ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

年の瀬にあって、とんだ災難

 十二月二十三日(水曜日)、わが心境はきのうから変調をきたしています。実際のところ身体は健康ながら、精神は死に体です。すなわち、広くデジタルの世の中にあって、私はパソコン病に見舞われて精神の病に罹っています。腹立たしさこのうえない状態です。
 腹立たしさの対象は、マイクロソフト社とわが無能力です。きのうはほぼ半日以上にわたり、マイクロソフト社のサービスセンターの女性担当者、すなわち入れ代わり立ち代わりの四名の人たちと対応に追われました。しかし対応は実らず、私は疲れ果てました。挙句、わがパソコンと私はoutlookの機能、具体的にはメールとワードの機能を失くしました。これらが使えないと私は、もはやお手上げ状態です。人様の交流はメールで、そして「ひぐらしの記」はワードで書いて、掲示板へ貼り付けているからです。
 マイクロソフト社への憤りと、わが無能力をさらけ出して、突如現れた警告メッセージを書き添えます。一つは、「製品に関するお知らせ:outlookはライセンス認証されていません。outlookを継続して使えるように、2020年12月25日までにライセンス認証を行ってください」。一つは、「サインインしてofficeを設定する」。
 わが無能力は、このメッセージに対応できません。マイクロソフト社のアドバイスも埒明かず、私は対応を諦めました。現在使用中のパソコンは、三年前に買い替えたばかりのものです。予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています。

ユズの実

 きのう、「冬至」(十二月二十一日・月曜日)が過ぎた。きょう(十二月二十二日(火曜日)は、半年先すなわち令和三年(二〇二一年)の「夏至」(六月二十一日)へ向かってのスタートとなる。遠い先のことのようだけれど、半年など短い時のめぐりである。特この先、新型コロナウイルスの終息が見えないなかではなおさらである。確かに、そのことに気を取られていると、アッというほどもない短い時のめぐりを再び体験することとなる。なぜならこのことは、今年すなわち令和二年(二〇二〇年)で、身に染みて体験している。
 日に日に伝えられてくる感染者数の数値に怯えているうちに、半年はおろか早や一年が過ぎようとしている。これに応じてわが余生は、速足で持ち時間を縮めるばかりである。きのうの私は、暮れ急ぐ昼間のうちに「ユズ風呂」に浸かった。浸かりながら、浅ましく無病息災を願った。もちろん、浮かぶユズに願掛けをする人間の強欲さも味わっていた。
 浮かぶユズの実を揺らし近づけて、手に取り鼻先へ近づけた。たちまち、ユズの香りに心(気分)が和んだ。すると私は、古人(いにしえびと)の知恵に感嘆した。現在の世は、人工的に香りをつけて商品化されている。ところがそれらの香りは、さりげないユズの香りに比(くら)べ負けのところがある。ユズ風呂は願掛けなど欲張らずこの香りに、慌ただしい年の瀬の気分を和めることこそ、それで十分の価値があると言えそうである。そのうえ、暮れ急ぐ昼間のうちにユズ風呂に浸かれば余計、冬至にまつわる思いは切々たるものがある。
 私はユズの木を仰いで、十個余りをとった。リスに残す実は一つもなく、全部とり終えた。傍らの妻は、隣と向かいの二軒に、二つずつ持って行った。生る年に比べれば、三分の一程度の配りにすぎない。それでもどうにかわが家の年中行事を済まして、わが夫婦の皺だらけの顔は、ちょっぴり笑顔になった。ユズの実の役割は、ユズ風呂だけではない。

「冬至」

「冬至」(十二月二十一日・月曜日)。私にはきわめて感慨のつのる日である。一つは、「夏至」と対比されて一年のなかで、半年ごとの折り返し点である。一つは最も夜間が長く、そのぶん最も昼間が短い日である。さらに加えれば冬至にまつわる古来の風習、すなわちユズ風呂がある。ユズ風呂に息災を願うのは、もちろん心もとないところがある。けれど、年の瀬にあって心の和むところはある。
 わが家の庭中のユズの実は、冬至に合わせて黄色く熟れている。しかしながらユズの実の出来は不作で、両手の指の数ほどしか着けていない。これではきょうは、わが家だけのユズ風呂にしかならない。鈴なりのときのユズの実は、向こう三軒両隣へ持ち込んでいた。すると、義理立ての微笑み返しに出合って、寸時心が和んだ。
 ところが、生りの不作をこうむりきょうは、ユズの実にすがるささやかな近所づきあいは諦めざるを得ない。ちょっぴり、寂しい冬至の夜明け前を迎えている。そのうえ現在は、わが身に堪える寒波の訪れに遭っている。冬至はこの先、本格的な寒波の訪れのシグナルでもある。
 一方では寒波に耐えてそれを乗り越えれば、暖かい春の日が訪れる。そのため冬至にあっては、まさしく一陽来復の思いつのるところがある。これらのことは冬至にまつわるわが感慨であり、同時に時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)くばかりである。もちろん私は、迷信とも言えるユズ湯など当てにすることなく、不断から無病息災を願っている。しかしながらままならず、わが日常の営みは病に怯(おび)えるばかりである。
 現在は、胃部不快感に怯えているところもある。そしてきょうは、妻と相成して患者に成り下がり、そろって歯医者の予約日である。人間にとりつく四苦、すなわち「生・老・病・死」を強く思わずにはおれない冬至の朝の訪れにある。うっすらと、長い夜が明けつつある。

年の瀬はカウントダウン

 十二月二十日(日曜日)、現在、パソコン上のデジタル時刻は3:23と、刻まれている。年の瀬も大晦日に向かって、いよいよカウントダウンの始まりである。ところが、いっこうに年の瀬の感じがない。もちろん、来る日も来る日も新型コロナウイルスの終息に気を留めているからである。実際のところはいまだに収束の兆しさえ見えず、日々恐怖感がつのるばかりである。確かに、日本国内の感染者数はなお勢いを増しつつある。おのずから、収束や終息は新しい年すなわち来年(令和三年)へ持ち越しとなる。
 こんななかにあって私は、新型コロナウイルスのせいであらためて人間の素晴らしさに気づき、感嘆しているところがある。具体的には、人間の知能や知恵への感嘆である。なお具体的には、新型コロナウイルス対応のワクチン開発の速さである。新型コロナウイルスは、突如として人間界に現れた異界の魔物である。それなのに人間の知恵は、それに抗(あらが)う薬剤を研究開発し、設備をととのえて製造して人体に接種できるまでになったのである。そして、そのスピードは一年足らずの速さである。すると、私にはこの速さが人間の驚異に思えている。新型コロナウイルスの脅威に明け暮れるなかにあって私は、このことを知り得たことは唯一の望外の幸運だった。このことを強く感じたため、きょうは記して置きたい思いに駆られていたのである。
 私には、「人間、万歳!」と、言えるところがある。いや、「人間、賛歌!」と、言いたいところである。

人生の哀歓、いや哀感

 十二月十九日(土曜日)、気分悪く起き出している。就寝中、胃部不快感をおぼえていたせいである。おのずから、起き出しても気分が滅入っている。就寝中の胃部不快感は、このところ常態化しつつある。こんなことで現在、文章を書く気分が殺がれている。こう書いてこの先書けず、休養を決め込む手はある。しかし、せっかくキーボードへ向かっていることでもあるから、ふと浮んでいる成句を書いて、夜明けまでの時間を埋めることとする。
 電子辞書を開いて復習するまでもなく、だれもが日常的に用いる成句を三つほど書き添えることとする。こんな成句が浮かぶのは胃部不快感にともない、わが身に焼きが回っているのであろうか。そうであれば、「くわばら、くわばら……」である。
 【禍福は糾(あざな)える縄の如し】:幸福と不幸はより合わせた縄のように表裏一体であるということ。
 【塞翁が馬】:人生の幸不幸は予測しがたいことのたとえ。出典:淮南子・人間訓の故事に基づく句。昔、中国の北辺の塞(とりで)近くに住んでいた占いの巧みな老人(塞翁)の馬が胡の国に逃げた。気の毒がる隣人に老人は「これは幸福の基になるだろう」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬(しゅんめ)を連れて戻ってきた。隣人がそれを祝うと、老人は「これは不幸の基になるはずだ」と言った。老人の家は良馬に恵まれたが、駿馬を好む老人の子が落馬して足の骨を折ってしまった。隣人がそれを見舞うと、老人は今度は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後胡軍が大挙して侵入し、若者のほとんどが戦死した。しかし、足を折ったその子は戦わず済んだので、親子ともども無事であったという。
 【沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり】:人生のうちには悪いときもあればよいこともあるということ。悪いことばかりが続くものではないというたとえ。
 ……そうかなあー……。夜明けまではまだたっぷりと悶(もだ)えそうである。

私は弱虫

 「人間は考える葦である」(パスカル)。この意味するところは珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。しかし、私も人間のはしくれだから、雑駁(ざっぱく)な感情は持っている。そして、日々それに悩まされ続けている。もちろん、多雪地方の人たち、はたまた新型コロナウイルスの感染に罹られている人たちの苦しみをおもんぱかる気持ちは持っている。今の私は、寒気に音を上げそうになっている(3:28)。人間ゆえに、大小の苦しみはだれにでもある。万物の霊長と崇(あが)められるけれど、実際のところは苦しみ多い人類と言えそうである。
 年の瀬、十二月十八日(金曜日)、私はこんな思いをたずさえて起き出している。語るや書くに落ちる、まったく「バカじゃなかろか!」である。この誘因は起き立ての寒さに遭って、泣きべそを書いているせいである。私は暴風雨や嵐に耐え忍ぶ「葦」の強さが、妬(ねた)ましい弱虫へ成り下がっている。おのずから「ひぐらしの記」は、風前の灯火(ともしび)にある。
 ところがきのうは、ひぐらしの記の書き手冥利に尽きる、飛んでもない恩恵にあずかったのである。具体的には、きのう書いた『感涙! 感謝!』の文章に書き尽くしている。すなわちそれは、平洋子様のご投稿文のおかげで、闘病中の恩師の近況と近影を知る幸運にさずかったのである。まさしくそれは、「継続は力なり」からもたらされた、うれしいオマケだった。
 能無い私にとってひぐらしの記を書き続けることは、もとより苦難の業(ごう)である。ところが一方、私はひぐらしの記を介在して、多くの幸運にありついている。それらの中でもきのうたまわった恩恵は、ピカイチ! と、言えるものであった。だったら、寒さにへこたれてはおれない。しかしやはり、そんな強がりは止めて、いや寒さに負けて、この先は書き止めである。ほうほうのていで、三十六計逃げるが勝ちの心境である。

感涙! 感謝!

 十二月十七日(木曜日)、普段とは異なる心境をたずさえて置き出しています(3:46)。ひと言で言えば、人間の情愛の深さに心打たれています。それをもたらしているのは、思いがけなく掲示板上にたまわったご投稿文と三枚の写真のおかげです。お写真は新型コロナウイルス禍にあって、闘病に打ち勝たれている恩師、すなわちわが小学校一年生そして二年生時代の一組の担任であられた「渕上先生」(うら若き独身時代のお名前)のお姿です。
 前置きが長くなりました。洋子様、まことに勝手ながら、ご投稿文を「ひぐらしの記」へ移さしてください。お写真の転載は、電話なりで洋子様のお許しを得てからにいたします。文章の転載は、お許しを得ないままであり、切にお許しください。ブログの性質上、あらためて洋子様をご紹介いたします。洋子様は恩師、平先生のご長男の奥様です。愛情深い文章、恩師のお姿、さらには時節柄のふるさと風景の写真など、読んだり、眺めたりしてわが心は満ち足りています。その表れをずばり、表題といたします。


 「年の瀬 投稿者:平 洋子様 投稿日:2020年12月16日(水)18時36分1秒。
 「慌ただしかった一年がもうじき終わろうとしています。思い返せば1月半ばの義母の入院から始まった令和2年でした。元気でデイサービスに行った次の日の急な発熱と入院、2月半ばには新型コロナウイルスの発生による面会制限、2度にわたる転院、そして今は介護付きの老人ホームで穏やかな毎日を過ごしています。その間、私の骨折・手術・2ヶ月にわたる入院で、夫には大変な思いをさせました。その夫も人間ドックで発見された大腸ポリープ をとる という未だかってない経験をすることになりました。今まで何事もなかったのがむしろ奇跡なのかもしれません。コロナウイルスのせいで義母との面会や外出がままならないのがもどかしく、着替えの受け渡しで状況を想像することしかできません。カメラを預けているので、時々撮影していただいています。なるべく家にいる時のような環境にしたいとのことでしたので、 家族の写真や頂き物など届けると部屋に飾ってあります。丸山宏子様からのお手紙も、食い入るように読んでいる姿を写真で見ることができました。窓越しの面会はできるようになったので、時々は会いに行けるかなと思います。先日、若い女性と話をする機会がありました。人と接する仕事なので賑やかなところに行くのを避けているし、短時間で買い物を済ませているとのこと。なんとなく世の中暗いですねと、言われていました。若い人でさえそうなんだと、ますます落ち込みそうになりました。ことしは早めに餅つきをして県外の次男に送るつもりです。うちのお餅がいいとのこと、お屠蘇には熊本名産の赤酒を送ろうかなと思います。超自粛のお正月が今回だけで終わるよう願う次第です。」

「時の言葉」

十二月十六日(水曜日)、もうどうにもならない、もうどうしようもない、という共に似たような意味の二つの言葉を浮かべて置き出して来た。浮かべた言葉はもちろん、新型コロナウイルスの感染拡大にたいしてである。イギリスやアメリカからは、ワクチン接種開始のニュースが伝えられ始めてはいる。それでも世界中は、いまだに新型コロナウイルスの感染恐怖に晒されている。そのため、これにかかわるニュースは、日々いっこうに絶えることはない。日本の国の舵取りにあっては、菅総理がまさしく陣頭指揮を揮われて、新型コロナウイルスの感染封じ込め策に大わらわである。もちろん、世界中の自国の舵取りを担う為政者(大統領や首相)も甲乙つけがたく、同様に躍起である。それでも、新型コロナウイルスの感染(力)を封じ込めることはいまだなく、これにまつわるニュースが途絶えることはない。
こんなさ中にあって、甲乙つけたいようなニュースが流れて来た。いや、日本の国にからは乙にとどまらず、丙、丁とも言えそうななさけない話題である。それは、一度文章の中に明らかな揶揄(やゆ)として引用した菅総理の「ガースー」という、自称言葉である。親しみと受けを狙ったこの言葉は意に反して、たちまち物議を醸(かも)して非難囂囂(ひなんごうごう)をこうむるさ中にある。確かに、新型コロナウイルス禍にあっては、物議を醸す「時の言葉」と言えそうである。
一方、世界中の国々や人々から、称賛を浴びている「時の言葉」はこれである。
【拳振り上げ感情爆発「メルケル首相」厳戒ロックダウンの成否】(新潮社 フォーサイト2437)。「ドイツのアンゲラ・メルケル首相が12月9日に連邦議会で行った演説は、歴史に残るだろう。普段は冷静沈着なメルケル首相が、珍しく感情を露わにして国民に対しコロナ対策への協力を求めたからだ。普段のポーカーフェースを脱ぎ捨てた、彼女らしからぬ演説は、今日のドイツの事態の異常さを際立たせた。」
日本の国の総理大臣も、できたら「こうありたい」ものである。
長い夜は「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、カウントダウンさ中の寒い夜にある。しかし、身に染みる寒さは、気象だけがもたらしていることでもない。国を違(たが)えての「時の言葉」の優劣もまた、わが身にブルブルと、寒さをもたらしている。

「おためごかし」

 十二月十五日(火曜日)、年の瀬は半ばにある。気象庁の予報どおり日本列島には、真冬並みの寒波が訪れている。北の地方の予報には普段の天気や気温に加えて、競い合うかのように積雪の高さが報じられている。それを聞くたびに私は、身震いをおぼえるところがある。もちろんこれだけでは相済まなくて私は、北の地方の人々の日暮らしに思いを馳せている。確かに、寝床の中でも私は、寒気を感じていた。すると、寝床に恋をして未練が残り、置き出しを渋っていた。それでも、置き出さなければならない。なぜなら、これこそ一日の始動をもたらす人の世のつらい習いである。
 私は渋々起き出して来て、いつもどおりにパソコンを起ち上げた。そして、これまた習性どおりに、配信ニュース項目を瞥見(べっけん)した。それらの中で、このニュースに目を留めた。
 【GoToトラベル 28日から1月11日まで全国で停止へ 首相表明】(産経新聞)。「政府が新型コロナウイルスの感染拡大を受け、観光支援事業『Go To トラベル』について、年末から全国で一斉に一時停止する措置を決めた。これまでは事業の経済効果を重視して小出しで運用見直しを繰り返してきたが、年末年始の人の移動を抑えるため、より強いメッセージを出す必要があると判断した。後手後手に回った対応で内閣支持率も急落しており、菅義偉首相もようやく『引き締め』にかじを切った。」
 なんとこれは国の舵取りにあって迷走、すなわち「ごちゃ、ごちゃ」と、思えるニュースだった。もちろん私には、本格的な対策とは言えない、為政者のメンツと保身まみれの、「ねこだまし」みたいなものだった。
 『猫騙し』(相撲の立ち合いで、相手の目の前で両手を打ち合わせて相手を驚かす奇襲技)。
 いや、実際のところは「ねこだまし」とは言えそうにない。なぜなら、相手(国民)はまったく驚かずに、国の舵取りのバカさ加減に驚くばかりで、奇襲の効果はまったくない。そうであればこのことば、すなわち「おためごかし」が適当に思えている。
 『御為倒し』(表面は相手のためになると見せかけて、実は自分の利益をはかること)。
 わが下種の勘繰りでこう思うのは、もともとの年末年始休みと重ねるという、いい加減さである。
 寒い中の置き出しにあって、この先を書く価値はない。国の下手な舵取りには、気象のもたらす寒さを超えて、いっそう身が縮む思いにある。

妻同行の歯医者、そして買い物行

 十二月十四日(月曜日)、予報によれば今週には寒気が訪れるという。冬季という時節柄、慌てることはないけれど、これまで暖かい日が続いていただけに、寒気に身構えるところはある。いやいや、予報どおりに寒気が訪れれば、きわめてつらい週となる。
 確かに、冬季にあっては、いつまでも暖かい日が続くはずはない。しかしながら欲深い私は、のほほんとしてなおそれを欲張っていた。とりもなおさずわが身体は、暖かさに慣れきっていた。そのため、思いがけない寒気の訪れには慌てふためいている。加えて、きょうの私には予約済みの歯医者通いがある。ところがこれには、先週から妻を連れ立っている。妻は、単なるわが付き添い役や介添え役ではない。妻自身もまた、私の次にひかえる患者である。早い話わが夫婦は、ほぼ同時間帯に予約を入れられた、M歯科医院(鎌倉市大船)の患者なのである。
 私同様に妻もまた、従来のS歯科医院(横浜市栄区)から鞍替えしたのである。もちろんこの鞍替えは、S歯科医院の技術を見限ったからではなく、この先の加齢をおもんぱかり、余儀なくしたものである。実際のところ鞍替えの理由はただ一つ、通院行程の不便によるものだった。S歯科医院の場合は、路線バスを降りて速足で、二十分強の徒歩を強いられていたのである。ところが、鞍替えしたM歯科医院の場合は、バスを降りて待合室の長椅子に腰を下ろすまでも二分足らずである。そのうえ、M歯科医院の技術は、卓球クラブの先輩の折り紙付きでもあった。
 M歯科医院へ先行していたわが感想では、通い易さとそして技術共に、十分納得できるものだった。そのためこんどは、私が妻をM歯科医院へ誘導する羽目となったのである。ところが幸いなるかな! 先週の初回のおりの妻もまた、私同様にM歯科医院への鞍替えに十分納得していたのである。妻同行の歯医者通いは、きょうで二週目である。もちろん歯医者通いとなれば、ありがたい同行ではなく、やむにやまれぬ同行である。私の場合はきょうで七週目であり、おのずから治療の打ち上げは、私のほうが早いはずである。しかし、家計からしたらこの先、延々と続くお金(治療費)の持ち出しとなる。妻の治療を待って、二人分の支払いを済ますのは私である。そしてその先には、ついでの二人しての買い物行となりそうである。
 すると気になるのはやはり、新型コロナウイルス禍にあっての感染恐怖である。妻にかぎらず主婦の買い物は財布をあずかるせいか、買い物時間はかたわらで待ち飽きるほどに、品定めが馬鹿丁寧である。普段にあっても妻同行の買い物にあっては、私は「早くして! 速く買って!」の連発である。ところが、新型コロナウイルス禍にあって、買い物客まみれの中での長居には、感染に慄(おのの)くばかりである。
 きょうの妻同行の歯医者通いとそれに続く買い物行には、わがひとりのときとは違って、二倍の感染脅威に晒されることとなる。二人そろっての予約時間は午前十時である。もとより、二人分の医療費はわがなけなしの財布(お金)からのお出ましである。きょうの私は寒気の訪れとともに、オチオチしておれない年の瀬の半ばにある。