ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

翳りゆく過去

 たぶん、地球は壊れず永久、すなわち未来永劫にわたり存在する。そして、「時」は必ずめぐり続ける。人の命は、生涯という限りの「時」を過ぎれば必ず絶え尽きる。こんなことを心中にめぐらして、起き出している(5:47)。
 きょうの地球は日本社会に、令和7年(2025年)の「建国記念日」と、印している。今さらに、遠い過去を振り返る。建国記念日の施行は、昭和42年(1967年)2月11日である。このとき、日本の国のあちこちには、様々な祝典行事が催された。おのずからこの日は、国民祝祭日となった。翌年、昭和43年(1968年)2月11日(2度目の建国記念日)にあって、新郎・私(27歳)と新婦・妻(24歳)は、晴れて華燭の典を挙げた。こちらは祝典と言うには悍(おぞ)ましく、挙式の場所は今なお東京都市ヶ谷に存在する「アルカディア市ヶ谷」(当時は私学会館)だった。以降、めぐりめぐってきょうは、老いさらばえた二人の、何度目かの「結婚記念日」にある。度数を数えるのも物憂げで、数えることはしない。
 ところがきょうの二人の行動は、老いの身の証しを表して、しかたなく仲睦まじく一致している。私の場合は、補聴器の定期のケアと、メガネの買い替え行動である。一方、妻の場合は、メガネの買い替えである。共に、高額の散財が予想されている。訪れる店舗は、わが家からはるかに遠い「眼鏡市場」(神奈川県横須賀市内に存在する)である。なぜ、どうしてここになったかと言えば、横須賀市内に住む娘が、私に補聴器をつけさせるため強引にこの店に連れ出したからである。このときの私は、娘が仕掛けた罠に落ちたのである。しかし、これ以降の私は、補聴器に満足し快楽の日常生活にありつている。補聴器(45万円)を買ってくれることはなかったから、似非(えせ)の親孝行を仕掛けられたのであろう。娘の誕生祝いは、翌年(昭和44年・1969年)の1月30日だった。こんな私的なことは、この先を書くには耐えられない。だから、ここで書き止めである。現在の祝典が欲しいけれどそれは無く、翳(かげ)りゆく過去の物語である。
 夜明けの空は、遠出には好日和である。

早とちりかな? 「春が来た」

 2月10日(月曜日)。文章を書くには程よい時刻の起き出しにある(5:18)。だから、執筆時間に切迫することなく、のんびりとキーを叩き始めている。さらには、寝起きに怯えていた寒気は緩んでいる。いまだ朝日の見えない夜明け前だけれど、確かな足取りで夜明けは早くなり始めている。長く続いていた雪国地方の大雪も、ようやくきのうあたりから細り始めている。確かに、春は近くに来ている。
 先導役を担ってわが庭中には、フキノトウが萌え出している。一本の梅の木には蕾が膨らみ、まもなく綻びそうにある。ふるさとの原っぱや土手には、スギナやツクシンボ、ノビルなどが芽生え始めていよう。自然界はこうして冬衣(ふゆごろも)を捨て去り、だんだんと春の装いに彩られ深めてゆく。私同様ネタに飢えるメディアは、早々と桜の開花予報に現(うつつ)を抜かし始めている。何がなんでも、早とちりではないだろうか? と、私は要らぬ気を揉むところである。
 人間社会は、自然界と人間界の営みの中でめぐっている。自然界の大雪の後には春爛漫を願いたいけれど、地震をはじめ天変地異の鳴動は、一寸先は闇の中にある。一方、人間界は一寸先どころか、時々刻々に現れる災難に怯えている。人間界には自然界のように、春の訪れを明確に楽しむ兆しは何もない。目下の人間社会は、あらゆる学び舎における、入試の真っ只中にある。結果は合否に分かれて、笑う春もあれば泣く春もある。
 石破総理は、アメリカ・トランプ大統領との会談を無事に終えて、ホッと胸を撫でおろされている。しかし、この先が万事、好都合にめぐるとは言えない。なぜなら人間界には、自然界とは異なり「かけひき」という人為の曲者(くせもの)が存在する。すなわち、「ばかしあい」なら、善良な石破総理は、狡猾(こうかつ)なトランプ大統領に敗けそうである。
 こんなことを書いているうちに、夜明けが訪れている。もはや、彼方の雪国の空を気を懸けることはしなくて済みそうである。それでも、ちょっぴり気に懸かるのは、雪崩と雪解け水のしわざである。

嗜む、嗜好

 2月9日(日曜日)。自ら決めている、起き出し時刻の定時(5時)ははるかに過ぎて、大慌てで起き出している(6:29)。だから、心が急いている。しかしながらきょうの場合は、自業自得と言って私自身に、恨みつらみを言うつもりを無い。いやそれどころか、自分自身を褒めてやりたい気分が横溢している。まったく久しぶりに二度寝にありついて、さらには熟睡に恵まれたからである。熟睡がこんなにも心地良いとは、これまたまったく久しぶりの実感である。
 老齢のわが身は、ただ眠ることさえにも困難を極めている。こんなことではいち早く、永遠の眠りも悪くないなあーと思う、このところの眠りの浅さだった。熟睡に恵まれたのはたぶん、きのう、卓球クラブの練習へ出向いご褒美であろう。きょうはこのことだけを書いて、結び文にしても構わないほどに現在の私は、熟睡がもたらした快感に酔っている。しかしながらそれだけでは、やはり味気ないところもある。
 きのうは「酒」をテーマーにして、淡々と書かれた「味のある」文章に遭遇した。ゆえに私には、羨ましさとありがたさのダブルの気分が噴出した。いつものわが嘆き文を省みて、ブログにはこんな文章を書きたいと思ったからである。掲示板上における書き手(投稿)は、たまご様だった。同時に私は、酒にまつわる、嗜(たしな)むという、ことばの臨場感を賜った。私の場合、「嗜む」とその熟語を為す「嗜好」(しこう)共に、もとより死語として無縁を続けている。
 私はチョコレートを筆頭にして駄菓子あれこれ、無類の甘党である。甘党には、嗜むや嗜好ということばは様にならない。ただ、ダボハゼのごとく「甘い餌」として食いつくだけにすぎない。嗜好を鑑みれば、わが人生においてはたったの一度さえ喫煙の体験はない。さらに飲用にあっては水道水さえあれば、酒(ビールなどのアルコール類)などまったく無くても構わない。いや、医療用のアルコール類だけは除くべきであろう。なぜなら、今なおわが家の土間の下駄箱の上には、新型コロナ騒動以降、市販の消毒剤が鎮座している。
 ビールはわがファンとする阪神タイガースが、宿敵読売ジャイアンツに勝ったおりだけは飲むように、買い置きしていたことがある。ところが、それも一時の戯れにすぎず、舌が嫌って現在は、パタリと沙汰止みになっている。しかし、正月くらいはビールを飲みたいなあーと要らぬ欲望が湧いて、昨年の年の瀬の正月食品の買い漁りのおり、ノンアルコールならぬ、正真正銘の酒(ビール)を3個買った。ところが、未だに一個だけ残っていた。ゆえに、この文章を書いているのに合わせて急いで階下へ下り持って来た。そして、手に持つアルミ缶のラベルを丹念に眺めている。
 ラベルの表示はこうである。アルミ缶の全体サイズは超小型、手にしている片手・手の平の半分を覆う程度である。英字表示だけれどカタカナで書けば、スーパードライ、アサヒとある。漢字では生、酒とある。アルミ缶を回しながら容量を調べてみると、これかな? アルミ缶の最下部にごく小さく、純アルコール量:54g(135㎖当り)とある。すると、手にしているアルミ缶は、135㎖入りの生ビールであろうか? 酒を嗜好しない私は、こんな表示にさえしどろもどろである。
 きょうの文章は、アホの私の究極の書き殴りである。ただ一つの真意は、たまご様の絶妙の文章に憧れているところである。大慌てで書いたけれど書き殴りに救われて、未だ7:26である。もっと、丁寧に書くべきだったかなと、寝起きの好気分は曇りがちになっている。ただ、夜明けの大空は、わが気分にお構いなく、かぎりなく青い日本晴れである。大雪情報が細り、日本列島には一足飛びに春が来たのかもしれない。

きょうは休むべきだったのかもしれない

 2月8日(土曜日)。大雪予報の切れにある今週末が訪れている。わが気象音痴の当てずっぽうにすぎない。大雪も峠を越えて雪国は、来週あたりから一気に春の装いになるであろう。なぜなら季節は、長く後戻りをすることなく、先々へめぐって行く倣(なら)いにある。現在のデジタル時刻は、5:28と刻んでいる。鎌倉地方には雪景色は見えないけれど、それでも寝起きのわが身体は、予報に違わず寒気にブルブル震えている。しかしながらこの寒気も、もうしばらくの我慢で済みそうである。ちょっとだけだが私は、それに耐え得る気力は残している。
 もとより、寝ても覚めてもなど無理だけれど、文章書きをみずからに強いている私は、常に心中に語彙を浮かべている。もとよりそれは血気盛んに前向きにではなく、至って後ろ向きに語彙の忘却逃れのためにすぎない。きょうの寝起きにあっての私は、「気の毒」ということばの字面(じづら)の摩訶不思議さを浮かべていた。もっと端的には、「毒」という語句に惑わされていた。
 きのうは「ずる休み」の文章を書いた。ところがきょうは、こんなことを書くようでは本格的に休むべきだったのかもしれない。きょうの文章は、このことに起因している。私は突然の道路の陥没事故に遭われた人に対して、甚(いた)く「気の毒」におぼえている。机上の電子辞書を開いた。以下は「気の毒」にかかわる電子辞書の丸写しである。手先不器用の私には、つくづく厄介な作業である。
 【「気の毒」(心の毒になることの意)。①自分が難儀な目に会って心をいため苦しむこと。困ること。きまりがわるいこと。②他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情。③相手に迷惑をかけてすまなく思うこと。また、感謝やお礼の意を表すのにも使う】。
 きょうの私には、どれもが当てはまる「気の毒」である。朝焼けの夜明けがのどかに訪れている。見えようない北の空(埼玉県八潮市)へ思いを馳せて、「気の毒に思う」心情が弥増(いやま)している。こんな毒にかぎれば、服(の)んでいいのかもしれない。

ずる休み

 2月7日(金曜日)。寒気を恐れて起き出せず、スマホ片手に「きようは書けません」と書いている。寒気のせいにはできず、気分も萎えている。
 きのう文章では文意に沿ってわざと、『北国の春』をもじり『雪国の春』と書いた。だから、訂正せずにほったらかしにした。だったら後の「北の空」は「雪国の空」にすべきだった。スッテンコロンをスッテンドロンとも書いた。これも意識して書いたものであり、自分的には納得できるものである。しかし、きのうの文章は認知症を疑われるものだった。独り善がりの文章を恥じて、きようはパソコンへ向かえない。現在、デジタル時刻は4時30分。二度寝ができそうである。

汚れてくれるな! 「雪景色」

 2月6日(木曜日)。恐れていた雪は降っていないけれど、この冬で最も寒気の鋭い夜明け前にある(5:15)。だからと言って私は、多雪地方や地帯の人たちの雪降りの難渋を慮(おもんぱか)れば、寒気にたいし恨みつらみや泣き言は言えない。熊本県に生まれ、成人になると埼玉県や東京都で一時住み、のちに多くは神奈川県に住んでいる。もちろんこれらの県は、日本列島にあっては多雪地方から外れている。ゆえにこれまでの私は、雪の怖さあるいは魅力(楽しさ)は未体験のままである。だからもとより私は、自然界の雪が人間界にもたらす、災害あるいは有益など、今なお十分に知る由(よし)ない。
 確かに私は雪の恩恵にすがり、これまで二度ほどスキー場へ出向いて、スキーいや「雪滑り」を試みたことがある。ところが、滑るたびにスッケンドロンと転び、(止めた、もう懲り懲り!)と、スキーの楽しさは未体験である。ようやく、雪降りや雪の日の楽しさは、生誕地熊本における子ども時代にのみ限られるだけである。すなわち、当時の雪の日によみがえる思い出は、雪ダルマづくり、隣近所の遊び仲間たちとの雪合戦、さらには新雪をドンブリに掬(すく)って来ての、炬燵(こたつ)に入っての砂糖まぶしの美味さである。おとなになり、そして都会に住むようになるとこれらの楽しみはなくなり、ゆいいつ雪降りや雪の日の恩恵は、雪景色の眺めだけになった。半面、これまでの私は、雪害をこうむることなく過ぎて来た。
 悪さだけをする地震、雷、竜巻などは別にして、雨や風は人間界に災害をもたらすばかりではなく、人間のほか動植物にも有益をもたらすものがある。卑近なところでは、水力および風力によるエネルギー(発電)の恩恵がある。天水は土壌を潤し、人間ほか動植物のエネルギー源を成している。翻って雪の有益には、どんなものがあるのであろうか。すると、わが心中に浮かぶのは、先ほどのスキー(場)にまつわること、雪解け水の潤し、雪景色のロマンくらいしかない。
 ところが、このところのテレビが映し出す多雪地方や地帯における大雪状景は、わが思いを木っ端みじんに壊している。このところ否応なく観ている、多雪地方のつらい映像である。だから私は、こぶし咲く『雪国の春』を声高らかに歌う日の訪れを待ちわびている。日本晴れの夜明けを、喜んでいいのであろうか。私は、はるか彼方の北の空を案じて浮かべている。

わが身勝手な「快感」

 2月5日(水曜日)、デジタル時刻は5:00。カーテンと窓ガラスを開いて確かめたけれど、雨も雪も降っていない。しかし寒気が酷く、わが身体は震えて気分も萎えている。きのうの気象予報士によればきょうは、日本列島のあちこち、主に多雪地方や地帯にあっては、災害級ともあるいは警報級とも言われている大雪予報が出ている。このところはほぼ毎日、テレビ映像では人々の雪掻きの苦難ぶりを観る羽目にある。もはや私は、雪景色にロマン心を抱くことはできない。このことを鑑みれば、わが心身を見舞う寒気にへこたれてはおれない。むやみに同情心は憚(はばか)れるものの痛ましくて、なすすべなく気の毒に思うばかりである。気の毒という心理状態を一つにするものには、埼玉県八潮市における道路の陥没事故にまつわる救出行動、ほか様々の作業光景がある。私はやるせなく無為に映像を観ているだけだが、ただ一つ、どちらにもひたすら無事を祈る気持ちが充満している。
 こんなおり、暢気(のんき)なことを書いていいだろうかと自問し、気を揉むものがある。しかしながらわが身勝手にも、気分直しに書き留めたいものがある。きのう、歯医者から帰り茶の間のソファに背もたれていると、山から二羽のメジロが寒椿の花を目がけて飛んで来た。すぐに、小枝を揺らし花びらの蜜を吸い始めた。「風、春一番」を待たず、例年の春の訪れを真っ先に告げるわが心の和む光景だった。
 きのうの私は、予告どおりに予約済の歯医者通いをした。診療椅子が倒されて寝そべると、間を置かず、出来立てほやほやの「差し歯」がスムースに差し込まれた。倒されていた診療椅子は元に復し、主治医は遠のいて、お顔馴染みの若い女性の歯科衛生は、わが顔面の前に手鏡が掲げられた。前歯の欠落部位は、見事に処置されていた。すぐさま、私は快感をおぼええた。書き添えたいと思っていたことは、これだけのことである。
 きょうのわが行動予定には、これまた予約済みの妻の病院(大船中央病院・鎌倉市)通いにおける引率同行がある。もちろんこちらは、快感にありつけるものではない。人生の終盤を生きる私の場合、快感に浸れる出来事など、まったく稀である。ところがきのうは、ごく小さいとは言え、胸の透く二つの快感に遭遇したのである。だから、書かずにはおれないものだった。まだ、夜明けの明かりは見えないけれど、彼方の北の空(多雪地方と八潮市)に向かって、無事安寧を祈るところである(6:00)。

憂える日本および世界の世相

 「立春」明けて2月4日(月曜日)。きょうの私には歯医者通いの予定がある。ところがいつもとは違ってきょうは、いそいそとするところがある。それはことしの1月7日から始まったこのたびの、歯医者通いの最終日になるからである。加えてさらに嬉々とするところは、欠落していた前歯の一部に型を取っていた差し歯がきょう、文字どおり差し込まれるからである。たったこれだけのことにすぎないけれど、私は大きな喜びに浸っている。現在、デジタル時刻は5:42と刻んでいる。
 きょうは、この喜びだけで文章を閉じれば万々歳である。しかしながらそうとはいかず、起き立ての心中はやはり究極のマイナス思考に囚われている。老い先わずかの私は、その証しにカウントダウンの後半へ差しかかっている。それなのにこのところの私は、日本の世相および世界の世相、共に憂えている。日本の国で言えば、今週における災害級の大雪予報、あるいは南海トラフト(地震)など、自然界のもたらす恐怖にはひたすら耐えるより仕方がない。ところが、耐えようなく恐怖に晒されているのは、人間界の織り成す大小さまざまのこれらのことである。もちろん、強弱のつけようはない。だから、咄嗟に心中に浮かんでいる事象をランダムに記してみる。
 最も身近なところからと言いたいところだけど、もちろんその区別は不要である。すなわち、このところの物価高、日本社会に根づくあらゆる格差、なかんずく生活上の余儀ない貧富の差、少子高齢化にともなう日本人人口の減少、逆にそれを隠れ蓑にしてやたらと増え続ける定住外国人の数、などなど。
 先日の報道にあって私は、小、中、高生の自殺者数の多さに驚愕をおぼえた。これらのほか、かつての治安の良いと謳われてきた日本社会は、日を追って恐ろしい犯罪社会への傾向を深めている。きのうのメディアニュース項目の一つには、外国人のしでかす万引き、いやもはや窃盗がドラッグストアをはじめとして、あちこちの店で増えていて、この先がいっそう危惧されているとあった。
 世界事情の混乱は、アメリカ・トランプ大統領の再誕生を機にして、いっそう様相を深めている。世界にはどこかに絶えず戦雲がたなびいており、なかでも隣国(韓国、北朝鮮、ロシア)の国の舵取りは、まるで気違い沙汰を呈している。もはや短いからと言って、あんなこんなで安穏(あんのん)とはしておれない、この先のわが生き様模様である。
 差し歯が出来上がることに気分がウキウキし、わが柄でもない現下の日本および世界事情にまつわる懸念を書いてしまった。平に詫びるところである。ただ、わが(虫けら)当てずっぽうでもなさそうのはつらいところである。鎌倉地方の夜明けの空は、雪の予報を蹴散らして、春の装いを深めた日本晴れが輝いている。差し歯の入るきょうは好日である。

カレンダー「節分、立春」に背く、「冬空・雪空」

 冬から春への季節変わりの真っ只中にある。人為のカレンダー上にはきのうは「節分」、そしてきょうには「立春」(2月3日・月曜日)と記されている。ところが肝心の自然界(気象)は、きのう、きょう、なお留まることなく今週末にかけて、春の訪れに背いている。
 【4日から災害級の大雪の恐れ 24時間100センチのドカ雪も 車の立ち往生に警戒(tenki.jp)。4日(火)以降は今季最強寒波の影響で、北海道から九州の日本海側を中心に大雪となるでしょう。北陸では24時間降雪量が100センチと予想され、災害級の大雪となる恐れもあります。普段は雪に慣れない西日本の平地でも積雪となる所があるでしょう。車の立ち往生など交通障害に警戒が必要です】。
 きのうの鎌倉地方には降雪はなかったけれど、一日じゅう冷たい雨に見舞われて、私は独り茶の間暮らしを余儀なくした。娘に誘い出されて一晩泊りの旅に出ていた妻は、夜の10時近くに、娘の配偶者が運転する車で無事、いや嬉々として帰宅した。私は心配で凝り固まっていた胸を撫でおろし、遅いため気に懸けていた「豆まき(福豆)」はなく、いそいそと就寝した。心配が解(ほぐ)れ、またほぼ一日じゅうソファに凭(もた)れていたせいなのか気鬱や疲れがあり、そのせいで普段の就寝とは異なりぐっすり眠れた。このため、寝起きの気分は悪くない。ところが現在、身体のみならず精神もまた、悍(おぞ)ましい寒気を食らっている。しかし、嘆くまい。なぜなら、季節は確かな「春入りのゴング」が打ち鳴らされて、この先一週間程度の我慢を凌げば、待ち望んでいた春が訪れる。ただ恐れるところは、大雪予報につきまとっている「災害級」の表現である。なぜなら、わが現住する鎌倉地方は免れても、多雪地方の難渋は他人事(ひとごと)ではない。だから私は、気象庁の予報の外れを秘かに、いや大っぴらに願っている。
 薄っすらと夜が明けた。雨も雪もない、どんよりとした「冬空」(雪空)である。はるか彼方の多雪地方の空模様が気懸りである。

娘と母(妻)、旅道中

 当時は気づかなかったけれど、子どもの頃に遊んだカルタの読み札には、いろんな人生訓が含まれている。「節分」(2月2日・日曜日)の寝起きにあって、わが心中には語順にそって読み札が浮かんでいる。その一つ、「負うた子に教えられる」には、ちょっぴりうれしさつのるところがある。ところが、これを捩(もじ)った咄嗟のわが成句、「負うた子に世話かける」には、切なく寂しさつのるところがある。
 きょうの関東地方には、雨ないし降雪や積雪予報が出ている。現在、デジタル時刻は4:48と刻んでいる。それゆえに私は、起き出して来てパソコンを起ち上げる前に、傍らのカーテンと窓ガラスを開いて外気を確かめた。一基の外灯が灯す道路上には、積雪は見えず降りやんだばかりの雨の跡が見えた。予報が確かであれば、こののちの降雪の準備は十分整っている。
 さて、現在の私は、わが家にあって独居のさ中にある。もちろん、病身の妻が逝ったせいではない。娘が母(妻)を一晩泊りで、往復新幹線利用で遠出の旅へ連れ出しているからである。娘の善意(親孝行)なのか、それとも悪意(旅費用はわが支弁)なのか、それはわからずじまいだけれど、私は渋って娘と妻の二人だけの旅立ちである。
 私は妻の身体模様を鑑みて、「やめとけ」と言いそうになった。しかし妻は、娘の誘いを断り切れず旅立っている。いくらか不同意の私は、行き先の詳細は知らずのままで、たぶん静岡県浜松方面である。二人が出かけたのちの私は、スマホ情報にすがり、不時の臨戦態勢にある。ところが、幸いなるかな! 現在までは、娘と妻のウキウキ気分の様子がまるで、間欠泉のごとくに噴き出し流れてくる。先ほど(夜中2:13)のメールには、妻が夜景の素晴らしさを伝えてきた。二人は就寝中のはずなのに、妻は心が浮きだって寝つけないのだろうか。私の場合は、いつもの二度寝にありつけず、悶々として起き出している。二人の旅はあと半日あまり、私は無事の帰宅を祈って、ひたすら待つのみである。
 妻が帰ってきての豆まきは、例年とは異なり「鬼は外(そと)」の掛け声と、豆のぶっつけは免れそうである。だけど今夜の豆まきは、心配と共に高額な「福豆」になっている。冬から春への確かな季節変わりの節分にあって、降雪や積雪予報にはたじろぐばかりである。一方、現在の私は、娘と母それに妻をダブらせて、わが家の吉報を待つところにある。
 ほぼ一時間の書き殴りを平に詫びるところである。夜明けはまだ遠く、娘と妻への心配事は、まだ半日余も残っている。独居生活を愉しむ心の余裕はない。