ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

父、母、慕情

 茶の間のソファで暖かい陽射しを背に受けて、「日向ぼっこ」に明け暮れていると、生前の父と母の面影が眼前にありありとよみがえる。このことでは私にとって早春のこの時期は、なにものにもかえがたい「至福の時」である。
 過ぎた「節分」(二日)そして「立春」(三日)を境にして、私は早春の陽射しの暖かさに浸り続けている。もちろん、春の訪れは昼間の陽射しの暖かさだけではなく、私に昼夜共に心地良さを恵んでいる。二月七日(土曜日)の夜明け前、わが身体にはまったく寒気が遠のいている。なんという季節めぐりの恩恵であろうか。寒気に極端に弱い私には、まさに「春、様様」である。
 わが子ども頃のわが家の生業(なりわい)は、水車を回して精米業を立てていた。同時に、農家として父や母そして長兄夫婦は、三段百姓に勤(いそ)しんでいた。水車と農家、どちらが主従とも言えず、相成して大家族の一家を支えていた。こんな記憶と思い出を残して私は、高校を卒業すると生地を離れて、東京へ飛び立った。それは、昭和三十四年(一九五九年)三月、若き十八歳のおりである。ところが、のちに顧みればこのときこそ、今では呼び名を替えた故郷(ふるさと)からのれっきとしたわが巣立ちの月であった。その前月の二月に私は、大学受験のため上京した。受験に向かう門出にあっては、父は掛かりつけの村医者・内田潔医師の診断で危篤状態と告げられて、病床に横たわっていた。私は、上京と受験を躊躇した。父の病床を囲む長姉と長兄そしてその連れ合いたちは、「行けばええたい、早よ行かんと遅れるぞ!」と、急かした。母は、もどかしそうに無言を装っていた。私は、「父ちゃん、行ってくるけんで、頑張っていて!」とも告げられず、病床を何度も振り返りながら、方々に精米機械の据わる土間を急ぎ足で抜けて、門口を出た。あふれ出る涙は、詰襟の学生服の袖と、拳(こぶし)で拭いた。私は父の五十六歳時に誕生であり、そのためこのときの父は、すでに老身の上に心臓の病を重ねていた。幸いにも私は、合格の吉報をたずさえて一度、わが家に帰った。このときの父は、子どもたちが金を出し合って買い求めた、フワフワのマットレスの上に半身を起こしていた。そして、玄関口から走りで来る私に目を留めると、やつれた姿で手を叩いて迎えてくれた。「しずよし、がんばったね!」の声出しは叶わず、涙目の無言の両手叩きだった。
 そののちの父は、長患いの末に、わが大学二年生の暮れ(昭和三十九年十二月三十日)に、「チチシヌ」の電報が届いた。このときの私は、東京で三人協同で八百屋を営む次兄、三兄、四兄たちに交じり、歳末商戦の手伝いの真っただ中にいた。父の葬儀にはしばらくふるさと帰りから遠ざかっていた四兄がひとり、代表して向かった。このため、わが脳裏に残る父のこの世における最後の姿は、棺の中ではなくマットレス上のいまだ生身の優しいひとコマである。このことでは当時の悔しさを跳ねのけて、今では勿怪(もっけ)の幸いに浸っている。
私には目覚めると、常に枕元に置く電子辞書へ手を伸ばす習性がある。そして、知りすぎている言葉、あるいはうろ覚えの言葉の復習に余念がない。今朝の目覚めには、精米業と農家の生業ゆえに、すでに知りすぎている言葉を見出し語にして、電子辞書を開いた。米(稲)には、二大別の品種がある。一つは「粳米(うるちごめ)」、一つは「糯米(もちごめ)である。
 「粳米・粳」:炊いたとき、糯米のような粘りけをもたない、普通の米。うるごめ。うるしね。うるちまい。
 「糯米・糯」:糯稲からとれる米で、粘りけが強く餅や赤飯とするもの。もちよね。
 こんな知りすぎている言葉をあえて紐解いたのは、この季節すなわち早春にあって、父と母へ強くつのる慕情のせいである。この時期の母は、草団子やヨモギ団子、さらには雛祭りを控えて色鮮やかな雛あられや菱形餅づくりに精を出していた。言うなれば母はせっせと作る人、一方の父はせっせとそれらを頬張る人だった。
 「仲のよいことは美しきことかな」(武者小路実篤)。確かに、見た目美しい光景だった。先妻を病没した父は、四十歳で年の差十九で二十一歳の後継の妻(わが母)を迎えていたのである。殴り書き、走り書きするには、なんだか惜しくて、咄嗟の切ない題材だった。またのついでに……、いや、私には自分史を書くつもりはない。なぜなら、書く価値なく、ただぼうとして生き長らえてきただけだからである。
 寒気の無い春はいいなあ……、ほのぼのと春霞の夜明けが訪れている。

目覚めは、「しどろもどろ」

 ばかじゃなかろか! 目覚めると私は、思いつくままに「人の歩き方」(擬態語)の数々を浮かべていた。最初に浮かんだのは、人生行路における文字どおり歩き始めとも言える、赤ちゃんのヨタヨタ歩きである。次に浮かんだのは、その終焉間際に訪れるヨロヨロないしヨタヨタ歩きである。この間には私を含めて人さまざまに、いろんな歩き方が強いられる。本当のところは、幼年、少年、青年、壮年、そして高年(高齢)などと、時代を分けた歩き方を浮かべたくなっていた。
 人の歩き方には、時と場合、はたまた用事や用件の有る無しによっても、歩き方の違いがある。しかしながら私は、こんな区別などできずに、思いつくままに浮かべていた。もちろん、人それぞれに歩き方を問うたら、まとめてどれだけあるのか? 測り知れない。
 さて、わが凡庸な脳髄に浮かんできた歩き方は、ランダムにざっとこんなところである。それらは、先の三つに加えてこれらである。ドタドタ、ドカドカ、スタスタ、ウロウロ、スゴスゴ、ソロソロ、テクテク、トコトコ、トボトボ、ノソノソ、パタパタ、フラフラ、ユラユラ、ブラブラ、ペタペタ、ドシドシ、ソロリソロリ、などである。これらに日本語の表現を浮かべれば、速足、駆け足、急ぎ足、鈍足(のろあし)、さらには抜き足、差し足、忍び足、などとかぎりなくある。だからこれらにあっては、わが脳髄の限界がさらけ出されてくる。
 この頃の私は茶の間のソファに背もたれて、窓ガラスを通して周回道路をめぐる老若男女の歩き方を眺めている日が多くなっている。それは余儀ない妻の世話や、春が来た証しでもある。おのずから、携帯電話の示す一日の歩数が、二〇〇歩前後の日もざらにある。
 きのう(二月五日・金曜日)の私は、黒砂糖まぶしのカリントを間断なく口へ運びながら、茶の間の窓からひねもす(終日)人様の歩き方を眺めていた。言うなれば春の暖かい陽射しを浴びて、のんびりと「日向ぼっこ」に興じていたのである。それは、わが子どもの頃に垣間見ていた、隣の小母さんの真似事でもあった。
 子どもの頃の私は、隣の庭へ出かけて、近所の遊び仲間たちと、よく独楽(こま)やカッパ(メンコ)を打っていた。そのとき眺めていた小母さんの姿は、原風景のままに今なお脳裏から離れない。たぶん、私は見た目ののどかな風景に憧れていたのであろう。実際のところの小母さんは、痛々しいリュウマチを患っていた。そのせいで私は、小母さんの歩き方を見ることはなかった。小母さんはいつも、「しいちゃん、遊びに来たばいね!」と言って、座敷や板張りの上を「いざり」(膝行、躄)足で、ニコニコ顔で近寄られていた。優しい小母さんは、ほどなく亡くなられた。今なお絶えることのない、優しい小母さんの面影である。
 確かに、歩き方は人生行路の写し絵である。わが足は日を追って、ヨタヨタ、ヨロヨロになりかけている。やがては時々立ち止まったり、杖にもたれることとなる。ドスン(擬声語)と音を立てて、路面に這いつくばらなければ御の字である。文章はいまだ再始動にありつけず、これまたヨロヨロ、ヨタヨタである。

教材

 とうとう、春が来た。気象庁はきのう(二月四日・木曜日)、関東地方に「春一番」が吹いたと、発表した。オマケに、統計を取り始めた一九五一年以降では、最も早い記録という。自然界は春夏秋冬の四区分に沿って、淡々とめぐっている。ところが人間界はそうはいかずに、非難囂囂(ひなんごうごう)の声の嵐が吹いて、めぐっている。すると、みずからを戒めるものとして先ずは、「人の振り見て我が振り直せ」という、成句が浮かんでいる。次には、「晩節を汚(けが)す」という、成句が浮かんでいる。ほかにも、芋蔓式にさまざまな成句が浮かんでくる。すなわち、森会長の言葉にまつわるざわめきは、わが「語彙の生涯学習」における、現場主義には恰好(かっこう)の教材をなしている。
 人生の引き際にあって、好意的に用意されていた「男の花道」はいとも簡単に汚(よご)れて、崩れ落ちそうである。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が口を滑らした。華々しい会長の座は、文字どおり元総理にたいする花道であり、同時にやりがいのある重責である。これに応えて森会長は、みずから「老骨に鞭打って」と言われて、これまで開催に向けて苦労を重ねられてきた。
 確かに私は、森会長の年齢をかんがみて就任されて以来その重責をおもんぱかり、同時に絶えず労(ねぎら)い心をたずさえてきた。そして森会長は、ようやく苦労の出口へたどりつかれたのである。その矢先にあって国民から非難囂囂をこうむられることには、さぞかし残念無念と同時に心外この上ないであろう。このことではもちろん、私は甚(いた)く同情心をかきたてられている。ところが半面、このたびの口の滑らかしには、「弘法にも筆の誤り」とは言えそうにないところもある。なぜなら、「またか!」という、思いがよみがえるからである。すなわち、森会長のこのたびの失言には、ご自身の「身から出た錆」だと、突き放して観念せざるを得ないところもある。
 人だれしもにも、失言や失態はつきものである。もちろん森会長の失態は、厚顔無恥きわまる政治家・河井夫妻とはまったく別物である。だから私は、非難囂囂に悪乗りするつもりは毛頭ない。ただ単に私は、語彙学習の現場主義の教材として、さまざまな成句(言葉)をめぐらしているにすぎない。
 「口は禍の元」もとである。同義語としては、「口は禍の門」のほかかぎりなくある。たとえば、「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」、さらには「物言えば唇寒し秋の風」などが浮かんでくる。口の役割の筆頭は、生存の糧(かて)すなわち食べ物(食糧・食料)を入れ込むことであろう。もちろん、褒め言葉を発する役割もある。ところが、ところが、厄介なことに口には、人を貶(けな)したり、みずからを褒めたり(自惚れ)、言わずもがなことを言ったりする、無用の悪癖がある。結局、口は利害半ばする器官である。そして、害で最も恐ろしいことは、良いにつけ悪いにつけ人格(人品)の証しが、もろに世の中にしゃしゃり出ることである。
 私は、生涯学習の生の教材にありつけたことには、いくらかの感謝の念をたずさえている。「人の噂も七十五日」。森会長の「ひとふんばり」を願うところである。七十五日も続けば、ちょっと、長すぎるかな!。人間界の雑音にはお構いなく、うららかな春がめぐって来た。

再度のエンストを恐れて……

 再始動を果たしているという自信はない。それに向かっての、助走とも言い切れない。強いて言えば、おっかなびっくり感をいだいての試運転である。試運転にはエンストがつきものである。こんな不安な心持をたずさえて、私は頓挫明けの四日目の文章を叩き始めている。寒気からかなりの暖かさへの季節替わりにあっても、豹変という言葉は不適当であることを知った。一方、豹変に変わる言葉は、いまだに思いつかないままである。悲しいかか! わが浅学菲才の脳髄のゆえである。
 節分そして立春と続いてきょう(二月四日・木曜日)は、文字どおり春の出で立ち初日にある。カレンダーと季節めぐりは、確かに人間とは異なり嘘を吐かない。かぎりなく寒気を知り尽くしているわが体感さえ、まったく寒気を感じていない。なんたる! 季節の恵みであろうか。この恵みに誘われなければ私は、寝床から起き出すことはできなかった。身体が寒気を嫌う上に、気分が萎えているせいである。すると、どうにか起き出して来て、五月雨式にキーを叩き始めているのは、寒気が緩んでいるおかげである。さらには、いたずら書きを始めているのは、気分をまったく殺ぎたくないためである。言うなれば文章の体を為さない、まったくの自己都合にすぎない。
 過ぎた一月は文章を書く気分を失くして、わが本来の怠け者に終始した。しかしながらこの間にあっても、原点返りの一縷の努力は試みていた。実際のところは細々だけれど、気力の喪失を防ぐためのおさらいを試みていた。具体的には電子辞書に加えて、久々に紙の国語辞典をひもといていた。さらには衰え続ける脳髄を刺激するために、あえて「難読漢字辞典」(三省堂編修所)を手にしていた。もちろんこれは、わが掲げている「語彙の生涯学習」の途絶を恐れていたからである。
 パソコン上では、「一日一膳」のごとくに、一日数語の英単語の復習を試みている。こんな子供騙しみたいな学習で、わが凡庸の脳髄が賦活するわけではない。手元に玩具がないための「玩具代わり」にすぎない。しかしながらこれらには、いくらかの効用があった。なぜなら、ズタズタにやる気が殺がれるのを防いでくれたのである。これらの行為さえも退けていたら、もはや私は生きる屍(しかばね)同然である。
 きょうは恥をあからさまにしてまでも、こんないたずら書きを留めた。それは、再度のエンストを免れたい思い一入(ひとしお)のためである。約十分間、文章とも言えない駄文を叩いて、心底より詫びるところである。心中はいまだに冬の寒気で真っ盛りである。しかし、身体には暖かい春が来ている。季節は節分そして立春が過ぎて、現在は春お出ましの自然賛歌の夜明け前にある。ただ惜しむらくは、同時に人間賛歌が歌えないことである。

令和三年「立春」

 令和三年「立春」(二月三日・水曜日)。現在のパソコン上のデジタル時刻は、0:45である。パソコンを起ち上げる前には、すでに一日の始動の行為である洗面などは済ましている。だから、起き出して来たのは、日を替えたもっと早い時間である。ところが、二度寝にとんぼ返りをする必要はない。いつもであれば就寝と寝起きの間には、余儀なく頻繁にトイレへ起き出さす習性にある。実際にはつごう五時間ほどの就寝時間にあって、多いときには五度ほどもある。もちろんこんなことでは、熟睡を貪ることなど夢のまた夢である。おのずから自分自身にたいして、とことん腹の立つ就寝作業である。
 ところが、今にかぎれば違った。なぜなら、四時間余の就寝時間にあっても途中、一度さえの目覚めなく、すんなりと目覚めたのである。そのため眠気が一掃されて、目覚めの今の気分は爽快である。私は腕を伸ばして、枕元の携帯電話を手にした。履歴に不在表示がある。不安に駆られて、開いた。幸いにも、孫のあおばからの不在電話の履歴である。わが携帯電話は、電車やバスに乗るとき以外は、マナーモードは用無しである。今では恐ろしい電話へと変じている「ふるさと電話」が、いつなんどき鳴り響くからわからないからである。今や普段のわが携帯電話は、切ない役割を担っている。
 そう言えば私は、夕食の後にあおばへ電話を入れていたのである。そのときの用件は、「節分だから、みんなで豆まきしたの?」という、問いだった。あいにく、録音済みの無機質の女性の声が流れるだけで、肝心のあおばの声は聴かずじまいだった。するとこんどは、あおばがわが声を聴けずだったのである。わが携帯電話の受信や通話の音量は、わが難聴の両耳に備えて、最大音量に設置済みである。そのため、健康な人に聞こえる音は、まるで火事などの異変を伝えるときの半鐘の「早鐘」みたいに、けたたましい音を発することとなる。それを恐れて私は、電車やバスの車中にかぎり、マナーモードの恩恵にすがっている。こんなにも大音であっても私は、あおばからの受信音を聞き逃していたのである。
 このところの私は、確かに心身共に疲労困憊に陥っている。特にきのうは、朝から晩まで疲れと眠気に襲われていた。きのうの私には、配偶者としての一つの役割があった。それは、腰を傷めている妻の歯医者通いの引率(介助)行動である。この行為は、妻が腰を傷める前からのわが役割になっていた。腰を傷める前は、単なる好意の同行で済んでいた。私は、従来の歯医者から新たな歯医者へ替えた。良い歯医者へ出会えたことで、妻にも鞍替えを要請した。そのこともあって私は、妻の初診以来、最初の道案内を兼ねてその後も進んで同行を買って出ている。決まって週一回の外来で、きのうは早や六度目の妻の通院日だったのである。妻はこの先をかんがみれば、完治までにはいまだに折り返し点ぐらいと、言われている。私の場合は、六度目あたりでゴールテープを切っている。ほとほとこの先、妻との同行介助が思いやられるところである。
 私は目覚めて携帯電話の次に、常に枕元に置く電子辞書を手にした。そして、知りすぎている言葉を見出し語にして開いた。
 「豹変」。[易経(革卦)](豹の毛が抜け変わって、その斑紋が鮮やかになることから)君子が過ちを改めると面目を一新すること。また、自分の言動を明らかに一変させること。今は、悪い方へ変わるのをいうことが多い。成句:君子は豹変す。
 きのうの「節分」(二月二日・火曜日)の天気は、一日にして様変わりのポカポカ陽気に恵まれた。節分を境にして、自然界がもたらしたどんでん返しの恩恵だったのである。案の定、だからと言って様変わりにたいし、「豹変」を用いるのは不適当だったのである。このことだけでの「豹変」のおさらいであった。
 次には、「副益」と「副次効果」を見出し語に置いた。ところがどちらも、電子辞書の見出し語にはなかった。「なぜだろう?……」。なぜなら私は、明らかに疲労困憊の副益や副次効果を得て、まったく久しぶりに「熟睡」を貪ることが出来たのである。論より証拠、熟睡に恵まれなければ、こんな戯(たわ)けた文章にありつくことはできなかった。明らかに私は、疲労困憊がもたらした「副益」にありついている。
 いまだに、真夜中の3:01である。なのに、ちっとも眠くない。夜明けまでのこの先、あり余る時間が思いやられるところである。しかし、電子辞書とパソコンがわが暇をつぶしてくれそうである。副益の熟睡に恵まれて、悶々とする二度寝、三度寝を強いる必要はない。そのうえ、まったく寒気を感じない「立春」は、確かな春の訪れである。

令和三年「節分」

 寝ていても汗をかき、たまらず起き出して来ても、汗があふれている。現在の私はいまだ寒中にあって、異様に暖かい夜のたたずまいの中に身を置いている(2:32)。だからと言って私は、暖かさを素直に喜んではいない。いやむしろ、大きな不安をおぼえて、冷や汗まみれになっている。それにはとうにこの世にいない、義母のこの言葉がよみがえっているせいである。それは、「関東大震災(大正十二年・一九二三年、九月一日)が起こる前は、異様に暖かかったのよ」、という言葉である。忌まわしい出来事の再来は、御免こうむりたいものである。いや、この暖かさは、飛んでもない自然界の恩寵(おんちょう)なのであろうか。確かに、季節は嘘を吐かない証しではある。
 きょうは、令和三年(二〇二一年)の「節分」(二月二日・火曜日)である。ところが、毎年一定日(二月三日)としてカレンダー上に記されてきた日とは異なり、今年にかぎり一日早く記されている。この理由を知らなければ、面食らうところである。すると、きのう(令和三年・二〇二一年二月一日)付け朝日新聞朝刊、コラム『天声人語』の中で、こう記されていた。「今年の節分はおなじみの三日ではなく、あす二日。一年が三六五日ぴったりではなく六時間ほど長いため、立春の前日である節分もずれる年がある。前回、二日になったのは明治三十年。実に一二四年ぶりのことだ」。
 新型コロナウイルスの感染者数は、きのうあたりからいくらか減少傾向になりつつある。しかし、まだまだオチオチできない。異変なき節分を望むところである。きのうに続いて、ヨロヨロと書いた。もちろん、再始動の文章とはなり得ず、あすの「立春」(二月三日)へ繋がる保証はない。春の訪れのせいならいいけれど、いや、こころもとない駄文を恥じて、汗が噴き出している。妻には、買い置きの「福豆」を私にぶつける気力はない。例年のように逃げ惑うことができないことには、つらくて悲しい思いが満杯である。幸運を願掛けても、ちっとも当てにならない恵方巻は、むなしくおあずけである。

私は弱虫

 能力無く惰性にすがり、いたずらに書き続けてきた。すると、ちょっと躓(つまず)くとたちまち頓挫した。一月は棒に振った。そのため、意識して月替わりを待っていた。二月一日(月曜日)、現在のデジタル時刻は、夜中の1:57と刻んでいる。梅の花が綻(ほころ)ぶ、早春の到来である。確かに、きのうに比べて寒気は、体感的に緩(ゆる)んでいる。寒気に極端に弱い私には、この上ない自然界からのうれしいプレゼントである。過ぎた「大寒」(一月二十日)あたりを寒気の底に、季節は確かな足取りで春へ向かっている。あすは例年にない早い「節分」(二月二日)である。もちろん明ければ、「立春」(二月三日)である。三寒四温は、春へ向かう季節の足取りである。
 この文章に、いまだ再始動を託すことはできない。しかし、わが息災の証しとして、怖々(こわごわ)と書いている。実のところは、掲示板へ訪れてくださる各位様から賜っている心配や好意にたいして、梨の礫(つぶて)では居たたまれなくなっているからである。妻が突然、腰の傷みに襲われて、わが家そしてわが日常生活は、様変わりをこうむっている。その対応における明け暮れは、いまだに緒に就いているばかりである。みずからの健康だけで、人生行路は「楽ちん」とは言えない。夫婦そろって、「偕老同穴」(かいろうどうけつ)を叶えてこそ、「楽ちん」である。異変に挫(くじ)けている私は、虫けらにも及ばない弱虫である。

抗(あらが)えようない難局(戦い)

 新型コロナウイルスとの戦いは、真犯人と言える加害者がいなくて、みな一様に被害者である。だからこの戦いは、困難を極めている。感染しないようにみずからに打ち克つしか、この戦いの勝利はない。言わば、世界中のだれしもが直面している個人戦と言えそうである。
 一月九日(土曜日)、三連休初日にあって寒いなあー(4:09)。日本国内にあっては、新型コロナウイルスへの感染恐怖のみならず、多雪地方の雪の降りよう、かつ積もりようが、限りなく気に懸かる。

戦う意志を固めている

 人間の知恵、意志、そして連帯(力)が試される時がきた。戦争とは違って仲間と殺し合う必要はなく、このことではまったく後ろめたさはない。武器なく知恵で、人間こぞってウイルスを防ぐ戦いである。もちろん、老若男女のすべてが人間の誇りを保つ戦いである。だから、勝たねばならない。一都三県は、きょう(一月八日・金曜日)から来月(二月)七日までの一か月間、再度の「緊急事態宣言」期間に突入である。

『七草』

 日々、自粛と怯えまみれの世の中になりました。「七草」(一月七日・木曜日)、3:00です。