ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

ふるさと

 私は農家に生まれて、よかった。水車の回る精米所に生まれて、よかった。大家族の一員になれて、ほんとうによかった。特に、善い父、好い母、良い兄姉に恵まれて、よかった。美しいふるさとを持てたことは、ほんとうによかった。
 東に大分県と宮崎県、北に福岡県と佐賀県、西に長崎県、南に鹿児島県、なお南に沖縄県とその諸島にあって熊本県は、別名中九州と呼称されている。熊本県にあってわが生誕地は、福岡県と大分県と県境を分け合う、県北部地域に位置している。おのずからわが生誕地は、山あいの盆地をなしている。生誕時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村であった。そののち、二度ほど近隣市町村との合併を余儀なくし、現在は熊本県山鹿市菊鹿町の行政名をあずかっている。しかしながら生誕地の様相は、昔とちっとも変わらず、今なお鄙びたたずまいにある。
 いや、昔と大きく変わっているところがある。すなわちそれは、日本社会の世相をきびしく映し、年々過疎化きわめて少子高齢化現象の渦中にある。隣接するところでは、米どころ・菊池平野と夢大地・鹿本平野との地続きにある。生誕地にかぎれば、今なお田園・山村風景の真っただ中にある。岩肌を縫って湧出する源泉は、川上から川下に至りしだいに水量を増して川幅を広げ、「内田川」と名づけられて、ひと筋河口へ流れている。途中、名流「菊池川」に吸い込まれて川の名を失くし、有明海へ潜り込んで行く。この間、「井尻川」など数多くの村内の支流を合わせ込んだ内田川は、普段は早瀬、せせらぎ、澱みをごちゃ混ぜにして、のどかに流れている。もちろん、集中豪雨や大水の時には暴れ川になる。けれど、わが記憶ではこれまで、村中に大きな被害をもたらしてはいない。このことでは、村人にとっては優しい川である。
 わが小学校時代にあって、内田村立内田小学校にはプールはなく、そのため内田川は天然プールの役割を担っていた。わが家の生業(なりわい)をなす精米所は、内田川から水路を引いて水車を回していた。内田川と並走する一本の県道は、共に村の風景の主役なして、かつ主要な生活基盤をなしている。村人の生業は、山野および田畑中心のほぼ自給自足で営まれている。村中には一基の交通信号機さえない。行き交う人たちはみな気心が知れて、会釈なく通り過ぎる者はだれもいない。地区ごとに寄り集まって登下校をする学童たちは、おとなに会うとみなけなげに、大きな声であいさつをする。
 村中には四つの天然温泉がある。ド派手な誘致ポスターなど無くとも、村内や近郊近在から、農作業の疲れや心身の癒しにやってくる。ときには、ドサまわりの芝居が大広間に掛かり、昔ながらの母モノや人情劇を観覧できる。勝手知った村人たちは、いくらか色がくすんだ厚手の湯飲み茶碗に、何度も湯を足して出がらしの番茶をそそいでは、それぞれが思い思いの弁当を広げている。膝を横崩しにして座り、長テーブルに頬杖を突いては、連れの仲間たちと談笑に耽っている。多くは、嫁のこと、孫のこと、通院のこと、はたまたすでに野辺の送りをして久しい連れ合いのことなどを偲んでは、まなうらに涙を溜めている。しゃべり過ぎた人や、話の種が尽きた人は、畳の上で寝そべっている。
 思いようではわが生誕・内田村は、確かな「悠久の里」である。もちろん今や、ありきたりに「ふるさと」と、名を変えている。だからふるさとは、わが心の中で常にもっとも輝いていなければならない。もちろん、色褪せるはずはない。いやいや、郷愁という心模様を映して、いっそうつのるばかりである。そのぶん、ときにはただただかなしい……。

私家本『ひと想う』より、『コンニャク』

 年の瀬(平成十二年)に、コンニャクが送られてきた。宅急便の人が、「印鑑、おねがいします」と、差し出された伝票には、ふるさと(熊本県山鹿市菊鹿町)の義姉の名まえが記されていた。「コンニャクを送ったからね!」。前もって、こんなメッセージがフクミ義姉から知らされていなかったので、妻と私はびっくり仰天した。そのぶん、二人はうれしさにつつまれた。「しいちゃんを、驚かしてみよう!」という、義姉の粋な魂胆であったとしたら、まさしく大当たりの演出だった。
 「正月をふるさとの味で迎えなさい!」、という義姉の心が詰まったふるさと便は、とても重かった。段ボール箱を開けると、透けたビニール袋の中に入った「コンニャク」が、キラキラまぶしく見えた。丸形でわずかに茶みを帯びた、文字どおり灰色のコンニャクは、わが心の中で義姉と亡き母の面影を、すばやくよみがえらせた。箱の隙間をうめるパッキン代わりには、干しタケノコが間隙なく詰められていた。どこかしこに、義姉の心遣いが詰まっていた。それは、生前の母の荷造りのまったくの見真似だった。できるだけ母のしぐさを真似て、送ってあげたいという、優しさむき出しの義姉の心くばりに違いなかった。
 義姉は、私の好物を知り尽くしていて、寸分たがわず生前の母の代役をしてくれたのである。わが心境は、いつものふるさと便を受け取る気持ちとは、異なるものだった。私は厳かな気持ちで、義姉荷造りのふるさと便を丁寧に開けた。
 ふるさとで、母から義姉へ受け継がれてきた手作りのコンニャクは、これまた母の手作りと寸分たがわず丸形だった。ビニール袋から取り出し素手で持つと、コンニャク特有のぬめりが手の平に快くなじんだ。同時に、懐かしい石灰臭が鼻先を覆った。これらこそ、子どものころからわが身体に馴染んでいた、わが家のコンニャクの風合いだったのである。
 関東地方(現在は神奈川県鎌倉市)で生活するようになって、店頭で初めて長方形のコンニャクを見たときの私は、コンニャクの形にかぎりなく違和感をおぼえた。具体的には長方形で平型のコンニャクは、郷愁はおろか母と義姉の姿を遠ざけていたのである。
 1951年(昭和26年)、私が小学校5年生(11歳)のおり、義姉は長兄のお嫁さんとして、わが家に迎えられた。そのときの母の年齢は、48歳だった。義姉は、村内(当時は内田村と言った)の縁戚の人だった。長兄からすればおお嫁さんは、従妹違いにあたる人であり、そのため互いの家には、不断から行き来の多い付き合いがあった。縁戚の娘さん(義姉)は、長兄との結婚を境にして、はからずも嫁と姑の間柄へ様変わりしたのである。
 私は、高校3年生(18歳)までをふるさと(生家)で過ごし、1959年(昭和34年)2月、大学受験のため上京した。このときこそ、親元と生家からのわが巣立ちだった。大学を卒業すると私は、東京の会社に就職し、27歳で華燭の典に恵まれた。公団の新婚者向け社宅には、埼玉県朝霞市にあったアパートの一室をあてがわれた。ところがこののち、妻の喘息症状を治すため、私は妻の実家(神奈川県逗子市)に近い現在地へ移り、そのまま終の棲家を構えている。
 巣立つと同時に、生誕地内田村と生家は、他人行儀に「ふるさと」という、名に変えた。こののちの帰省は、文字どおり「ふるさと帰行」と、なりかわった。ふるさと帰行のおりに、必ず食卓に上がるものの一つは、母あるいは義姉と協働の手作りのコンニャクだった。手作りのコンニャク作りには、私も加勢した。きれいに泥を落としたコンニャク玉を納屋から運び出すと、母は一つひとつを撫でるように出刃包丁で皮を剥いた。でこぼこで武骨な皮を剥いて現れた真っ白い肌身のコンニャク玉は、大きな鍋で茹でられた。茹で上がると冷やし、適当に切断され石臼に移されて、山椒の硬い棍棒で潰された。母はそれに水を加えて攪拌し、灰汁を加えて練りまわした。こののちは、それをしゃもじですくって手の平に置き、にぎりめしをむすぶしぐさで、両の手の平の中で練りながら、一つずつ丸形のコンニャクに仕上げた。このあとは、再び大きな鍋で煮た。まさしくレシピ、おふくろの味やふるさとの味になり変わる、母手作りコンニャクの作業工程であった。これらの技法は、そっくりそのままに義姉に伝授されていた。
 小太りの母は、乱れ髪をこざっぱりに結んで、首筋には汗取りようの手拭いを垂らしていた。上半身には薄手の肌着一枚を纏い、下半身には色の褪せかかった普段着のモンペをはいていた。腰回りには前掛けを結んでいた。極端に汗っかきの母は、手拭いと前掛けで、タラタラと垂れる汗を拭いていた。後継の義姉の動作も、ほぼ母同様だった。義姉のコンニャクづくりの姿は、今でも在りし日の母の姿同然であろう。
「生で、食べてみるよ」
「パパ、まだ生でだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶだよ!」
 私は、コンニャクの入った重たいビニール袋をひとかかえにして台所へ運んだ。義姉の優しさがわが身に沁み込んだ。

私家本より、『雑煮の具』

 食べものには、それぞれに旬というものがある。同じ食べものであっても、食べる時季や時期によって、おのずと味覚や風味が異なってくる。
 雑煮は、元日の朝に食べる雑煮の味が旬である。夏の盛りにあって雑煮はもちろんのこと、私は餅そのものを敬遠したくなる。ずばり食べもの美味しさは、食べどきの季節や雰囲気、はたまた五感の微妙な調子に左右されるところがある。
 正月用の雑煮の準備が始まる年の暮れになると、私には切なく思い出されてくる「できごと」がある。それは、元日の雑煮の具をめぐるものだった。父と母はすでに亡くなり、私は六十歳になった。最近のできごとのように思えていたけれど、遠い昔へさかのぼるできごとなっている。
 生前の父は不断、無塩(生魚)や馬肉を好んで買い求めて、よく得意げにぶら下げて帰ってきた。もちろん、家族に食べさせたい、という親心ではあった。だけど反面、父自身が食べたい食べものであり、自分の嗜好に逆らえない証しでもあった。父は馴染みで行きつけの精肉と魚介類のお店へ寄り道しては、魚の藁苞をぶらぶらと提げて帰ってきた。わが目で見る父の性格はおおようで、細かい神経など持ち合わせていないように思えていた。実際にも父の買い物ぶりには、値段にこだわらない殿様ふうの買物風景があった。挙句、いつもの父の買い物ぶりに私は、家計事情の翳りを見ることはなかった。確かに、不断の父からは、お金めぐりの事情までに気をめぐらす様子は、私にはうかがえなかった。それでも私は、イワシやサバそして太刀魚、赤身鯨(刺身)、あるいは馬肉が食卓に上る不思議さは感じていた。三段百姓を兼ねて水車を回しての精米所のなりわいと、さらには大家族(父は十四人の子沢山だった)の家計事情は苦しいはずだった。しかし、好物をぶら提げて帰る父にたいして母は、不満の表情を見せたり、ぶつぶつと嘆きの声を言うことなどなく、父の買い物に応じて家族の好みに仕上げていた。
 魚ほど頻繁ではなかったけれど父は、赤身鯨や馬肉もよく買ってきた。馬肉の固い塊を食べるときの家族は一様に、牛の二度噛みを真似ていた。馬肉の筋部は、口内に長く噛んでも噛み切れなかった。そのため挙句には、一度口内から出しては再度口内へ入れ戻し、執拗に噛み続けた。それでもみんなが、われ先に馬肉にむしゃぶりついた。
 ある年の暮れにあって父は、
「正月(元日)の雑煮の具は『スルメ』で、いいね!」
 と、断定的に母に訊いていた。
 日頃の私は、父の雑駁な買い物ぶりを見ていた。だから、この言葉を耳にしたときの私は驚き、父の言葉の真意をはかりかねていた。ところが実際にも元日の雑煮の具は、スルメになっていた。
 確かに、不断の父はスルメにも目がなかった。スルメの束を誇らしげに、ぶら提げて帰ってきた。私も、スルメは大好物だった。だけど、この言葉を聞いたとたん私は、声無く心中で(えっ、なんで! スルメ……)と、思った。母も、一瞬驚いたようだった。
「雑煮の具をスルメで? 合うかどうか……」
 いつもの母に似ず、いぶかった。
 当時、スルメと馬肉では価格で、馬肉がはるかに高かった。値段どおりに雑煮の具には、家族はスルメより馬肉のほうがはるかに旨いのを知り尽くしていた。父にしても、元日の雑煮の具が、スルメより馬肉が旨いのは知り過ぎていた。だからあのとき、父が母への「元日の雑煮の具は、スルメでいいね!」という、問いかけにはどんな事情がったのであろう? 家父長であるかぎり、やはり家計事情であったのであろうか。そうであれば、「父ちゃん、スルメ、旨いかもね?」と、助け舟の相槌を打てばよかったのかもしれない。今なお、悔恨の残る昔日のワンシーンである。それとも、父の嗜好に変化があらわれ始めて、馬肉よりいっそうスルメを好み出していたのであろうか。いや、その年にかぎり家計事情が苦しくなり、止むにやまれず元日早々に、ふだんのんきな父さんも、みずから好物の切りつめを意図したのであろうか。私には今なお謎に包まれたままである。
 スルメの具入りの雑煮は、けっこう旨かった。しかしながら、食べ慣れていた馬肉の具の雑煮の旨さには、到底かなわなかった。それでも私は、「父ちゃん、旨いよ!」と言って、餅と具を腹いっぱい食べた。自分と家族の食欲を満たすためには、いつもの父は家計経済には無頓着を装い好好爺然だったのに、あのときの父は切羽詰まっていたのであろうか。雑煮の具をめぐる小さなできごとだけれど、私の心の中に今なお解けないしこりとなっている。
 私も父の在りし日の年齢に至り、家計の苦しみを味わい始めている。切ない、父、追憶の一コマである。

「八月盆」

 八月十三日(金曜日)、雨の夜明けにあって「八月盆」の迎え日が訪れている。お盆の期間は四日であり、最終日は送り日となる。古来、お盆は正月と並んで、日本社会における二大の大事な習わしである。しかしながら、この習わしの響きには雲泥の差がある。言うなれば正月は和みの儀式であり、一方のお盆は哀しみと慰みの儀式である。唯一、似ているところは親しき者たち(身内、家族)の集い合いである。おのずからどちらにも、日本民族大移動の光景がさらけ出されることとなる。もとより、この光景は歓迎こそされ、人様から非難されるものではない。
 ところが、今年(令和三年)のお盆にあってこの光景には、非難をこうむり後ろめたさがつきまとっている。すなわち今年は、ふるさと帰りでお墓参りなどのせっかくの善意も、ままならない状態にある。かえすがえす残念無念である。通せんぼしているのは、新型コロナウイルスである。日本民族こぞって、打ちのめしたいところだけれど、叶わないきわめて難物である。
 わがふるさとでは死後に初めて迎えるお盆は、文字どおり「初盆」と言う、習わしだった。ところがこの呼び名は、所変われば「新盆」、あるいは「新盆(にいぼん)」と呼ぶようである。はたまた地方や地域によっては、これらのほかの呼称があるのかもしれない。大沢さまの表記には「新盆」と、拝見した。しかし、音読はどちらか知るよしない。ご主人様の「新盆」に際して、あらためて「謹んでご冥福をお祈りいたします」。確かにお盆は、正月とはまったく異なる、哀しさだけがつのる年中行事である。

「東京オリンピック」、男子マラソンスタート

 台風接近のため雨戸を閉じて就寝し、起き出してきてパソコンを起ち上げている。だから、外の様子はいっこうにわからずじまいである。起き立ての私は、両耳に集音機を嵌めている。このため難聴の耳は、音を拾っている。雨戸を強く叩くほどではないけれど、絶えずザーザーと雨音を立てている。予報に違わず台風の影響を受けて、雨の夜明けのようである。
 現在、デジタル時刻は、8月8日(日曜日)6:49と刻まれている。そのためわが気持ちは、焦りと逸る気持ち旺盛である。「東京オリンピック」もきょうは、競技の最終日である。東京オリンピックにかぎらずほぼオリンピックの掉尾の一振を飾る「男子マラソン」は、きょうの午前七時スタートである。おそらくこの時間にあってテレビは、その様子を放映始めているはずである。このため私は、そのテレビ観戦のためここで文章を閉じて、階下の茶の間のテレビの前へ移動を決め込むこととなる。
 男子マラコンはもとより、暑さを避けて北海道・札幌市で行われる。幸いなるかな札幌市は台風の影響を受けずに、雨のないマラソン日和であろう。しかし、気温はいくらか懸念するところである。日本選手は、大迫選手、中村選手、服部選手、の三人である。大健闘を願ってやまない。さあー、移動!

平和! それはみんなの願い。

 一分間の黙祷を終えて、松井広島市長の「平和宣言」を聞き、子どもたちの「わたしたちの使命」の言葉を聞いて、私はまなうらに涙をいっぱい溜めて、開きぱなっしのパソコンへ戻ってきました。そして、読み後れていた古閑さんのメッセージや、大沢さまの追い打ちのコメントを読み尽くし、ありがたく放念しています。現在のわが心中には、生々しく平和のありがたさが込みあふれています。お二人様には、「ありがとうございます」、とお礼と感謝を申し上げます。
 確かに人生は、「生きていてこそ、楽園」です。だから、被爆死や被爆者の悔しさがふつふつとよみがえっています。今朝の広島の空は、「まっさらの青い空」、と式典の女性アナウンサーが告げていました。なおさら、「かなしい」です。私は、いっとき「愚痴離れ」を決め込んでいます。

前田さんへ 投稿者古 閑 投稿日:2021年 8月 5日(木)23時04分34秒
 毎日ひぐらしの記を書く、というのは大変なことですね。
今までよく書いてこられたと思います。すばらしいですよ。どうぞこれからも思いつめずにに書いて下さい。休んでもいいじゃないですか。もう我々は、若いほうではないですから。世間のことは 気にしてもどうにもならない。コロナのぶり返し、医療崩壊等。ただ ひぐらしの記にこういうことがあった、と記しておくのは良いですね。
 私は、これらはすべてケ・セラ・セラです。一老人が心配してもどうにもならない。
 現在は、オリンピックの日本選手のめざましい活躍を楽しんでいます。たぶん前田さんも同じだと思いますが。

 前田さん健康には十分注意して下さい。そして奥様をどうぞ大事にして下さい。
 気分を悪くするようなことを書いたところがあったらどうぞご容赦下さい。

古閑さん、前田さんへの励ましの投稿感謝します。投稿者:大沢 投稿日:2021年 8月 6日(金)07時49分39秒
 古閑さんの投稿に接して、こんな世の中に声かけってすごく大事だと改めて思いました。そしてささやかではありますが、この掲示板の存在も一役買っていると思い、嬉しくなりました。
 自分の声を発する場所があることは、今の閉塞感が充満している社会にあって、心強いと古閑さんの投稿で、改めて気付かされました。
 古閑さん、本当にありがとうございました。 

 

七十六回目の「広島、原爆の日」

 夏の朝、のどかな夜明けにあっても、文章が書けない。このところ続いている、わが体たらくの証しである。日本の国の現下の世相は、憂いごととそして楽しいことに、ほぼ二分されている。言うなれば、悲喜交々の混乱状態にある。この状態は身近なところで、テレビ画面の上部に流れてくるテロップが、ありのままに報じている。
 テロップで流れるものでは、毎夏恒例の高気温のもたらす熱中症への警告が群を抜いている。このテロップにあからさまに加わるものでは、日本列島の津々浦々における「猛暑日」(気温三十五度以上)の告知がある。これら例年の夏の定番状態にあってこの夏にかぎれば、日本列島に猛威を揮う新型コロナウイルスへの感染状況が流れてくる。現下の日本の国は、忌々(いまいま)しい夏の盛りにある。
 ところが一方、今年にかぎれば目下の「東京オリンピック」における、日本選手のメダル獲得状況もまた、頻繁に流れてくる。もとよりこのテロップは、日本選手の華々しい活躍の証しであり、日本国民が挙(こぞ)って、大喝采を浴びせている証しでもある。
 こんなことを浮かべて、休みを決め込んでいた私は、一転パソコンを起ち上げた。それは時の流れを忘却しないためである。いや、決して忘れることはないけれど、記憶を褪(あ)せないためである。文字どおり真夏の真っ盛りにあってきょう(八月六日・金曜日)は、めぐりめぐって七十六回の「広島、原爆の日」である。私は敬虔な面持ちで、夜明けの大空を眺めている。戦雲無き青い大海原にあって、白い綿雲がぽっかりと、あるいは千切れちぎれにあちこちに浮かんでいる。雲の合間に、教科書のページの片隅の写真で見た、「キノコ雲」が恨めしくよみがえる。私にとってきょうは、毎年繰り返す一分間の黙祷の日である。
 書き殴りでかつ走り書きも、こんな文章が書けて私は、ノート代わりのパソコンに大感謝! 頻(しき)りである。

夏空の下の私

 八月五日(木曜日)、へんてこりんな文章を短く書き出している。このところの私は、たった一つのわが願い、すなわち継続文をみずからの意志で断ち、休心状態に逃げ込んでいる。休心状態とは言えもちろん、心身が休まるはずはない。いやむしろ、憂鬱気分はいや増すばかりである。憂鬱気分をもたらしているものには、コロナのぶり返し、それにかかわる医療崩壊、はたまた混乱を極める世情など、ほかさまざまにある。ほかの多くは、わが身周辺の雑事や雑念からこうむる憂鬱気分である。これらに抗しきれずこのところの私は、手っ取り早いところで文章書きを断って、わが身の保全、すなわち休息へ逃げ込んでいる。つくづく私は、弱虫である。
 幸いなるかな! あたかも頃は、「東京オリンピック」の真っただ中にある。このテレビ観戦にかこつけて私は、気分の進まない文章書きを沙汰止みにしている。その理由は私の場合、心象で書く文章は、気分が乗らないままではにっちもさっちもいかないからである。そのため現在の私は、早手回しの盆「休みさらには夏休み」をむさぼる心境にある。ただつらいのは短期の休みが明けて、ところがそののち果て無い長期休暇に陥りそうな予感に脅かされている。夏空を愉しむ、心の安らぎが欲しい夜明けである。

学び、高橋弘樹様へ、感謝!

 ブログ『創作相談室』における「創作文」を私は、そのたびに教科書代わりに、深く読んで学んでいます。文章の巧みさはもちろんのこと、身近な日常事にあらためて、私は新たな学びをおぼえています。質問者と回答者(相談者)の体裁はきわめて分かり易く、そのつど学びを深めています。さらには私の願望に応えてくださり、実際には身近な題材のかつリアルな描写にさずかっています。先ずはこのことにたいして、深甚なるお礼を申し上げます。
 これに加えて、わが興味をおぼえることのいくつかを添えさせていただきます。一つは、文章の筋立てに諧謔(ユーモア)があり、それゆえ読後感がとてもさわやかです。一つは、文章に添えて写真が添付されていることです。まさしく、教科書の一コマの写真を見ているようです。間違いなく、学びを深めるための、高橋様の優しさあふれるご配慮だと思っています。「すきや」など、この手の店は普段の私には、なじみが薄いものだけに勉強になります。ところが唯一、「すきや大船駅前店」(鎌倉市)だけにはときおり入っていました。そして、決まって注文のするのは、『牛丼ミニ』(290円)一品です。一時期は女性係員と顔馴染みになり、レジで「こんにちは」のひと声の楽しみだけで、入店していました。しかし、現在は遠のいています。たぶん時間帯にもよるのでしょうか、それとも辞められたのか、現在はその人にお会いできません。食欲を満たす楽しみより、ひと声の楽しみが殺がれて現在は、お店から遠のいています。
 先日、久しぶりに入店しましたけれど、やはり馴染みの人の姿は見えず、新たな出会の女性係員にたいして、「こんにちは」と、ひと声かけました。わが一方的な楽しみ作りです。しかし、その後間が空いて、この出会いが馴染みになるかどうかには、おぼつかないところがあります。この出会いの結実は、この先のわが入店状況、すなわちわが努力にかかっています。
 最後に加える一つは、わがまったく未知の「デジタル社会」や、「現代の商慣習」等の学びです。今回は、「メルカリ」でその一端を学びました。高橋弘樹様のおかげで、わが老いた心身に現代社会の知識が注ぎ込まれています。文尾ながら重ね重ねて、衷心よりお礼を申し上げます。ひたすら感謝! しきりです。

近況と、この先のわが夏

 オリンピックのテレビ観戦に明け暮れて、平常心が保たれていません。期間限定のオリンピックを十分堪能するために、私は意図して迷い文に焦燥することを断っています。もちろん、二兎を追えないわが能力の限界を十分に知らされています。こちらは今さら知り得たものではなく、もとよりほとほとつらいものです。
 新型コロナウイルスは、オリンピックの盛り上がりをまるであざ笑うかのように、日本列島において日々、感染力を強くぶり返しています。きょう(七月二十八日・水曜日)には、大沢さまのワクチン接種の完結編(二度目)が予定されていると、お聞きしています。確かに、ワクチンを打てば、気分が落ち着きます。この先いっそう、大沢さまの『私の庭』物語等にすがる日が続きそうです。
 懸念していた台風は大過なく過ぎて、日本列島にはいよいよ「夏、本番」が訪れます。オリンピックや大沢さまにすがる、他力本願になりそうです。自力叶わずとも、楽しめれば十分です。