゆえに絶えずにつきまとうしがらみである。
だとしたらわれのみならず人みな、モチベーションのしがらみから逃れることはできない。ところがモチベーションには、さきほどの有無や高低に加えて、ずばり良し悪しという、その時々の気分状態が映し出されてくる。おのずからこのことは、きわめて厄介である。なぜなら、その時々のわが気分は、おおむねモチベーションの低下に見舞われている。現在の状態に置きかえれば、私はモチベーションの低下に見舞われている。その証しには、この先、文章が書けない。その挙句、いたずら書きでオシマイである。
五月十五日(土曜日)、朝日の見えない、どんよりとした大空の夜明けが訪れている。自然界は文字どおり自然体のままである。モチベーションに左右される私には、羨ましいかぎりである。
苛まれ続けるわが心境
簡易な日本語を用いているにすぎないけれど、凡愚の私にとって書くことは、ほとほと心労きわまりない作業である。そのため、目覚めれば私は、心労の恐怖に怯(おび)えて、もう書きたくない思いに苛(さいな)まれている。一方で私は、この恐怖に負けて書くことを止めれば、たちまち認知症発症の恐れを感じている。つまり私は、日々この両者の鬩(せめ)ぎ合いに晒され続けている。そして、どちらかと言えば前者の思いに強く晒されている。だったら、(書くの、やめればいいだろう)、と声なき声が心中で、絶えず決断を迫っている。確かに、人様の助言にすがることもなく、わが瞬時の決断で済むことではある。ところが、生来のわが性癖(悪癖)の一つには、優柔不断というものがある。幸か不幸かこの悪癖がわざわいして、私は思い及ばぬ「ひぐらしの記」の継続にありついてきた。しかしこの継続も、今や風前の灯(ともしび)にある。きょう・五月十四日(金曜日)、寝起きにあっての隠しようないわが正直な心境である。
きのう(五月十三日・木曜日)、ほぼ一日じゅう降り続いていた雨はすっかり上がり、胸の透く清々しい夜明けが訪れている。太陽は音なく、外連味(けれんみ)の無い明るい朝日を地上いっぱいに、いや大気くまなくそそいでいる。こんな自然界の恩寵(おんちょう)のなかにあっても私は、こんな身も蓋もない思いにとりつかれている。「みっともない」どころか私は、ほとほと恥じ入る「愚か者」である。確かに、「バカは死ななきゃ治らない」。しかし、これくらいでへこたれて死ねば、生きるために懸命に戦っている、現下の世相に相すまない思いがある。
確かに、わが「身から出た錆」など、心労の内には入らないであろう。それでも、日々これにとりつかれているのは、わが小器の確かな証しである。そしてこれこそ、後天ではまったく直しようのない悪の根源である。このところの私は、小器の祟(たた)りに見舞われて、常にこんな直しようのない思いに晒されている。この思いは、文章のネタ不足の祟りでもある。やはり、書かずに、休めばよかったのかもしれない。
朝日が煌々とそそいで、眺望する家並みと遠峰は、反照で光っている。自然界は無償で、私に気分休めの効果覿面の処方箋を恵んでいる。自然界の恵みは、私いや人が、生き続ける喜びをなす一つである。だったら、嘆くまい! いや、嘆けば損である。
またもや、寝起きの「戯言(ざれごと)」
五月十三日(木曜日)、小ぶりの雨が降っている。早や、梅雨入りかな? と、思える夜明けの空である。おのずから鬱陶しい気分がいや増している。いや増す土台は言わずと知れた、新型コロナウイルスがもたらしている現下の日本社会の世相である。すなわち日本社会は、新型コロナウイルスのもたらすさまざまな現象の渦中にある。さまざまと書いたけれど、もちろん明るいことなどまったくなく、暗いことばかりの混乱状態にある。
ところがこの混乱状態は、人間のだれのせいとすることはできない。おのずから、罪のなすり合いはご法度である。ひたすら人間は、新型コロナウイルスの衰えを願って、待つのみである。しかしながらじっと待つだけではやはり、人間としてはなさけない。そのため、知恵ある人間は対抗手段としてワクチンを生み出したのである。ところがワクチン接種にはおのずから、優先順位をともなう順番がある。すると人間心理は現在、接種の順番取りに慌てふためくこととなっている。
確かに、生き続けるためにはおおむね、早い者勝ちは人みな共通の願望である。だとしたら順番取りに競争心が湧くのは、あながち身勝手と非難すべきものではない。しかしながら人間心理は、競争に負けた者は勝った者にたいし、恨みつらみを言いたがる。これにもとより、接種におけるハード(病医院や特設会場)とソフト(接種対応の医療関係者)の準備がととのわずに、接種を予約するだけでも想定外の混乱状態を招いているという。これまた、だれを責めることもできない。なぜなら現場の人みな懸命に、接種の対応に腐心されていると、メディアを通して伝えられてくる。そうであれば現在は、人間固有の節度の存在(証し)を見せるべきときであろう。
新型コロナウイルスにかかわるワクチン接種の予約における混乱状態は、いみじくも人間に節度が有る無しやを試されている。ただ浅ましいだけではもとより、人間の価値はない。「人の振り見て我が振り直せ」。心すべき、わが寝起きの戯言(ざれごと)である。焦らず待てば、「待てば海路の日和あり」。しかし、生きるためには人みな、そうはいかないのであろう。「うべなるかな!」。
確かに、人間はときには自分が生きるためには、浅ましい行為や行動を余儀なくする。仕方なくそれは、許されるであろう。不幸にも新型コロナウイルスは、いやおうなく人間の生きる修羅場をさまざまに見せつけている。それゆえ、新型コロナウイルスとの戦いは、人間共通の戦いである。人間の知恵が、「負けるわけにはいかない」。
戦いと闘い
きょう・五月十二日(水曜日)から月末日(三十一日・月曜日)まで、新たな新型コロナウイルスとの闘いが始まる。この間には、予約済のわが一回目のワクチン接種が挟まっている(五月二十日・木曜日)。
わが家とわが日常生活は、妻の腰の損傷以来、突然一変している。日本社会と国民は、優に一年を超えて新型コロナウイルスとの戦いの渦中にある。挙句、人みな気鬱な日常生活を強いられている。いやいや、こんな呑気なことは書いてはいけない。新型コロナウイルスは、日に日に多くの感染者数と、死亡者数のカウントを重ねている。もちろん、気分が滅入るところではなく、人の命が絶たれているのである。すなわち、人みな悲しい現実に晒されて、生命の維持に文字どおり懸命の闘いのさ中にある。
現下、日本社会だけでなく人間社会は、命の存続すなわち生き続けることの困難さに苦闘する日々にある。はたして人間社会は、いつの日にこの苦闘から逃れることができるのか!。結局、人間社会は神仏の加護など当てにならずいや当てにせず、ワクチンにすがることだけが唯一無二の新型コロナウイルスに立ち向かう、世界の国々と人々の共通の武器と言えそうである。まさしく、異界の魔物と人間の知恵の闘いである。いずれは人間の知恵が勝つであろうと、私は信じているところである。
それにしても人間社会は、長い戦いを強いられている。きのうの気象予報士は、日本列島各地の梅雨入り日の予想図を示していた。すでに沖縄と奄美地方には気象庁から、梅雨入り宣言がなされている。新たに延びた緊急事態宣言のほか、さまざまな新型コロナウイルス対応策が空振りに終われば、この戦いは梅雨のさ中の戦いとなる。なお梅雨が明ける頃まで戦いが延びれば、新型コロナウイルスは「東京オリンピック」(七月二十四日・開幕日)と、ひと月後れて続く「パラリンピック」(八月二十四日・開幕日)に大きな妨げとなる。
現下の日本社会と国民は、まさしく新型コロナウイルスとの戦いの中にある。加えてわが家とわが日常は、アクシデントのさ中にある。どちらからも私は、恐々の日常生活をを強いられている。おのずからこの頃のわが気力は萎えて、文章の執筆とわが意気は絶え絶えである。まったく、様にならない。確かに、わが気分は「嗚呼、無情」、人生は「嗚呼、無常」である。
寝起きの書き殴りに甘んじて、ほとほとかたじけなく思う、夜明け心である。朝日は、くまなく輝いている。
反芻(はんすう)
五月十日(月曜日)、久しぶりに目覚めが早く、のんびりと電子辞書を開いて、反芻(はんすう)という語句の復習を試みた。実際には今さら復習するまでもない、子どもの頃より見聞きして、知り過ぎている語句である。
『反芻』①一度のみこんだ食べ物を再び口中に戻し、噛み直して再びのみこむこと。典型的にはウシ目(偶蹄類)の哺乳類が行う。②二度三度くりかえし思い、考えること。
前者についてはわが家の牛で、しょっちゅう見ていた。牛は日がな一日、口を動かしていた。このとき私は、反芻という言葉(語句)を学んだ。しかしこの語句に、こんなにも難しい漢字をあてることなど、当時は知るよしなかった。こんなにも見慣れない漢字は、今でも漢字テストでは書けないであろう。確かに、電子辞書にかぎらず紙の国語辞典をひもといて、なんども書き取り練習をくりかえしても、覚えきれそうもない。ほとほとなさけない、わが脳髄の劣等である。
さて、必ずしも当を得ないけれど私は、実際のところは②の意味になぞらえて、反芻という語句のおさらいを試みたのである。それは、大袈裟好きのわが性癖の証しでもある。私は「寝ても覚めても」、心中にとりとめなく浮かんでくる語句をめぐらしている。もちろん、寝床の中で眠りこけているときには浮かべようはない。いやこのときは、常に悪夢に魘(うな)されている。確かに、寝ても覚めてもと言うことは、身の程知らずの大袈裟あるいは誇張な表現である。しかしながら、めぐらしていることは確かな事実である。もちろんそれは、言葉や語句の忘却阻止のためである。わが文章など、容易きわまりない言葉や語句の羅列にすぎない。それでも、容易なものさえ浮かばなければ、文章はたちまち頓挫に見舞われる。
確かに、これまでの私は、この苦衷を何度味わってきただろう。ところがそのうえ、年齢を重ねるにつれて言葉や語句の忘却傾向は、いっそう加速度を増しつつある。それを防ぐにはしょっちゅう、心中に言葉や語句をめぐらしているより、ほかに逃れる手はない。こんななさけない理由で目覚めにあって私は、実際のところは似ても似つかぬ、反芻という語句をめぐらしていたのである。新型コロナウイルスのことなど書き飽きて、書きたくなければこんなどうでもいいことしか書けない。
きょうはわが身(八十歳)に訪れた、ワクチン予約開始日である。自然界は、今朝もまた明るい陽射しののどかな朝ぼらけを恵んでいる。ところが、いつもとはかなり異なるわが気分である。