ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

若きバッテリーが叶えた快挙

 四月十一日(月曜日)、すでに夜が明けて朝日が射している。このところの私は、惰性のご利益を自ら棒に振り、中だるみに甘んじて、文章の頓挫を被っていた。そのせいでこの先は、もはや再始動はありえないと、これまた自ら覚悟と観念を固めていた。そしていまなお、この決意は継続中にある。だからきょうは、わが文章に替えて、二つのメディアの配信ニュースを引用し、佐々木朗希投手の快挙、つれて彼が打ち立てた数々の記録を留め置くものである。もちろんこれは、私がトラキチ(阪神タイガース)に限らず、あまねく野球ファンであるゆえである。まずはこれである。
 【佐々木朗希がマークした異次元記録。最年少完全試合 13者連続三振 1試合19奪三振】(4/10・日曜日、16:38配信 デイリースポーツ)。「ロッテ6-0オリックス」(10日、ZOZOマリンスタジアム)。歴史的な大偉業を成し遂げた。ロッテ・佐々木朗希投手が完全試合を達成した。64年ぶりにプロ野球記録を更新する13者連続奪三振の新記録も樹立。さらに球団新更新、プロ野球タイ記録となる1試合の19奪三振と異次元の快投ショーとなった。まずは連続奪三振記録。初回2死から始まった記録は六回先頭、7番・紅林の打席で中飛を打たれて止まったが、13者連続の歴史的な大偉業となった。さらに1試合の奪三振数としてはロッテでは村田兆治の16の記録もあっさり更新した。九回、最後の打者となった杉本を三振に仕留め、1試合19奪三振。これもプロ野球タイ記録となった。重なるけれど、次にこちらは産経新聞配信ニュースの見出しの引用である。「初完投&初完封の完全試合は史上初! 21世紀初&最年少達成のロッテ・佐々木朗希、通算14試合目も史上最速」。
 これらに、わが付け足しを重ねてみる。バッテリーの佐々木投手は高卒三年目、そして捕手松川選手は、高卒一年目(ルーキー)である。二人の若人が共に成した快挙に度肝を抜かれて、わが両掌のパチパチパチパチは終わらない。愚痴こぼしのわが文章の出番はない。

新聞とテレビ

 物心ついて以来、三度の御飯の次に位置してきた新聞購読を、ついに止めている。止めた理由には二つある。一つは、試しに止めてみても、まったく不都合がなかったからである。逆に言えばさらなる購読継続に、実益やご利益(りやく)を見いだせなかったからである。こんな遠回しの言い方はやめにしてズバリ言えば、年間五万円近くの購読料がもったいなくて、お金の無駄に思えたからである。なぜなら、医療費が嵩むおりに合わせて、一時の試しだったものをやむなく、購読中止と決断したのである。確かに、背に腹は代えられないところがあった。しかし、かなり勇気のいる決断だった。このことにより私は、長年、わが人生に供(とも)してきたメディアの一つを手放したのである。残念無念と同時に、愛惜横溢気分に見舞われていた。
 わが日常生活における新聞購読は、読書習慣のない私にあっては、唯一、似非(えせ)の読書歴を成していたのである。このことでは今なお、わが身勝手な購読中止を詫びたい思いに駆られている。実際には何度か訪れて、再度の購読を勧める人にたいして、ひれ伏したい心境をたずさえて、懇切丁寧に詫びた。
 新聞と同類項にあるメディアの一つテレビは、今なお継続中の位置にある。これまた、私だけであれば止めてもいいけれど、テレビはそうとはいかない。なぜならテレビは、妻との共有物、いや妻の独占物の位置にあるからである。妻は新聞とは違って、テレビがなければ夜・昼ないほどの猫可愛がりようである。確かに、新聞に比べればテレビは、私にとってもいまだに効用をもたらしているところはある。実際のテレビの効用は、テレビニュースにあって、なかんずく映像である。ウクライナにおける戦禍の映像を観ると、人間は愚か者と、知ることができる。一方で、避難民受け入れ状況の映像を観ると、人間は優しさの塊(かたまり)だと、知ることができる。
 もとよりわが事情、とりわけなさけない事情ではあるけれど、新聞は「百聞は一見に如かず」という成句、すなわち映像に負けたのである。もっと具体的には、記事のまどろっこしさが映像の直観に負けたのである。掲示板上にあって、このところのわが文章は、相次ぐ写真のご投稿に大負けしている。新聞とテレビ同様に、映像(写真)には勝てない証しである。いや、こちらは、わが文章の貧弱さゆえんである。引き潮の潮時、大波状態にある。

桜、散り際の戯言(ざれごと)

 四月五日(火曜日)、ようやく雨は止んで、夜明けの空には、まだらに朝日が光っている。きのうの真冬並みを超える寒気は、朝日(日光)の恩恵を得て緩んでいる。どうやら、菜種梅雨は逃れたようだ。できればきょうは、後れてきた春の陽光、さらには欲張って散り際の桜日和にありつきたいものである。
 ところが、桜の恩恵半煮えの中にあって、このところの日本列島は、所かまわず地震の頻発に見舞われている。世界にあっては異国・ウクライナにあって、隣国ロシアの侵攻いまだ止まず、西側諸国を交えて一触即発の戦争状態にある。そのうえ、新型コロナウイルスの感染状態もなお続いている。
 現下の日本社会にあっても、恐れるものは地震だけではない。寝起きにあって私は、心中にこんなことを浮かべていた。それは、こうである。わが生存中にあって、恐れるコロナの感染打ち止めはあるのであろうか。現況をかんがみれば、老婆心をたずさえた杞憂とは言えそうにない。わが恐れる感懐である。ところが、これよりはるかに高確度で、わが命をもぎ取られる恐怖は、日を替えていや時々刻々に頻発する地震である。もとより、これにはまったく抵抗できない。
 コロナに対しては過ぎた二月に、私は三度目のワクチンを打ち終えている。ワクチン効果の確かな証しはないけれど、それでも一安心の心境にはある。そうであればやはり、最も恐れるのは地震である。地震に伍して恐れるのは、のっぴきならない病の発症である。しかし、これにもわが意志では抵抗できず、さらに医者とてお手上げ状態となり、つまるところあてにならない神頼み、さらにはなおあてにならない運否天賦(うんぷてんぷ)まかせとなる。結局のところ矛盾するようだけれど、これらの怖さを免れて、それらに先んじ命に見切りをつけたい思い山々である。
 この程度の文章は、虚心坦懐すなわち淡々と書きたいものである。ところが、心中の意馬心猿(いばしんえん)に跋扈(ばっこ)されて、苦渋に満ちて書いている。わが人生のほぼ四半期(二十五年)を費やしても、文章はいまなおヨタヨタヨチヨチである。いまさら嘆いても、詮無いことではある。それでも、わが脳髄の育ち不足を悔いている。
 光っていた朝日は、煌煌と輝いている。わが人生において、朝日だけはまったくの無害である。いや、最大かつ最良のご利益(りやく)を賜っている。常々、「日光、日光!」と呪文(じゅもん)を唱えるのは、わが無償の恩返しである。

ふるさと便・定期便

 四月四日(月曜日)、夜明けは小嵐と雨降りである。寝起きのわが身体は、ブルブル震えている。身体の震えは、地震発生に慄いてではなく、ずばり季節狂いの寒さのせいである。このところあまねく日本列島は、寒の戻りを筆頭に、花曇り、花冷え、花嵐、桜雨、そしてしんがりには「菜種梅雨」などがひかえて、この時期特有の憎たらしく季節用語のオンパレードにある。もちろん地方・地域によって、これらの現象は時期や感覚を異にする。そのため、おおむねという、言葉を付加せざるを得ないところはある。どれもこれもがせっかくの桜の花をはじめとする、多くの花咲く好季節にあって、歓迎されようのない僻み根性丸出しのお邪魔虫たちである。
 確かに、菜種梅雨まで加えて、目くじらを立てることには、かなりの語弊すなわち言葉間違いのところはある。しかしながら、あえて菜種梅雨まで持ち出ししたくなるような、このところの雨の日の多さである。そのためこのところの私は、きわめて憂鬱気分に見舞われている。知りすぎている言葉だけれど、憎さ百倍の怨念をたずさえて、手元の電子辞書を開いた。
 【菜種梅雨】:三月下旬から四月にかけて、菜の花が咲く頃に降り続く長雨。
 幸いにもいまだ、本物の菜種梅雨には遭遇していない。ところが、このところのわが気分は、菜種梅雨がもたらす憂鬱気分をはるかに超えて、日々憂鬱気分まみれにある。その元凶は、わがファンとする阪神タイガースである。実際には、開幕戦より続いている勝ち星なしの九連敗にある。恐ろしいことにこの憂鬱気分は、タイガースの連敗打ち止めまで続くこととなる。そして、今なお打ち止めの目途立たずにある。
 こんな憂鬱気分晴らしのうってつけには、望郷と人の優しさにしがみつくにかぎる。亡きフクミ義姉の優しさを受け継ぐ姪っ子は、すでに手作りの高菜漬けを段ボールいっぱい、送ってくれた。続いて宅配されてきそうなのは、持ち山のタケノコ掘りに勤しむ、甥っ子からのふるさと便・タケノコである。こちらは亡きわが長姉の優しさを引き継ぐ、ふるさと便である。もちろん、双方共に指を咥えてあてにはしていない。しかし、あてにしていいほどに毎年宅配される「ふるさと便・定期便」である。
 書き殴りにこんなことを書いて私は、今朝の憂鬱気分を癒している。ふるさと便は、確かに憂鬱気分の癒し効果覿面である。夜明けの雨は小嵐まじりに、まるで菜種梅雨の走りの如く、びしゃびしゃと音を立てて、降り続いている。

散り際の桜

 四月三日(日曜日)、夜来の花嵐、桜雨は遠のいて、花曇りの夜明けを迎えている。さしたる桜見物をすることなく季節は、花びらの散り際へ差しかかる。願い叶えば私は、桜吹雪や憎たらしい桜雨に出遭うことなく、綿雲みたいにふあふあと舞う光景を目にして、ことしの桜シーズンを終えたいものだ。
 桜の季節にあって、私が最も嫌な気分になるのは、この時、この光景である。すなわち、夜間の嵐と雨に叩き落され、夜明けの道路上に見る花びらの惨たらしい姿である。いっとき謳歌を極めた花びらは、濡れた絨毯を敷き詰めた如くに整然と、いや辺りかまわず、汚らしくべたついている。これらの光景に出遭うと私は、かぎりない切なさと、遣る瀬無さに見舞われる。もちろん、無性に腹立ちさも湧いてくる。
 現役時代の通勤時にあっては、いやおうなくそんな場面に遭遇した。所はJR横須賀線・北鎌倉駅へ向かう途中の、「明月院前通り」あたりであった。名刹と言われる禅寺・明月院は、寂びた山あいに位置している。境内を囲む山には遠目に、ぽつぽつと山桜が緑にいろどりを添えている。加えて、せせらぎと道路を分ける道路端には、数本の手植えの桜木が立っている。里桜と呼ぶほどの群れはないけれど、施行者は観光客の目の保養のために手植えしたのであろう。いや、明月院めぐりという、観光客を呼び込むための見え透いたお膳立てなのであろう。もとより明月院は桜すがりではなく、別称の「あじさい寺」をほしいままにして、アジサイを観光客おびき寄せのパンダ役にしているところである。
 小走りで駅へ向かう途中に、濡れた花びらがべたつく明月院前通りの道路を踏む私は、できるだけそれらを踏んづけないようにと、心したのである。それはしがない私ができる、ごく小さな「武士の情け」の真似事だった。桜散る季節に甦る、わが切ない哀情と言えるものである。いやそれには、一年先へ時を移す、桜の花にたいする確かなわが愛情がともなっていたのである。
 咲いて散る桜は、生まれて逝く、人の命の写し絵でもある。だから桜の花には、他人行儀ではない、情感がムクムクと湧くのである。しかし、それらの多くは悲哀である。散り際の悲哀は、なかでも格別である。

文章に「適当な言葉探し」

 私は、掲示板上に行替えなく、長い文章を書いている。しかも硬い文章で、さらにはまったく面白味に欠ける。高校時代の最良の友人は、
「しずよし君の文章は、目が疲れるから、悪いけどもう読んでない。御免な!」
「そうだよね。読みづらいから、こっちこそ、御免!」
 もとより、この会話を最後っ屁にして、友情が途切れたわけではない。青春時代に築いた友情は、いっそう深くかつ強まるこそすれ、こんな一片の会話で途切れるほどに、共に薄情ではない。しかしながら友人は、ぺこぺこ謝りながら、読者の位置から離れて行った。もとより、ペコペコではわが意に添わず、ひれ伏して謝りたいのは、危うく友情を断ちそうになった張本人の私である。だから、確かな理由があって読者から離れる友人に追い打ちをかけて、「『ひぐらしの記』を読んでみて!」というほどの蛮勇は私にはなく、また阿房や野暮でもない。
 もとよりわが文章は、自己都合の生涯学習の脇役にすぎない。主役は語彙の学習である。いや実際には、直近も含めてこれまで数えきれないほど繰り返し記してきた、語彙の忘却逃れと復習である。それゆえ、心中に浮かぶままの漢字と成句の多用を試みている。おのずから、ぎこちない文章へと成り下がり、自認せざるを得ないものである。
 さて閑話休題、いっとき勢いを殺いでいた新型コロナウイルスの感染状況はこうである。【全国で4万9266人の新規感染確認 前週金曜を約1800人上回る】(4/2・土曜日、 1:26配信 朝日新聞デジタル)。「新型コロナウイルスの国内感染者は1日、午後8時現在で新たに4万9266人が確認された。前週の同じ曜日(3月25日)よりも約1800人多かった。死者は78人だった。東京都は全国最多の7982人で、前週の金曜日から693人増えた。1日までの1週間平均は7628・9人と前週(6275・4人)の121・6%で、4日連続で100%を超えた。年代別にみると、最多は20代の1806人で、30代の1410人、40代の1345人、10歳未満の1151人、10代の1029人と続いた」。
 数値など覚えきれないニュースを引用したけれど、わが真意は以下のたったこれだけである。すなわち、「鳴りを潜める」の反対語は、「ぶり返し」かな? という、適当な言葉探しであった。つまり文章は、文脈に合致する「言葉探し」である。きょう・四月二日(土曜日)の文章は、このことを書くために配信ニュースを引用したり、無駄に長々と書いたにすぎない。確かに自己都合の代物であり、人様にはまったく面白味なく、目が疲れるだけの文章である。義理読みにすがっているけれど、なんだか私は、みすぼらしい人間である。わが嘆きなどつゆ知らず、夜明けののどかな朝日は、わが切ない心情を癒している。

出会いの月・四月を迎えて、感慨と慨嘆

 四月一日(金曜日)、そぼ降る雨の夜明け前にある。なぜ? 歳月はこうも速くめぐるのか! 別れの月・三月は、またたく間に過ぎた。きょうを初日にして、出会いの月・四月を迎えている。学び舎の式典になぞらえれば「卒業式」を終えて、今週あたりを先途にして「入学式」が営まれる。社会人にあっては、人事異動による「別れの儀式」を終えて、きょうあたりから新たな勤務先での、出会いが始まることとなる。この状況を一つの言葉を用いれば、「赴任」が浮かんでくる。別れの月と出会いの月にからむ人情と心情にたいして、これまた一語をあてれば、ずばり「悲喜交々」が浮かんでくる。これらのことでは一年の中で三月と四月は、文字どおり最も悲しみや喜びの感情があふれ出る、人間心理のありのままの露出の月と言えそうである。これすなわち、四月を迎えてのわが「感慨」である。いや、歳月の速めぐり(感)に囚われている私の場合は、言葉を変えて「慨嘆」が適当である。
 このところの日本国民は、諸物価の値上げ攻勢の渦の中にある。もちろん、私もその渦中にある。しかしながら私の場合は、それを超えた嘆きにとりつかれている。その元凶は、先に記した歳月の速めぐり(感)である。確かに私は、諸物価の値上げを超えて、それに音(ね)をあげている。時あたかも好季節にあって、老いの身の悲しさ、これに尽きるところがある。じたばたしてもどうにもならないことに、「七転八倒」さながらに心を悩ますのは、わが生来の性癖、いやズバリ悪癖である。「バカは死ななきゃ治らない」。わが身に照らし、限りなく切ない成句である。
 出会いの月・四月の船出は、夜来の雨の夜明けである。桜雨、これまた切ない。コロナ、戦雲、あるいは地震、人間は生きることの難しさに耐えている。わが身のみならずあまねく人間に、私は四月の月の無事を願うところである。

起き立の自省文

 知りすぎている同音異義の言葉の辞書調べを試みた。それらの言葉は、「特長と特徴」である。特長:特にすぐれたところ。特徴:他と異なって特別に目立つしるし。なぜいまさら、だれもが知りすぎている二つの言葉の辞書調べをしたかと言えば、こう書こうとしたからである。「走り書きの特徴は、文脈の乱れを生じることである。書き殴りの特徴は、だらだらと長い文になることである。」
 あらためてご常連様各位に教えを乞うたり、指摘を被ったりするまでもなく、わが日々の実体験ゆえに、まったく間違いないところである。どちらも文章を綴る私にとっては、甲乙なしに恥ずべきことである。しかしながらあえて甲乙をつければ、文脈が乱れがちになる走り書きが、イの一番に恥ずべきことである。「」(かっこ閉じ)の文章には、もとより「特長」を用いることはできない。なぜなら、文章自体が誤りになるからである。一方、「特徴」を用いれば、必ずしも誤りではなく、いや案外、適語と言えそうである。それでも、わが本意を伝えるにはまだすっきりしないところがある。それゆえに私は、脳裏に代替語を浮かべてみた。しかし、数々とかさまざまとか、とは書けない。なぜなら浮かんだのは、やっとこさたった一つにすぎないからである。
 実際の言葉は、「悪因」である。もちろん、この言葉がぴったしカンカンではなく、煮え切らない半煮え気分である。言うなれば、わが語彙力の限界の証しでもある。「特徴」に変えて「悪因」を用いて、先の文章の再掲を試みてみる。「走り書きの悪因は、文脈の乱れを生じることである。書き殴りの悪因は、だらだらと長い文になることである。」わが生涯学習は、ほとほと切ない。いや、はた迷惑と、言えそうである。
 わが文章の悪癖は、硬く、かつまったく面白味に欠けることである。なさけないけれどなんだかこの文章は、わが本意に適って、ぴったしカンカンである。わが最も嫌う文脈の乱れもなさそうである。たった一行の短文にさえにも乱れるようでは、もとから文章など書かないほうがましである。
 起き立てがしらに、自省の文章を書いてしまった。もちろん、走り書き文である。だから、文脈の乱れが気になるところである。憂いの気分癒しに春霞のどかにたなびく、夜明けの大空をしばし眺めている。しかし、憂いの気分は癒されるどころか、いっそう深まるばかりである。文章を綴ることは、脳足りんの私にはもとより、千鳥足をともなう重荷である。

天賦、人間の情感

 三月三十日(水曜日)、夜間にあって桜雨が降ったのであろうか。夜明けにあって、道路が濡れている。花に小嵐は遠のいて、のどかな花日和が訪れている。山の法面に一本、染井吉野がほんのりと咲いていたけれど、惜しむらくはおおかた花の姿を失くし散り急いでいる。手植えの染井吉野の上方、すなわち山の天辺あたりには、時あたかも山育ちの山桜がわが世の春を謳っている。一本の染井吉野は、防災用にコンクリート壁の埋め込みがあったおり工事人にたいし、私がたっての願いですがったものである。人の手がなした桜木と、山育ちの桜木の生命力の違いを、まざまざと見せつけられたようでもある。だから余計、染井吉野の散り際には、なおいっそう哀惜感極まりないものがある。古来、桜の花はよく、人間の命になぞらえてきた。いや、人間の命が、桜の花になぞらえてきた。「花ののちは短りき」。だから、人の命の裏返しでもある。
 きのうの文章において私は、桜の花にまつわる言葉を説明無用に羅列した。もちろん、単なる羅列ではなく、私はそれぞれに言葉を発して、心中にはその意味をめぐらした。なぜならそれは、生涯学習と銘打っているための、常なるわが独習のならいでもある。するとそれぞれの言葉は、陳腐なく新味の情感や情趣を恵んでくれた。もちろん興趣ばかりではなく、一段と悲哀のつのる情感をも醸しだした。確かにそれらは、古来、人間が情感を織りなし、それぞれの情感で紡ぎ出してきた言葉の神髄の証しを成していた。それゆえに羅列した言葉だけに尽きるものではなく、もちろんほかにも無数の言葉が存在する。
 結局、桜の花にたしてのみならず、人間の情感は、悲喜交々の感情や人情を織りなして、人間だけに与えられた崇高の宝物である。このため、人間固有の情感を失念しては、損々いや大損である。もちろん、散り急ぐ桜の花にたいしても、人間の切ない情感が渦巻いている。まして、花を蹴散らす桜吹雪に出遭っては、限りない情感が混在する。ただ単に腹立たしさだけではない、哀れみ、愛惜、切なさ入り乱れての情感である。もちろん、泣きべそをかきたくなる情感もなおさらにある。きのうの言葉遊びは、無駄ではなかった。人の命、いや、わが命を顧みる手近な捷径と言えるものだった。案外、桜の花は、わが命をいとおしむ教材なのかもしれない。
 書き殴りの結末には、虚しさがともなっている。満開を極めた桜は、いよいよ散り急ぎに向かっている。ただ人の命とは違って、桜の花は一年間の我慢で再び甦る。確かに、人間の命も、後世に託すところはある。しかし、桜の花には似ず、綺麗ごとすぎて潔さはまったくない。散り急ぐ桜の花にあって、つれない桜吹雪は見栄えが良いだけで、まったく御免である。散り際を愛でて、「綿桜」という、咄嗟のわが造語を浮かべている。桜の花にたいする、現在のわが情感である。

日本列島、花だより

 きのうの寝起きにあっては、無理やり浮かべたネタをだらだらと、長く書いた。きょう(三月二十八日・月曜日)の寝起きにあっては、目覚めて二度寝にありつけず、皮肉にも現在、脳髄は休眠状態にある。もちろんこれではネタは浮かばず、おのずから短い文章さえお手上げ状態にある。こんなままならない日常を繰り返しながら、幸か不幸かわが人生は、やがていやすぐさま閉じる。
 季節のめぐりは現在、絶好の真っただ中にある。きのうのテレビニュースは、東京の桜が「満開になった」と、伝えていた。多分、鎌倉の桜だよりも東京に並ぶはずである。私の場合は「花より団子」である。それでも、それにありつける残りの回数は、すでにカウントダウンに入っている。しかもその回数は、両掌を広げるまでもなく、片手の掌の指だけで十分である。もちろん妻とて、もはや同類項にある。
「パパ。あした、近くの花を見に行きたいね。行きましょうよ。パパは、みたくないの?」
「行ってもいいけど、行けるの?」
「わたし、行きたいのよ!」
「そうか、そんなら、連れて行くよ。おれも、もう何度しか見れないね!」
 避けて通れない切ない会話である。介助のつらさがわが身に沁みる。いや、つらさと言ったら身も蓋もない。だから、つらさを悲しさに置き換えてみる。しかし、つらさと悲しさは消えない。なぜなら、現在の介助は、自分自身のちにはだれかに介助されるだろうという、つらさと悲しさを見据えている。すなわち、現在の妻への介助は、のちに私自身が介助されるおりの予行練習を兼ねてもいる。そんなこんなで介助役の私は、妻の一挙一動にわが全神経を凝らしている。
 きのうに続いてきょうまた、どうでもいいことを書いた。きょうは、ここで結び文とする。きのうよりちょっぴりましなのは、意識して短い文で留め置くことである。妻のヨタヨタ足を脅かしそうにないのどかな花日和が、夜明けの空にあらわれている。朝日すなわち、「日光、日光!」と唱えて、私にはありがたさの極みにある。