ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

生存のための手入れ

 十二月六日(月曜日)、起き出してきたけれど、寒気が身に堪えている。自然界のまともな営みゆえに、もちろん我慢するしか能はない。きのうの昼間、茶の間のソファに凭(もた)れて、窓ガラスを通しのんびりと外景を眺めていた。このところ続いている、自然界謳歌の日暮らし模様である。もちろん、安らぎや和みばかりがあるはずはなく、いや、心中には(社会貢献のなに一つもしてないなあ……)という、嘆息気分が渦巻いていた。
 そんなおり、電線が揺れた。一匹のタイワンリスが、わが庭中の柚子の実を咥(くわ)えて、電線を伝って山の中へ、持ち逃げするところだった。もとより私は聖人君子ではなく、突如、怫然(ふつぜん)とした。しかし一方、タイワンリスの命の営みであることゆえに、いくらかの同情心をおぼえた。挙句、窓ガラスを揺することもなく、呆然と眺めていた。
 人間とて生存のためには、命、身体、さらには精神の手入れは肝要である。きょうの私にはその一つ、身体の手入れの予約済がある。曲りくどいことを書いたけれどきょうは、予約済の胃部内視鏡検査の当日である。そのためには八時半ころまでに、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科の受付に行かなければならない。これにたいしては、昨夕の六時ころに軽食を済まして以降は、検査体制に入っている。それゆえ現在は、いくらかの空腹をおぼえている。けれど、検査が済むまではと決意し、我慢をしているところである。それには、こんな覚悟がともなっている。すなわちそれは、せっかく厭なカメラを咥えて検査をするかぎりは、事前対応はきちんとしよういう思いである。確かに命あるものの生存は、ほったらかしにしたままではまったく果たせない。「命の洗濯」、すなわち命さえもたまには手入れが必要である。ましてや、常に病のつきまとう身体や精神には、不断の手入れが肝心である。
 生きとし生けるもののすべて、生存を叶えることは難行苦行である。タイワンリスも追っぱわれるのを覚悟のうえで、いや死ぬ思いさえたずさえて、電線を這っていたのであろう。すると、このときの私は、わが身をかんがみてかなりの同情心や道議心をたずさえていたのであろうか、逃げるままに見遣っていた。もちろん、普段は憎たらしいばかりあり、こんな情け深い心情になることなど滅多にない。たぶん、このときの私は、きょうの内視鏡検査を浮かべていたのであろう。現在は準備万端、さらにしっかりと気分をととのえて、夜明け後の出で立ち態勢を固めている。
 こんなことを思っているせいなのか? 今朝の寒気は、いつもより我慢できるところがある。もとより、自然界の営みには、まったく盾(たて)のつきようはない。

感極まる、ご投稿文に出合って……

 十二月五日(日曜日)。長い夜にあっては、未だ真夜中とも言える、三時近くです。目覚めて、枕元に置くスマホを手にしました。きのうはズル休みをしたため、後ろめたくなり、掲示板を見るのを遠のけていました。しかし、目覚めての時間つぶしには、スマホに勝るものはありません。恐る恐る、掲示板を覗きました。すると、高橋様のご投稿文、『創作相談室⑦』が掲示されていました。途轍もなく長い文章ながら、適当に段落を替えられて、とても読みやすい文章でした。創作相談室スタイルゆえに、ひとりの相談者をしたてて、高橋様が回答者になるという応答式で、文章が綴られていました。わが体験して知る狭苦しいスマホの文字盤にあって、高橋様はまるで「痒いところへとどく、麻姑(マゴ)の手」みたいに、難なくスマホを操られていました。先ず私は、高橋様のスマホ技術の高さに驚嘆いたしました。
 相談者の相談内容は、コンビ店にアルバイトに就くにあたっての、店舗選びのアドバイスを求めていました。これに応じて、回答者すなわち高橋様のアドバイスが連なります。実際には店(店舗)の生い立ちの違いから、縷々なお詳細に綴られていました。極めつきは、本部とフランチャイズ契約をしたフランチャイズチェーン店すなわち「オーナー店」と、本部が運営する「直営店」の違いが、豊富な知識とご自身の実体験を基に、易しく回答されていました。とりわけ、アルバイトとはいえ店舗内仕事全般のご紹介と、それにたいする心構えの持ちようへのアドバイスは圧巻でした。すなわち、相談者の不安を和らげる優しさあふれるものでした。
 高橋様の文章は、もちろん掲示板に張りついています。それゆえ、これで打ち切りとします。さて、この文章の主題はこうです。私は高橋様とは面識ありません。それでも、まさしく「文は人なり」という、成句を実感するものでした。私は、高橋様の膨大な知識とそれを表す文章力、加えてお人柄の優しさに心をうたれました。率直なことばで言えば、「心が打たれ、感極まって!」、起き出しきて、この文章をしたためました。いや、そうせずにはおれなくなりました。おのずから高橋様より快い夜をたまわり、感謝感激です。幾重にもお礼を申し上げます。おかげさまで、胸のすく、短い夜になりました。寝床にとんぼ返り、夜明けまでぐっすり眠れそうです。ぐっすり眠れることは、滅多にありません。幾重にさらに重ねて、何度となく感謝感激です。高橋様は夜勤でしょうか? 夜にあっても高橋様を慕う親衛隊が、お店の玄関口に列をなしているに違いありません。夜勤を終えたら、ぐっすりおやすみください。

年の瀬のしるし

 十二月三日(金曜日)、手っ取り早いことではカレンダーを見やれば、年の瀬の訪れは知ることができる。これ以外に年の瀬通知にはどんなものがあるだろうかと、思いをめぐらしている。すると、最も早いものでは九月になると、郵便受けに投げ込まれる「おせち料理」の予約案内がある。これには「バカにするなよ!」と言って、読むこともなくすばやく分別箱へ放り込む。十一月一日になると、年賀状発売ののぼり旗が街中に垂れる。これにもまた年年歳歳、わが関心は薄れゆくばかりであり、そして今や用無しのはためきである。十一月の半ばころからは、喪中はがきが届き始める。これには不意打ちを食らう。そしてこれは読み捨てにはできず、しばし土間にたたずんで、在りし日の人を偲んでいる。これは、最も年の瀬を実感する哀しいシグナルでもある。
 一方、哀しさはないけれど最も寂しさを実感するシグナルは、厄介をきわめていた道路上の落ち葉の減りようである。落ち葉は大晦日あたりを限度にほぼ落ち尽くす。年の瀬にあっては、日を替えて少なく飛び飛びに散らばりゆく。すなわち、道路上の落ち葉の減りようは、わが最も実感する年の瀬のしるしである。あれほどに難儀をきわめていたことからすれば、素直に喜ぶべきものではあろう。ところがあにはらんや、年の瀬の落ち葉の減りようには寂しさつのるものがある。もちろんそれは、歳月の速めぐり(感)にたいする怯えに起因する。
 年の瀬とは、語呂では心地良いところがある。しかし、実際のところは、心さみしいことばである。年の瀬、つまり私は、歳月の速めぐり(感)にビクビクしている。たっぷり執筆の時間のある長い夜にあっても、チラホラさえのネタもない。私は年の瀬に、うずくまっている。夜明けて道路の掃除へ向かうのも飛び飛びで、あと少しばかりである。素直に喜ぶべきものを、なんだかやはり寂しい。わが最も実感する、明らかな年の瀬のしるしである。

ことばをかえて、きょうは「自然界、絶賛」

 十二月二日(木曜日)、時は年の瀬へ向かっている。この時季に飛翔する鳥の多くには、「冬鳥」と名づけられている。季節にかかわらずわが庭中にやってくる鳥には、スズメ、メジロ、シジュウカラ、コジュケイがいる。はたまた、あまり歓迎しないけれど、ヒヨドリやカラスも加えていい。幸いにも、モズはほとんど飛んでこない。凡庸の私にはこれら以外、鳥類の知識はまったくない。家禽であればニワトリ、アヒルくらいは知っている。すなわち、実際のところ冬鳥にはどんな鳥がいるのか? など、まったくの珍紛漢紛(チンプンカンプン)である。
 季節のめぐりは早や、初冬、仲冬を過ぎて、晩冬へさしかかっている。晩冬ということばは、晩春や晩秋などと比べれば馴染みがなく、だから真冬に置き換えればしっくりくる。しかしながらこのことばは、文字どおり寒々しさをおぼえるだけで、晩春や晩秋と比べればロマンの欠片(かけら)もない。晩夏を置き去りにしたけれど、過ぎ行く夏を惜しむ切なさを思えば、晩夏とてロマンに満ちている。つまるところ晩冬や真冬は、ことばに寒々さをおぼえるだけで、微々たるロマン(心)さえ遠のいている。その挙句、人々の口の端にのぼることばはつれなく、「春よ来い、早く来い!」である。
 過ぎたこの秋は、秋らしい天候に恵まれず過ぎてしまった。このことでは私に、日々歯ぎしりするほどの口惜(くや)しさをもたらしていた。ところが自然界現象の天候は、「人の心」を持ち合わせていた。実際には晩秋をまたいでカレンダーに、「初冬」(十一月七日)と記されるいなや天候は、それまでの罪つぐないでもするかのように一変した。一変、突如すなわち悪天候は、後れてきた秋晴れの好天気に変わったのである。まさしく、変幻自在の変わりようだった。ところがその変わりようは、初冬、仲冬と過ぎて、晩冬へさしかかるこの時期まで続いている。すると私は、この変わりように文章のうえでは、ことばのいっちょおぼえのごとくに「胸のすく」を繰り返してきた。なお、身に沁みてありがたい恩恵に報いるために私は、常に「自然界、礼賛」の心情をも吐露し続けている。すなわちそれは、わがありったけの恩返しの証しである。
 確かに私は、日々の気鬱気分を胸のすく天候の恵みに癒され続けている。身近なことでは、この時季の道路上の落ち葉しぐれの厄介さなどにも嘆かず、大空を仰ぎ心中で「自然界、賛歌」を謳(うた)っていた。いや、過去表現でなく、いまだに現在進行形のままである。なぜなら、この先も胸のすく天候は続きそうである。おとといからきのうの夜にかけては、久々の雨というより時ならぬ大嵐だった。生乾きの落ち葉を掃いて、寄せ集めて70リットル入りの透明袋に何度も下押しをし、ぎゅぎゅ詰めにすると、袋ははち切れるほどにダルマさんのように膨れあがった。黙(だま)りこくってせっせと掃いても、二時間余もかかった。それでも、私は嘆かなかった。雨上がりの青空は、わが労働にじゅうぶん報いて、胸のすく清々しさをくれたのである。
 このところの私は、自然界の恩恵に報いるため、時や所(掲示板)構わず、「自然界、絶賛」をことばや文字にしている。きょうの夜明けはいまだしだけれど、私は朝空を誉め称える心の準備に大わらわである。もちろん、青空だけを望んではいない。私は自然界のおりなす、大空模様に心を癒されているのである。

わが気分を癒す、大空

 十二月一日(水曜日)、とうとう今年(令和三年)の最終月が訪れた。今年もまた、つらい一年だった。いや、とりわけ、つらい一年だった。しかしながらつらさは、今年かぎりで打ち止めとはならない。それどころかこの先、生きているかぎり毎年、いや増してゆくのは必然である。今年のつらさには早くも、「とりわけ」と、表現した。すると、年々、度を増してゆくつらさの表現には、どんなものがあるだろうか。語彙の学びを生涯学習に掲げる私にとっても、もはや表現のしようはない! と、うろたえている。
 今年に輪をかけて、いまだつらい余生が残っている。余生とは、オマケの人生である。子どもではないから、当時の愛読誌『少年倶楽部(クラブ)』の付録(オマケ)を待ち望んでいたときのような、ときめきの気分にはなれない。いやいや、人生のオマケは、ちっともありがたくなく、至極(しごく)こりごりである。
 冒頭にあっては、こんな切ない文章を書くつもりはなかった。双六(スゴロク)に倣(なら)って、ふりだしにもどろう。私は山河・自然の風景のおりなす眺望がことのほか好きである。言うなれば、金のかからない無償の眺めである。もちろん、そのたびに金が入り用であればケチな私は、もとより好きにはなれないであろう。万事が金の世の中にあって無償の恩恵は、自然界のおりなす風景と眺望であろう。
 わが家の立地は、鎌倉・藤沢・横浜の尾根をなす「円海山」山系の中にある。このため現在は、日々道路上の落ち葉の清掃に難事をきわめている。一年じゅうにあっては、集中豪雨や台風のたびに山崩れや、土砂崩れに怯えている。それでも山が好きだから、なけなしの金をはたいて、とびっきり山際の区画を選んだ。建前では後悔はしたくないけれど、本音では後悔に陥り、歯ぎしりするところがある。
 川は近くにはなく、せせらぎに出遭うにも、二十分ほど歩かなければならない。海は速足で四十分近く歩けば、「鎌倉の海」の眺望にありつける。それでも、歩くのが面倒でほとんど出向かない。確かに、路傍の草むらの眺めも好きではある。しかし、私が最も好む自然界風景は、天上の大空の眺めである。無償はもとより、これほど手近な眺めはほかにない。歩きながらも、ときには立ち止まり、やや首を上向ければ、視界一面は大空である。確かに、大空は静態である。ところが、雲を抱いたり、日光の加減で、さまざまに彩りや綾をなしている。そして、その態様は無限である。大空の眺めこそ、害を及ぼさない無償の自然界の恩恵と、言えそうである。もちろん、ただならぬ入道雲や稲光は、大空のしわざではなく、大空は常に泰然としている。山紫水明、自然界の風景にあっては、私は大空の眺望にとびっきり気分を癒されている。
 夜明けの空は、まだ見えない。夜が明けても、たぶん雨を降らす大空である。なぜなら、窓ガラスには雨粒が垂れている。それでも、大空に恨みつらみはない。いや、年の瀬のせく気分休めには、私は大空の眺望に託している。幸いなるかな! 大空は、尽き消えることはない。

残念無念、「きょうの出来事」

 加害者無き被害者の現われは、まさしく天災同様である。新型コロナウイルスはようやく収束に向かいつつあり、このところは気分の落ち着きに恵まれていた。ところが好事魔多し、再びこれにまつわる新たなニュースが伝えられた。「泣き面に蜂」の痛みなどはるかに超えて、またもや人類には大きな痛みとなりそうである。つれてわが命は、コロナウイルスの恐怖の中で尽きそうである。このことは、きわめて残念無念である。せめて、穏やかな世にあって、命を沈めたいものである。決して欲張りではないはずだけれど、叶えられそうにない。コロナウイルスの新たな惨(むご)たらしい仕打ちである。
 【速報】政府 全世界から外国人の“入国停止”を発表(11/29、月曜日、13:16配信 TBS系・JNN)。新型コロナの新たな変異ウイルス「オミクロン株」の世界的な拡大を受け、岸田総理は全ての国を対象に、当面の間、新規入国を原則停止すると表明しました。入国制限が緩和されたはずの留学生が来日できない状況に・・・一体なぜ? 岸田文雄首相:「緊急避難的な予防措置として、まずは外国人の入国については、11月30日午前0時より、全世界を対象に禁止をいたします」オミクロン株の拡大を受け、岸田総理は、水際対策を強化し、今88日から例外的に認めてきたビジネス目的の短期滞在者や留学生、技能実習生を含め全ての国を対象に入国を原則停止すると表明しました。これらの措置は30日から当面1ヶ月間実施。またオミクロン株が確認された国から帰国する日本人に対しても、指定された施設での隔離を義務づけるということです。さらに岸田総理は水際強化の対象国の1つであるナミビアから入国した1人について新型コロナ“陽性”の疑いがあることを明らかにしました。厚生労働省によりますと、感染が確認されたのは30代の男性で、重篤ではないとのことです。ただ、“オミクロン株に感染したかどうか”はわかっておらず、解析には「4,5日かかる」ということです。入国上限3500人に引き下げまた政府は、1日あたりの入国者数の上限について、今月26日から引き上げた1日5000人の措置を停止し、12月1日より1日3500人目途に引き下げることも発表しています。

殴り書きは、もはや宿病

 十一月二十九日(月曜日)、寝床から抜け出してきた。とっくに夜が明けている。こんな状態では時間に急かされて、文章は書けない。だから、文章とは言えない殴り書きと走り書きの共存で、でたらめに指先を動かしている。
 確かに、このところの私は、寒気に怯えて起き出しを渋っている。そのせいなのか、単なる時間潰しなのか。目覚めて、寝床の中でことば遊びをめぐらしている。わが当てずっぽうの考察ゆえに、もちろん世の中に通じる普遍的なものではない。枕元には常に、電子辞書とスマホを置いている。ときには、正解にすがるためである。かつては電子辞書のみだったけれど、このころはスマホがお供をしている。だからと言って私は、スマホに寝起きのブザーを託しているのではない。スマホは思いのほか、わが生涯学習すなわち、語彙の復習や新たな習得に役立つからである。スマホは、とりわけカタカナ語や現代語(はやりのことば)の学びには、電子辞書をはるかに超えて便益をもたらしている。これらのことでは今や電子辞書は、スマホの後塵に拝している。挙句、私は情報端末機からだけでも、時代の変遷を十分に知ることとなっている。同時に私は、情報端末機を使いこなしたら、どんなにか愉しみが増えるだろうとも思う。無能に加えてわが生来の手先不器用は、ほとほと恨めしいところである。
 さて、先ほどの寝床の中で私は、熟語「生活」をめぐらしていた。そして、この言葉の成り立ちに、「生きて、活動する」と、当てた。わが活動は、二十年ほど前で止まっている。それ以降は、おのずから「生きる屍(しかばね)」状態にある。それゆえに今さらながら、このことばが浮かんだのであろう。もちろん、こんな幼稚なことばを浮かべるようでは、語彙の復習や新たな習得にもなり得ない。結局、私は寝床の中でさえ精神錯乱状態に陥り、挙句、安眠を遮(さえぎ)られて無駄に時の流れの中に身を置く屍状態にある。
 約十分間の嘆かわしい殴り書きである。同時に、読むに耐えない文章を強要し、かたじけなく思う夜明けである。わがぐうたらを嘲(あざけ)り,嗤(わら)うかのように、朝日輝くのどかな夜明け訪れている。

寒い朝

 十一月二十八日(日曜日)、寒い夜明けが訪れています。起き立ての気分は萎えて、文章が書けません。この先は、継続の途絶えのこんな日ばかりになりそうです。いまだ寒気は序の口であるのになさけなく、わが身を恥じて、嘆いています。寝起きの私は、気分高揚のため、北風に舞うカラカラの落ち葉との戦いに、わがありったけの闘志を駆り立ててみます。高橋弘樹様には「元気の素」の応援メッセージ(大・大・大エール)をたまわり、感謝にたえません。謹んでお礼を申し上げます。

連ちゃん! 書き殴りの妙

 十一月二十七日(土曜日)、このところはずっとだけれど、パソコンを起ち上げても長く頬杖をついている。明らかに、危険な兆候の一つである。きのうは買い物のついでに、大船(鎌倉市)の街に存在する「行政センター(市役所分室)」へ入館した。十数年ぶりとも思えるほどに、間隔が空いていた。入館の目的は、わが生活や市政にかかわるものではなかった。ここの二階には、図書館が併設されている。この日の目的は、図書館へ上がることだった。あまりの久しぶりであったためか図書館は、勝手知っているにもかかわらず異様な光景に思えた。逆に、スタッフから見ればわが姿は、かぎりなく神経を尖らすほどに、異様に思えたであろう。見知らぬ老人が大きなリュックを背負い、覆面みたいにマスクを着けている。わずかに覗くところは、皺だらけである。そのうえ、書棚近くをあちらこちらへうろついている。確かに私は、読むあてどなくうろついていた。スタッフが盗難などに、身構えるのは当然である。わが心中は、(驚かして済まないなあ……)、という思いにとりつかれていた。それゆえ、驚かしたことにたいし、(詫びたい気持ち)が充満していた。その証しには意識して足音に気をくばり、静かに書棚周りを一巡した。挙句、雑誌や新聞コーナーにさえにも足を止めず、早々に退館した。読書欲がまったくわかなかったせいである。もとより、冷やかしにもならない体たらくぶりだった。確かに、私には子どものころよりこんにちに至るまで、読書欲や読書歴はまったくない。きのうの私は、この悪癖を今さらながらにあらためて、確認しただけだったのである。
 館内を出ると、暖かい陽射しがふりそそいでいた。私は気分をととのえて、普段の買い物コースをめぐった。たちまち、後ろめたい気分は正常へ戻った。もはや私は、買い物で気分をほぐすだけの「生きもの」になり変わっているのだ! と、自覚した。
 このところの私は、三度の食事と間断なく間食をむさぼる以外、何もかもが面倒くさくなっている。本音を言えば、生きること自体がとてつもなく面倒くさくなっている。しかしこのことは、妻の前では禁句である。なぜなら、体を傷めている妻は、ありったけの思いでわが年金にすがっている。その証しには、「パパ。これは体にとてもいいのよ!」と言っては、わが長生きのためのレシピの推奨に大わらわである。「旨くもないないものが、体にいいはずはないと、私にはわかっちゃいる」。しかし、わが唯一の手っ取り早い妻へのいたわりとすれば、無下にはできない。
 面倒くささは、断捨離をともなう終活である。とりわけその筆頭は、もはや短くかぎりあるとはいえ、まだ残る命の営みである。用意周到に構えては、こんなケチくさい文章はまったく書けない。恥も外聞もいとわない、書き殴りの妙と言えそうである。確かに、書き殴りには想定外の本音がちらついている。殴り書きに加えて走り書きのため夜明けの朝日は、いまだにまったくの暗闇の中にうずくまっている。

書き殴り、「わが日常生活」

 危ない兆候はいくらでもある。半面、年年歳歳、安寧な気分や楽しみは薄らいでゆく。老体をかんがみれば、仕方のないことである。しかし、現在のところは幸いにも、わが身体には大きな病はとりついていない。実際のところで薬剤にすがっているのは、緑内障の進行防止ための一日一滴の目薬くらいである。緑内障とて、みずから申告して治療開始になったものである。すなわち、主治医が「これは大変だ!」と言われて、点眼が開始されたものではない。言わずもがなの「藪蛇」とも言えるものでもあり、私には悔いるところがある。進行も遅くこの先の余生からすれば、もう通院打ち切りでもいいはずくらいのものである。ところが快癒の宣告はいまだなく、おそらく点眼は、今わのときまで続きそうである。点眼くらいはいいけれど、目薬をもらうには半年ごとの通院が強いられる。これが厄介であり、そろそろ通院拒否の決断を胸中に浮かべている。 
 一方、これまたエンドレスを覚悟していた歯医者通いは、現在は通院の中断にありついている。このことは、まさしく僥倖である。高血圧の薬剤には用無しにありついている。現在、予約表が財布の中に張り付いているものには、「大船中央病院」(鎌倉市)における、12月6日の胃部内視鏡検査である。これとて自覚症状はなく、定期的にめぐってくる、いわば「念のため」くらいのものである。
 このほか十二月になると、「大船田園眼科医院」における、三か月先の予約を入れなければならない。ここには九月に通院したけれど、半年ごとの予約はできないシステムのため、三か月ごとに予約を入れているからである。
 難聴は耳鼻咽喉科にかかるまでもなく、テレビ通販による安っぽい集音機で我慢している。高価な補聴器を購入し、銭失いを恐れるためである。風邪症状は、市販の風邪薬に頼り切っている。老体にあってこれくらいで済んでいるのは、自己診断ではきわめて「健康体」と、決め込んでいる。
 身体が健康体であれば、愚痴ることはないはずである。それでもしょっちゅう愚痴るのは、私の場合、精神が宿病にとりつかれているのであろう。確かにこちらは不治の病であり、もはや施療や治療の埒外にある。しかしながら、気に病むほどのものでもない。いや、気を揉んでもどうなるものでもない。それこそ生来の錆、人間性を問われる愚痴の塊にすぎない。つまるところ日常生活において、安寧気分や楽しさが薄れているのは、自分自身の精神状態に起因している。
 一つだけこれ以外のことを浮かべれば、老境に入り人様との交流が細りゆくゆえと言えそうである。ずばり、生存の充実感は、人様との会話の愉しみに尽きるのである。一方通行の診断結果を怯えて聞くだけでは、もとより会話にはなり得ない。このところの私は、茶の間のソファにもたれて、日向ぼっこに勤しんでいる。ばかじゃなかろか! 勤しんでいると表現するのは誤りであり、虚しく明け暮れていると言うのが適当である。このお伴は、好物の柿と蜜柑のやけ食いである。
 「わが日常」、もちろんこんなことを書くためにパソコンを起ち上げたわけではない。もとより、きのうのズル休みの罪滅ぼしにはならず、とんでもない悪あがきである。十一月二十六日(金曜日)、のどかな夜明けが訪れている。