ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
記録
十月二十七日(水曜日)、書いている途中になぜか、停電に見舞われた。お手上げとなり、万事休す。慌てて眺めると見えようなく、どこかしこの家も真っ暗闇である。パソコンは機能不能となり、この先のキー叩きを諦めた。するとこんどはなぜか、数分後に明かりが点いた。もはや、平常心は失われている。そのため、記録としてこのことだけを書き始めている。
令和3年、すなわち今シーズンのセ・リーグにおいて、わがファンとする阪神タイガースは、きのう(十月二十六日・火曜日)の143試合にわたる最終戦において、中日ドラゴンズに敗れた。この結果、最終戦まで優勝争いをしていた東京ヤクルトスワローズが同日、横浜DeNAベイスターズに勝利したため、優勝を逸し2位に甘んじた。それでも私は、有終の美と称えている。スワローズは6年ぶりに優勝し、タイガースは16年間優勝から遠ざかることとなる。スワローズの優勝を祝福こそすれ、悔しさは微塵もない。『ひぐらしの記』は、15年目にさしかかっている。タイガースはこの先、いずれかの年に優勝するであろう。それを見届けるわが命はない。
無題
十月二十六日(火曜日)、寝起きにあって用意周到に、両耳に集音機を嵌(は)めた。開けっぴろげの雨戸を通して窓ガラスに映る外界のたたずまいは、いまだ真っ暗で真夜中のたたずまいにある。デジタル時刻に目玉を向けると、4:36と刻まれている。すでにわが身体は、冬防寒重装備ゆえに寒気はあまり感じない。いや、寒気自体が緩んでいる。いつもであればこんな時間にあっては、集音機は用無しで嵌めていない。ところがどうしたことか、もはや習性のごとく嵌めた。もう寝床へとんぼ返りはしないぞ! という、固い意思の表れなのかもしれない。そうであればこの時間から、わがきょう一日の始動となる。
夜の静寂(しじま)にあっては、パソコンのキー以外に、音はしないはずである。しかし、なんだか海岸で聞く、遠くのさざ波みたいな音が聞こえる。しばし息をのんで、聞く耳を立てた。すると、窓を打つ強さまではない、小川のせせらぎほどの雨の音である。私は、(きょうもまた雨か……)と、嘆息した。好季節すなわち、晩秋にあって地球の気象状態は、いったいどうしたのであろうか。せっかくの好季節は、雨にたたられっぱなしである。
季節外れの雨の多さが、一つでも人の世に恩恵をもたらしているものがあるだろうか? と、自問を試みた。思いつかない問いにたいし、一つだけこじつけの答えをみつけた。それは季節外れの雨の多さが、新型コロナウイルスの感染力を殺いだのか。もちろん、やけのやんぱち気分のわが下種の勘繰りにすぎない。確かな科学(データ)に基づいた、専門家集団の見解が待たれるところである。幸いにも、日に日に新型コロナウイルスの感染者数は激減状態を示している。それにつれて専門家集団のお出ましと声もまた、すっかり鳴りを潜めている。なんだかの声(見解)がほしいところである。確かに、いまだ終結宣言は言えないのであろう。だとしたら当ての外れに戸惑い、しばし口を噤(つぐ)まれているのであろうかと、勘繰りたくなる。
感染力の衰えは、もちろん好都合である。しかし、いくらかの当て外れは、専門家集団にとってはかなりの「面(つら)汚(よご)し」なのかもしれない。やはり、風交じりの雨の夜明けである。こんな身も蓋もない書き殴り文には、確かな表題のつけようはない。
つらい、加齢現象
つらい。ああ、つらい!。この先の外出にはいっそうみじめな姿をさらけ出して、なおつらくなりそうである。これに輪をかけてほとほとつらいのは、わが外出行為が善良な人の心中をとことん悩ますことである。本当のところわが身に沁みて、つらく思えるものである。
実際の現象では公共の乗り物(電車やバスなど)の車内において、善徳の人たちから席を譲られるおりに、居たたまれない気持ちになる。言うなれば人様に気を遣(つか)わせる、わが迷惑行為である。迷惑行為とは、ずばりわが外出行動である。そしてそれは、善良な人様の心中を脅(おびや)かすものだけに、いっそう身に沁みてつらいことでもある。
私は買い物のたびにバスの車内において、人様へご迷惑をおかけしないかと、ひたすら怯(おび)えている。このときのわが心中は、人様には見えないけれど、ほとほとつらい状態にある。もちろん私には、人様のご好意を当てにしたり、あからさまに席の譲りうけをおねだりする、ずるがしこさは毛頭ない。いや私は、意識してできるだけ着席の人から離れて、立つことを心掛けている。それでもすばやく立たれて、席を譲り着席を促される場合がある。すると、咄嗟につらい心境に苛(さいな)まれる。先ずは、目配せ、首を傾(かし)げ、それに手振りを交えて、無言による感謝の意を表し、丁寧な拒否である。あるときは人様のご好意に背くのを恐れて、何度も頭を下げて挙句、「すみません」あるいは「ありがとうございます」のことばを添えて、素直に着席にあずかる場合がある。だけど傍目(はため)には、当てにしたずうずうしい行為とみてとれているであろう。しかし、このときのわが心中には、申し訳ない気分が渦巻いて、安堵とは言えないただならない状態にある。この先、わが身体の老化現象は加速度を増して、いっそう深まるばかりである。おのずから外出行動には、なおいっそう慄(おのの)くこととなる。感謝の気持ちこのうえないことだけれど、偶然ではなく必然的に、席を譲られることが多くなりそうである。このことを嫌って私は、これまた必然的に外出行動をひかえることになりそうである。
きょう(十月二十五日・月曜日)の文章は、大沢さまご投稿の『奇妙な出来事』に呼応し、それにちなむわが心境の吐露である。世の中はさまざまなところで、格差が露わになっている。いや、人間自体、善い人、悪い人と二分されて、著しい格差を露呈している。実際のところ日本社会は、弱者の保護を逆さまにとり、「悪徳の栄え」の傾向にある。わが懸念するところがある。善徳が罵(ののし)られ悪徳がのさばるのは、文字どおり本末転倒の人の世の嘆かわしさである。日本社会は、きわめて住み難(にく)くなり始めている。「正直者が馬鹿を見る」、そんな世の中になってはいけない。つらい、老婆心である。「隗(かい)より始めよ」。わがもの(席)ほしさの行為が人様に見受けられるとしたら、まずはそれを戒(いまし)めなければならない。加齢とは、人間のつらい現象である。
タイガース、奮戦
十月二十四日(日曜日)、寝起きにあって書くことがない。そのため、わがファンとする阪神タイガースの奮戦を伝える記事を引用した。
【阪神、ヤクルトともに最短Vは26日 貴重なドローでついにゲーム差0】(10/23日、土曜日、20:56配信 デイリースポーツ)。「広島1-1阪神(23日、マツダスタジアム)。阪神は投手戦の末、広島と引き分けた。先発の秋山は、5回3安打1失点の好投。打線は好投の広島先発・森下からワンチャンスを生かして同点とした。七回2死無走者からロハスが四球を選び出塁。佐藤輝が左前にポトリと落ちる安打で一、三塁とし、坂本が右前に執念の同点適時打を放った。デーゲームで行われたヤクルトは巨人に大敗。優勝へのマジックは「3」で変わらず。ヤクルトとのゲーム差は「0」になった。この結果、阪神、ヤクルトともに最短Vが26日となった。阪神は24日に広島と、26日に中日と対戦し全日程終了。残り4試合のヤクルトは24日に巨人、26日にDeNAと対戦する。阪神が残り2試合に連勝、ヤクルトが連敗すれば、26日に阪神の優勝が決定。一方、ヤクルトの最短Vも26日になっている。」
タイガースの優勝はないと、思う。だから、奮戦とした。奮戦に悔しさはなく、いや善戦と言える。ようやく訪れた、晩秋らしいのどかな夜明けの空である。
選挙カーは夢まぼろし
十月二十三日(土曜日)、現在は月末日(十月三十一日・日曜日)に投開票日をひかえて、衆議院議員選挙の選挙戦のさ中にある。期日前選挙はすでに始まっている。すなわち、参議院議員選挙と二分する、大事な国政選挙の選挙戦の真っ最中である。ところが、わが大規模住宅地にあっても、選挙カーはまったくめぐって来ない。このことでは、閑古鳥が鳴くような選挙戦さながらである。住宅地が少子高齢化、さらには過疎化傾向を深める証しとして、ほとほと寂しいかぎりである。
選挙戦にちなんで言えば世帯の有権者は、一人ないし二人くらいの細々である。稀に見る大家族であっても当てにする有権者は、昼間は街中の仕事へ出向いて留守である。選挙戦は真剣勝負のかたわら、一過性の華々しい国民のお祭りでもある。お祭りにあってお囃子太鼓とも思えるのは、マイクで轟音をがなり立て、入れ代わり立ち代わりやって来る選挙カー風景である。確かに、やかましいという人もいるから選挙カーの巡回は、半面では必要悪と言えるのかもしれない。しかしながら一方、選挙戦にあってはなくてならない風物詩とも言えるものでもある。ところが、魚のいないところに餌を撒いたり、釣り針を垂らす必要はなくなったのであろう。「時は金なり」である。確かに、限られた選挙戦にあって候補者は、コストパフォーマンス(効率)の悪い選挙戦、すなわち時間の無駄遣いは必然的に避けなければならないのであろう。それでもやはり、有権者にすれば選挙戦の賑わしがないのは寂しいかぎりである。
はるかに遠い子どものころの選挙戦では、選挙権はなくても子どもなりにとても楽しかった。当時の選挙戦にあっては、文字どおり入れ代わり立ち代わり絶えず、村中をいくつかの選挙カーがめぐっていた。それらに出合うと子どもたちは道端に並んで、選挙カーの人たちと互いに、身を乗り出して手を振り合っていた。今でも、キラキラと心中に残る懐かしい光景である。選挙戦にはやはり、こんな光景がほしいところである。老いてもなお有権者なのに、なんだか見捨てられたようで、寂しくかつつまらない選挙戦である。限られた短い期間だから普段の訪問介護車や、救急車のサイレンだけではなく、選挙カーの駆けめぐりがほしい選挙戦である。選挙カーには、なくてはならないお祭りのお囃子の太鼓の役割がある。そうは思っても確かに、票田は草ぼうぼうである。
ささやかとは言えない、わが願い
季節は寒気を強めたり緩めたりしながら晩秋から初冬へとめぐり、この先なおいっそう寒気を強めてゆく。自然界現象だから人間は、これには無駄な抵抗はしたくない。いや、人間にはどうにもならない。だから人間は古来、季節に応じた暮らし向きを工夫し、できるだけ平穏な日常を望んで、実際にも営んできた。このことは、万物の霊長と崇められる人間の人間たるゆえんでもある。当てずっぽうに柄でもないことを浮かべて書いたけれど、まったく嘘っぱちではなくいくらかは当たっているであろう。
私の場合、季節のめぐりに対応するものの筆頭には、衣替えすなわち着衣の変化がある。具体的にはきのう(十月二十一日・木曜日)から私は、上半身の肌着では半袖にかえて長袖にし、下半身の肌着では薄手のステテコから厚手の布製にかえた。しかしながらこれらは、寒気を防ぐためにはまだ序の口にすぎない。この先は寒気の強まりに応じて衣を重ね、わが身を冬防寒重装備で固めてゆくこととなる。確かに、ささやかだけれど、しかし、浅はかとは言えない、例年繰り返してきたわが知恵である。
幸いなるかなこのところ、新型コロナウイルスの勢いは衰退傾向にある。これにともなって今月末あたりを境にして、さまざまなところでこれまでの規制が緩和されそうである。もちろんこのことは、願ったり叶ったりである。しかしながら、私自身のことでかんがみれば、いまだ大きな変化とは言えない。なぜなら、私の場合はもとより、酒宴、旅、外出行動など、埒外の日常にある。だから、これが解禁されても私には、大きな実利はない。しかし、精神的箍(たが)は外れて、気分の落ち着きは大いにある。
こんな私が最も願っているのは、マスク不要の生活である。この先、マスク不要の日常が訪れるのであろうか。このことには懸念と同時に、常々戦々恐々とするばかりである。私の場合、実際のところマスク着用の恐怖は、難聴ゆえに両耳には集音機、そのうえ、マスク、メガネの三段重ねの不便さに梃子摺っていることである。そのため、マスク不要のゴングが打ち鳴らされたときこそ、私は喜悦まみれとなる。恐怖を重ねればわが余生にあって、ゴングは鳴るであろうか。ささやかとは言えない願いである。金輪際とは言えなくも早いとこ、私はマスク用無しの冬防寒重装備を願っている。私は「虫が良すぎる」のであろうか。
晩秋、つれづれ
十月十九日(火曜日)、目に見えて夜明けが遅くなってきた。すなわち、晩秋にさしかかり、長い夜は加速度を強めている。もちろん、季節の正常周期ゆえに歓迎こそすれ、ためらいはまったくない。自然界および人間界共に、異常状態こそ恐れるべきものである。
人間界は一年半強にわたり、新型コロナウイルスの感染恐怖に慄(おのの)いてきた。まさしく、世界中を動転させ続けてきた異常事態だった。ところが、日本国内にかぎれば、第五波と言われてきた感染力の勢いは、このところ急速に収束へ向かっている。現在はこの先第六波を免れて、文字を変えて終息へたどり着くかどうかの瀬戸際にある。第六波が来なければそのとき、人間界には正常の営みが訪れる。このことでは私は、目を凝らして新型コロナウイルスにかかわるさまざまな数値に、一喜一憂するところにある。
自然界とりわけこのところの気象は、正規軌道に乗っかりめぐり始めている。言葉を変えればこのところの気候は、季節相応に寒気を帯びている。わが身に堪える寒気の到来である。しかしながら反面、異常気象に怯(おび)えるよりはるかにましではある。
現在、私は寒さに震えて、寝起きの殴り書きに甘んじている。まだ夜明けは訪れないけれど、デジタル時刻は5:54と刻んでいる。壁時計の針は、音無くめぐっている。そのため私は、気をもみ始めている。きょうの私には、早出を強いられる歯医者通いがあるためである。わが行動予定がきっちりと埋まるのは、病医院を替えての通院予約日だけである。なさけなくもこのことには命に限りがくるまで、エンドレス(際限なし)が予想される。
確かにそれは、時が限られた異常状態ではなく、もはやきわめて正常な命のめぐりである。それゆえ、寒気にビクビク怯えるのとは違って、抗(あらう)すべなどない「俎板の鯉」の心境である。だからと言って、「さっぱり」という心境ではなく、やはり無念である。
薄っすらと、夜が明け始めている。夜明けが遅かったのは、雨の夜明けのせいだったのである。とっくに朝日が差していいはずの、デジタル時刻は6:12である。
寒気到来、兄追懐
十月十八日(月曜日)。一気に寒くなりました。わが身に堪えて、ひたすら耐えています。心中にめぐるのは、「四十九日」(十月七日)の日に、お墓に納められた生前のふるさとの長兄の姿です。生身でないため兄は、寒くはないだろうけれど、わが身にはことさら寒さと寂しさつのります。夜明けの空は雨が上がって、天高い日本晴れです。いっそう切ない。すみません。
実りの秋、ふるさと原風景
実りの秋にあって、脳裏に浮かぶふるさと原風景は、稲刈りから籾摺(もみず)りに至るまでの穫り入れ全風景である。この間にあって子どもの私は、すべてにかかわり家事労働の一役を任されていた。猫の手も借りたいほどのわが家にあっては、子どもとて私は十分すぎる働き手であった。
稲刈りから籾摺り、すなわち新米の穫り入れは、私にとって実りの秋によみがえる、特等の懐かしいふるさと原風景である。当時のわが家は、農家に兼ねて水車を回し、精米所を生業(なりわい)にしていた。それゆえに私は、新米はもとより米全般へのこだわりには尋常でないものがある。精米所とはいえ精米にかぎらず、麦刈り、麦を精(しら)げること、そしてそれを粉にする(製粉)工程もまた、懐かしくよみがえる。
しかしながら麦刈りは、初夏(五月ころ)のふるさと原風景である。それゆえに実りの秋から外れた、ふるさと原風景の一角(ひとかど)を成すものである。また、麦刈りから穫り入れまでの麦仕納(むぎじのう)は、米仕納(こめじのう)に比べれば、仕事量とそれにつきまとう感興や感慨には雲泥の差がある。
実りの秋の感慨は、一頭地抜いて一入(ひとしお)である。稲仕納には稲刈り鎌、稲扱ぎ機、そして籾摺りには発動機が家族の人手と共に、大車輪の活動をした。半円まではないが曲がった稲刈り鎌は、子どものわが手にもなじんだ。稲扱ぎ機には、稲わらを丸めて長兄へ手渡す風景と、ジータン・バータンの音がよみがえる。籾摺りにおける発動機は自家用ではなく、馴染みの委託業者のものだった。この音は、耳を劈(つんざ)くほどの絶え間ないドウ・ドウだった。
きのう(十月十六日・土曜日)の夜、甥っ子から手配を依頼していた今年度(令和三年)産、新米(三十キロ)が届いた。実りの秋にあって、真打のふるさと原風景がつのるばかりである。とめようなくよみがえるふるさと原風景だけれど、風邪をひいて頭重のせいで、尻切れトンボのままに結文とする。ふるさと産新米は、風邪薬をはるかに超えて、効果覿面の風邪退治になること請(う)け合いである。
冠の秋、実りの秋
現在、自然界は四季にあって秋の季節である。私の場合、気候的には最も体に馴染んで快感をおぼえている。たぶん、たくさんの人たちもまた、秋を最も好まれるであろう。確かに、「天高く馬肥ゆる」秋は、凌ぎ易さに加えて文字どおり、食欲モリモリの秋でもある。食欲をそそがれることではずばり、「実りの秋」の恩恵にあずかっている。
「冠の秋」の一つ実りの秋には、生産者および消費者共通に、喜悦が満ち溢れている。すなわち秋の季節には、みんなの悦びが充満している。四季のなかにあってこんな悦びは、おそらく秋が筆頭であろう。特に今年の秋は、台風シーズンと銘打たれているなかにあっても、小さな台風が一度だけ日本列島の限られた地方を襲っただけである。小さな被害はあったけれど、台風はおおむね大過なく過ぎ去った。そののち台風は、鳴りを潜めている。そのうえ、秋彼岸が過ぎても寒気の訪れはいまだなく、寒気はこの先へとずれ込んでいる。そして、ここ二日くらいには、秋本来の好天気が訪れている。季節は、まさしく秋快感の真っただ中にある。
機を一にして新型コロナウイルスの感染恐怖は、かなり遠のいている。自然界はさわやかな秋をもたらしている。目下、ようやく人間界は、遅れてきたさまざまな「冠の秋」の喜悦に浸っている。恐れるのは、一語の慣用句を用いれば「好事魔多し」である。具体的には自然界および人間界共にかかわる「災いは忘れたころにやってくる」と、心すべきである。挙句、人が気を良くしてのほほんと過ごすことを警(いまし)める「油断大敵」にこそ、意を注がなければならない。
現下の人間界で特筆すべきイベントは、選挙(衆議院議員)の季節である。ところがこちらには、冠の秋とは違っていっこうにワクワク感がない。結局、この季節にあってワクワク感をもたらすのは、自然界がさずけるさまざま恩恵である。それらのなかでピカイチは、食いしん坊の私の場合は、実りの秋がイの一番である。なかんずくそれは、新米と数々の秋の果物の出回りにありつけることである。
実際にも私は、新型コロナウイルスにともなう行動自粛が緩和されて、買い物行が楽しくなっている。初動の蜜柑の買い物にあって私は、二キロ詰めの熊本蜜柑を買った。甘い蜜柑は、たったの250円の安さだった。これでは、ふるさとの生産者は嘆き、消費者の私は喜ぶばかりである。不断の特段のわがふるさと志向と郷愁は、かりそめの偽善だったのかもしれない。
実りの秋にあずかっていることには、大きな台風の襲来がなかったことが、一役買っているのであろう。だからと言って、台風に「値段の折り合い」をつけて、とは言えない。私は生産者の嘆きをおもんぱかって、まるで餓鬼のように熊本蜜柑を食べ始めている。この先は、いっそうそうなるであろう。薄利多売に報いるふるさと心を露わにして、実際には安さを願う浅ましさを露わにしている。生産者と消費者の共利共生は、絵に描いた餅さながらである。十月十六日(土曜日)、雨の夜明けである。