ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

三連休は「大寒波と大雪」

 2月22日(土曜日)、夜明け前にある(5:29)。そして、あすの「天皇誕生日」(23日・日曜日)、それに続く「振替休日」(24日・月曜日)へ繋がる、三連休の初日を迎えている。
 「三連休 大寒波が到来、警報級大雪のおそれ」(tenki.jp)。
 予報に違わず、大寒波の中の寝起きにある。身体のみならず精神共に震えて、この先、たわいない文章を書く価値は無さそうである。それでも私は、価値ない文章を、継続の途切れを危ぶんで書き始めている。読んでくださる人にはひたすら詫びて、まったく自己都合の文章にすぎない。人間も動物に含めて「動物社会」は、もとより弱肉強食旺盛の社会である。生きることに強い者がいて、生きることに弱い者がいることはしかたがない。しかし、「人間社会」にあって、悪人(悪徳者)が蔓延(はびこ)ることだけは、真っ平御免蒙りたいものである。ところが、現実の人間社会にあっては、悪人の横行跋扈(おうこうばっこ)が絶えない。もし仮に、人間社会が善人だけであれば、人間はどれほど住み良く、かつまた広く地球は、どれほど「円満の球(たま)」であろうか。つくづく、(もったいない、なあ……)と、嘆くところである。
 人間社会は人の集合体なのに、為政にあってはたった一人の最高権力者の施政や人格の良し悪しで、こうも変わるものかと呆れるばかりである。幸いなるかな! 日本社会ではなく、限られた他国から伝えられてくる「つきまくる悪態現象」である。もちろん施政に限らず世の中には、悪徳者の為す大小あまたの詐欺、強盗、殺戮(さつりく)、傷害、その他の事件は、日常茶飯事に絶えることはない。もっと腑に落ちないことには、進化を続ける文明社会の現代の世にあってなぜか? 私にはこの手の事件が累増(るいぞう)しているように思えているからである。すると、これらの元凶は、富を分ける格差社会のせいなのか、国境を跨(また)ぐグローバル社会のせいなのか、情報の入手を容易(たやす)くするデジタル(SNS)社会のせいなのか。
 もうやめよう。なぜなら、寒気に震えてまでして、究(きわ)めることでもなさそうである。いや、わが老耄(ろうもう)の知恵の及ぶところではない、犯人捜しだからである。わが柄でもなく、そして書くまでもないことを書いたのは、寒気を言い訳にして、文章の絶えを恐れからである。大寒波の訪れは夜明けて、寒空にあって胸の透く日本晴れとのコラボ(協奏)を演じている。

「カンフル注射」と「慌て者の春」

 2月21日(金曜日)。「春眠暁を覚えず」。ネタ無しをこの成句にすがるには、まだ早い。慌て者の春が来たのだろうか? 朝寝坊をこうむり、時間に急かされて文章が書けない。きょうはこんな言い訳をして、凡愚のわが身を守っている。きわめて身勝手で、頓珍漢な言い訳である。
 きのうは迷いかつ萎えていたわが心象に、名医・大沢さまから効果覿面のカンフル注射が打たれて、寸でのところで以降の文章断ちを免れた。いや、カンフル注射が打たれる前は、死人同然の状態だった。だから、確かな生存(生き返り)の証しには無傷で、できれば流暢(りゅうちょう)な文章を書けばいいのにそれは叶わず、心臓の鼓動だけにありつく、体(てい)たらくの文章を書いている。しかしながら、文章が拙(まず)いことはそっちのけにして、寝起きにありついていることには快哉(かいさい)をおぼえている。すなわち、この文章は、ただいたずらに、生きている証しだけの文章である。
 「ひぐらしの記」の誕生にあって大沢さまは、「前田さん。何でもいいから書いてください」と言われた。この言葉に甘えて私は、身の程知らずに三日坊主を恐れて書いてみた。ところが以後、果てしなく長く続いてきたけれど、文章の体はいまだにヨチヨチ歩きである。この文章はまさしく、その証しでもある。
 きょうは朝早く、妻を伴って外出の支度が待っている。行き先は、神奈川県横須賀市内にある「眼鏡市場」である。用件は、先日購入済みの妻のメガネの出来上がりの報を得て、その受け取りである。大沢さまのカンフル注射は、文章の出来は悪いけれど、願ってもない継続を可能にしたのである。まるで気狂いみたいな文章だけれど、心情は確かな御礼の文章である。慌て者の春は、それなりに清々しい春の息吹ただよう、日本晴れを恵んでいる。わが心身は、無償のカンフル注射の効き目で、潤(うるお)い華(はな)やいでいる。

起き立ての心境

 2月20日(木曜日)。寒気がぶり返している。「春の音」を足踏みして、自然界の見え見えの悪戯(いたずら)と言えそうである。いや、春の音を悦ぶ人間界に対する、自然界の僻みや妬みなのかもしれない。一方、私もなさけない。なぜなら、こんな様にならない心境を携えて起き出している。
 寝起きにあって、文章を書かなくて済めば極楽気分である。ところが一方で、寂しい気分でもある。だから、いまだ二者択一を決めかねて、私は常に迷いの気分を同居させて起き出している。しかし、正直な気持ちではもう書かずに、安楽な気分に浸りたい思いのほうが勝っている。だけど、まだ迷っている。大沢さまから授けられているご好意を無下(むげ)にすることには、もったいない気分が横溢しているからである。
 このことはすでに一度、書いた記憶がある。すなわちそれは、途絶えていたわが生涯学習のヨロヨロの再始動のことである。私は就寝中の枕元には地震や停電に備えて、大慌てで「ヤマダ電気」から買って来た、懐中電灯を置いている。これに加わるものでは、スマホ、電子辞書、「難解語便覧」(三省堂)、はたまた市販の薬剤(風邪薬と便秘薬)などがある。どれもが、わが刹那(せつな)の命を助ける、「生存備品」と自認するものである。二つの辞書類だけは、それには役立たずと思うところはある。だからと言って、付け足しとも言えない。なぜなら共に、わが生存における「生き甲斐づくり」の一端を担っている。
 わが心中には常に、(もう書かない、もう書けない)と、声なき声が蠢(うごめ)いている。だから、きょうも書けそうにない心境で起き出している。ところが、こんな様にならない文章を書いている。それはやはり、大沢さまから授かっている、わが生涯学習の実践の場を失くすことを恐れているためである。私は、大沢さまのご好意に食いつく「ダボハゼ」さながらである。
 子どもの頃の私は、春になればふるさとの「内田川」で釣り糸を垂れて、「ゴーリキやシーツキ」(川魚のハゼ類)などを嬉々(きき)として釣り上げていた。翻って私はなけなしの脳髄に怯えながら、大沢さまのご好意に食いつき釣り上げられている。だけど、大沢さまのこの好意が無ければ、わが定年後の世界は闇の中であったのである。
 春の音の足踏みはしばし止んで、春霞の夜明けが訪れている。こんな、起き立て、出まかせ、相同居する文章など、書かないほうが身のためだったのかもしれない。文章書きは、わが凡愚の脳髄には負えない。挙句、常に出鱈目(でたらめ)文章である。

心境を吐露する、メール文

 2月19日(水曜日)。寝床に寝そべり、スマホ片手に書いている(2時37分)。こんなずぼらな行為や気分ではもとより、書かないほうがましである。恥を晒すことに併せて、掲示板を汚すことにはほとほと忍びないものがある。それを承知で書いているのは、こんな文章でも書かないと、この先、文章は沙汰止みになる。
 きのうはずる休みをして、継続をすがる惰性書きを断った。すると、おのずからわが文章の継続はあり得ない。だから、もとより文章とは言えないこんなことを書かいて、沙汰止みの寸止めを願っている。「ひぐらしの記」にあらず、苦肉のメール文にすぎない。わが身、哀れである。

無念!

 2月17日(月曜日)。痛憤をおぼえ、虚しさ、切なさ、遣る瀬無さを募らせて、起き出している(5:00)。拉致被害者・有本恵子さん(失踪時23歳)のお父様が亡くなられたという(2月14日、96歳)。拉致被害者の親世代で残る人は、横田めぐみさんのお母様(89歳)、お一人だけという。きょうはこれらのことだけで、ほかは書く気になれない。手抜きではない。書く価値がないからである。老いて、私は84歳。一人娘の親の心情は、他人事にはできず痛切きわまりない。書くべきではなかったのかもしれない。なぜなら、無傷のわが心情は、めぐみさんのお母様のつらい心情を逆なでしているのかもしれない。いたずらに「時」が過ぎてゆく。無念!

人生の「コストパフォーマンス」(費用対効果)

 2月16日(日曜日)。気違い沙汰のことを心中に浮かべて、起き出している。寒気はまったく感じない。だから、気分が緩んでいるためなのか。そうであれば、飛んだとばっちりをこうむっている。私は、まったく価値のない妄想に取りつかれている。「コストパフォーマンス」(費用対効果)とは経済界において、いや、あらゆる物事において、効率度合いを測る重要な尺度と言えそうである。この言葉を当て嵌めると人生には多くの金額の費消に対し、どれほどの見返り(利)があるのであろうか。「衣食住、その他」にかかわる金額だけではなく、もとより金額に換算できない精神の費消(負担)もある。これらを鑑みれば、人の生存(命)には、どれほどのコスト(費用)が掛かっているのであろうか。もちろん、測りようはない。だけど生き様に、それら(負担)に見合う、生き甲斐や楽しみは適(かな)っているのであろうか。野暮ったく言えば、生存(命)の「コストパフォーマンス」(費用対効果)は、利にのっているのであろうか。幸いにも私は、こんなことには無頓着に日暮らしを続けている。こんなことを書くようでは、もはや「ひぐらしの記」はおしまいである。
 自然界は冬衣(ふゆごろも)を脱ぎ捨てて、春を近づけている。のどかな朝ぼらけにある。アホの私は変わらず、間抜けなことを書いている。

世の中が混乱している

 2月15日(土曜日)、丑三つ時(2時8分)。世の中(世界事情、日本社会)が混乱をきたしている。気狂いの自覚はなく正気で、こんなことを書きたくなっていまる。悪(人)のはびこる人間社会は厄介です。それでも人間は、できれば希望をもって、生き続けなければなりません。梅の蕾は綻び、けなげに真っ白い花を咲かせています。

バレンタインデー

 バレンタインデー(2月14日、金曜日)。目覚めてはいるけれど、起き出す気力なく、ずる休みを決め込んでいる。気力の萎えの因は、生きることへの疲れである。もっと端的には睡眠中にあって、意馬心猿(いばしんえん)にとりつかれて正常心を失くし、文章が書けそうにないからである。夜明け遠く、寝床の中で二度寝にありつけず悶え苦しみ、生存の深みに嵌まりそうである。だけど、命を惜しむ欲張りはなお存在する。起きれば私自身が自分あてに買い置きしている、チヨコレートを餓鬼食いして、生存のうさを晴らすつもりにある(4時17分)。

御礼

 2月13日(木曜日)、5:29。すっかり寒気が遠のいて、早やてまわしに春が来ている。しかし、気象予報士の予報によれば、来週はまた寒くなると言う。だけど、季節の足取りは迷うことなく三寒四温を繰り返し、確かな春へ近づいている。このことを鑑みればきょうの春は、いまだヨチヨチ歩きの足取りなのかもしれない。
 私は寝起きにあって心中に浮かんでいたことを何ら飾ることなく、ネタにして文章を書き始めている。人間(命)だれしも、いや私の場合は、個人の能力や努力だけで生きることは、蚊の鳴くほどにも満たない微々たるものである。人(私)が生きるためには個人生活および社会生活共に、人様の助力と知恵そして激励があってこそ、ようやく生存が叶えられるものである。大袈裟好きの私は、わが柄でもないことを書いたけれど、常々いだくわが人生訓である。ところがこの人生訓は、きのうの「ひぐらしの記」の執筆において、如実に確かな証しとしてすっぽり日の目を見たのである。
 きのうの私は、二つのつらい事情を引きずり、様にならない嘆きのメソメソ文を書いた。挙句、文尾には「やはり、休むべきだったのかもしれない」と、書く始末だった。ところが、「拾う神あり」。すなわち、大沢さまから思いがけなくご投稿文(メッセージ)を賜り、わが「塵芥」(ゴミ)の文章は、たちまち「華」を成したのである。このことでわが憂鬱気分は一変し、私はきのう一日じゅうを快楽気分で終えることができたのである。このことに御礼を伝えたくて起き立ての私は、いつもとは異なり心中には文字どおり、ウズウズと渦が巻いていた。
 大沢さまの脳髄からスラスラと溢れ出る『徒然草』(吉田兼好)の一遍もまた心地良く、私はまるで桃源郷に住む気分に浸っていた。確かに、人間(命)、いやわが命は、人様の助力、知恵、そして激励により生かされている。現在の私は、こんな大事なことがわが文章力では書けない辛さ、惨めさを味わっている。夜明けはどんよりとした曇り空である(6:29)。

薄れゆく「生き甲斐」

 2月12日(水曜日)。「建国記念日」明けで、ほぼいつもの起き出し時刻にある(5:39)。しかし気分が萎えていて、文章が書けません。きのうは予定の行動に則り、妻同行で「眼鏡市場」(神奈川県横須賀市内)へ出向きました。私の用件の二つのうち、補聴器の定期ケアは無事に済みました。ところが、もう一つの用件のメガネの買い替えは、「メガネでは矯正できません」と言われて、眼医者行を勧められ、お陀仏となりました。一方、妻の用件のメガネの買い替えは、スムースに事が進んで妻は、新たなメガネを購入しました。
 先ほどの起き出しにあって、スマホを駆動させると思うようにいかず、心が萎えました。これらのことがあって気分喪失を被り、きょうはこの先が書けません。人間はただ生きているだけで、生き甲斐が無ければ、もはや「生きる屍(しかばね)」です。現在の私は、そんな状態です。先日、私は3月10日に「鎌倉芸術館」で上映される映画、『90歳、何がめでたい!』(作家佐藤愛子原作、草笛光子主演)のチケットを2枚(妻の分と合わせて)、買いました。まだ先は長いけれど、似たような心境の映画を観て、気分の賦活剤になることを願っています。
 きょうの文章は、休みを逃れるだけの文章です。甚(いた)く、かたじけなく思っています。いまだ外気は暗闇で、夜明け模様を知ることはできません。やはり、休むべきだったのかもしれません。