ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

二月二十日、雨の日曜日

 二月二十日(日曜日)。もとより、二月は短い月である。早や、一週間余りを残すのみである。とりわけ今年(令和四年・2022年)の二月には、「立春」(二月四日)から冬季「北京(中国)オリンピック」が開催されていた。きょうは、その閉幕日にあたる。この間の私は、釘付けではなかったけれど、多くの日時をテレビ観戦に費やした。このこともあってか私は、二月のこれまでの日々をことのほか短く感じていた。
 感覚的には二月が早く過ぎれば、そのぶん春三月の訪れは早くなる。これ勿怪の幸いなのか、いや余生短い私の場合、季節の速めぐり(感)は、必ずしも喜ぶべきものではない。できれば、もっとゆっくり、もっとのんびりと、めぐってほしいと願うところである。一方、矛盾するけれど、寒気の強い二月は、足早に過ぎてほしいと願うところもある。私にかぎらず人間の欲得には、際限がない証しと言えよう。
 この点、自然界の営みは、文字どおり自然体のままに恬淡として、ほほえましさ満杯である。ごくかぎられた視界、いや狭小な庭中にあって、梅の花は綻び、フキノトウは萌えている。寒椿にはシジュウカラを先導役にして、わが愛鳥のメジロが飛んで来る。山から番でやって来るコジュケイを目にすると、あわてて窓ガラス開き、「待て、待て……」とつぶやいては、わが家の食料のコメをばら撒いている。この定番の動作は、今やわが老夫婦のささやかな生きる喜びの一つをなしている。
 二月の終盤戦を迎えて幸いなるかな、寝起きの身体には寒さが緩んでいる。そのため、ブルブル震えることなく、のんびりとキーをたたいた。しかし、世情は荒れている。新型コロナウイルスへの感染恐怖は、なお先々へ延びるばかりで、いっこうに打ち止めの兆しはない。さらには北京オリンピックの閉幕を待って、中国と友好国のロシアの戦端あるやなしやの恐怖は募るばかりである。虚々実々の駆け引き合戦は、自然界の悠然風景と比べれば、まさに人間界の馬鹿さ加減の極みである。
 確かに、新型コロナウイルスは手に負えない。しかし、戦端を開くか止めるかは、手に負えるはずである。こんな愚かなことを書いて、文章を結ぶのはほとほとなさけない。あいにく雨の夜明けだが、自然界には恨みつらみは一切ない。恨みつらみをおぼえるのは、人間の無限の浅はかさ一辺倒である。

コロナの出口

 新型コロナウイルスに関して、岸田総理と政府分科会の尾身会長より、軌を一にして出口戦略が語られ始めている。コロナの終息とそののちの日本経済の舵取りは、共に願う喫緊の関心事ゆえに、半面切羽詰まった表れでもあろう。巷間に実在する市井人の私とて、もちろんそうなることを一日千秋の思いで待ち望んでいる。なぜならコロナへの感染恐怖は、発生以降こんにちにいたるまで、わが身に沁みて戦々恐々を強いられている。ましてわが身は、コロナニュースのたびに感染に強く慄く年齢層、すなわち高齢者の最上位区分にある。
 わが外出行動は日を置いてのほぼ買い物行動だけゆえに、人様なかんずく群衆との接触機会はおのずから限られている。それでもやはり、街中に出向くと人様の息遣いの渦の中に否応なく身を沈めている。このため、感染の余地は多分にある。逆に、私が無症状の感染者であれば、知らずしらず人様へうつすこととなる。どちらも、甲乙つけがたい恐怖である。だから、為政者の出口戦略への関心を超えて、わが身にしたらコロナの収束から終息(打ち止め)を願っている。
 確かに、コロナが収束しないかぎり、わがいやだれしもの日常生活は、霧の中どころかまったくの闇の中である。もちろん出口戦略は、日々待ち望んでいることゆえに大歓迎である。一方ではわが生存中にあって、コロナの終息はありうるのであろうかと、これまた日々危惧しているところである。
 コロナの出口にたどり着かなければ、この先社会的にはなお多くの人命を亡くし、いっそう経済基盤は揺らいでゆく。きわめて、厄介な社会事情である。一方、私の場合は、マスクなしの日常生活に戻りたい一念である。なんだか身勝手な願いのようであり、わがお里の知れるところである。
 「春よ来い、早く来い!」。これに呼応し、春は来た。「コロナ去れ、早く去れ!」。なんだか、空念仏の響きカラカラである。

また、無題

 いつの時代であっても人間は、確かに世の中に住みにくく、生きづらいものである。そうは思っても現下の社会は、生きづらい世の上位にあるのかもしれない。もちろん、日本の国のみならず総じて共通の世界事情である。伝えられてくるニュースを見聞するかぎりこれらの基因は現在、おおむね二つの世界事情にある。一つはなかなか出口や収束の見えない、新型コロナウイルスの感染蔓延事情である。そして一つはこれににわかに割って入った、ロシアのウクライナ侵攻に絡む一触即発の世界事情である。たまには柄でもないことを浮かべて、書いてみたにすぎない。
 本当のところ身近な危機は、わが家の日常生活にある。しかしながら危機は、わが家のみならず世の中のだれしもにある。コロナにかかわることでは、日々の感染者数、とりわけ死亡者数の多さには、ニュースのたびに度肝を抜かされている。これにちなんで私には、腑に落ちない言葉がある。自宅療養という言葉が、すっかり意味合いを異にしている。すなわち、医療機関の診療に掛かれない人は、自宅療養という言葉の範疇にある。本来、自宅療養とは、一度は医療機関に掛かり、自宅で経過を見る言葉だったはずである。ところがコロナにかぎれば現在、医療機関で診きれない人はもとより自宅に留められて、自宅療養者としてカウントされている。結局、療養という言葉自体が異質、曖昧に用いられている。
 わが下種の勘繰りにすぎないけれど、医療の逼迫、崩壊、すなわち医療危機を隠す言葉へとなり替わっている。「なんだかなあー」、と思う目覚めの悪さである。夜明けの朝日は、のどかな春の陽ざしである。私は、朝ぼらけに気分を慰められている。

人間に負荷されるもの、それは努力!

 冬季・北京(中国)オリンピックは、会期の終盤戦にさしかかっている。「Japan」に限らず、各国アスリート(競技者)の活躍に日々ありつけているのは、わが「生きる幸福」の一つである。
 不幸にも、金・銀・銅のメダル、あるいは入賞には至らずとも、オリンピック選手になること自体、本人はもとより、身内、縁戚、友人、知人、なおそして国を挙げて名誉なことである。しかしながらオリンピック選手になることは、もちろん本人自身の能力と、さらには長年それを鍛え磨き上げた努力に負うものである。いくら周囲で支援をしたところで、本人の努力なしには到底、オリンピック選手にはなり得ない。オリンピックに限らず、大小さまざまな競技会(大会)において、勝利者にはならずとも参加にありつけること自体、本人の努力のたまものである。
 一年中で最も寒い時期、すなわち一月と二月にあっては、さまざまなレベルの入試シーズンである。こちらもまた目下、終盤戦の戦いの真っただ中にある。すでに多くの受験者には、合否の厳命を下されている。あいにく、不合格通知に無念の涙を流した人も、受験までの努力は、もとより合格者に負けるものではない。確かな努力、必ずしも結果や成果とはなり得ない。人間の営み、とりわけ競争社会、サバイバルゲーム(生き残り、生存競争)における、不条理きわまる宿命である。
 戦う相手が存在する競争場裏ではなくとも人間は、ただ生まれたばかりで、さまざまな努力なしには生きられない。身体を損なわず生命を健康体で保持すること、生活の糧を稼ぎ続けることなど、いやほかにもさまざまに人間は、いっときも努力なしには生きられない。そして、人みな努力の証しは、おおむね日常生活に凝縮される。
 大法螺吹きまがいのことを書き連ねてきた。恥じ入るばかりである。きょう(二月十五日・火曜日)は、わが夫婦の小さな努力の成果の有無を問われる(知る日)である。妻は一月十九日に退院した。それ以降、妻は、わが家でリハビリ生活に明け暮れた。私は、かたわらで介助役を務めた。「大船中央病院(鎌倉市)」の予約時間は、午前九時半である。予約表にはレントゲン写真、そしてこののち診察とある。受験ではないけれど、このときリハビリの成果(合否)が下されるこことなる。小さな努力ではあっても、確かに人間は、努力なしには生きられない。欲得をからめてできれば入賞程度、すなわち手術をされた先生から、「だいぶ、良くなっていますね。頑張りましたね!」くらいの言葉は、おねだりしたいところである。しかし、努力、必ずしも報われない。確かに、知りすぎている、世の中の常(常識、常態)である。

恥ずかしや、無題

 きのう(二月十二日・土曜日)は、住宅地内に新たに開業されている歯科医院に初めて出向いた。しかし、これまでのかかりつけの医院から、鞍替えとなるかの決断は先延ばしにある。とりあえず、近いゆえの利便を優先したのである。歯の痛みは市販の鎮痛剤でかなり和らいだ後の初診だった。そのため、肝心要の痛みの根源の決め手がわからず、ちぐはぐな会話となり、私は診察をてこずらせてしまった。とても申し訳ない気分のつのる思いに打ちひしがれて、帰宅した。こんなことでは次の予約の申し込みは、先生自身から拒否されるかもしれない。わが不徳ゆえにそののち現在まで、私は憂鬱気分に苛まれている。
 昨晩は、痛み止めの服用は止めて就寝した。それでも、痛みはぶり返すことなく、いやかなり和らいでいる。その証しには二度寝にありついて、オマケには夜明けさえをも知らずに寝過ごしてしまった。おのずから、休むつもりでいたけれど、朝御飯の支度を中途にして、階段二段飛びで二階に上がった。そして、パソコンを起ち上げて、こんな文章を書いている。
 結局、恥をさらしただけである。そのため、文章を結んで、妻の待つ朝御飯の支度に駆け降りることとする。表題のつけようはない。

色褪せた「結婚記念日」

 歯の激痛に見舞われて耐えきれず、きのうの文章は頓挫した。まさしく、七転八倒の痛さに取りつかれて、男涙が瞼を濡らし続けていた。きのうは「建国記念日」(二月十一日・金曜日)であり、掛かりつけの「大船の街」の歯医者をはじめ、最寄りの行きつけの開業医院も休診だった。このため仕方なく、妻が貰っていた痛み止めの在庫を手あたりしだい漁り、ようやくいくつか服用した。しかし、大した効果は顕れず、なお悪戦苦闘を強いられていた。最寄りの薬局へ出向いて、新たに市販の鎮痛剤を購入した。箱には「頭痛、生理痛」の表示が記されていた。ズバリ、「歯痛」ではないけれど、効き目さえあればなんでもいい。溺れて藁をも掴む思いで、その薬剤にすがった。ところが、敵面に効果が顕れて、萎えて気分がいくらか収まった。感謝ひとしお、所定の行動にありつけた。
 巡り来た路線バスに乗って、いつものわが買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。パック入りの特上の握り寿司を二折りだけ買って、早々に帰りのバスに乗り、わが家へ着いた。痛み止めは、もちろん対処療法にすぎない。効き目が失せないうちに私は、寿司を平らげた。妻は「パパ、もっとゆっくり食べなさいよ!」。憤懣やるかたない様子、いや憮然とした命令口調である。
 建国記念日は、わが夫婦の結婚記念日である。私はそうでもないけれど、並寿司であろうと寿司は、妻の好物の最上位に位置している。わがささやかな妻への配慮は、色褪せた。だからと言って、妻を詰りはできない。買い物に同行できない妻の虚しさは、十分わが身にも沁みている。痛み止めの効き目のあるうちに、走りに走って、一文を書いた。雪化粧を落とした夜明けがのどかに訪れている。現在の歯の痛みは、ズキズキくらいである。

二月十日、降雪予報

 夜明け前の暗闇にあって、起き出して来るや否や、窓ガラスに掛かる布とレースの二重ねのカーテンを開いた。おおっ、手の甲に雨粒が当たった。すばやく、手を引っ込めた。一基の外灯が照らす、道路に目を凝らした。まだ、雪は降っていない。寒気を表す体感温度も、格別下がってはいない。
 きょう(二月十日・木曜日)は、今週初めあたりから出ている降雪予報にある。降雪予報は、ライフラインをはじめ数々の警戒警報を伴っている。わが身に限ればさしずめ、玄関、門扉、その周辺の道路の雪かきや外出時における、転倒への警戒警報と心している。
 第六波の新型コロナウイルスの感染恐怖のさ中にあって、このところの私は、意識して外出行動を控えている。ところが、降雪予報と日を一にしてきょうには、余儀ない外出予定がある。それは、三回目のワクチン接種日である。もちろんこちらは、降雪予報より一月ほども早く、行政(鎌倉市)から手際よく伝えられている。すなわち、日時、場所(会場)、さまざまな手引書および注意事項、加えて往復の無料タクシー券の同封など一切である。これらのことできょうに限り、一番ありがたく思えるのは、肝心要の接種を差し置いて、タクシー券と言えそうである。本末転倒に思えて、恐縮しきりだけれど、あいにく降雪予報が重なっては、身に沁みて行政の粋な計らいに感謝しきりである。
 せっかくの粋な計らいにあって、乗り降りのときに転げてはみもふたもない。わが指定時間は、午前十一時である。雪の降り出しの時は、自然界のことゆえに知るよしない。だから、ちょっとだけ気になるのは、降雪が指定時間より早ければ、タクシーを呼んで時間どおりに来るかどうかである。ただ、幸いなるかな! 降雪や積雪予報は人為とは異なり、ときには大外れになる場合がある。夜明けの空は雨模様で、いまだ雪模様には見えない。雪はいつ(何時頃)、降り出すのか、昼過ぎなのか、夕方なのか、降ってもみぞれ程度なのか、それとも降らないのか。あす(建国記念日)へ、先延ばしか。氷雨とは言えない雨模様のせいで、ちょっぴり寒気が緩んでいるのは、余儀ない外出には勿怪の幸いである。

ままならない、睡眠生活

 きのうは二度寝にありつけて、逆に寝すぎて慌てふためいて、きょう(二月九日・水曜日)へ繋げるだけの文章を書いた。ところがきょうは二度寝にありつけず、長いあいだ悶々として、寝床で夜明けの訪れを待っていた。それでも待ちきれずに、ヨタヨタと起き出してきた。前者は慌てることにはなったけれど眠れて、まだ幸運だった。ところが後者は、不快すなわち不運ばかりである。それなのに後者は、常態化しながらいっそう深みに嵌りつつある。こんなままならないわが睡眠生活は、もちろん精神にも身体にも良いはずはない。一言で言えば、とことん恨めしいかぎりである。あえて強がりの一つを言えば、二度寝に落ちずに起き出してくれば、執筆の時間だけにはたっぷりと恵まれる。ところが、それに反して精神状態は尋常ならず、文章いや代物さえも書けない。なぜなら文章は、心象風景の表現にすぎない。心象風景は、その時々の精神状態の良し悪しに左右される。おのずから、文章の出来不出来の源となる。つまり、現在のわが精神状態では、文章自体が書けない。
 人間は万物の霊長と崇められている。しかしながら私は、もとよりこの範疇には入れない。ねだって人間にとどまりたければ、人間の屑に仕分けされるであろう。涙をのんで、自認するところである。きのうに続いてきょうもまた、文章とは言えないものを書いた。私は、愚か者である。
 夜明けの朝日は見えず、まだ真っ暗闇である。明日は大雪予報である。そんななかにあって私には、三回目のコロナワクチンの接種予定がある。そのため明日は、文章は沙汰止みになりそうである。いや実際のところは、わが睡眠生活の出来不出来しだいである。脳髄と体の震えが止まらない。脳髄は凡愚、体は寒さのせいである。

頓挫を恐れて……

 「ひぐらしの記」の頓挫期間を顧みた。すると、昨年(令和三年)の十二月十二日に書いて以来頓挫し、今年(令和四年)の二月一日から、ヨロヨロ立ちで書きか始めている。まったくおぼつかない足取りである。この先が思いやられるところである。確かに、文章とは言えない代物ながら、それでもどうにかきのう(二月七日)まで、一週間は続いた。
 ところが今朝は、夜明けて七時近くまで寝過ごした。再び、頓挫の恐怖に見舞われた。そのため、朝の主婦業と朝御飯を駆け足で済まして、パソコンを起ち上げた。もちろん、文章の体はまったくなさない、再度の頓挫を恐れてだけの殴り書きである。もちろん、ひぐらしの記の継続と、言えるものではない。しかし、身勝手ながら、書かないよりはましである。なぜなら、こんな文章であっても書いておけば、明日へ繋がりそうな気にはなる。すなわち、それだけが取り柄の文章である。
 確かに、私は恥をさらけ出している。だけど、恥じ入ることはない。老境のわが身は、生存だけにしがみついている。寒さが身にツンツン沁みる。

一陽来復

 立春が過ぎて、確かに春は来ている。半面、立春が過ぎたばかりなのだから、まだ冬とも言っていいだろう。むしろこのほうが、感覚的にはぴったりする。
 この冬、すなわち令和四年のこの冬は、飛びっきりの寒さに見舞われている。日々、伝えられてくる北の地方や雪国の降雪や積雪模様には、私はそのたびに度肝を抜かされている。心情的には、届かぬ「雪見舞い」に大わらわである。いや、確かに他人事ではなく、私自身日々ブルブルと震えている。しかし、季節は春に向かっている。夜明けは早くなり、目に見えてかつ体感的にも夕暮れは遅くなっている。季節のめぐりはすっかり、日長傾向を極めている。つれて、寒の底は脱しつつあり、「一陽来復」の気分横溢である。それでも私は、茶の間に張り付いている。ところが、窓ガラスを通して見る散歩めぐりの人の数は日に日に増えて、しかものどかな足取りである。すなわち他人は、寒さを蹴散らして春の訪れを楽しんでいる。寒がり屋の私だけは、なおカタツムリ同然のままである。椿の花に飛んでくるメジロも、春を楽しんでいる。
 寝起きの十分間の文章は、形を成さない。それでも書いたかぎり、無題では済まされない。いくぶん、心がウキウキしているから、「一陽来復」でいいだろう。