ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
暮らし
人は、目覚めると起き出してくる。朝の訪れである。人は、眠くなると床に就く。夜の訪れである。この間の昼間にあっては、人はそれぞれにさまざまな生存の営みに着く。日常生活、すなわちこれ「日暮らし」と言う。日暮らしの連なりは、「暮らし」である。ことばを換えれば、「人生」である。ことばで凝縮すれば人生とは、ざっとこんなところである。ところが、まっとうするには難行苦行や艱難辛苦がつきまとう。私は、こんなことを寝床の中でめぐらしていた。もとより、安眠できるはずはない。仕方なく、夜明け前に起き出している。つれない、わが日常の始動である。心中のさ迷いとは裏腹に、(なんだかなあ……)、目が冴えている。人生晩年における、わが暮らし(ぶり)である。まったく、様にならない。表題のつけようはないけれど、「暮らし」にしよう。
「勤労感謝の日」
才能ある者はその上に努力を重ねる。無能な者はその上に怠惰を重ねる。私は根っからの後者である。コンプレックスと自虐精神に苛まれて文章が書けない。実際のところは、書く意欲の喪失に見舞われている。わが精神状態を虐めるかのように、長い夜は加速している。時刻(5:52)では夜明けのころだが、未だ真夜中のたたずまいである。久しぶりにぐっすり眠れて、寝起きの気分は悪くない。「勤労感謝の日」(十一月二十三日)。それでも、パソコンを起ち上げて、すでに長い時間、頬杖をついている。現在の私は、夢遊病者状態にある。文章を書くのは、(もう打ち止めでいいかな……)と、思う。勤労感謝の日にあっては、やけに生前の父の働く姿が彷彿する。きょうは、懐かしく父の姿を偲んで、十分佳き日としよう。
元横綱・白鵬、親方と解説者デビュー
現在、開催中の大相撲九州場所(福岡国際センター)は、きのう(十一月二十一日・日曜日)、折り返し点の中日(なかび)を迎えた。中日を終えて無傷の八連勝で勝ち越しを決めたのは、番付どおりに横綱照ノ富士と、大関のひとりである貴景勝の二人だけとなった。千秋楽に向けての優勝争いは、たぶんこの二人だけになりそうである。私は横綱や大関陣がバタバタと倒れる、すなわち荒れる土俵はまったく好まない。それは、番付どおりに強い横綱や大関であってほしいと、願っているからである。
こんな思いをたずさえて私は、毎場所テレビ観戦を続けている。もとより、私はプロ野球を凌ぐほどの大相撲ファンと、自認している。わが願う強い横綱としては白鵬が応えて、これまで四十五回の優勝を重ねて、偉業を遂げてきた。だから白鵬は、わが好む横綱だった。ところが白鵬は、先場所すなわち秋場所(九月場所)の全勝優勝を打ち止めにして、土俵に別れを告げた。すなわち、白鵬の土俵姿は先場所かぎりで、わが目から消えた。私には寂しさつのる、白鵬の引退宣言だった。
引退後の白鵬は、間垣親方と名を変えて、親方修業の一歩を踏み出した。実際のところは今場所に初めて親方の姿をさらけ出し、大相撲協会の一員となり役割を務め始めた。テレビカメラに映る元横綱・白鵬の間垣親方の姿は、力士の入退場口に辺りに陣取る場内整備係りだった。もちろん、白鵬にかぎらず、横綱であっても、だれでも一様に通る協会のしきたりだという。そのため、文句は言えないけれど、(なんだかなあ……)と、一抹の寂しさを思えるところはある。しかしながら、白鵬から名を変えた間垣親方自身には、覚悟の引退だったようで、映像で観たかぎりは、悔しさは見えなかった。だから私は、安堵というよりほのぼの感につつまれた。もちろんそれは、テレビカメラに映るマスクを着けた顔面と、声から感じたわが印象だった。
きのうの私は、とりわけテレビ観戦に釘付けとなっていた。それは間垣親方となった、元横綱・白鵬の大相撲のテレビ解説デビューの日だったためである。そのデビューは、無難というより名解説に終始した。そして、私にかぎらず放映後の世論(大相撲ファン)の評価にもまた、万雷の好評を博していた。白鵬には異国・モンゴル出身に加えて、取り口にやや荒々しさがあると言っては、偉業を押しのけてブーイング(悪評)がつきまとっていた。それゆえに私は、解説デビューの好評に安堵した。稀代の大(名)横綱が引退後にあってまで、バッシングやブーイングの荒らしまみれであっては、大相撲テレビ観戦はまったくの興ざめである。これを逃れてきのうの私は、胸のすく一日だった。
日本列島のきょうの天候は、大荒れの予報であった。予報に違わず夜明けは大雨である。しかし、間垣親方の解説デビューが好感度で迎えられ、わが気分は悪くない。
嗚呼、無題
十一月二十一日(日曜日)、現在のデジタル時刻は、日を替えたばかりの「0:32」と刻まれている。これから床に就くのではなく、いや目覚めて二度寝を妨げられて、しかたなく床から抜け出して来たのである。わが人生を一つだけの成句を用いて表現すれば、最もふさわしいのはこれに尽きる。すなわちそれは、「後悔は先に立たず」である。すでに過ぎたことにくよくよして、かぎられた余生の命を憂いで覆うのは、確かに愚の骨頂とは知り過ぎている。それでも、この憂いを払いのけることができないのは、つくづくわが小器ゆえである。
小器をかんがみれば、身のほど知らずの欲得と言えるのかもしれない。なぜなら、九十九折(つづらおり)のごとく曲り曲がってでも、八十一年の人生行路を歩み続けてきたのである。確かに、身のほどをかんがみれば「これで良し」と思わなければ、この先、罰が当たりそうである。しかしながらそう思いきれないのが、わが憂いの根源である。起き立てにあって、こんな馬鹿げたことを書いている。主治医いや精神科医に相談すれば、危険な精神状態の兆候(シグナル)と、診断されそうである。
文章は心象風景で書くものであるから、気分が良ければ意のままにスラスラと書けるところがある。しかし私の場合、そんな状態にはめったにめぐりあえない。挙句、悶々とする精神状態で、なお仕方なく書いている。だから、書き終えれば駄文である。書くまでもないことを書いて打ち切り、床に返り再び二度寝への挑戦を試みる。私自身には、気狂いの自覚症状はない。ところが、傍(はた)から見ればそれこそ、危ない兆候に見えるかもしれない。やはり、「くわばら、くわばら」である。現在、デジタル時刻は「0:52」である。再び、二度寝を妨げられれば、長い夜をどう過ぎようか。悩み尽きない、晩節を汚(けが)したわが人生である。
中冬の陽射し
十一月二十日(土曜日)、季節は初冬から中冬へめぐる。この秋は悪天候に見舞われて、胸のすく秋晴れは少なく、私はせっかくの好季節にあって消化不良をおぼえていた。ところが、カレンダーに立冬(十一月七日・日曜日)と記されると、後れて秋晴れみたいな好天気が訪れている。寒がり屋の私にとってこの一番の恩恵すなわち幸運は、まったく冬入りらしくないことである。実際にも、ちっとも寒気を感じない日が続いている。この間、ときたま地球の揺れに身を竦(すく)めた。しかし大過なく過ぎて、胸のすく天恵にありついている。
確かに、天災は忘れたころにやってくる。だから、この成句には常にびくびくしている。自然界の営みは恩恵ばかりではあり得ず、いや人間界は日々、自然界のもたらす恐怖に晒されている。そのためか立冬以来の穏便な自然界の恵みにたいし、ことさらありがたみが身に沁みている。この先の命運は天まかせではあるけれど、立冬からきのうまでの天恵は、まさしく胸のすく天上の粋(いき)なはからいである。
きのうの私は、いつもの循環バスに乗って、大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。車内はやけに明るかった。(なぜかな?)と、思った。すぐに、答えにありついた。過ぎ行く窓外には、次々に真っ黄色に染まった銀杏(イチョウ)が映えていた。イチョウにふりそそぐ陽光の照り返しが、車窓を通して車内を明るくしていたのである。(そうか)、老い耄(ぼ)れのわが気分は和んだ。
このところの好天気は、重たいわが図体(ずうたい)を軽々と道路の掃除へ誘い込んでいる。私は黙然と整然とした手捌きで、道路に敷きしめる落ち葉を鏡面のごとくに清めてゆく。ところが、清めたあとには間髪を容(い)れず、山から枯葉が音もなくひらひらと舞い落ちてくる。憎たらしいと思えば、確かにかぎりなく憎たらしいしわざである。しかしながら私は泰然としてそれにも、すばやく箒を揮(ふる)っている。ばかじゃなかろか! このときの私は、自然界のおりなす営みに腹を立てることなく、逆に胸のすく和みにありついている。
ときには枯れ落ちた葉っぱを指先で拾い上げてみる。落ち葉は文字どおりからからに枯れて、風船みたいな手触りである。まさしく、潔(いさぎよ)い臨終の姿である。できればわが最期も、この姿に肖(あやか)りたいと思う。
長い夜にあっては未明、すなわち夜明け前である(5:16)。冬防寒重装備に覆われたわが身体は汗ばむほどである。夜が明けて日が昇れば、きょうもまた中冬の陽射しが満々と地上にふりそそぐであろう。このところの私は、かぎりなく天恵に酔いしれている。だけど、この先へ長く続くことのないことぐらいは、年の功とは言えないけれど、知り過ぎている。確かに、制限時間付きの天恵だから、素直に酔いしれたいものである。身体を脅かす地震だけは、真っ平御免こうむりたいものである。なぜなら地震は、好季節にあって最も様にならない難物である。
後ろめたい「安楽」
遊び心のつもりのズル休みが休み癖となり、現在の私は、再始動不能状態に陥っている。ほとほと、いやいや根っから、私は怠け者である。この体(てい)たらくぶりはだれかれへというより、自分自身に詫びなければならない。それに先立ち、わが怠け心を諫(いさ)めなければならない。ところがこれは建前であり、実際のところは休みの安楽をむさぼり、心地良さにひたっていた。
一方では、罪作り気分に苛(さいな)まれていた。そして現在、この先へのあてどなく、こんな文章を書いている。もちろん、とうてい再始動にはなり得ず、寝起きの戯(ざ)れ文にすぎない。人間、いや私の場合は、単に書き殴りの文章を書くだけであっても、一度休み癖がつけばそれを克服して、再始動を叶えることには困難を極める。わが小器ゆえである。
休みにともなう安楽は、生来三日坊主の私にとっては、もとより心中に棲みつく魔物である。正直言って休み中の私は、身体はまったく傷(いた)まず、精神が病んでいたのであろう。その証しには休みの安楽に加えてこの間、私は玉名蜜柑(熊本県)や有田蜜柑(和歌山県)、はたまた奈良県産や愛知県産の柿を買い込んでは、時の過ぎ行くままにたらふく食べ続けていた。確かに、文章を休んでいる後ろめたさはあったけれど、至福の時に浸り、それをむさぼり続けていたのである。
このところは初冬の好天気が続いている。幸いなるかな!、コロナも収まりかけている。再始動のきっかけは盛りだくさんにある。それでもままならないのは、わが心身にべたついている休み癖である。そしてそれは手軽に安楽にありつけるから、始末に負えないものでもある。
早鐘、乱れ打ち
きのうは「七・五・三」(十一月十五日・月曜日)だった。文章はズル休みした。「七・五・三」にあって文章を休んだのは、間違いなく初体験である。しかも、弁解の余地ないズル休みだった。このところの私は、日課とする道路の掃除さえ、ズル休みがちになっている。これらのことでは、「くわばら。くわばら」と、みずからに早鐘を打たなければならない。こんな危険な状態は、自分自身承知の助である。だから起き立てにあって、なさけなくもこんな文章を書いている。換言すれば私は、モチベーションの低下、すなわち気勢が上がらない状態にある。たぶん現在の私は、不登校に陥る児童や生徒の精神状態さながらであろう。不登校になる人はなんとなく学校へ行きたくない気分に陥り、二・三度休んでいるうちに休み癖がついて、思わぬ長休みになるのであろう。ほかから「やいのやいの」言われても、いっそう反発心が湧き出るであろう。結局、不登校を克服するには、みずからをみずから鼓舞するしかすべはない。まさしく現在のわが状態は、「これ」である。「敵は本能寺にあり」、いや私自身にある。
私は、きょう(十一月十六日・火曜日)もズル休みを決め込んで、床に就いていた。ところが目覚めた。すると、きのうのズル休みが不登校みたいに長休みになることを恐れた。それを断ち切るためだけの目的で、パソコンを起ち上げた。すなわち、恥も外聞もさらけ出して、自分自身への鼓舞を強いている。他人行儀に優しく叱咤激励などとは言えない、なりふり構わぬ自己への大いなる警鐘である。確かに現在は、気狂い状態と言われることさえ厭(いと)わない心境にある。挙句、ズル休みを断つだけの文章へ成り下がっている。それでもズル休みが習慣にならず、ヨタヨタしながらでも継続にありつければ勿怪(もっけ)の幸いである。この期(ご)に及んで文章の質を望んでは、不登校さながらの爺(じじい)になる。
現在のデジタル時刻は、長い夜にあって4:23である。私は小学生および中学生を通して、九年間の無欠席(皆勤賞)だった。もちろんこのときの私は、登校するのが目的ではなく、デコボコの砂利道を四十分近くかけて、歩いたり、走ったりしながら、勉強をしに行っていた。はるかに遠い当時が、懐かしく偲ばれる。それに比べると現在のわが心境は、大いに寂しいところにある。
私の場合「七・五・三」は、わが気分が最も和む日本社会の年中行事である。だからであろうこれまでの私は、この日には切らさず文章を書いてきた。それなのにズル休みで断つとは、みずからにたいし早鐘乱れ打ち状態にある。継続の断絶なのか、それとも寸断なのか、今の私は知るよしない。きょうの文章は気狂い状態ではなく、目覚めどきの単なる「戯(ざ)れ文」であることを願っている。
戸惑いをおぼえた「東京行」
きのう(十一月十三日・土曜日)は、次兄宅(東京都国分寺市内)へ向けて、久しぶりに電車に乗った。夜明けのころには強い寒気が訪れていた。そのぶん、出かけるころの大空には、満艦飾に日光が輝いて、またとないほどの初冬の好天気だった。その下でわが気分は、田舎者、お上りさん、はたまた浦島太郎のようだった。
私は座席に腰を下ろして、車窓を通して移りゆく風景を眺めていた。皆々、初めて見ているような心地だった。それは、風景の変化にともなう驚嘆だった。換言すれば、都会の風景の変化の速さにたいする脅威でもあった。私は、車内の風景にも怯(おび)えていた。すなわち、若い人たちの目立つ中にあっては、もはや私は、過去の異物だ! と、思い知らされていたのである。いや内心、もうこの世には住んではいけないとも、思っていた。このことでは、電車に乗る前から怖気(おじけ)ついていた。その証しには往復共に、遠回りや時間はかかるけれど、座れそうな電車を待ったり、選んだりして乗車した。なぜなら、座っている人たちの前に近づけば、即座に席を譲られることを懸念して、それを回避することにわが意をそそいだのである。
車窓の風景を眺めながらわが気分は、車内の案山子(かかし)のように無表情に委縮していた。日本社会にあってはコロナ禍の行動の自粛は緩和されたけれど、私の場合この先、外出行動の自粛いや自制は、いっそう強まりそうである。座席の私は、(もう一度だけでも、東京見物したいなあ……)と、思っていた。しかし、電車に乗ることを思えば、この切ない願いさえも果たせそうにない。私はスマホを見ることもなく、車外風景と車内風景を眺めながら、黙然と気迷っていた。車内の人たちは、盛んにスマホに興じていた。私は、通勤で通い慣れた「東京行」に戸惑いをおぼえていた。
心身震える、夜明け前
人生晩年の日常生活は、こんなものだろうと、諦めきってはいる。しかし、悟りきってはいない。こんなものとは、息苦しい日常生活である。きょう(十一月十三日・土曜日)は、早立ちで東京へ向かう。コロナ禍のせいで自粛を強いられていたため、久しぶりの次兄宅への表敬訪問である(東京都国分寺市内)。ところが、心晴れのする訪問でもない。なぜなら、互いの老いを確認するだけになりそうである。
このところは暖かい日が続いていた。けれど、起き立てのわが身体は、ブルブル震えている。一方、心象は寒暖にかかわらず冷えている。またしても、書くまでもないことを書いた。いっときのズル休みではなく、もう書かないほうが、わが身、人様のために良さそうである。結論は電車の中で、ぐるぐるとまわりそうである。
とてもつらい、私事
きのう(十一月十一日・木曜日)は、義父と義母の合わせ法事(回忌)に出向いた。共に、永別の日から長い歳月が過ぎていた。それぞれを偲ぶ和みはあった。一方では、悲しさがぶり返した。菩提寺は鎌倉市に連なる逗子市に隣接する、神奈川県三浦郡葉山町に存在する「新善光寺」である。寺は由緒ある大伽藍を構えている。義父母の墓は境内の一角にある。催事の主は、義父母の後継をなす義姉と義兄(逗子市)である。これに、わが夫婦と娘夫婦が加わった。読経を唱えるご住職の後方には、六人が間隔をとり、椅子に座り並んだ。静寂きわまる大伽藍の大広間にあって、法要はきわめて厳粛に行われた。このあとには出来立てほやほやの卒塔婆(そとば)を手に取り、墓地の石塔の前に出向いた。ご住職はここでも、短く読経を唱えられた。読経の下、六人は入れ替わり、厳かに合掌した。みはるかすほどに広い境内と、それを抱え込む後背の小高い山には、黄葉や紅葉が照り輝いていた。法事は、しめやかに閉じた。
ところが、出かける前の私には、飛んでもない異変が起きていた。首周りは、絞首刑さながらにきつく締めつけられていた。身体は、ワイシャツと喪服にぎゅうぎゅう詰めにされていた。さらには、思い及ばぬ難儀に見舞われた。ネクタイは、喪服に合わせて黒色を選んだ。最大の異変は、このときである。私は、ネクタイの結び方を忘れてしまっていた。このことには、かぎりないショックを受けた。結局、正規にはなり得ず、ちょろまかして結んだ。とても悲しかった。