ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

六十歳の朝

 ふるさとは七月盆である。平成十五年七月十五日の起床時刻は、枕時計の針が午前四時三十五分をさしていた。鼻炎症状にとりつかれて就寝時の私は、勤務する会社製品である『スカイナー鼻炎用カプセル』の一カプセルを服んだ。すぐに、風邪薬特有の誘眠作用が顕われて、深い眠りに陥った。そのぶん、目覚めると鼻汁と頭重症状はすっかり消えていた。
 布団の中で、(とうとう、六十歳になったのか…)と怯えて、いろんな雑念にとりつかれていた。私の意識のなかに長くとぐろをまいていた「六十歳」という年齢を現実にして、寝起きの気分は鬱になっていた。私は神妙に身を起こし、ゆったりと身なりをととのえた。二階のパソコン部屋へ上がった。文章を書くためである。
 隣の部屋から、娘の寝息が漏れていた。娘に気遣い、窓ガラスを覆う、レースのカーテンをこっそり開いた。明けはじめていた空は、なお夜を引きずり薄くシルバーグレイの色をなしていた。バイク音が近づき、いっとき音を落とした。再び音を上げ、視界にバイクが現れた。バイクは、すぐに左折した。バイク音は、遠ざかり消えた。なぜか、いつもより遅い、朝刊配りのバイクだった。
 外気の明暗に応じて点滅する仕掛けの一基の外灯は、いまだに明かりを灯していた。外灯は、周辺の剪定漏れのいくつかのしおれたアジサイを照らしていた。木立には、カラスが二羽いた。山に棲みつくタイワンリスの一匹が、電線を行きつ戻りつしている。山際に住んでいるせいで、いつも見慣れた光景である。
 妻は階下でとっくに起きている。ドッキリ! 固定電話のベルが鳴った。すばやく、足音を殺して娘が寝ている部屋へ忍び込み、静かに子機を手にした。パソコン部屋へは戻らず、隣の部屋に入った。娘の寝息を遠ざけるためである。声のトーンを落とした。
「六十歳、おめでとう。先ほど、そのことを書いて、ファックスを入れたのだがね。うまく送れなかったもんで、朝早やいばってん、電話したたいね。まだ、寝とったろね。すまんね。ファックス、どうかしているのか」
「そうだったの。うちのファックスは、うまくいかないもんで……」
「おまえも、きょうで六十歳になったね」
「とうとう、なってしまった。だから、いやな気持になっている。今、そのことを、文章に書かこうとしていたころだった」
「おまえの誕生日は忘れんたいね。お盆だし、おっかさんの祥月命日だしね」
「うん、そう。とても、かなしい……。そうだ。あした、墓へ送って行くの?……」「なんの。きょう送るよ。十三日に迎えに行って、十五日に送る、習わしじゃけんね」
「お盆んて、そうだったかな?……。おっかさんがいたときには、十六日に連れられて、送りの墓参りに行ってたような気がするけど……」
「そうかもしれん、たいね」
「『おっかさんに、しずよしも、とうとう六十になったばな。ばってん、とても元気じゃけん、心配せんちゃ、ええばな……』と、言っといて!」
 現在、私は八十一歳。ふるさとの長兄は、先月(八月二十二日)永眠した(享年九十四)。ふるさと電話(受話器)は、不通ではないけれど、すでにまったくの無用になっている。

ふるさとごころ

 しょっちゅう、心の中に「ふるさとごころ」を浮かべていれば人は、罪など犯さないであろう。田園風景、「内田川」の流れ、里山を代表する「相良山」は、起きて寝るまで一日じゅう、意識することもなくわが家の庭先から眺めていた。確かな、わが家特等の借景だった。
 私は借景のなかに、のちの「ふるさとごころ」をはぐくんでいた。もちろん、借景に甲乙をつけることは馬鹿げている。それでも、子どものころの遊び場としては内田川に、イの一番と順位を付けざるを得ない。それは、多くのふるさとごころをはぐくんでくれたお返しでもある。内田川は、今でも生家の裏を流れている。しかし、河川工事という化粧直しがほどこされて、今では子どものころのむさくるしい川の姿はない。だからなお、わが内田川への思いは、子どものころへさかのぼり、いっそう懐かしさがつのっている。
 春先の水温むころ、うららかな陽気に誘われて私は、わが家の裏を流れている内田川へ駆けた。利き手の右手には、「おなご竹」の竹藪から切り出して作った、短い釣竿を持っていた。見慣れた春の田園風景はのどかに広がり、相良山には春霞がかかっている。内田川には陽光がそそいでいる。私は待ちどうしかった春の息吹を感じていた。内田川に親しむ、春が来たのだ。わが心は弾んでいた。清流の中に出ている川石を、ひとつ、ふたつ、みっつ、と飛んで、私は釣り糸を垂れる石間(いわま)を探した。目星をつけた石の上に、体を止めた。釣竿を握り直して、体をかがめて臨戦態勢を固めた。石間を覗いて、テグスの先につけた釣り糸を水中に下ろした。わが意に応えて,石間にいるはずの魚たちを誘(おび)き出してくれるかのように、餌のミミズは、水中にゆらゆらと身を揺るがしている。こんなうららかな日には魚たちも、背びれ、腹びれ、尾びれ伸ばしに、ちょろちょろするであろう。そんな魚たちの目先に、好物のミミズを垂らしたら、ドジを踏んでパクついてくるだろう。私には子ども心に宿る、浅はかでひねたずるがしこい考えがあった。今となっては、わが無慈悲な遊び心に魚たちを嵌めて、罪を作ったことを詫びている。けれど、遊び心はつぐなえない。
 魚釣りにかぎらず道端の草花などに至るまで、私は無慈悲になぎ倒し、わが遊び心は満たしていた。とりわけ魚釣りは、みずからに快楽を得て、同時に食膳の美味にありついていた。身勝手にも、このほかに無い楽しい遊びだった。澄んだ水の中を透して見ると、石間から小魚が出始めた。(いるな!)と思ったとき、指先に小さな衝撃を受けた。釣ことばでいう、「あたり」の瞬間である。私は釣り竿を上げて数回まわした。水面に飛沫が上がった。頃合いをみて回転運動を止めた。空中に釣り糸を垂らし、暴れている魚を凝視した。(何が釣れたかな?)。おおかたの予想はついている。予想は、ハゼの仲間のシーツキかゴーリキである。願っているハエなど、滅多にかからない。それでもふだんから私は、内田川の釣三昧に酔いしれていた。
 釣れるたびに私は、こんどは川石を逆に飛んで川岸へ戻った。草むらの澱みに浮かせていた魚籠(びく)に、釣れた魚を入れるためである。萎えた魚の口に刺さっている釣り針を外し、魚籠に入れた。魚はしばしバタついて、蘇生の苦しさをさらけ出した。万事休すかと思いきや、魚は魚籠の水に慣れたのか、腹びれ、背びれ、尾びれをひるがえし、鰓(えら)呼吸で生き延びたのか。仲間たちと押し合いへしあいしながら泳ぎ出した。しかし、生き延びたいのちの時は限られて、魚籠のなかのいのちにすぎない。それは、限られた人の命を見るようでもあった。
 懐かしく偲ぶふるさとごころとは、多くは罪作りにまみれて、切ないものばかりである。

内田川

 瀬音は風の音をさえぎり、降りしきる雪は風にちらちらと舞って、ほどなく川面に吸い込まれた。川上のほうからくねくねと曲り、ひと筋流れてきた水は、コンクリートで頑丈に造られた九段ばかりの堰(せき)にあたり、白い飛沫(しぶき)を高く跳ねあげている。堰に跳ね返されて岸辺にうち寄せられた戻り水は、あちこちに澱(よど)みをつくり、魚影をちらつかせていた。「内田川」は等間隔で、平行に架けられている二つの橋の下をくぐり抜けては川幅を広げて、川下へ流れてゆく。ちょっと下ると、川筋にわが生家が建っている。二つの橋の一方には真新しい金文字で「矢谷橋」と刻銘され、一方の橋にはなぜか「田中橋」と、書き換えられていた。わが子どものころには、「田中井手橋」と呼んでいたのに……。
 川の左岸には「矢谷」集落の民家が疎(まば)らに建ち、右岸には家人が「日隠山」と呼んでいた山裾が、谷をなして内田川へとどいている。わが生誕の地・「田中井手」集落は、矢谷橋も田中橋も渡らず、袂(たもと)に三軒ほどが点在する。私は、物心ついたときから田中井手という名に馴染んできた。季節迷いの春の淡雪は間断なくふり続けて、頭部、ほっぺた、首筋に冷たくべたついた。ひっそり閑(かん)として、周囲に人影はない。私はだれはばかることなく、矢谷橋の真新しい鋼鉄づくりの欄干のかたわらに立ち竦(すく)み、しばし見渡す風景に耽(ふけ)っていた。ぐるりと首をまわすと、見慣れてきた里山と、連なる遠峰が郷愁を駆りたてた。平成十三年二月十六日(金曜日)、ふるさとの朝の光景の一コマである。
 私は「同級生還暦旅行」へ参加するため、自宅のある鎌倉から早々と、ふるさと(熊本県鹿本郡菊鹿町)へ帰っていた。去年に続いて、二度めの「同級生還暦旅行」は、この日から二日のちの、二月十八日(日曜日)から十九日(月曜日)にかけて行われる。同級生には、昭和十五年生まれと十六年生まれが存在する。二年続けて行われるのは、同級生の誕生月を考慮し、公平をきすためである。ふるさとの幹事役たちの粋(いき)な計らいであった。一度めの去年は実施時期も同じころにあって、行き先は「宮崎への旅」だった。二度めの今年の行き先は、「天草・島原半島への旅」である。
 かつての田中井手橋は、村中を一本道(いっぽんどう)に走る、県道の主要区間をなしていた。ところが車時代になり、県道を広げて新たに矢谷橋が架かると元の田中井手橋は、旧橋とも言えないほどに置き去りにされて、今や通る人はだれもいない。しかし、寂れているとはいえ、わが子どものころの橋の姿をそのままにとどめていた。私は田中井手橋をゆっくりと歩いて、行き来した。懐かしさがよみがえり、涙が込み上げた。
 かつてのわが生家は、田中井手橋から150メートルほど下ったところに、隣家と並んで建っていた。しかし現在は、「内田川河川整備計画」の立ち退きに遭って、元のところから50メートルほど離れた田んぼの中に、新たに建て替えられている。子どものころのわが家と隣家の間には、鉄製の大きな水車がまわり、双方に動力棒を渡し、動力源を恵んでいた。互いの家は精米所を営んでいた。ところが、村中に電動の精米所ができはじめると水車では成り立たなくなり、水車は屑鉄屋に引き取られ、共に精米所を畳んだ。水車は内田川から分水を引き込み、私道みたいに長い私用の水路をつくり、ゴットンゴットンと音を立ててまわっていた。
 川中の取水口には、隣家と共同で手づくりの堰が設けられていた。取水口から水車までの水路は、共に「車井出」と呼んでいた。車井出にはウナギ、ハエ、ナマズ、はたまた雑魚(ざこ)がいっぱい泳いでいた。おとなたちは年に一度は取水口を塞いで水を止め、「魚取りをするぞ!」と、子どもたちへ呼びかけた。子どもたちははしゃいだ。双方共に一家総出でバケツいっぱいに取り合った魚は、均等に分けられた。
 手づくりの川中の堰は、大水のたびに落ち崩れた。たちまち、水路は水車の用水を失くした。水車は、堰の修復がなるまで止まった。水がひくのを待って、隣家と共同で堰のつくり直しが行われた。落ち崩れた堰のつくり直しには、いつも大きな川石と、破れた筵(むしろ)、笹竹、木の葉などが用いられた。堰づくりはおとなたちがそろって、力の要る大仕事だった。水車は隣家とわが家共に多くの命をはぐくんだ。今でもぞっとする、水車のバカ力と膨大な恩恵である。
 橋は新たにできても、内田川だけはいつ見ても変わらない、わがふるさと原風景である。

晩年

 またひとり、訃報が届きました。こんどは、元卓球クラブの仲間のおひとりです。自分が年を取ると、知己すなわち身内、友人、知人、ほか親しい人たちが年を取ります。このことは、とてもつらく寂しいです。
 昼間、日差しがこぼれると、まもなく尽きるいのちを惜しんで、セミが間断なく鳴いていました。かつては「うるさい」と思った心に、けなげに同情心が沸いていました。私はみずからの「命」をかえりみず、しばし、セミに憐憫の情を寄せました。子どものころのセミ取りの罪にたいし、自分自身に罰を与えて、届かぬつぐないをしたつもりでした。
 「生きとし生けるもの」のいのちは、すべて終焉を迎えるのです。今さら悟るまでもない、知り過ぎている「命の営み」です。晩年とは、重いことばです。九月九日(木曜日)、つつがなく夜明けを迎えています。

『思い出の歌』

 私は、すでに自叙伝あるいは自分史を書く年齢に達している。言うなれば後がないのである。それでも、書くつもりはまったくない。その理由は、書いても読んでくれるきょうだいは、もはや次弘兄ひとりしかいない。だから、呻吟して書いても、割に合わないからである。これまで、私はたくさんの文章を書き続けてきた。それらの文章が、十分に自分史になりかわるからでもある。
 さて、過去の文章にはこんな一文がある。『思い出の歌』。平成十年十月十五日、NHKテレビは、『あなたの思い出の歌』を特別番組で流していた。視聴者が、一つの歌にまつわる思い出を、はがき一枚に綴って局へ送り、それが元になって番組が構成されていた。採用されたはがきを、『思い出の歌』に合わせて、アナウンサーが読んでゆくスタイルである。はがきの朗読と曲が流れる前にアナウンサーは、会場に招いた投書者に短いインタービューを試みた。「あなたにとって、どうしてこの曲が思い出につながるのですか。どんな思い出があるのでしょうか」。番組のねらいの一つは、投書者の思い出の曲をひもといて、テレビの前の人たちにたいし、感動編を送りとどけることだ。そして、投書者にまつわる思い出の歌をみんなで共有し、過ぎた時代をふり返る仕立てだった。
 はがきが採用された方のなかに、わがふるさと・熊本からみえられたご婦人がいた。「わたしが五歳のときに戦争が終わって、母の、『お父さんはもうすぐ帰ってくるのよ』ということばを信じて、わたしは父の帰りを待ちました。しかし、父は途中シベリアに抑留されました。結局、父が帰ってきたのは、五年もあとでした。ところが、再会の喜びに浸りはじめていたころ、父はシベリア生活の疲れで病床に臥して、二年後に亡くなりました」。
 ここで、『異国の丘』のイントロが流れた。そばで、私と一緒に観ていた妻が、「『異国の丘』って、こういう歌だったのね」と、涙声で言った。私の両眼からも涙があふれ、「なに、知らなかったの?」と、口にするのがやっとだった。
 妻は、私より三つ年下で、生まれた年代はそう変わらないのに、家族に戦争犠牲者が出ていないためなのか、普段から戦争への思いは、私とは大きく違っている。はからずもご婦人は、年齢が私と同じで五十八歳だった。だから余計、私にはご婦人の心中を察すると忍びないものがあった。どんなにかつらく、くやしいお父様との別れであったことだろう……。
 戦争が終わって、私が小学生のころのあるとき、『鐘の鳴る丘』という、劇が中学校の学芸会で上演された。私の曖昧な記憶のなかに、兵隊さん役の良弘兄の姿がよみがえる。私と五つ違いの良弘兄は、兵隊さんの役のひとりとして出ていた。子どもたちの学校行事には父は、母に先駆けていやどこのだれより早く出かけて、その場に陣取っていた。「子どもたちを思う父さんの気持ちは、到底わたしがかなうものではなかったよ」。生前の母が、いつも私に語りかけていたことばである。
 父は、拙いながらも熱演する兄の姿をどんな気持ちで、観ていたのであろうか……。年齢を重ねるたびに私は、戦争にまつわる父の心模様を知りたくなっている。その一端として私は、父が戦争の結末に早くから懸念をいだいていたということを、兄姉たちから聞いていた。父は昭和十九年から二十二年の四年間にかけて、五人もの子どもたちを葬送している。父は先妻を病没し、のち添えに私の母を迎えた。四十歳と二十一歳、年の差十九の花婿、花嫁である。父は、異母に六人、わが母に八人の子どもをなした。文字どおり、父は「律義者の子沢山」だった。
 あえて、子どもたちの名を記すとこうである。「護、スイコ、利行、ハルミ、キヨコ、年清、セツコ、一良、テルコ、次弘、豊、良弘、静良、敏弘」である。これらのなかでは、年清が戦場で斃(たお)れ、利行は海軍の軍務半ばで病魔に見舞われて、自宅へ戻り病死した。ほか三人は、事故や病気で亡くなった。父は、昭和三十五年十二月三十日、病死した(享年七十五)。私が生まれたときの父の年齢は五十六歳であり、すでに好好爺然とした風貌であった。目立った特徴は、禿げ頭だった。おのずから父にまつわるわが思い出の歌は、「丸々坊主の禿げ頭……」という、子どもあやしの戯れ唄だった。
 『異国の丘』が歌い終わり、画面にご婦人の姿がクローズアップされた。戦時下はもとより、戦争が終わっても、じっと哀しさに耐えていた、同じ年齢の美少女が同郷にいたのである。美少女はお母さんのことばを信じて、ひたすらお父さんが帰ってくるのを待っていた。そして、会えてまもなくお父さんは病臥され、二年後に永遠(とわ)の別れが訪れたのである。
 <日本は、なぜ、戦争なんかしたのだ!>。涙をいっぱい溜め込んでいた瞼は、溜めきれず、ぽたぽたと落とした。

短い文章で、『常ならず』

 九月八日(水曜日)、秋彼岸を前にして残暑なく、身に堪える寒さが訪れています。生きることは常に艱難辛苦です。体(てい)のいい「自宅療養者」という言葉は、療養などありえない言葉の暴力です。きょうは、足取りおぼつかない妻の歯医者通いの引率です。平和な日常に飢えています。

手習い始めのころの一文、『秋の山』

 平成十年十月三十日、私は勤務する会社近くの歩道を歩いていた。ハナミズキの赤紫の朽ち葉が三、四枚空中に翻り、私の胸にあたっては舗道の方へ散らばった。歩きながら眠りこけそうな、のどかな秋日和だった。こんな麗らかな日は会社を離れて秋の山の陽だまりで、落ち葉の褥(しとね)に寝そべり手枕をあて、高く澄みわたる秋の空を眺めていたいものだ。
 先日の新聞には都会の人たちのなかで、林業に関心を持つ人たちが増えているという記事が出ていた。林業と言えばここ数年は廃(すた)れる一方で、国有林を統括する林野庁は、膨大な赤字をかかえているという。言うなれば身動きがとれない、国の厄介事業である。むかし、林業王と言われた山持ちのお大尽(だいじん)さえも、今では山の手入れができずに、山は無残な姿をさらけ出し、荒れ放題になっているという。こんな林業の衰退現象に歯止めがかかるとは到底思えないけれど、記事自体にはいくらか皮肉だけど、ほほえましさを感じた。いや、実際のところは都会生活に行き詰まり、背に腹はかえられない、切ない願望なのかもしれない。
 この記事は熊本県のはずれの農山村にはぐくまれたわが血肉が、いまなおふるさとの山野への郷愁を捨てきれないでいる証しだった。それはまた、不況や解雇の恐れなどによって都会生活に疲れを帯びた人たちが、自然願望をつのらせて行き着くところ、林業という山の中の生活に桃源郷を求めた切ない心象の証しでもあった。
 バブルの時期にあっては、耕作に向かないむさくるしい土地までもが地価の高騰を招いた。そのため、農地の宅地並み課税や相続税対策などで苦しむ都市近郊農家は、やむにやまれず休耕田を日曜農園や家族農園に開放した。借り受けた人たちの多くは、日ごろコンクリートジャングルに住み土や緑に飢えたり、あるいは懐郷の念ひとしおの人たちだった。加えて、野菜作りなどまったく初体験の人たちがそろって、にわかにミニ農夫・農家ブームを巻き起こした。借り受けた人たちは、子どもたちのままごと遊びのように土いじりに狂奔した。なかには、趣味と実益を兼ねるだけでは飽き足らず、いっぱしの篤農家まで上り詰める人たちもいた。それはそれで、日ごろ「消費者は王様だ!」などと煽(おだ)てられ、「米や野菜、そして魚は…どうしてこんなに高いの?」と、不満たらたらだった人たちに、農水産林業にたずさわる人たちの苦衷(くちゅう)を体験させたことでもあった。
 確かに人は、生活の重みに疲れて心身の癒しを求めるときには、自然への回帰や自然賛歌を声高にする。しかし、私にはこんな記事に出合うと、うれしい半面「いい加減にして……」と、遣る瀬無い気分に陥るところがある。それはサラリーマンがにわか樵(きこり)になるほどに、都会生活に疲弊したのか? という、切ないわが同情でもある。一方、これがかりそめの憂さ晴らしへの逃避行であれば、実際に農水産林業にたずさわる人たちにたいしては、失礼きわまりないものでもある。
 山の静けさ、木々を揺るがすそよ風、飛び交う小鳥たちを頭上に仰ぎ見る山の生活は、確かに憧れへ誘(いざな)う魅惑旺盛である。しかしながら山仕事が本業ともなると、もちろん美的風景と喜悦ばかりを堪能できるものではない。このことは林業が長年、後継者不足を露呈しているという、現実が如実に物語っている。
 確かに、ひと仕事ののちに、山の中で食べるおにぎりや弁当の美味しさは格別である。だからと言って、有閑マダムの職探しさながらに、興味本位ににわか林業マンになりかわり、山の中に入られても困るのだ。これでは、暴走族みたいに山荒らしになるのが落ちだ。自然や山、かつまた生業(なりわい)の林業マンの真摯な仕事を蹴散らすだけ蹴散らして、挙句には「山はきれいではなかった……」などと、捨て台詞(せりふ)を吐いて都会へとんぼ返り、悠々自適の年金暮らしでもされたら、子どものころから山を愛してきた私には耐えがたいものがある。
 薪割りや薪出し、柴刈りや柴拾いなどが毎日の仕事となったら、日曜農園のようにはいかないのだ。野菜作りには身近に収穫の喜びがある。しかしながら山の仕事は植えつけるだけで、自分の代で収穫や収入の喜びにありつけることなど滅多にない。多くは、長年ひたすら耐えるだけの根気のいる仕事である。
 私はふるさとの長兄に連れられて、スギ林や雑木林の中で、薪割りも薪出しもした。竹山では重たい竹を肩にかついで、汗たらたらに竹出しもした。クヌギ林の中では、原木に椎茸の菌打ちも体験した。それらのときの私は、長兄の仕事ぶりをつぶさに見ては真似をした。それでも、山の仕事に喜びを見出すことはできなかった。挙句、私は「兄さんは、ええな。こんな山の仕事があって……」とは、つゆも思わなかった。生業の山の仕事は、秋の山の中で寝そべって木々を眺めたり、空を見上げたりするのとは違って、ちっとも楽しいものではない。おのずから林業は、この先廃れてゆくばかりである。林業へのロマンは、未体験ゆえのロマンである。

記録と記憶

 九月六日(月曜日)、記事引用。【東京パラリンピックが閉幕 東京2020年大会が全て終了】(9/5・日曜日22:03配信 毎日新聞)。「東京パラリンピックは5日、閉幕した。新型コロナウイルスの影響で1年延期された東京大会は、オリンピック(7月23日~8月8日)、パラリンピック(8月24日~9月5日)ともに日程を終えた。パラリンピックには、162カ国・地域と難民選手団の約4400選手が参加した。東京での開催は57年ぶり2回目。13日間の日程で22競技、539種目を実施し、日本は51個(金13、銀15、銅23)のメダルを獲得した。」
 私見:テレビ観戦。オリンピックおよびパラリンピック共に、総じて成功裏に終えたと思う。両者を比較すれば私は、オリンピックよりパラリンピックにたいし、はるかに大会の成功観と、自分自身の感動をたずさえている。
 わがテレビ観戦の多くは、NHKテレビ一辺倒だった。オリンピックにかぎれば民放の視聴率稼ぎとも思える、勝利者だけを何度も称える風潮に食傷気味だった。言うなれば民放の場合は、感動押しつけの空騒ぎ、バカ騒ぎに思えるものだった。
 パラリンピックのテレビ放送には、端(はな)から民放は少なく、いやほとんどなかった。オリンピックに比べれば視聴率を稼げないという、身勝手なおざなり観のせいであろう。反面、NHKテレビの競技中心の放送姿勢にありついて、そのぶん私は、静かな感動に浸ることができた。
 やはり、国家的イベントは、NHKテレビだけでいいのではないだろうか。NHKだけでも、三チャンネルほどあったように思う。私は競技に合わせて、リモコンスイッチを回していた。そして、それで十分だったのである。私にとって、パラリンピックからさずかった感動はこの先長く続いて、もちろん一幕(ひとまく)ものではない。

呻吟

 九月五日(日曜日)、昼間、つれづれに文章を書いている。長雨続きだった空に、ほのかに陽射しがそそぎ始めている。これに応じて、鬱陶しさにまみれていたわが気分は、いくらかほぐれ始めている。まさしく、太陽がもたらす、何物にもかえがたい天恵である。
 ひ弱なわが精神力では、一旦継続が絶たれると、再始動を叶えることは、至難の業である。これまでの私は、こんな苦い体験を幾度となく、実証してきた。すると、継続の頓挫を防ぐために私は、文章の内容や質には意を介さず、惰性という武器をたずさえて、ひたすら駄文を連ねてきた。そして、いくらか功を奏して、「継続は力なり」を実感した。
 ところがこのところの私は、惰性にさえそっぽを向かれて、継続がままならない。挙句には、「もはやこれまで」、と再始動を断念していた。実際には、再始動の苦しみから逃れることに心を安んじていた。このことでは確かに、心身の安寧を得ていた。
 一方でこの安寧には、充足感が欠けていた。正直言って、安寧にはかなりのうしろめたい気分がともなっていた。それはたぶん、長年の継続をみすみすほうむりさる、遣る瀬無さであったろう。こんなことを心中にたずさえて、私は文章を書いている。すると、自分自身に哀れさを感じている、現在のわが心境である。
 一年延期された「2020年、東京オリンピックおよびパラリンピック」は、きょうのパラリンピックの閉会式をしんがりにして、すべての競技とイベントを終える。東京オリンピックの開会式(七月二十四日)から空白を挟んで、きょうのパラリンピックの閉会式(九月五日)までは、やはり夏空の下の祭典だった。
 祭典済んで、日本社会はあすから平常社会に戻ることとなる。ところが、日本社会の難題と喧騒は、いまだに新型コロナウイルスの脅威とその収束を残したままである。加えて、新たに政治にまつわる突風が吹き始めている。ほとほと、ままならない日本社会の世相である。おのずからわが憂鬱気分は、なお晴れないままである。
 こんなことはどう気張ってもわが憂鬱気分は失せず、再始動はおぼつかないかもしれない。おのずから、明るい陽射しのなかにあっても、わが心中にはなお暗雲が垂れ込めている。しかし、無駄な抵抗と諦めてもおれない。私は、再始動のきざし探しにおおわらわである。
 ウグイスは声仕舞いをして、セミはいのち尽きたのであろうか。鳴き声が途絶えている。私は、声無く呻吟している。寂しさつのる、日なかのたたずまいである。

産交バス

 産交バス(九州産業交通)は、わが子どものころの憧れでした。今やふるさとと名を変えたわが生誕の地・内田村には、現在、産交バスの運行は途絶えています。村の過疎化とマイカーの登場という、ダブルパンチに見舞われて、利用客の減少に拍車がかかったせいと、言われています。確かに、民営の会社にすればやむにやまれぬ決断であったろうとは、十分に理解するところです。しかしながら一方、定期路線バスの廃止以降の村は、いっそう過疎化に加速がかかり、たちまち村の風景をも、寂しく変えています。
 バスの廃止やマイカーの登場は、おのずからその後のわが家(ふるさと・生家)の送迎風景をも変えています。わが家のある集落は、隣と向かいの二軒を含めて、三軒ほどにすぎないけれど、「田中井手」という、集落名で呼ばれています。近隣の街中(山鹿市)とは一時間に一本ほど、はるかに遠い熊本市との間には、一日に一本の直通バスの時刻表がありました。その終点のバス停は、一時は「田中井手」でした。
 わが高校生のおりの修学旅行の行き先は、華の都「東京」でした。ところが私は、この修学旅行には参加していません。なぜなら、私は修学旅行が実施される前に一度だけ、東京へ行っていました。東京に住んでいた次兄のところへ、遊楽の一人旅を敢行していたのです。このとき、遠い東京への旅支度と旅立ちの伴(とも)をしたのは、生家をあずかる長兄でした。長兄は、私をはるばると熊本駅まで連れて、東京行き夜行列車に乗り込ませました。そして、私の視界から長兄の姿が消えるまで、両手を振り続けていました。
 私たちは一度、途中の山鹿市で下車し、乗り換えて熊本市(駅)まで向かいました。
田舎道をめぐる産交バスはいつも、小石や砂利、土塊(つちくれ)むき出しを走り、土埃(つちぼこり)を周辺にまき散らし、乗客の体をピンポン玉のように跳ね上げていました。この日の道程は、山あいの村から熊本市内へ行くだけでも、二時間ほどかかる、小旅行とも言えるものでした。熊本駅からの夜行列車は文字どおり夕方に発ち、明けて朝の十一時頃に東京駅のプラットホームに滑り込む、十九時間ほどの長旅でした。当時の私は、バスに乗るとすぐに小窓を開けていました。それでもすぐに、吐き気や胸のむかつきに見舞われました。そのため私は、常に用意周到を余儀なくし、おそるおそるバスに乗り込むようになっていました。そのせいで私は、憧れとは裏腹にバスへの乗車が恐怖となり、バスが嫌いになりおのずから、バス利用の遠足や遠出は避けていました。
 この日もまた、バスに乗るやいなや、私はすぐに吐き気に見舞われました。かたわらの長兄もまたすぐにあたふたとして、それでもかいがしく手当てに翻弄してくれました。そのとき以来いつもこのことを振り返り、私はこのときの長兄の心中はいかばかりであっただろうかと、案じ続けてきました。今なお、心中には悔恨と申し訳なさの気持ちがいっぱいです。なお重ねればそれ以来、わが心中にはつらさと心苦しさが同居し、いまだにわだかまっています。
 長兄と私は、十三の年齢違いです。長兄は先日(八月二十二日)、この世からあの世行きのアクセス(交通機関)に乗りました。行き先は、産交バスなら、「田中井手バス停」から見知らぬところです。私は新型コロナウイルスのせいで、見送りをフイ(不意)にしました。かなり残念だけれど、そのぶん長兄は、わが命あるかぎり心中に、生き続けてくれます。ただ、最期だけはきらびやかな葬送車ではなく、臨時雇いの産交のマイクロバスか、あるいは後継者(長男)が運転する、長兄の自家用車(軽トラック)に、乗せてあげたかったです。
 わが傷心もまた、わが命あるかぎり癒えず、この先へ続きます。ふるさとではこの時分、村自慢の彼岸花が見ごろに咲き始めているはずです。今年にかぎれば、とことん恨めしい「ふるさと花」です。