ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

人みな、人生苦

 年変われど、虫けら、鳥、魚、あまねくその他の生きもの同様に、習性にしたがってほぼ同じ時間帯に目覚めて起き出しています(3:06)。このところ寒い日、冷える夜が続いています。ほとほとつらく、バカげた習性です。おのずから、行動的には自粛、巣ごもり、蟄居、精神的には気鬱症状の日常生活をこうむっています。言うなれば心身ともに、開放感の無い抑制生活に甘んじています。書くまでもないことを書いたのは、手持ち無沙汰の時間をちょっとだけでも埋めるためです。もちろん、気狂いはしていません。人生苦に、脅かされているにすぎません。われのみならず、人の世はみな、人生苦まみれです。新年に相応しくない文章を書き初めにして、詫びる気持ちいっぱいです。

「箱根駅伝」

 三が日にあってきょう二日は往路、そしてあす三日は復路、「箱根駅伝」のテレビ観戦日です。号砲、待ち遠しくて眠れません。ステイホームにあって、巣ごもりの愉しみです。

新年、元旦

 令和三年(2021年)が明けました。ただ、個人生活、社会生活、共に厳しい一年が予測されています。

除夜の鐘

 寒波の予報の下、大晦日(木曜日)を迎えています。今年・令和二年(二〇二〇年)一年、お世話さまになりました。各位様にはつつがない越年を希望いた
します。

休みます

 わが能力をはるかに超えて、長く書いてきました。くたくたに、疲れました。

「御用納めの日」

 十二月二十八日(月曜日)、ちっぽけな卓上カレンダーには、「官庁御用納め」と記されています。この表記を見ると、官尊民卑の世の中の名残を想起いたします。できれば官庁を省いて、「御用納めの日」くらいでいいと思います。それでも、いくらか不愉快のところがあります。なぜなら、年末年始を休めず、働き尽くめの人たちはたくさんいます。特に、新型コロナウイルス禍にあっては、たくさんの人たちが世のため、人のため身を粉にして働き続けてくれます。人の世は、今さらながらこういう人たちで成り立っていることを感じ取った一年でした。
 さて、私は今年もたくさんの下手な文章を書き続けてきました。すると、ご常連の人たちが日々、義理チョコを超える真のご厚情で、「ひぐらしの記」へ訪れてくださいました。声なき声の励ましが無ければ、もちろん「ひぐらしの記」の継続はありません。心より御礼を申し上げます。そして、大沢さま、平洋子様、角田様、高橋弘樹様、古閑君、ふうちゃん、これらの人たちのご投稿文、さらにはブログ読者で名前を浮かべている山内様、名を列ねる友人たちすなわち渡部さん、大森さん、谷口さん、マーちゃん、これらの人たちには、日々励まし続けられてきました。同様に、心から御礼を申し上げます。
 きょうは新型コロナの感染を防ぐために要請されている、「静かな年末年始」の始めの日です。みなそろって、つつがない越年と静かな正月を迎えたいものです。もちろん、辞世のメッセージではありません。寝坊助が祟り、慌てふためいて書き添えたものです。「ひぐらしの記」は継続します。できればこの先、なお人様との交流を望んでいます。身の程知らずの欲張りは、わが「身から出た錆」です。感謝と詫びが同居する、年の瀬になりました。

新型コロナウイルスがもたらす、わが世界観

 テレビ映像でマスク姿を観るかぎり、確かに世界は一つである。必ずしも有意義な学びとは言えないけれど、新型コロナウイルスの蔓延状況から、学んでいるわが世界観のひとつである。これくらいは学ばなければ令和二年(二〇二〇年)は、まったく為すすべなく閉じることとなる。
 「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」。世の中に疎(うと)い私の場合、とんだことで学んだ世界観とはいえ、いくらかありがたく思えるところはある。だけど、世界中が悲惨な状況にあっては、あえてこんなことを吐露することは、やはり罰当たりであろう。それでも私は、わが身に染みてかつ臨場感をもって、さまざまな現場映像から「世界は一つ」という、思いをつのらせている。
 世界の国々にあっても、だれひとりマスク無しに歩いている人はいない。はたまた、医療現場における医師、看護師、そして患者模様は、普段日本国内で垣間見る動きとまったく同様である。今さらながら私は、「百聞は一見に如かず」の意味を、テレビ映像を通して学んでいる。どれもこれもが海外、すなわち異国の光景とは思えないものばかりである。グローバル時代にあっても私は、まさしく「井の中の蛙」状態に甘んじている。それによるわが世界観の乏しさは、ほとほと恥じ入るばかりである。挙句私は、デジタル社会はもとより、グローバル社会にも住めない生きる屍(しかばね)状態にある。年の瀬にあってこんなことを吐露し、さらに書くようでは「身も蓋もない」。
 新型コロナウイルスで明け暮れている日本社会にあって、多くの人はすでにきのう(十二月二十六日・土曜日)あたりから年末年始休暇に入っている。このことを私は、きのうの買い物のおりの人出の多さで実感したのである。つまりきのうの私は、正月用の買い物客の多さに出遭って、だれもが余儀なく「ホームステイ(在宅)」を決め込んでいることを実感したのである。そしてその光景は、おのずからソーシャルディスタンス(二メートルほどの距離)など、ままならない混雑ぶりだった。過ぎたイブやクリスマスの日に、テレビに映された世界中の光景もほぼ同様だった。
 新型コロナウイルスはいやおうなく私に、新たな世界観の学びをもたらしている。だからと言って、「棚から牡丹餅」と嘯(うそぶ)くことはできず、オロオロとするばかりである。わが家の正月用の買い物は、密を避けてきのう一度きりで早じまいである。「ホームステイ」の要請は、神妙にうけたまわっている。

表情と言葉

 新型コロナウイルスの感染者数は、日々いっそう勢いを増している。危機に瀕してそれを止める訴えの表情と言葉は、もとより大きな力となる。テレビ画面を通して見聞きする医療関係者の表情と言葉には、だれしもにも切々たる必死さが表れている。その訴えに応じて私は、自分自身は感染をこうむるような迷惑行動や行為は避けようと決意する。言うなればこのところの医療関係者の国民にたいする感染防止の訴えは、身の縮む思いである。
 昨夕(十二月二十五日)六時より、テレビ画面には菅総理の記者会見模様が放映された。分科会の尾身茂会長をともなっての記者会見であった。おのずから私は、感染防止を国民にたいして訴える、お二人の表情と言葉の勢いを比べる幸運に恵まれた。特に私は、菅総理の表情を凝視し、言葉に聞き耳を立てた。その理由は先日のテレビニュースにおいて、中川医師会会長をはじめとする医療関係者と菅総理の表情と言葉において、菅総理に憤懣やるかたない思いをいだいていたからである。
 前者のそれには、猛犬に襲われる怖(こわ)さが漲(みなぎ)っていた。一方、菅総理の表情は普段と変わらず凪(なぎ)状態で淡々として、国民へ訴える言葉は犬の遠吠えを聞くほどに緊張感のないものだった。
 ニュースの映像は年末年始を控えて、国民いたして感染防止にいっそうの協力を求めることと、当事者としての並々ならぬ決意表明であった。双方を比べれば表情にはもちろんのことと、言葉にも明らかな違いがあった。すぐさま私は、菅総理の言葉にがっかりし、たちまち腹が立った。それは「なんとか、感染を押さえていただきたい……」という、言葉だった。先ずは。「なんとか」という言葉の曖昧さであり、頼りなさである。私は「なんとか」など使わず、「なんとしても」あるいは「どうしても」という言葉を使ってほしかったのである。もちろん、強い決意を表す言葉はほかにもあまたある。このときに用いる言葉として「なんとか」は、最もまずい言葉である。なぜなら、当事者としての必死さはまったく伝わらない。輪をかけて「いただだきたい……」という言葉は人任せであり、菅総理自身の決意はまったく聞き取れない。
 ところが、このときわが胸に生じたがっかり感は、きのうの会見においてはいくらか和らいだ。具体的には表情と声に緊張がいくらかあふれていたからである。そのうえ、「なんとか」は、わが意とする「なんとしても」に、置き換わっていたのである。しかし、尾身会長の必死さに比べれば菅総理のそれは、もちろん表情も言葉もまだまだである。極め付きは「雲泥の差」という言葉である。加えて、訴える表情、すなわち身体のパフォーマンスも足りない。
 私は尾身会長の必死な訴えに呼応して、静かな年末年始を肝に銘じている。危機に瀕し訴える表情と言葉は、考え抜けば無償の武器となる。

予告、撤回

 十二月二十五日(金曜日)、幸運にもギリギリのところで予告撤回にありついている。私はおととい(十二月二十三日・水曜日)の文章、すなわち『年の瀬にあって、とんだ災難』の文尾に、次の項を書き添えていた。「予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています」。諦めとはそれですっきりするものではなく、私はやるせなく悶々とする渦の中に放り込まれていた。
 ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」。私は実在する二人の神様に拾われたのである。まず拾って、紹介を得て助けてくださった女神は大沢さまである。次に、修復作業で助けてくださった男神は、それまでは存在さえ知らずにいた人である。すなわち、大沢さまはわが難儀をおもんぱかり、デジタル社会を難なく闊歩されている技能者をご紹介してくださったのである。
 マイクロソフト社にあって入れ代わり立ち代わり、男性一人と女性四人つごう五人との相談の明け暮れにも埒明かず、私は疲れ切っていた。なぜならマイクロソフト社との修復のやりとりは、朝っぱらから夕闇迫る頃まで続いていた。それでも修復ならず疲れ切り、私は修復を諦めていたのである。大沢さまのご紹介を得て、遠隔操作で修復作業にたずさわってくださった人は、懸命に作業をなされた。この間の私は、修復作業をパソコン画面で見入り続けて、同時にマウスさばきに見惚れていた。二日がかりの作業の末にパソコンは、元の機能を回復したのである。私は実在する女神様の優しさと、男神様の技量の為す幸運にさずかったのである。男神様には一万円弱の賽銭(奉仕料)が必要だったけれど、わが憂悶が解けたことではお安い料金であった。大沢さまには勝手に無料と決めこみ、この文章で心底より御礼を申し上げるところである。年の瀬の災難は、修復なってもいまだに腑に落ちないとんだ災難だった。
 確かに、デジタル社会は、わが身には無慈悲と言えるほどに冷たいものがある。しかし、それを凌いで人様の情けには、とことん温かいものがある。もとより人の世は、文明の利器に救われるものではなく、人の優しさに救われる証しである。「災い転じて福となす」。現在のわが心境である。

デジタル教科書

 かねてから私は、デジタル社会には住めない、いや生きていけない人間だ! と、思っている。この思いはきのう(十二月二十三日・水曜日)書いた、『年の瀬にあって、とんだ災難』の内容で、止めを刺されたところがある。そんなおり目にしたのは、この配信ニュースである。このことに関して私は、不断から記事内容とまったく同様の懸念をいだいていた。そのため、あえて引用するものである。
 遠いかなたの学童時代を顧みれば、新しい教科書が配られる授業時間の私は、配られた真新しい教科書の紙の香りに酔いしれて、いっとき勉強のやる気をつのらせていた。今なお、懐かしい思い出である。このことだけでも私には、デジタル教科書は味気ないように思えるところがある。
 【【独自】デジタル教科書に「不安」9割…「視力低下」「通信環境」など懸念】(12/23・水曜日、5:02配信 讀賣新聞オンライン)。公立小中学校を所管する46道府県庁所在市、政令市、東京23区の計74市区のうち、9割超の69市区がデジタル教科書の使用に不安や懸念を抱いていることが、読売新聞のアンケート調査で明らかになった。望ましい教科書の形は、62市区(83・8%)が「紙とデジタルの併用」と回答した。 デジタル教科書に不安や懸念が「ある」と答えたのは千葉、名古屋、堺、鹿児島市など24市区で、「少しある」は札幌、横浜、大阪、福岡市など45市区だった。合計すると69市区、93・2%に上る。不安な点を複数回答で尋ねたところ、〈1〉視力の低下など健康面の影響(55市区)〈2〉家庭の通信環境の確保(47市区)〈3〉校内外の安定的な通信環境の確保〈3〉教員のICT(情報通信技術)指導力(いずれも40市区)――の順に多かった。このほか秋田、津、京都、佐賀市など26市区は「『書く』時間の減少」を挙げた。盛岡市は「健康への不安はないと確信を持てず、検証が必要だ」としている。端末は家庭で使うことも想定される。大阪市は「紙ならどこでも学べるが、デジタルは通信環境が必要だ。家庭で通信費の負担が生じてしまう。通信障害が起きると、勉強できなくなる恐れがある」と指摘した。■使用時間制限 撤廃案を了承  文部科学省は22日、デジタル教科書の使用時間を「各教科の授業コマ数の2分の1未満」と定めた基準を撤廃する方針を有識者会議で示し、了承された。今年度中に省の告示を改正し、来年4月から適用する。文科省は方針に▽30分に1回、20秒程度、目を休ませる▽目と端末の距離を30センチ程度以上離す――など、子供の健康面に留意する必要性を明記した。有識者会議では「健康への影響や、学力面の効果を検証するべきだ」などの指摘が出た。