ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
遅れてきた「秋万歳」
月替わり初日(十月一日・金曜日)には台風十六号に見舞われた。きのう(十月二日・土曜日)は余波なく一過となり、風雨は遠のいて普段の夜明けを迎えた。私は閉め切っていた雨戸のすべて開けて、いつもの夜明けの状態にした。次には、気に懸かっていた家周りの点検に向かった。被害はたったの一つだけ。すでにほぼ水平に倒れかかっていた柚子の木は、無残にもダメを押されて土に着いていた。(これくらいで済んだのか)、わが胸は安堵した。
気を良くして、わが清掃区域と決めている周回道路へ急いだ。ところが、ここは目を覆いたくなるほどのありさまだった。道路には山から振り落とされた木々の枝葉が、てんでんばらばらに落ち敷いていたのである。小枝とも言えない、朽ちかけの大枝が何本も、あちこちに倒れていた。道路は、まだ乾ききってはいない。しかし、放って置くには忍びない。物置から三種の神器(箒、塵取り、半透明袋)を持ち出し、渋々掃除をせざるを得なかった。道路に立つと、わが区域の先には隣家の奥様のお姿があった。私に先駆けるお姿だった。挨拶を交わし合うと二人の共同作業となり、掃除は想定外に捗(はかど)り、二時間余の想定時間は、一時間ほどだけで済んだ。汚らしかった道路は(顔をつけてもいいかな?……)と思うほどに、綺麗に仕上がった。私は何度も言葉をかけて、奥様に感謝した。散歩まわりの人たちに先駆ける、二人の共同作業だった。綺麗になった道路は、たちまちわが気分を全天候型にした。
きょう(十月三日・日曜日)の夜明けの空には、ほのかに朝日が差し始めている。台風が去って訪れた、のどかな朝ぼらけである。いよいよ、きょうあたりから実りの秋、さらには遅れてきたさまざまな冠(かんむり)の秋を楽しめるのかもしれない。これまで、冠の秋に通せんぼをしていた新型コロナウイルスの感染力は、どんでん返しに殺がれている。鬼のいぬ間に、我慢に我慢を強いられてきた日常を取り戻したいものだ。なぜなら新型コロナウイルスは、なおこの先第六波が懸念されている。そうであれば束の間かもしれない。だとすれば余計、今朝の朝ぼらけにはのどかな秋の先導役と願うところである。ただ惜しむらくは、かなりの出遅れである。それでも秋万歳の気分は、いや増してつのっている。もとより秋は、さわやかな気分を味わえなければ、寒気の走りに慄(おのの)くばかりである。せっかくの好季節にあって、つまらない秋だけは、もうこりごりである。
気の揉める秋
月替わり初日にあってきのう(十月一日・金曜日)は、一階と二階の雨戸のすべてを一日じゅう閉めきり、私は一階の茶の間暮らしに終始した。この間、明かりは茶の間だけに明々と点いていた。これは台風十六号に備えて、とりわけ山から窓ガラスへ飛んで来る枝葉を恐れてのものだった。このたびの台風は、主に伊豆諸島あたりで暴れていた。天気の良い日に裏山の「天園ハイキングコース」へ上れば、相模湾を隔てて水平線遠くに、伊豆大島あたりを見晴るかすことができる。それゆえに伊豆諸島を襲う台風の場合は、いつもほかと比べて鎌倉地方には大きな脅威をもたらしている。このたびも例外にならず、雨戸に打ちつける暴風雨の音は、ほぼ一日じゅうわが身に脅威をもたらしていた。
きのうは、まさしく台風に怯える一日だった。こんな日にあっても妻は、娘のマイカーによる送迎で、予約済みの腰骨の治療に、はるばる久里浜(横須賀市)へ出かけた。妻は、朝の十時前に出かけて夕方の六時過ぎに帰ってきた。帰りの車には娘の連れ合いの運転で、中学校帰りの孫のあおばも同乗していた。この間の私は、ほぼ茶の間のソファに座りきりだった。茶の間のテレビは主に、台風状況、自民党の党人事、眞子様の結婚のこと、さらには定例の料理番組などの繰り返しと垂れ流しばかりであった。眞子様の場合は、結婚確定のニュースであった。日本国民こぞって慶事のはずなのに、私にはかなりの不安がつのっていた。
見飽きたテレビはリモコン片手に消した。すると、手持無沙汰どころかもはや、何もすることがない。仕方なくわが意思でできる行為は、二つに限られていた。一つはつまみ食いとは言えない、かたわらに置く駄菓子の品を替えてのひっきりなしの食い漁りである。一つは、両膝に分厚い国語辞典を置いて、語彙のおさらいを試みていた。このときのわが心中には、こんな切ない思いがうずくまり、おびやかし続けていた。(妻が逝って、われひとりの生活になれば、死ぬまでこんな日にだけになるのか……。そうなれば余生など、おれは要らない!)。
きのうの私は、とんでもない予行練習していたのである。妻が送られて帰り、私はホッとした。いつになく、ニコニコ顔で出迎えた。暴風雨は、かなり弱まっていた。半面、わが気分は、持ち直していた。いまだ雨戸は閉めきったままである。夜明けて台風一過の様子と被害の有無の点検は、この文章の投稿後であり、まだ分からずじまいである。デジタル時刻は、5:46と刻まれている。この秋、この先どんな日暮らしになるであろうかと、気の揉める十月の訪れである。
もとより秋は……寂寞
とりわけ今年の秋は、寂しい気分で過ぎています。ふるさとが遠くならないよう例年のごとく、甥っ子にふるさと産新米の送付依頼をしました。新米の味は、去年までとは異なるでしょうか……。
戦いは余生へ続きそう…だったら悲憤慷慨
九月三十日(木曜日)、九月最終日のトピックスは、新型コロナウイルスにかかわる緊急事態宣言等の解除と言えそうである。しかしながらこれで、新型コロナウイルスから解放されたわけではない。このことで恐れていることがある。それはわが余生が安穏(あんのん)にありつけず、日々蝕(むしば)まれてゆくことである。
行動の自粛や抑制をボクシング用語で表現すれば、まるでボデーブローのごとく効にいている。なかでも、日常生活で最も鬱陶しいと感じているものは、衆目の目に晒されてマスク着用を強いられることである。実際にも私の場合は、眼鏡をかけさらには両耳には難聴逃れの集音機を嵌めている。これらに、マスクの紐がまつわりついている。そのためとりわけ、マスクの外しどきには、わが能タリンの神経を尖らしている。なぜなら、メガネと集音機がマスクの紐にひっかかり、今にも落ちそうになるからである。傍(はた)から見ればこれなど、ごく小さいことに思えるけれど私にすれば一大事である。そのたびに私には、鬱陶しさこの上ない思いがある。
大きなことでは、人様の出会いに齟齬(そご)をきたしている。その一つは親しい人に出会っても、近づいて会話が憚(はばか)れることである。これまた具体的には買い物にあって、お顔馴染みの女性のレジ係の人にたいし、「こんにちは」のひと声さえにも気が咎(とが)ている。おのずから、現下の実りの秋の実感が殺がれている。新型コロナウイルスが消え去らなければ、わが余生はまさしく、「嗚呼、無情」である。
緊急事態宣言等は解除されても、新型コロナウイルス自体は消えそうにない。私の場合、会食、夜間の飲み歩き、はたまた旅行の解禁など、何らの恩典もない。唯一望むのは、「長い間、ご不便をおかけしました、この先、マスクの着用は不要です。マスクを外して構いません!」という、鶴の一声である。
九月の月末日、私はこんな独り善がりの思いをたずさえて起き出して来た。近づく台風の前ぶれはいまだしの、のどかな夜明けである。それにもかかわらずわが心中は、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)されている。そしてなお、新型コロナウイルスがからむ余生に思いを煩わしている。「小さいこと」とは言えない、大きな現実である。
異国少年、横綱「白鵬」引退、引用文
62キロの少年がつかんだ「運」と「夢」 孤独と闘い 白鵬引退』(9/27・月曜日、19:48配信 毎日新聞)。歴代最多45回の幕内優勝を誇る大相撲の横綱・白鵬(36)=宮城野部屋=が現役を退く決意を固めた。2001年春場所での初土俵から20年。横綱を14年以上務めた第一人者は自らの強さを「よりどころ」に、常に孤高の存在であり続けてきた。「(体重)62キロの小さな少年がここまで来られるとは、誰も想像しなかったと思う」。白鵬は自らの相撲人生を振り返る時、いつもそう口にしてきた。白鵬は15歳だった00年秋にモンゴルから来日。父ムンフバトさん(故人)はモンゴル相撲の元横綱で、レスリングで同国初の五輪メダリストになった国民的英雄だったが、白鵬は体の小ささから入門先がなかなか見つからず、帰国寸前のところで現在の師匠である宮城野親方(元前頭・竹葉山)に引き取られた。「無理やり牛乳を5リットル飲ませたり、ご飯をどんぶり3杯食べさせたり……。新弟子の頃はさぞ苦しかったと思う」。宮城野親方は当時を振り返る。それでも相撲の素質や期待から、名付けたしこ名は「白鵬」。昭和に一時代を築いた大鵬、柏戸の両横綱にあやかったものだった。かつて兄弟子だった同郷モンゴルの元幕内の龍皇(38)が「まるで殴り合いだった」と語った激しい稽古に耐え、幕下時代には巡業中に積極的に関取衆の胸を借りることで番付は急上昇。18歳だった04年初場所で新十両に上がると、わずか2場所で新入幕。07年夏場所で2場所連続優勝を果たすと、22歳の若さで横綱に昇進した。モンゴルの先輩横綱・朝青龍が暴行事件を起こし、10年初場所後に急きょ引退して以降、12年秋場所後に日馬富士が横綱昇進を果たすまでの計15場所は「一人横綱」として角界を支えた。常に勝利を求められ、孤独と隣り合わせの中、「昭和の大横綱」大鵬の納谷幸喜さんが持つ32回の最多優勝記録を抜くことがモチベーションになった。晩年、体調がすぐれなかった納谷さんを見舞うたび、白鵬は声をかけられた。「四股や鉄砲など基本の稽古を続けなさい。稽古をしっかりやって(優勝記録を)抜かれるなら、俺はそれでいい」。13年1月の納谷さんの死去後は献血運搬車の寄贈事業を引き継ぎ、15年初場所に33回目の優勝を果たすと、「大鵬さんに恩返しができた」と喜んだ。白鵬が相撲人生を振り返った言葉がある。「10代では朝青龍関、(元大関の)魁皇関、栃東関ら先輩の壁にぶつかり、一人横綱の時代が来て、(後輩横綱が誕生し)新たな時代を生きている。私は三つの時代で、相撲を取っているんですね」特に同年代だった日馬富士の存在は大きく、互いが横綱になっても稽古先で顔を合わせると激しい申し合いを行った。そんな日馬富士や鶴竜ら同郷の横綱のみならず、好敵手だった稀勢の里までもが先に引退。「周りは『もういいだろう』と思っているかもしれないが、そうはいかない」。またも訪れた孤独な戦いの中で、若手の「壁」であり続けることにやりがいを見いだした。近年はかち上げや張り手といった荒々しい取り口に加え、公然と審判への不満を口にしたり、優勝後のインタビューで観客に万歳三唱を促したりと、横綱の「品格」が問われた。日本相撲協会横綱審議委員会(横審)の矢野弘典委員長は27日、「横綱在位中の実績は歴史に残るものがあった」と評価した一方で、「粗暴な取り口、審判に対する態度など目に余ることが多かった」と振り返った。文字通り、未到の境地に挑み、戦い続けた土俵人生だった。ファンからサインを求められると白鵬は、色紙に納谷さんが好んだ「夢」とともに「運」の文字を添えた。「運は『軍』が走ると書く。つまり、戦わなければ運は来ないんです」。「約20年の力士生活における主な戦績。優勝回数45回、63連勝、横綱在位84場所、横綱899勝、通算1187勝、幕内1093勝」。
交情
わが掲げてきた生涯学習は、友人・知人さらには声無き声の人様の激励と厚情に支えられて、身に余るたくさんの実を結びました。ひたすら、御礼を申し上げるしだいです。彼岸が過ぎて寒さに向かうにあたり、「もう止めてもいいかな?……」と、思念をめぐらして起き出してきました。枕元では目覚めて、わが愛読書の分厚い国語辞典をひもといていました。命あるかぎりほそぼそと、この動作だけは欠かせません。なぜなら、わが夢づくりの原点を成してくれたありがたい教科書だからです。
一方ではかぎりなくたまわっている交情を断つ勇気はなく、心中では今なお決断がさ迷っています。九月二十七日(月曜日)、この先に訪れる寒気と秋の夜長は、とことん恨めしいかぎりです。
デジタル時刻、5:14。文章を閉めて、冷えた寝床へとんぼ返りをいたします。再び、国語辞典をぺらぺらとめくれば、すぐに二度寝にありつけます。
秋賛歌
きょう(九月二十六日・日曜日)は、この秋の彼岸の明け日である。自然界は人間界に比べると、文字どおり自然体というか、素直というか、いや嘘を吐かない。昨晩あたりから明らかに、肌身に寒気をおぼえていた。目覚めて起き出して洗面のために蛇口をひねると、顔面を濡らす水もまた、(おっ)と顔を背けるほどに冷たく感じた。なんだか、遠のく暑気が恋しくなった。
寒気の訪れにあって厭なことの一つには、軽装から重たい着衣への衣替えがある。顧みれば勤務していたおりの、女子社員の冬服への衣替えは十月一日だった。確かに、夏服や冬服への衣替えは、季節替わりの明らかな証しだった。代り映えのしない勤務にあっては、いっとき目の保養にもなり、職場に和みを醸していた。それは今のわが身には二度とはありつけない、懐かしい光景でもある。
天変地異さえなければ自然界は、人間界にたえず素敵な光景や恩恵をもたらしてめぐる。彼岸明けのころは、まさしく自然界謳歌と賛歌の真っただ中にある。わが庭中から道路へ向かって立つ、今にも「枯れ時」を迎えそうな一本の柿の木には、わずかに六個の柿の実が生っている。気張って千切るほどでもなく、日に日に熟れゆく光景に、私は目の保養を兼ねてその風情(ふぜい)を玩(もてあそ)んでいる。まもなく熟れすぎて枝から離されて、直下の道路へ「ベチャ」と、音を立てて落ちることとなる。すると私は、宅配便、郵便配達のバイク、動き回る介護の車、あるいは救急車などに踏んづけられる前に、拾ってあげなければならないと、意を留めている。なぜなら柿の実は、私にさずかる秋の味覚の筆頭に加えて、郷愁に浸ることでもまた、他を寄せつけない位置にある。そうであればやはり、きょうあたり落ちる前に千切り、感謝の思いを込めて、わが口内へ入れてやるべきであろう。ただ無念なのはわが家には、柿の実へとどく竹竿がない。タイワンリスはひどい奴で、捕っては口に加えて山中へ逃げ隠れすればいいものを、その場で旨いところだけガツガツ食って、やがては食い飽きて汚らしく道路上に食い散らす。すなわちタイワンリスは、走る回る車輪をはるかに超えて悪態をさらけ出す。人間の命と食べ物を競い合う、野生動物の本能とはいえ、私にはそのつどほとほと憎たらしい光景である。
先日の買い物にあって私は、無意識のごとくに、栗、林檎、蜜柑を所定の籠に入れた。柿にも目を留めたけれど、庭中の柿の実が浮かんで、この日は買わずじまいだった。実りの秋は、新米を加えて満開である。秋が深まれば野山は、絵になる熟れた柿の生る風景が郷愁をつのらせて、とことんわが気分を癒してくれる。寒気の深まりを恐れて、いっきの秋賛歌である。だからと言って、「小さい秋」とは言えない。寒さの深まりまでは、わが身にうれしい「大きな秋」である。
わが余生にまつわる「雑感」
新型コロナウイルスの出現以来世の中は、その収束や終息へ向けて時間軸を基にして動いてきた。この間には東京オリンピックやパラリンピックなどをはじめ、大小さまざまなイベントが予定されていた。ところが、予定されていたイベントの多くはやむなく中止になったり、あるいは変質を余儀なくされてきた。
特筆すべきことではこの間には、各自治体に対応して「緊急事態宣言」の発出が繰り返されてきた。もちろん、緊急事態宣言には期限が設けられていた。そのせいで日常生活の時間軸は、おのずからその帰趨(きすう)にとらわれて進んできた。私の場合はいつもにも増して、時の流れの中に埋没した日常生活に甘んじてきた。同時にそれは、いやおうない時の流れの速さ(感)の体験でもあった。幸いなるかなこのところは、全国的に新型コロナウイルスの感染者数は漸減傾向にある。しかしながら今なお、明らかに収束や終息に目途がついているわけではない。いや多くの専門家たちは、第六波へのぶり返しを危ぶんでいる。そうなると残り少ないわが余生は、これまでと同じように新型コロナウイルスにかかわる時間軸に翻弄(ほんろう)され続けるであろう。おのずからわが日常生活には、安寧は得られそうにない。このことは、現在の私が最も恐れ怯(おび)えていることである。至極、残念無念である。だからと言ってどうすることもできず、私は「俎板(まないた)の鯉」や「轍(わだち)の鮒(ふな)」の心境にある。
このころは、三回目のワクチン接種の日程さえ取り沙汰されはじめている。こうなるとわが日常生活はおのずからこの先も、新型コロナウイルスの時間軸の埒外(らちがい)に置くことはできそうにない。おのずと、私には時の流れの速さ(感)がついてまわることとなる。新型コロナウイルスが終息しないかぎり、わが余生には風雲急を告げることとなる。実際には残りの時(余生)とわが命は安楽を得られず、新型コロナウイルスの時間軸に蝕(むしば)まれてゆくこととなる。
いくらか、いやかなり早いけれど、きょうの文章は、第一弾の秋の夜長の迷想である。九月二十五日(土曜日)、パソコンのデジタル時刻は現在、5:09と刻まれている。わが余生は、時々刻々に残りの時を減らし続けている。この「時」にずっと、新型コロナウイルスの時間軸がまとわりついたら、私は死んでも死にきれない。もちろん、「死にきれないならそれもいい」とは言えない。ひたすら、私は新型コロナウイルスに翻弄されない、安寧な日常生活と余生を欲しがっている。
秋晴れ高く秋風さわやか、わが身悄然
眠気はあるのに脳髄に迷想がこびりついて、目が冴えて二度寝ができない。仕方なく起き出して来た。私は日を替えたばかりの真夜中に居る。きのうの「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)にあっては、真夏と紛(まが)う陽射しがふりそそいだ。私は咄嗟にはやりことばを捩(もじ)り、「シルバーサマー」(準夏)という、出来立てほやほやの自己流造語を浮かべた。夏草取りを怠けていたせいで、庭中は雑草茫々である。見苦しさに耐えかねて、草取りを敢行した。いや、大袈裟に敢行と言うほどではない。いっとき、少しばかり雑草を抜いた。しかし、汗の噴き出しに負けて、すぐにやめた。
庭中に立つ一本の柚(ゆず)の木は、あまりにもたわわに実を着けすぎて、突然ほぼ水平に倒れた。悔しさはあるものの非難することなどできない。いやいや、健気(けなげ)な自己犠牲であるから余計、愛惜(あいせき)きわまりない。しかし、衰えたわが腕力では、まったく起こしてやることはできない。ふだん、私をはるかに凌いで柚の木、いやユズの実を恋い慕うのに、妻は力を貸すことなく、無下にこう言い放った。
「パパ。パパじゃできないわよ。森さん(住宅地内の顔見知りの造園業者)へ頼みましょうよ」
私は要請を突っぱねた。
「もう、枯れてもいいよ。我々も、もう長くは付き合えないんだから、柚の木も潮時だよ」
ユズの実はまだ青みだ。この秋に黄色を成して、もう一遍わが家と隣近所のユズ風呂に貢献してくれたら切り刻んで、私は涙を流しておさらばするつもりでいる。
柚の木の横倒れに遭って、物置への通路が塞がれた。このためきのうの私は、狭苦しい仮の通路を設けた。草取りはそこだけで終えた。このあとには缶笊(かんざる)を台所から持ち出して、零余子(ムカゴ)取りをした。腰を傷めて茶の間のソファに横たわる妻は、仕方なく日ごろからわが動作には無頓着である。
ムカゴを着ける山芋の蔓は、キンカンの木にまとわりついている。いや、意図してまとわりつけさせているのである。大袈裟に言えば秋の味覚と収穫を望んで、キンカンの木にだけに巻き付けて蔓を育てているのである。その証しにキンカンの木の根元には年に一・二度、物置から買い置きの鶏糞を柄杓で掬って、気ままにふりかけている。
ムカゴ取りは容易(たやす)いようで案外、手こずるところがある。指先からこぼれて、缶笊にカンカンと音をたてたり、いや多くはあっちこっち、雑草の中へ散らばっている。すると、腰痛持ちで中腰ができない私は、これまた物置から100円ショップで買い求めたプラ製の腰掛を持ち出して来ては、仕方なく座ることとなる。
雑草に隠れて散らばっているムカゴを一つひとつ拾い上げるにはかなりの時間がかる。腰掛に座ると、天高い秋晴れの下、時ならぬ暑さをいましめてくれるかのようにさわやかな秋風が吹いた。確かに、快い秋風である。一方で私は、風に秋愁(しゅうしゅう)をおぼえた。私は去年の秋分の日にはいて、今年はいない人に心を留めた。やおら、指折り数えた。片手指では収まらない。両手を広げて、指折り始めた。両手の指でも、まったく数えきれない。ムカゴや木通(アケビ)の蔓探しに競い合った近所の人。ふるさとの友だち。大学時代の飛びっきりの親友。勤務していた会社では数え上げるに暇(いとま)なし。卓球クラブでは複数人が浮かぶ。ごく身近なところではふるさとの長兄。いつも気懸りだった人では大沢さまのご主人様。暑い肌を潤す秋風が身に沁みた。
缶笊を持って茶の間に入ると、開口一番、妻はこう言った。
「パパ。ムカゴ、そんなにいっぱい取れたの? ムカゴ、どこにあったの? 今晩、ムカゴ御飯にするわよ。わたし、ムカゴ御飯、とても好きなのよ」
「そうだね、おれも好きだよ」
妻には、秋愁などないのか。妻のことばは余計、わが身に沁みた。私はメガネと両耳の集音機を外した。汗まみれの涙を手元の手ぬぐいで拭いた。庭中へのひとり出向きには、マスクは用無しだった。快い秋風はさわやかさを凌いで、わが身を悄然(しょうぜん)とさせていた。
「秋分の日」
私の場合、「寄る年波」ということばはもはや死語であり、使えば不謹慎きわまりなく馬鹿呼ばわりされるのが落ちだ。なぜなら私には、加齢という波はとっくに着岸している。知り過ぎていることばながら、あえて辞書調べを試みた。「寄る年波とは、じわじわと寄ってくる加齢。年を取ること。年波は年が寄るを波にかけた表現とされる」。
きのう(九月二十二日・水曜日)の私は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出かけた。上手下手など、どうでもいい。なぜなら、今や「上手下手の判定」などこれまた死後に近く、たとえ「下手の判定」を食らっても、もはやジタバタすることや不平不満など微塵(みじん)もない。自分が下手なことなど普段の練習で、十分に納得いや確信していることだからである。
ところが、きのう感じた足の衰えだけは、想定外すなわちわが想定をはるかに超えるものだった。私にはこれまで、正規の「体力テスト」の体験は一度もない。ところが、きのうのわが足の衰えぐあいを体力テストに擬(なぞら)えれば、自己判定で下駄をはかせたとしても、贔屓(ひいき)のしようのないほどの赤点だった。このことが誘因でたぶん、今やまったく場違いの寄る年波ということばが、未練がましく浮かんだのであろうか。
きょうは季節を分ける「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)である。言わずもがなだけれど、「春分の日」(三月二十三日ころ)と対比される季節の分かれ目である。秋分の日が過ぎれば、日に日にわが嫌う寒気が忍び寄る。いや、大手を振って近づいて来る。このことでは春分の日に比べて秋分の日は、私には必ずしも歓迎できるものではない。ところが、たった一日で比べれば私には、断然秋分の日に軍配を上げるものがある。その理由はほぼ例年、秋分の日の恵みはわが身に途轍もなくさわやかだからである。
例年にたがわず、きょうの秋分の日もまた、雨なく、風なく、そこはかとなく明かりが空を染め始めている、穏やかな夜明けである。こんなにも穏やかな夜明けにあってなぜ? 私には、今やとっくに置いてきぼりになっている、寄る年波ということばが浮かんだのであろうか。わが身には寄る年波というより、それよりはるかにつらい「焼が回って」いるのかもしれない。そうであれば私は、たった一日の秋分の日だけでも、のどかに暮らしたいものだ。切ない単願、いやいや喉(のど)から手が出そうな嘆願である。