ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
途中消え去った、台風10号にことよせて
8月31日(土曜日)。鉛色の曇天だけれど、雨・風まったく無い夜明けが訪れている。幸いにも台風10号は、鎌倉地方までには届かず、接近途中のどこかで消えてなくなった。日本列島にあって国民は、大型台風と予報されて、一週間を超えて恐怖に慄(おのの)いていた。テレビニュースは、防災グッズの売れ行きぐあいを盛んに報じていた。街頭インタビューにあっては、私はマイクを向けられた人達の台風にたいする備え、すなわち身構えや心構えを感じた。私もちょっぴり備えて、風に吹き飛ばされそうな鉢物などは物置に仕舞い込んだ。全国的には被害を被った人達がかなりいた。だから、台風の恐ろしさは十分に感じた。
しかし一方、予報の騒々しさからすれば台風10号は、いくらか空振りに思えた。台風情報などに絡む防災は、警告や準備を促すことを建前とすれば、いくらか大袈裟になることは妥当であり、仕方のないところでもあろう。案外、拍子抜けや空振りこそ喜ぶべきものなのかもしれない。私も、そうとはわかっちゃいるけれど、それでもやはりかなり騒ぎすぎた感は否めない。
確かに防災は、事前や途中に騒ぎすぎるほどが是(ぜ)なのであろう。なぜなら、これだけ予報と実際に狂いが生じても気象庁は、謝りあるいは弁解の記者会見をするつもりはなさそうである。もちろんこのことは、私の言い分ではなく、いろんな防災に明け暮れて、肩透かしを食らった人達の恨みつらみを鑑みてのわが代弁である。
雨・風去っても日本晴れの夜明けではないけれど、しかし昼間には台風一過を擬(ぎ)して、日本晴れになるかもしれない。こんな文章書いた私は、つくづく天邪鬼(あまのじゃく)である。
私が崇める「スーパーウーマン」
8月29日(金曜日)。台風10号の本隊(眼)は、日本列島のどのあたりまできているのであろうか。いや、どこら辺りをさ迷っているのであろうか。テレビニュースを見聞していると、あまりにもどこかしこにその影響が出ているようであり、そう思わざるを得ないところがる。
鎌倉地方もすでに台風10号の影響を受けているのであろうか。風は吹いていないけれど、夜明けにあって小雨が降っている。叶うことであれば、パッと来てパッと去ってほしいと、願っている。ぐずぐずと長引く台風は、日本全体を長く鬱(うつ)状態にするばかりだからである。
さて、今朝の私は、こんな思いをたずさえて起き出している。近づく自民党の総裁選および立憲民主党の代表選にあっては、いずれにも幾人かの女性の立候補者が取りざたされている。現下の日本社会にあっては、女性の活躍が望まれていることからすれば、確かにそれはそれで歓迎こそすれ、非難すべきではないだろう。しかしわが下種(げす)の勘繰りからすれば、立候補予定の女性議員は、それにふさわしい能力の持ち主であろうかと、疑うところはある。門外漢ゆえに、もちろん私の知るところではない。
私には常々、ごく身近に本当のスーパーウーマン(超人的女性)と思える人がいる。端的に言えば、多能力と活躍ぶりが華々しいのである。まったく、誇張や偽りのない真実である。現在、掲示板上掲には「流星群だより第46号」の発行案内が掲げられている。もとより「流星群だより」は、姉編「流星群」の妹編である。姉妹編共に半年に1回、すなわち1年に2回、つごう姉妹編あわせて、1年に4回発行されている。ところがこれらの冊子は本業ではなく、過去から現在に至り作者としてかかわりのある人たちへの、無償(ただ働き)の賜りものである。
私が崇める、スーパーウーマンの名を明かそう。その名は、出版社「現代文藝社」を単独で起ち上げ、23年余25年近く、寸時も休まず発行され、活躍され続けておられる大沢さまである。もちろん、大沢さまの才能や活躍ぶりはこれだけで限るものではなく、みずから作家を成し、ほか陶芸、写真、絵画などの芸術活動に加えて、野菜や花づくり対する蘊蓄(うんちく)、ほか囲碁も究められているようである。わが苦手とするパソコンをはじめとする電子機器(端末)の操作までお茶の子さいさいなのか、本業へも大いに利用さているようである。別荘まがいのご実家回りは、畑地および周辺地共に、常に綺麗に整頓されている。これらを鑑みて私は、大沢さまの能力と活躍ぶりにたいし、まさしくスーパーウーマンと名付けている。日本社会にあって、女性の活躍が叫ばれるたびに私は大沢さまを浮かべて、スーパーウーマンと崇めている。
小雨は本降りなり、先ほどからスマホには横浜市内の地区への避難指示のアラーム(大雨、警戒レベル4)が何度か鳴り響いている。わが家のある(鎌倉市大船)は、横浜市栄区と隣接を成している。だから、アラームはそのあおりを食っているだけであり、まだ鎌倉市当局からの避難指示は出ていない。
二日続いての「題、無し」
8月29日(木曜日)。台風が近づいているけれど、風雨ない夜明けにある。台風接近中の予報がなければ心急(こころせ)くことはないけれど、やはり予報に脅かされている。私は夏の終わりかけにあって、夏風邪を拗(こじ)らせている。私はつくづく愚か者である。症状は頭重(ずおも)、鼻水、鼻のムズムズ感、ときおりの咳である。これらのせいで、総じて気分は憂鬱を極めている。ゆえに心象風景は最悪に陥り、おのずから文章を書く気分は殺がれている。起き出して来て、書くまでもないことを書いている。日課の道路の掃除も頓挫にある。この先の文章は書けず、パソコンを閉じることにした。
初秋、好季節到来に反し、私は体調不良をこうむっている。鼻風邪症状に抗(あらが)う薬剤は、わが頼みとする市販の「コルゲンコーワ鼻炎ジェルカプセル」である。
題、無し
8月28日(水曜日)。遅く起きて、書く時間がない。だから、文章は書けない。ゆえに、このことだけを書いて、惰性の継続を願っている。台風10号が近づいている。一度、屋根を吹き飛ばされているからそののちは、台風のたびにびくびくしなければならない心境に様変わりしている。今朝はまだ無風で晴れの夜明けにある。
台風にかぎらず地震もまた、秋という季節のめぐりに合わせて、過去体験でシーズン入りを迎えている。わが衰えてゆく身体はどうにもならないが、自然界現象もまたどうにもならない。だったら、一縷の生存の楽しみを見つけなければ大損である。しかし私の場合は、行楽の秋にはもはや縁がない。だからそれに替えて、普段の買い物を通して実りの秋にその願いを託そうと思っている。行きつけの「大船市場」(鎌倉市)は、秋の果物満載である。巷間、悩まされているコメ不足も、新米が出回れば解消するであろう。私には芸術の秋もまた無縁である。
初秋、アホ丸出しの夜明け
8月27日(火曜日)。夜明けの空から音なく、小雨が降っている。風は凪(な)いで、木の葉の揺れはまったく無い。両耳に補聴器を嵌めていないため、セミや小鳥の声も聞こえない。普段の散歩連れは、雨のため通っていない。だから、人の声はするはずもない。キー叩きの音も聞こえない。確かに、心臓の鼓動は感じている。けれど、これまた音、聞こえず動いている。ネタなく、書くことは何もない。しかし、こんなことでも書けば、生きている証しにはなる。日々、人の世の喧騒の中に居ついていると、わずかの時であっても、案外、音無しのひとときは桃源郷と思えるところはある。
きょうは、まるで世捨て人の仙人みたいな心境を書いて、結び文に甘んじる。ネタのないせいとはいえ、こんなみすぼらしい文章、書かなきゃよかったのかもしれない。だから、人様には詫びて、自分自身は悲しんでいる。初秋の戯れ文と嘯(うそぶ)いて、みずからを慰めている。
つけようのない表題は、「初秋、アホ丸出しの夜明け」でいいのかな。いや、いくらか飾って、初秋、小雨降るのどかな夜明けである。
幸先の良い秋にあっても、マイナス思考は消えず
8月26日(月曜日)。閉めて寝ていた窓ガラスを開けると、網戸から入る風は冷えていて、気象はすっかり秋モードに変わっている。前面の窓ガラスを通して眺める大空は、秋天高く青く澄んだ日本晴れを広げている。ところどころに抱く白雲は、上りかけの朝日に照らされて、これまた見事に澄んで、重量感なくふわふわと浮いている。秋の空は季節が恵む、胸の透く一大パノラマである。こんな季節や自然界の恵みにあっても素直に酔えないのは、人生の終盤を生きるわが身の悲しさである。なぜならわが心境は、季節や歳月の速めぐり感に怯えている。つれて余生は、日を追って縮まるばかりである。常に私は、マイナス思考の祟りを食らっている。自ら認める、わが人生の大損である。
さて、きのうは行動予定にしたがって、「大相撲巡業、横須賀場所」の観覧に出かけた。妻と娘と連れ合って、親子三人連れだった。わが関心事は、大相撲巡業の催行だった。催行された会場は炎天下の広場ではなく、程よく空調がされていた屋内、すなわち「横須賀アリーナ」だった。朝の九時に開場、そして千秋楽と表記されていた閉場は午後三時だった。これに沿ってプログラムが組まれていた。まず驚いたことにはプログラムは、本場所さながらに進められていた。これらの中から時間の都合で、取り組みの番数が省かれていたところがあったのはやむを得ない。それでも再び言えば、全体プログラムは本場所同然に組まれていた。次に驚いたことは、広大なアリーナを埋め尽くしていた観覧者(人数)の多さだった。そして、屋内の観覧席もまた、大相撲の殿堂・国技館を真似て桟敷多く設(しつら)えてあった。見終えた私たち三人は、それぞれが満足して家路に就いた。
大相撲巡業の初体験は結局、愉しめた親子一大行事だったのである。そしてそれは、幸先の良い秋の訪れを感じさせた。できればそれにさずかり、わがマイナス思考は千秋楽にしたいと願っていた。ところが、日を替えて起きてみるとそれはやはり、叶えられず夢まぼろしのままである。
大相撲巡業、「横須賀場所」観覧
8月25日(日曜日)。現在のデジタル時刻は4:08を刻んでいる。二度寝をすればすんなりと起きれるかどうかを危ぶんで、仕方なく起き出している。窓の外は未だまったくの暗闇であり、夜明けの天気模様を知ることはできない。きょうは雨の予報でないことは、きのうの気象予報士から聞き知っている。加えて気象予報士は、台風10号が接近中と伝えていた。台風は来週あたりになるようだけれど、それとは関係なく大気が不安定で、どこかしこに大雨の恐れがあるようである。
私は、きょうだけは小雨さえ降らないことを願っている。なぜなら、きょうの私には妻を伴って、早出の行動予定がある。行動の呼びかけ人は、神奈川県横須賀市内に現住する娘である。あまり気乗りのしないことだけれど、もしかして三人行動は最後になるかもしれないと思い、私は渋々応じたのである。
行動目的は、「大相撲巡業、横須賀場所」の見物である。巡業とはいえ妻と娘は、大相撲は初観覧になる。私は一度だけ、正規場所の観覧を国技館で体験している。ゆえに私の場合は、番外編の巡業は物足りなくて、「二人で行けばいいよ……」と言って、最後まで行き渋っていた。しかしながら結局、病身の妻や娘が「観たい」と言えばほっとけなくて、高額の観戦料を厭わず、引率同行を決意したのである。早出行動のためきょうは、もとより文章書きは休むつもりだった。ところが、飛んだ早起きをしたため、この文章を書いた。しかし、休むつもりの文章だっただけにこの先は書けず、余儀なくここで結ぶこととする。こんな文章では願っても、継続文の足しにはならないであろう。自業自得とはいえこのところは、掲示板上のカウント数値は漸減傾向にある。
薄っすらと夜が明けた。願ってもないのどかな朝ぼらけである。私は、早出の支度に気が急いている。
「行く夏」そして「来る秋」
8月24日(土曜日)。夜明けの空は胸の透く日本晴れで、天高く輝いている。夏の高校野球の決勝戦は、京都府代表校「京都国際高校」が、東東京代表校「関東一高校」を下し、初優勝で王座に就いた。夏の高校野球「甲子園大会」が終われば、いよいよ季節は夏を遠ざけて、日々秋色を深めてゆく。
山の景色は濃緑を薄めて、少しずつ黄色や紅色を帯びてくる。セミは絶える命を惜しんで、必死に泣きじゃくる。「暑い、暑い」と言いながら、矛盾するかのように、私は「行く夏」を惜しんでいる。しかし、悲しむことはない。なぜなら自然界は、こののちには「秋」という、四季の中で最も好季節と謳われる、「時」を回して来る。だけどやはり恐れるのは、季節特有の地震と台風とのめぐり合わせである。一方、現下の日本社会の関心事の一つには、野放図な人間模様に取りつかれている。すなわちそれは、自民党の総裁選、そして立憲民主党の代表選における、「われもわれも……」と、出たがる議員の多さである。議員になればわが身の器を顧みず、図に乗ってしまうのであろうか。見苦しさ、この上ない有様である。
ところが一方、日本国民の卑近の関心事は、わが身に堪える諸物価の高騰やコメ不足などがある。高気温、地震、台風の恐怖は、私生活を脅かし続けている。なんだか、政治家と国民の間には、大きな生活感の齟齬があるようである。こんな野暮なことをめぐらすのは愚の骨頂であろう。なぜなら、季節のめぐりに安んじていれば人間は、それなりに愉快である。私の場合、夏の終わりかけにあってとうとう、この夏初めて大好物の西瓜にありついた。西瓜の買い物にあってかなり焦りそして渋々、丸玉を四分割に輪切りしたものを買った。本当であれば丸玉を買いたいけれど、重たくて持ち帰れず、輪切りで我慢した。挙句、西瓜はわが行く夏の打ち止めを演じた。一日持ち越して冷蔵庫に冷やしている西瓜には、愛惜(いとお)しさつのるばかりである。それなのに、餓鬼のごとく涎垂らしてむしゃぶりつくのは、わが浅ましさであろうか。
「行く夏」そして「来る秋」、人間は身の程に応じて、自然体こそ安楽であろう。涼を含んだ風は、起き立てのわが肌身を和み癒している。
気分の重たい、歯医者通い
8月23日(金曜日)。時は進んでも夜長傾向にあっては、未だ夜明け前にある(4:58)。雨は降ってなくて、晴れあるいは曇り空の夜明けになりそうである。就寝中には悪夢に魘されて、まったく気分すぐれない起き出しを被っている。さらにきょうの行動予定には、いっそう気分の重たい歯医者への通院がある。悪夢による気分の落ち込みは、時間が経てばおのずからいつの間にか遠ざかる。ところが歯医者通いのもたらす気分の落ち込みはそうはいかず、期限なくエンドレスを被る場合がある。
あるとき、私は上前歯の一つの欠落に見舞われた。しかしながらそののち、私は歯医者へ通院することなく長い間、その部分をほったらかしにしていたのである。それには、こんな馬鹿げた理由をめぐらしていたからである。一つは、欠落部分はぽっかり空いたままでも痛みがないことで、まるで餓鬼(子どもの頃)のように歯医者通いを拗(す)ねていたのである。そして一つは、わが余命をめぐらしてもはや、その部分の処置はしなくても痛みがないせいで、命の最期へたどり着きそうに思えていたからである。すなわち私は、前歯の処置と余命を天秤に、ほったらかしにしたままでも痛みなく、持ちこたえられそうに思っていたのである。そうこうしているうちに検診案内から、かなり日が過ぎていた。そしてやっと、通院を決意したのである。だから、きょうの通院には主治医の気分を損ねている予感が横溢し、挙句、今も通院を恐れる気分が満タンである。確かに、自分自身が決意した通院とはいえ、それでもきょうは、かぎりなく気分の重たい日である。なんだか現在の私は、「痛い、痛い」と、泣き叫んでいた子どもの頃の心境にある。
夜明けて、初秋の朝日はのどかに輝いている。私は自然界の恵みすがり、重たい気分を少しだけ和らげている。
処暑
8月22日(木曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の4:09とある。夏の終わりにかけて夏風邪をひき、なおこじらせて浅い眠りで起き出している。例年ひく傾向にある夏風邪にあって、今年は免れたかな? と、いくらか高をくくっていた。ところが、夏の終わりかけにあって逃れず、またもやひいてしまった。私はやはり愚か者、飛んだしくじりをしでかしている。ゆえに、起き立ての気分はすぐれない。私は朦朧頭でしばし、机上カレンダーに目を向けていた。すると、きょうには「処暑」の添え書きがある。手元に置く電子辞書を開いた。
【処暑】(暑さがおさまる意)。「二十四節気の一つ。太陽の黄経が150度の時で、暑さが止み、新涼が間近い日。7月の中。太陽暦の8月23日頃に当たる」
太陽事情など珍紛漢紛だけれど、処暑とは暑さの打ち止めの頃を表す気象現象の言葉とは理解できた。確かにこの頃の私は、身体的に夏の出口と秋の入り口を感じている。「処暑」すなわち難しいことはほうむり、「暑さがおさまる日」とだけおぼえておこう。
さて、先日の買い物のおりに私は、今時の異常状態の社会現象に遭遇した。私は、コメの買い出しに行きつけのスーパー「西友ストア大船店」(鎌倉市大船)へ出向いた。ところが、普段見ている米棚にコメはいっさいなく、長く空き棚になっていた。私は狐につままれた面持ちで、唖然と立ち竦(すく)んだ。挙句、いろんな思いをめぐらした。その一つには今年度産の新米の出盛りを控えて、早々と旧米を一掃し準備万端、棚替えを目論んでいるのかな? と、思った。だけど、早場米とは言っても体験上、新米の出初めは九月になってからである。なぜなら私は例年、いの一番に出回る千葉県産新米を9月の始めの頃に買っていた。
私はレジ打つ、中年女性のところへ歩み寄り、「コメは、まったく無いですね」と、問いかけた。女性はすまなそう表情で言葉を返した。私の前にいた高齢の男性がレジ前から引き返した。女性の言葉はこうだった。
「あの人も、米のことを尋ねられたのですが、コメが入って来ないのです」
私はこう応じた。
「そうですか。いつもここで買っているものですから、困りました。じゃ、別のところで買います」
私はこれまで何度か買ったことのある、JR大船駅に隣接する「ルミネ」内にある店、「成城石井」へ引き返した。すると、ここには毎度買う馴染みのブランド米があり、5キロ袋を2袋つごう10キロ買った。店の方針なのかここでは、2キロ入りと5キロ入りしかなく、10キロ入り袋は置かれていない。私はそのぶん、割高を被(こうむ)羽目になっている。しかしここは、コメにかぎらず買い物代金が5千円以上になれば、配送を頼んでも送料は無料になる。私はスムースに買って、住所などの伝票を書いて、自宅への配送を依頼した。ここではコメ無しの異変は感じないままに、わが家へ帰り着いた。
妻は茶の間で点けっぱなしのテレビを観ていた。時あたかもテレビでは居並ぶコメンテーターを交えて、コメ不足すなわち「令和の米騒動」と題して、喧々諤々にコメ不足の理由が囃し立てられていた。この日にかぎらずコメ不足は、早くから今時の話題になっていたようである。ところが私は、それらの情報に無頓着だったのである。
様々な理由が交錯していたけれど、私は一点、こう決め込んだ。それは地震にかかわる恐ろしい「南海トラフ」などの情報が入り込んで、人々が早やてまわしに買占めや、買い置き行動(騒動)に走ったせいであろう。なぜなら、ペットボトル入りの天然水なども、スーパー棚から消えていると言う。防災は良くも悪くも、人間心理を異常状態にするのであろう。現下のコメや天然水の不足は防災に纏(まつ)わり、まさしく今時の日本社会に生じている異変と言えそうである。人いや人間はだれしも、生きることに必死である。書き草臥れた。こんな出まかせの長文、だれも読まないであろう。