ひぐらしの記
前田静良 作
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2014.10.27カウンター設置
沖縄県、戦没者「慰霊の日」
六月二十三日(水曜日)、きょうは毎年めぐって来る日本史上における哀しい日である。すなわち、日本国民であれば必ず、一年に一度は記憶を新たにしなければならない、沖縄県において営まれる戦没者追悼の『慰霊の日』である。追悼は文字どおり哀しみ表す、「哀悼」と置き換えなければならない。今年は哀しい出来事(昭和20年・1945年6月23日)から、76年目になる。わが五歳間近のころの史実である。この日が来れば私は、メディアが伝える史実にたいし、敬虔な祈りをたずさえている。
ところがこんな日にあって今朝の私は、極楽とんぼのことを心中に浮かべていた。恥晒しまさしく、忸怩(じくじ)たる思いである。浮かべていたのはこの時季に応じて、梅と桜の実にかかわる比較対象である。実際にはこんなことを浮かべていた。すなわち、ごく身近なところで「花でもよし、実でもよし」、まさしく二兎を追うに耐えられるものは梅と桜である。現在は共に、実の季節である。店頭には如実に、双方の実が並んでいる。梅の実の多くは、それぞれの嗜好(しこう)の梅干しや梅酒に用いられるのであろう。私の場合は甘党であり、梅酒は一滴さえ用無しである。一方、梅干しは好きでもないのに常々、子どものころの「日の丸弁当」のまんまん中にただ一つ、赤く王座を占めていた。確かに、好きではなかったけれど、今や父母を偲ぶ縁(よすが)と共に、懐郷の最上位に位置している。父の姿は梅の実千切りであり、母の姿はシソの葉干しや梅干し作りである。
桜の実はずばり、サクランボ(サクランボウ)である。ところが梅と違って桜の実には、今なお人様の知恵や辞書に頼らなければならないところがある。以下は、ウィキペディアからの一部抜粋である。「木を桜桃、果実をサクランボと呼び分ける場合もある。生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと呼ばれる。サクランボは、桜の実という意味の『桜の坊』の『の』が撥音便(はつおんびん)となり、語末が短母音化したと考えられている。花を鑑賞する品種のサクラでは、実は大きくならない。果樹であるミザクラには東洋系とヨーロッパ系とがあり、日本で栽培される大半はヨーロッパ系である。品種数は非常に多く1,000種を超えるとされている。果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1つある核果類に分類される。品種によって黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもある。生食用にされるのは甘果桜桃の果実であり、日本で食されるサクランボもこれに属する。その他調理用には酸味が強い酸果桜桃の果実が使われる」。
これに重ねることとなるけれど、電子辞書を開けばこう記されている。「さくらんぼう」【桜ん坊・桜桃】(さくらんぼ)とも。①サクラの果実の総称。②セイヨウミザウラの果実。桜桃。「バラ科サクラ属の落葉高木。花はサクラに似るが白い。果実は「さくらんぼ」として食用。西アジア原産で冷地を好む。ナポレオン・佐藤錦などの品種がある。シヨウミザクラ(西洋実桜)。桜桃の名は、本来、中国原産の別種シナミザクラの漢名。【桜桃忌】「小説家太宰治の忌日。太宰は1948年6月13日、東京都三鷹市の玉川上水に入水したが、墓所禅林寺では6月13日に修する。『桜桃』は太宰の作品名」。
酸っぱい梅の実は思い出や懐郷だけで十分だけれど、しわがれたほっぺたが落ちそうに甘い、サクランボは食べたいなあー!。不謹慎きょうは、沖縄戦戦没者「慰霊の日」である。書き終えて、「嗚呼、しんど」と嘆いては、御霊(みたま)に相済まない思いつのるばかりである。
無気力病の祟り
六月二十二日(火曜日)、現在デジタル時刻は、4:04と刻まれている。一時近くに目覚めて二度寝が出来ず、三時間余にわたり左右に寝返りを繰り返し、悶々としていた。これに耐えられず起き出して来たけれど、夜明けまではまだまだ長い時が残されている。文章を書く気力はまったくなく、おのずから休養を決め込んでいた。一方では夜明けまでの時間潰しが強いられている。
このところの私は、書くまでもないことを書いている。人様からみれば私は、まぎれもなく精神破綻者同然である。われ自身、そう思う。しかしながら実際のところは、精神のみならず身体を損ねているわけではなく、いや心身共に年齢(八十歳)を凌ぐほどの健常者である。それなのに、「身も蓋もない」ことを書き続けていることでは、私は無気力病に罹っているのかもしれない。
確かに、そう思うところはある。無気力病の根源は? と、自問を試みる。すると一発回答は、「生きることへの疲れ!」と、言えそうである。ところが矛盾するけれど、私はこの先なお欲深く生存を望んでいる。
きょうもまた、書くままでもないことを書いた。現在時刻は、4:34である。夏至を過ぎて、夜長になりかけの一日目の夜明けが訪れている。二度寝にありつけるかどうか、試しに寝床へとんぼ返りを試みる。またしても、かたじけない。
夏至
六月二十一日(月曜日)。デジタル時刻は3:00を記している。このまま黙然とパソコンを前にして椅子にもたれていれば、まもなく白々と夜の帳(とばり)が開き始めるであろう。歳月のめぐりの速さ(感)に打ちのめされている。短い夜の静寂(しじま)にあって、私ははなはだ無気力である。人生の晩年、常ならず、「嗚呼、無常」。夏至、冬至、季節めぐりの用語は、共にわが身に沁みる重い言葉である。「夏、至る」を喜べないわが身は、みずから哀しい! かたじけない。
虫けらに慄(おのの)く、わが日常
わが肉体は自分自身、驚くほどに毒素に弱い質(たち)である。ムカデに刺された薬指は、今なお聖護院大根みたいに付け根のところが太く膨れて、赤みを帯びて固いままである。それだけのみならず、痛みはずっとひかぬままである。あらためて私は、このことに恐怖感をおぼえて、もはや書くまでもない「ムカデ騒動」の顛末記を書いている。怯える根源は、大型のムカデに心臓あたりを刺されでもしたらという、戦々恐々の思いである。
わが家周辺には、ムカデ、スズメバチ、マムシ、などが棲みついていると、散歩めぐりの人たちが言う。「気をつけてください!」。見知らぬ人たちからさずかる、ありがたい警告ではある。しかしながら私には、気をつけるすべはない。いや、そのつど恐怖心を煽(あお)られ、いっそう募(つの)るばかりである。藪蚊もブンブン飛び回って、わが生血(なまち)を、隙あればと狙っている。虫けらに慄く、わが日常である。
梅雨にさずかる、自然界現象
六月十九日(土曜日)、梅雨でなければ朝日が輝く夜明けの時間帯にある。ところが朝日がまったく見えない、梅雨空の夜明けを迎えている。パソコンを起ち上げる前に私は、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて、外気を確かめた。雨が降っているかどうかを一目瞭然に知るには、舗面を眺めることを習わしにしている。すると、雨足の跳ね返りは見えなかったけれど、舗面は生々しく濡れていた。瑞々しくという、表現が浮かんだけれど、なんだかそぐわない。だからと言って生々しい表現も腑に落ちない。確かに、ふさわしいとは思えない。しかし、わが表現の限界のままに、「生々しく」に甘んじざるを得ない。おそらく雨は、小降りに降ったり止んだりをくりかえしているのであろう。
梅雨入り宣言後の鎌倉地方には、こんな梅雨空の夜明けが続いている。ところが、いまだに梅雨入り間際ゆえに、梅雨特有の鬱陶しさは免れている。いやどちらかと言えば、気分の落ち着く夜明けにさずかっている。
きのう(六月十八日・金曜日)の私は、梅雨の合間にあって、道路の乾きぐあいを見て急いで、道路掃除を実行した。このとき意図した掃除は、側壁の溝や側溝脇に小さく生え出している草を、隅から隅までことごとく抜き去ることだった。かなり長い距離をかなりの時間をかけて、やり通した。腰を屈めたり伸ばしたり、この間しょっちゅう動作を休めたりして、すべてをきれいさっぱりと抜き取った。
腰を屈めて首折れて草に向き合っていると、ときには散歩めぐりの人たちの足音が止んで、優しい言葉が飛んで来た。通りすがりの見知らぬ人からの、当てにしていない慰労の言葉である。謝意の言葉を返しながら現金なもので私は、うれしさと同時に心身に安らぎをおぼえていた。人間の生の言葉からさずかった、刹那の草取りの醍醐味である。
山の法面のアジサイは、今を見頃に咲いている。ウグイスは初春からの疲れなどまったく見せずに、訓練しきった声で盛んに鳴き続けている。道路上には、収穫期という晩年にあたる梅の実が落ちている。小鳥や山に棲みつくタイワンリスに食い潰された枇杷の実もまた、半齧りのままに転げている。それらの多くは、マイカー、宅配便、救急車、きわめつきは盛んに巡って来る訪問看護車の車輪に押しつぶされて、「びっしゃげ」たままで汚らしく散らばっている。
この時季特有の自然界のおりなすなかにあって、思いがけなく濃緑に実を固くした小さなアケビが一つだけ、道路上に転がっていた。私は郷愁に駆られて、頭上を仰いだ。見慣れたアケビの蔓が、ほかの蔓と入りまじっていた。自然賛歌を謳(うた)う、道路や周辺の草取りの一コマである。
一方で憎たらしいのはムカデの仕業である。右手の五本の指の中にあって刺された薬指は、ひと際立ちに太身(ふとみ)の大根さながらに膨れて、赤く凝り固まり今なお痛みを残している。ムカデは自然賛歌の範疇に入れずに、私は超強力スプレーのムカデ殺しをあちこちに備えて、その効き目にすがらざるを得ない。ところが、その隙を狙われて刺されたのである。
この時季の自然賛歌は、アジサイ、ウグイスの鳴き声、梅や枇杷の実、さらには飛びっきりはアケビの実である。これらにやがては、実生(みしょう)を包(くる)んだ柿の蔕(へた)が加わってくる。歓迎する自然界現象とは言え、番外にムカデや蛇は、手に負えない厄介ものである。ホタルがふわふわと舞えば、大手を広げて自然界現象の仲間に入れるつもりである。しかし叶わぬ、強欲張(ごうよくば)りである。
この梅雨、一度目のムカデ騒動
六月十八日(金曜日)。痛くて、悔しくて、甲斐性無しで、なさけなく、もちろん恥ずかしくて、文章を書く気分を妨(さまた)げられている。ムカデ騒動は夜間、十二時近くに寝床の中で起きた。就寝中にあってむき出しの、右の手の平あたりに違和感をおぼえた。大慌てで手の平を振って、身を越して頭上に下がる電燈の紐を引いた。中型のムカデが、布団の上、布団の下、布団の中、畳の上へと逃げまわった。ぞっとした。「この野郎!」と、叫んだ。
常に枕元近くに置く、スプレーに手を伸ばした。そうする間に、どこかへ逃げたのか? 見当たらない。私は形相を替えて、必死に探した。なんと、逃げ足が速いのだろう。窓に掛かる布カーテンの裾の下に、潜り込みそうであった。ここに潜られたら、捜索は万事休すとなる。幸いにも、間一髪で間に合った。スプレーを連射、激写した。ムカデの動きが緩んだ。それでもなお、くねくねしている。命を絶たれる虫けらの抵抗は、凄(すさ)まじいものがある。
わが恐怖は去らず、いっそう間近からスプレーを噴射した。ようやく、ムカデの虫の息が途絶えたようである。いつものやり方で、枕元に置くトイレットペーパーを手にして、動きを止めたムカデを包(くる)んだ。ようやく、安堵した。立ち上がりトイレに向かい、再び「この野郎」と叫んで、力いっぱい放り込んだ。そして、「大」印を素早く押した。水が勢いよく渦巻いて、トイレットペーパーごとムカデを流した。消失を見届けると、寝床へ引き返した。
手の平の痛みは、時間を追って強くなっていった。再び、ぞっとした。首筋、額、禿げ頭、なお運悪く喉元あたりに這いずりまわれたら、わが息の根は止まったかもしれない。このとき以来私は、二度、三度いやたったの一度の睡眠さえにも、ありついていない。身体的には明らかに寝不足である。ところが、今なお恐怖に慄(おのの)いて、眠気はまったく消えたままである。その証しに、現在のわが両眼(りょうまなこ)は爛々と輝いている。この輝きは、あばら家に甘んじるわが甲斐性無しの報(むく)いであり、祟(たた)りでもある。
書くまでもないことを書いて、きょうの文章は一巻の終わりである。
「しくじりの人生行路」
人生行路を歩むにあっては、さまざまなしくじりや後悔ごとがあまたある。現在の私はそれらを顧みて、憂鬱気分まみれにある。ばかじゃなかろか、今さら嘆いてどうなることもない、すべては「後悔先に立たず」の「後の祭り」である。確かに、こんなことで嘆くのは、つくづくわが小器の証しである。
こんなバカげたことを心中に浮かべながら私は、パソコンを起ち上げた。現在、パソコン上のデジタル時刻は4:14である。梅雨の夜明けはいまだしである。梅雨にあってわが家には、特に怯えることがある。一つは床や畳の上で、文字どおり百足(むかで)で現れるムカデである。一つは、開閉する雨戸や窓ガラスに張り付くヤモリ(家守)である。あばら家特有のわが家における梅雨の肝潰し、すなわち「お邪魔虫たち」である。決して大袈裟な表現ではなく、梅雨にあっては妻共々に私は、これらには戦々恐々を強いられている。挙句、気分の安らぎを奪われている。
家守(やもり)と書くヤモリはともかく、ムカデ殺しの強力スプレーをあちらこちらに散らばさせて、わが家は臨戦態勢をしいている。だからと言って、気分の休まることはない。なぜなら、百足(ひゃくあし)と書く、ムカデの逃げ足の速さには、そのたびに驚愕するばかりである。また、超強力スプレーを連射、激写しても、「一ころ」とはいかない抵抗力の強さには、これまた驚くばかりである。
ムカデやヤモリの出入りさえなければ梅雨の合間の晴好雨奇(せいこううき)、どちらにも楽しめるところはある。ところが、ムカデとヤモリのせいでわが老夫婦は、梅雨の季節がとことん大嫌いである。このことでは悔いとは言えないけれど、ただただ「みすぼらしいわが人生」である。なぜなら、あばら家に甘んじているのは、わが甲斐性無しの証しである。私は恥を忍んでいるけれど、妻はあばら家をあからさまに嘆いている。
書くまでもないことを書いてしまった。継続とは、ほとほと切ない作業である。4:54、ようやく小ぶりの雨の夜明けが訪れている。今さら歯ぎしりしても仕方のない、わが「しくじりの人生行路」の一コマである。
「梅雨、雑感」
六月十六日(水曜日)、関東地方は気象庁の梅雨入り宣言(六月十四日・月曜日)後の、二日目の朝を迎えている。夜明けの空は、典型的な梅雨空にある。朝日のまったく見えない大空は、どんよりとしている。すでに小雨が降ったのか、それともこれから降るのか。大空は、気まぐれの雨模様をさらけ出している。
私は、きょうの天気予報を聞き逃している。だから、昼間に向かって「晴れ、雨、または曇り」の予知はできない。確かに、どっちつかずが梅雨空の証しである。梅雨空を眺めながらわが心中には、生誕地・熊本(今やふるさと)における、梅雨の記憶がありありとよみがえっている。そして、その記憶を現在の梅雨と比べている。早い話が子どものころの梅雨には、日を継いで雨の日が続いていた。おのずから日常生活は、うんざり気分にまみれていた。冷蔵庫の無い釜屋(土間の炊事場)の食べ物の残り物は、すぐにねまり(腐り)かけて、家政をつかさどる母をとことん悩ましていた。これらの記憶に比べれば現在の梅雨には雨の日が少なく思えて、おのずから梅雨へのわが思いは雲泥の差にある。もちろんこの先一か月余の梅雨の天気しだいだけれど、この思いが覆(くつがえ)ることはないだろう。すなわち、関東地方に住むようになって以来、私には梅雨の鬱陶しさに身構えることがかなり軽減されている。
再び、単刀直入に言えば子どものころの梅雨に比べて現在は、私には雨の日がはるかに少ないように思えている。日本列島固有の地理的違いによるものか、それともわが記憶違いによるものなのか。
きょうの文章は、わが「梅雨、雑感」で閉めることとなる。夜明けが進んでもきょうの天気の落ち着きどころは、いまだに私にはわからない。ほとほと心許(こころもと)ない、十五年目への出だしである。
『ひぐらしの記』・十四歳
気象庁はきのう(六月十四日・月曜日)、わが住む関東地方の梅雨入りを宣言した。季節のめぐりには逆らえずこの先、一か月余にわたり雨の日が多く、我慢を強いられる鬱陶しい日々が続くこととなる。しかしながら嘆くことはなかれ! 日本列島はピンチをチャンスととらえて、ほぼくまなく美しい水田風景に彩られこととなる。もちろん、多忙をきわめて疲労困憊には見舞われるけれど、農家の人たちが躍動する季節の訪れにある。
ところが現在の私は、過去と異なりこの表現には、語弊いや明らかな間違いをおぼえている。なぜなら現在は、田植えの季節にあってもかつてのように、人影を見る光景は薄らいでいる。確かに、日本列島にあってはどこかしこ、田植え機を操るひとりの人を見る光景に様変わっている。わが子どものころの光景は、一家総出に加えて近隣の親戚と催合(もやい)、多くの人手を頼りに横一線に並んで、水田にはいつくばって後ずさりしながら植えていた。幸か不幸か今は、心中に懐かしくよみがえるだけの、夢まぼろしへと成り下がった原風景である。
さて、私には二つの誕生日がある。わが身には来月(七月)半ばに、八十一歳の誕生日がひかえている。人生行路の荒波にあって、確かな長生きのしるしとはいえ、寿(ことほ)ぐ気分にはなれない。きょう(六月十五日・火曜日)は、『ひぐらしの記』・十四歳の誕生日である。息絶え絶えに、ようやくたどりついた誕生日である。実際にもこのところは、走るどころか転んだり、停まったりして、よろよろとこの日にたどり着いている。それゆえにこれまた、誕生日を寿ぐ気分の喪失に見舞われている。
その一方でわが生来の性癖(悪癖)、すなわち三日坊主をかんがみて自尊を試みれば、文字どおりちょっとだけは自惚れてみたくもなっている。しかしながら十四歳までの歳月は、もちろん自分だけで成し得たものではなく、大沢さまはじめご常連の人たちのご好意と支えによるものだった。きょうの私は、このことを書きとどめるために、パソコンを起ち上げたのである。どちらの誕生日にあっても今や独り悦に入り、祝膳を囲む気分は遠のいている。この先、八十二歳と十五歳へたどりつけるかどうかはまったくわからない。どちらも、艱難辛苦の茨道である。
梅雨入り宣言をあざ笑うかのように、朝日がピカピカと照り輝く、夜明けが訪れている。今や息絶え絶えに、こんな実の無い文章を書くのがやっとである。独り善がりに、「あっぱれ!」と、叫べない『ひぐらしの記』・十四歳の誕生日である。
記憶、それは悔恨
物心がついて以来、心中に刻んだ記憶にはさまざまなものがある。それらの多くは、今やはるかかなたの記憶になりかけている。もちろん、思い出と言うには切ない記憶である。確かに、思い出と言いたくない。しかし良かれ悪かれ記憶が無ければ、人間としての面白味はない。言葉を変えれば悲喜交々ではあるけれど、記憶が喪失すれば人間の価値はない。
こう豪語するかたわらにあって、矛盾するけれどこのところの私は、ときには記憶喪失もいいかな! と、思うことがある。もちろん、記憶喪失の限定が叶えば忘却を願うのは、文字どおり悲哀に満ちた記憶である。実際に喪失を願うものの唯一無比となるものは、このやるせない記憶である。すなわちそれは、わが子守どき(四歳半ころ)の不手際で、幼児(生後十一か月)のころにあって、生業の水車を回す水路に、弟を落とした悔悟に尽きる。
私は戸籍簿の上ではたくさんのきょうだいに恵まれている。父は先妻に六人の子どもをなし、先妻病没後の後継の妻、すなわちわが母には八人をなし、つごう十四人の子沢山を得た。これらの中ではわが記憶にまったく無い者がひとり、薄っすらと記憶を留める者がひとりいる。それらは、異母きょうだいの中のふたりである。ひとりは幼児のおり、命を失くしたという。ひとりは戦争に出向いて、戦死をこうむっている。
私はきょうだいの中では十三番目の誕生であり、命を絶った弟は短い期間だが、十四番目のしんがりを務めた。その大切な弟の命を、わが眼前で水路へ落としたのである。弟は水路を十メートルほど流れて、大きな鉄製の水車が回る輪っかに嵌まった。流れ込む水を掬って、等間隔で勢いよく回っていた水車は、ドスンと音を響かせて止まった。母屋の中から血相を変えて、母が飛び出して来た。母は弟を輪っかから引き戻し、胸に抱えて母屋に消えた。万事休す。犯人はわれひとり、目撃者もわれひとり。母は私を詰ることなく、「子守をさせて、済まなかったたいね!」と言って、詫びた。
記憶喪失になりたいなどと、絶対にうそぶいてはいけない、わが悔恨の悲しい記憶である。このことさえなければ、わが子どものころの記憶は、総じてみなさわやかである。弟への懺悔は尽きない。もちろん、記憶では済まされない、わが生涯における尽きない悔恨である。弟はのろまの兄(私)とは似ても似つかぬ、きわめて這い這い回りの敏捷な子だった。わが多くのきょうだいにあって確かに、掉尾を飾る優れものの質をそなえていた。
嗚呼、無念!。唯一、まったく褪せることのないわが記憶である。