ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
今晩、「東京オリンピック」開会式
へんてこりんな四連休の二日目、「体育の日」にある。七月二十三日(金曜日)、大空いっぱいに彩雲が浮ぶ、のどかな夏の夜明けが訪れている。またとない、粋な天上のおもてなしである。こんな幸運にありついて、日本社会のきょうのメーンエベントには、当初の2020年から一年延びた「2021年、東京オリンピック」の開会式が予定されている。開会式に先立って行われた、女子ソフトボールと男女のサッカーにあって日本チームは、いずれも勝利でスタートを切った。先ずは、「めでたし、めでたし」の好スタートである。
東京オリンピック開幕における文字どおりの花形は、開会式模様である。ところが、このところ風雲急を告げて、開幕式に間近になって不協和音が響いてくる。門外漢の私だけれど、それでも国民のひとりとしては現在、開会式を危ぶむところにある。
東京オリンピックは、東京の名を冠する自治体・東京都が主催するものである。さらには日本の国および国民総挙げての、晴れがましい世紀の祭典である。しかしながら現下の日本社会いや世界の国々は、新型コロナウイルス蔓延の渦中にある。おのずから東京オリンピックには、暗雲が垂れ込めている。この暗雲を払うには都民のみならず、国民の協調と聡知・聡明にすがるより便法はない。ところが現下の日本社会は、新型コロナウイルス感染を防止するための、自粛や自制などの行動制限のさ中にある。言うなれば現下の日本社会は、衆人環視の様相を呈している。
こういう状況ではおのずから、だれしも気分の晴れようはない。そのためかどうか、今朝の目覚めにあってわが胸中には、こんなやるせない成句が浮かんでいた。一つは、「物言えば、唇寒し秋の風」である。私にすれば、「書けば、唇寒し秋の風」と、置き換えてみた。一つは、「触らぬ神に祟りなし」である。これには同義語として、「雉も鳴かずば撃たれまい」という、成句がまとわりついていた。すなわち、現下の日本社会の世相には、なんだかんだと窮屈なところがある。その挙句、東京オリンピックの開幕(開会式)にあっても、わが心身にはいっこうに興趣と高揚感が湧いてこない。残念無念、老境きわまりないわが加齢のせいであろうか。
確かに、それはある。その上にさらに、現下の日本社会の暗雲垂れ込む世相が重なっている。ところがこの先、暗雲は晴れようがない。おのずから私は、当たり障りのない実の無い文章を書いて、わがケチな身を守っている。
自然界は、清々しい夜明けである。今晩の開会式なって、人間界の清々しさを望むところである。「苦しい時の神頼み」だが、まったく当てにはできない。
きょう(七月二十一日・水曜日)より、競技開始
七月二十一日(水曜日)、きょうの文章はわがコメントを抜きにして、全文がメディアの配信ニュースの引用である。その理由は、「東京オリンピック」の全容が網羅されているためである。なかんずく、変形オリンピックと言われるこのたびの東京オリンピックを記録に留め置くには、適当と思えているからである。
【東京五輪、21日に競技開始 史上初の無観客 ぬぐえぬ感染不安】(7/20・火曜日、19:56配信 毎日新聞)。新型コロナウイルスの感染拡大による史上初の延期に続き、ほとんどの会場が異例の無観客となる東京オリンピックは23日の開会式を前に、ソフトボールとサッカー女子を皮切りに21日に競技が始まる。懸念された選手や関係者の感染は相次いでおり、五輪をきっかけにした感染拡大への不安は拭えないでいる。開幕に先立ち、国際オリンピック委員会(IOC)の総会が20日、東京都内で始まった。トーマス・バッハ会長は「感動、涙がアスリートによって作り出され、五輪のマジックになる。日本にとって輝くべき時になる」とあいさつ。新型コロナに対応した医療従事者らに感謝したうえで「世界中の何十億の人たちが五輪を楽しみ、(感染拡大防止に貢献した)日本の国民を称賛する。国際社会もスポーツの力、結束の力を待ち望んでいた」と語った。総会に出席した菅義偉首相は「多くの会場で無観客開催となるが、大会の意義は決して損なわれるものではない。世界が大きな困難に直面する今こそ団結し、人類の努力と英知によって大会を開催し成功させる。このことを世界に発信したい」と開催意義を強調。宮城県でのサッカー開催などを例に挙げ「復興が進んだ日本の姿を力強く発信をする機会になる」と、東日本大震災からの「復興五輪」をアピールした。新型コロナの感染状況については「ワクチン接種も始まり、長いトンネルにようやく出口が見え始めている」と述べた。東京大会は、史上最多33競技339種目を実施する。福島市の福島県営あづま球場で午前9時開始のソフトボールの日本―オーストラリア戦が全競技で最も早い開催。サッカー女子で日本は午後7時半から札幌ドームでカナダとの初戦に臨む。東京五輪・パラリンピック組織委員会は20日、新たに国内在住のボランティア1人を含む9人の大会関係者が陽性になったと発表し、検査結果の公表を始めた1日以降で計67人となった。ボランティアからの陽性確認は初めて。18日に選手ら3人の陽性が判明した南アフリカのサッカー男子チームについて組織委は、濃厚接触者とされた21人のうち3人は濃厚接触者から除外されたことを明らかにした。南アフリカは男子サッカーが始まる22日に日本と対戦する。濃厚接触者でも競技開始前6時間以内のPCR検査で陰性なら出場が認められる方針だが、試合には少なくとも13人が必要で、大会運営の難しさに直面している。東京、北海道、福島、千葉、埼玉、神奈川の6都道県は史上初の無観客開催となる。サッカー会場の宮城県、自転車会場の静岡県は「収容人数の50%以内かつ最大1万人」の観客上限を適用。サッカーが行われる茨城県は地元の子供たちに割り当てられる「学校連携観戦チケット」の枠のみで、一般観客は入れない。
今週、「東京オリンピック」開幕
七月二十日(火曜日)、今週は意図して「祝祭日」の移動がなされた、へんてこりんな週である。すなわちそれは、今週の「東京オリンピック」の開幕式(七月二十三日・金曜日)に合わせてのものである。具体的には「海の日」(七月二十二日・木曜日)、「体育の日」(金曜日)がカレンダー上に移されている。このため、おのずからその先の平常の週末(土曜日および日曜日)二日の休日と重ねて、今週には四連休が訪れる。四連休に応えるには国や国民は、東京オリンピックの華々しい開幕を果たさなければならない。ところが好事魔多し、とりわけこれに邪魔でもするかのごとくに、このところの主催地・東京都は、新型コロナウイルスの勢い盛んなぶり返しの渦中にある。暑い夏の訪れにあってもこれには、わが肝はどんでん返しに冷やされている。
確かに、新型コロナウイルスへの感染という不協和音は、日々至る所から鳴り響いてくる。挙句、肝を冷やしているのは私にかぎるものではなく、もちろん国民の多くは恐れて、冷やしている。幸いなるかな! 後れていた四国地方の梅雨も明けて気象庁は、日本列島の津々浦々に梅雨明け宣言をした。これと同時に日本列島の至る所には、「真夏日」(気温三十度以上)と「猛暑日」(気温三十五度以上)という、暑い夏の証しが訪れている。そのうえこれらは、夏季限定の熱中症を誘引している。すなわち、梅雨が明けても穏当とは言えない、日本列島特有の夏の気象である。それでも日本列島は、オリンピックの開幕日の前に梅雨が明けて、とりわけ開幕日の東京都の予報には雨マークを免れている。これこそ、まさしく天恵である。
新型コロナウイルスのぶり返しのせいで、確かに危惧するところはある。しかしながら一方、今週の日本列島がどんな見物(みもの)となるかと、心ワクワクするところはある。いや、そうなってほしいと、心底より願うところである。実際のところは東京オリンピックのファンファーレが、コロナを蹴散らすかどうかが今週の見物である。
夏賛歌
鬱陶しい梅雨空が去り、さわやかな夏空の夜明けが訪れている。幸いなるかな! 「東京オリンピック」の開会式を一週間後(七月二十三日・金曜日)にひかえて、今朝(七月十七日・土曜日)から、どんよりとした雲の梅雨空は消えて、夏の朝の澄み切った光に変わっている。まさしく、地上にそそぐ粋な天の配剤、すなわち文字どおりの天恵である。
きのうには、こんなニュースが流れた。「今日7月16日(金)11時、気象台は関東甲信地方と東北地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。平年より関東甲信では3日早い、東北南部では8日早い、東北北部では12日早い梅雨明けです」。
気象庁の週末予報の梅雨明けは、一日前倒しに実現した。予報の外れに難癖をつけるどころか、万々歳である。なぜなら私は、四季にあっては夏を好んでいる。子どものころであれば、この理由には明確なものがあった。すなわちそれは、「夏休み」とこの期間における、わが家の裏に流れている「内田川」での水浴びや水遊びであった。もちろん現在の私にはこれらは一切叶わず、夢まぼろしだけの郷愁になり下がっている。このことからすれば現在の私は、落ち穂拾いのように郷愁の落ちこぼれで、どうにか夏好きの気分を留めているにすぎないのかもしれない。確かに、こころもとないことだけれど、それでもまだまだ夏の季節が好きである。
いよいよ梅雨が明けて、きょうから待望していた本格的な夏の訪れである。なんだか今朝は、いまのところ早鳴きのウグイスの声が止んでいる。セミの声は、まだとどかない。これまでの私は、夜明け時から日暮れ時まで、ウグイスのエール(応援歌)にさずかり、わが憂さを晴らし続けてきた。このことを思えば、ウグイスには申し訳の立たない夏の訪れにある。だから私は、できればウグイスとセミの鳴き声のコラボレーション(協演)を望んでいる。
季節替わりは人間のみならず、「生きとし生けるもの」共通に訪れる、哀しみと悦びの端境期と言えそうである。ウグイスの鳴き声は老鶯(ろうおう)をさらけ出し春先から仲夏のころまで長いけれど、セミの鳴き声はひと夏さえももたずに、早出の秋の虫たちに追い立てられる定めにある。確かに、ヒグラシが鳴けば秋の訪れのシグナルである。すなわち、野鳥や虫たちの入れ替わりは、わが命をことさらに思う季節でもある。夏の訪れにあって、長らえる命やつつがない夏を望むのは、わが欲の皮の突っ張りの証し、きわめて強欲張(ごうよくば)りであろうか。
ようやく、いつのもウグイスの鳴き声が聞こえ始めている。今朝にかぎればこれにたいし、私はお返しの応援歌をハミングしている。ときには、「がんばれ!」と、声を弾ませている。どっこいこれは、夏の訪れを悦ぶわが「夏賛歌」でもある。夏の朝の光は、澄んで「キラ、キラ」である。
梅雨明け
関東甲信地方・東北地方が梅雨明け 約1か月の短い梅雨に
ウェザーニュース429
今日7月16日(金)11時、気象台は関東甲信地方と東北地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。平年より関東甲信では3日早い、東北南部では8日早い、東北北部では12日早い梅雨明けです。
「八十一歳の誕生日」における実感
梅雨明け願望のため、ネット上の人様の記事を読み漁った。それらの中から、この記事に目を留めた。そして、無断拝借した。【関東甲信 まもなく「梅雨明け」カウントダウンへ 週末から猛暑日続出 危険な暑さに】(日本気象協会 本社望月 圭子、2021年07月15日14:55)。
全文より一部抜粋。関東甲信 まもなく「梅雨明け」カウントダウンへ 週末から猛暑日続出 危険な暑さに。天気図から梅雨前線が消滅し、関東甲信も梅雨明けが間近です。ただ、週末からの注意点は「夏本番の厳しい暑さが続く」ということです。暑さがレベルアップして「危険な暑さ」の日もありますので、万全な熱中症対策を心掛けてください。2021年は、平年より7日遅く、6月14日ごろに「梅雨入り」した関東甲信地方。そんな、関東甲信の梅雨も、そろそろ終わりが見えてきたと言えそうです。そもそも「梅雨明け」とは、どういう状態で、どうやって決めているのかと言いますと、くもりや雨の日が多い梅雨の天候から、晴れて暑い夏の天候へと季節が変わる頃を「梅雨明け」と呼んでいます。気象庁では、それまでの天候と、その先1週間の予報をもとに、天候が変わりはじめたと判断した場合、地方ごとに「梅雨明けしたとみられます」という情報を発表しているのです。そのため、関東甲信では、この週末にも「梅雨明け」する可能性が高くなっています。ちなみに、関東甲信の梅雨明けは、平年ですと7月19日ごろです。
さて、きのうの鎌倉地方は「きょうが梅雨明けかな?」と思えるほどに、烈しい陽射しに見舞われた。こんな陽射しの下、私は朝の早出から午前中いっぱい、法面のアジサイの整頓に従事した。挙句、熱中症状に見舞われた。「こんなはずじゃなかったのに……」。飛んだことで私は、「八十一歳の誕生日」を実感した。
「バカねー。もう、パパは年寄りなのよ!」
妻の言葉は、かなりつれなかった。
わが梅雨明け願望に、いくらか雲がかかっている。梅雨明けが喜べないようではなさけない。
幾星霜
書けば愚痴こぼしまみれとなる。それを恐れて、このところの私は、文章が書けない。しかし、きょうだけは書かずにおれない心境をたずさえて、起き出して来た。それは一年めぐりにやって来る、格別な日だからである。令和三年(2021年)七月十五日(木曜日)、現在デジタル時刻は、4:18と刻んでいる。やがては、夜が明ける。前面の窓ガラスは、台風予報でもないかぎり、常に開けっぴろげである。眺める遠峰のはるかかなたには、故郷(ふるさと)がある。夜が明ければ郷愁に浸りたくて、真っ先に遠峰を眺めている。いや、遠峰の先に浮かぶ、故郷に思いを馳せている。そして、今では御霊に変じた父母や多くのきょうだいたちを、かぎりなく偲んでいる。幸いなるかな! きょうは、たっぷりと偲ぶにはきわめて好都合である。なぜなら、ふるさとは七月盆のさ中にある。だからと言って本当は、御霊とは呼びたくない。七月盆に合わせて、亡き父母ときょうだいたちは、一年ぶりに懐かしいわが家に帰っている。確かに、私がふるさと帰りを敢行しても、対面は叶わない。しかしそのぶん、心中では面影とは言えない、在りし日の姿がありありと浮かんでいる。余儀なく、リモコンはやりの世の中だけれど、こんなに楽しいリモコンはない。唯一、気になるところは、数ある盆提灯はだれが天井から吊るしたであろうか。迎え日(十三日)と送り日(十六日)の墓参の役割は、だれがになってくれているであろうか。
さて、幾星霜過ぎてきょうのわが齢(よわい)は、八十一年を迎えている。うれしからずや! かなしからずや! 人生行路の確かな証しである。いや、かなしいのはこの事実を対面で、父母に告げることができないことである。そのため、文面で告げるためにきょうの私は、パソコンを起ち上げたのである。もちろん、父母は読むことはできず、わが一方的な仮想のシグナル(告げ)にすぎない。瞼の中に、心の中には、在りし日の父母の姿が彷彿を超えて、実在の姿で浮かんでいる。父は七十五歳で、母は八十一歳で他界した。母の他界は、八十一年前のきょうである。ふるさとのお盆のさ中にあって、なお奇しくも母の祥月命日とわが誕生日は重なり合っている。かなしくもうれしいめぐり合わせである。そのうえにことしにかぎれば、共に八十一年を合わしている。「母ちゃん、かなしいけれど、うれしいね!」。
夜が明けた。いまだに明けきれない梅雨空の下、私は遠峰を覆う曇り空のはるかかなた、わがふるさとへ心を馳せている。心の中では、みんな生きている。想い出、ではない。
梅雨明け間近の夜明け
きのうは一日じゅう雨降らずで、きょう(七月十一日・日曜日)もほのかに朝日が照る夜明けが訪れている。現在のデジタル時刻は4:46であり、夜の帳が開き始めている。幸いなるかな! 今朝は、乾ききった道路の清掃が望めそうである。加えてきょうは日曜日であり、散歩めぐりの人も増えそうである。そうであれば私は、このところ雨に遮られていた道路の掃除に向かう決意を固めている。おおのずからきょうの文章は、尻切れトンボのままに尻切れである。身勝手をかたじけなく思う、夜明けである。
掃き終えて、再び閉じていたパソコンを起ち上げている。無心に一生懸命に掃いた。わが出足が早く、さらにはこの懸命さが功を奏したのであろうか。散歩めぐりの人たちとの出会いは、ほとんどなかった。鏡面みたいに綺麗に掃いた。この先、散歩めぐり人たちの朝の日常は、気持ちよく始まるであろう。よしよし、それで良し。ただ私にはもはや何事もできなくなりそう、いや命までもが終焉間近を実感した朝だった。
「わたしのいのち、これにつづくセミのいのちを思えば、悲しむなかれ!」と、老鶯が切ない応援歌を高音で鳴き続けていた。私は切ない気持ちをたずさえて、禿げ頭にわずかに残る後ろ髪を引かれて、木立を仰ぎながら引き上げてきた。デジタル時刻は現在、6:12である。夜明けの空は曇り始めて、明けきれない。
「冗語・剰語(じょうご)」
「寄る年波には勝てず」、さらには「世の中のざわめき」や「身辺のざわめき」等々に抗しきれず、このところの私はモチベーションの低下に見舞われている。挙句、わが精神の薄弱の証しを曝け出し、頼りない克己心に怯えている。
卑近なところでは、文章を書く気力を失くしている。こんなときには「三十六計逃げるに如かず」と、言えそうである。いや、逃げようのない袋小路に入っている。「物言えば唇寒し秋の風」。いや無理やり書けば、碌でもないことを書きそうである。とどのつまりにはさまざまなバッシングを受けて、冷汗三斗(れいかんさんと)まみれになりそうである。
私は寝床に寝そべりながら、時間枕元に置く電子辞書を意図して長い時間開いていた。そして、止めどもなくかつ脈絡なく浮かんでくることばの復習を試みていた。わが掲げる「語彙の生涯学習」は、もはやにっちもさっちもいかずに、こんななさけない状態に変わり果てている。すなわち、机上の新たな学びではなく、目覚めて二度寝にありつけないための、今さら復習するまでもない日常語での、腹立ちまみれの時間つぶしにすぎなかった。まさしく現在の私は、「袋のネズミ」の状態にある。だからと言って私には、「窮鼠、猫を嚙む」勇気はない。ただ大口を開けて、啞然とするばかりであった。梅雨空、いや梅雨明け間際の寝起きの独りごちである。
続いていた雨空を遠のけて、わずかに陽射しのこぼれる夜明けを迎えている。オリ・パラ、コロナなどと、ざわつく世の中を照らす、希望の朝日となればとこれに託し、いや今朝の朝日にはもっと欲張って、わが憂さを晴らす希望の光を願っている。
懸案のアジサイの剪定、いやととのえようのない手当たりしだいの伐り落しを終えて、わが気分はいくらか和らいでいる。七月十日(土曜日)、傍から見れば、「前田さん、気狂いでもしたのかな?」と、心配をこうむりそうである。それでも、まったく実の無い一文の締めにようやくたどり着いている。しかし幸いなるかな! わずかでも時間がつぶれたことは確かである。
このところの常套句、「悪びれず」「かたじけない」に加えて、これらの上に「なさけない」のオマケつきである。再び、電子辞書を開いた。「冗語・剰語(じょうご)」、意味には「むだなことば、余計なことば」と、記されている。必ずしも、余計なことばとは言えないつらさがわが身に沁みている。
七夕飾り
七夕(七月七日・水曜日)の夜が更けて、日を替えている(七月八日・木曜日)。一時近くに目覚めて、さまざまな妄念にとりつかれ、二時間余悶えて二度寝にありつけない。仕方なく起き出して来た。現在、パソコン上のデジタル時刻は、3:25と刻まれている。私はありきたりの老人病(加齢病)に加えて、いろんな憂鬱病にとりつかれている。もっとも楽しめるはずの睡眠がままならないようでは、もはやわが人生の喜悦は皆無である。
さて、天上に流れている「天の川」を挟んで、年の一度の彦星様と織姫様の出会いの切なさは、私にはわからない。しかしながら、地上の七夕飾りの切なさは十分にわかる。新型コロナウイルス禍のせいであろうか。六十歳以上の老人が集う最寄りの「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)の入り口土間には、二年続けて七夕飾りは立たずじまいだった。そのため今の私は、過去の記憶を新たにしている。それはしばしたたずんで切なく、そしていくらか微笑ましく読み漁った、七夕飾り(色とりどりの短冊)に記された願いごとのいくつかである。「長生きできますように」「嫁に嫌われないように」「認知症にならないように」「介護を受けないで済むように」「餅が喉につかえないように」「初恋の人にめぐり合えますように」「孫に嫌われないように」「孫に小遣いを取られてしまわないように」「美味しいものが食べられなくならないように」「絵葉書が上手くかけますように」「大病を患わないように」などなど、総じてこんな切ない願掛けである。私も似たような文句を書いて吊るしたはずだが、願いごと自体は記憶にない。
きのうのテレビニュースは、いたるところの幼稚園児の七夕飾りの光景を映していた。切なさなど微塵もなく、ただ微笑ましいだけの和んだ七夕飾り光景だった。どうであれ七夕飾りは、一年に一度訪れる老若男女を分かたず、切なくかつ楽しい祭りごとなのであろう。新型コロナウイルス禍にあってセンターにもし七夕飾りが立てば、たぶん切なさ倍増の短冊が吊るされていたであろう。庶民の生活丸写しの七夕飾りは、余興の願掛けとしてははかりしれないものがある。今のわが気持ちを表す短冊には、「二度寝ができますように」、と書きそうである。ほぼ五十分の時間を潰しただけで、夜明けまではまだたっぷりと、悶える時を残している。