ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
わが認知症の罹患は、妻や人様が知ること
十一月十一日(月曜日)。部屋の中では、頭上から二輪の蛍光灯が明かりを灯し、窓外はいまだ真っ暗闇であり、夜明けはるかに遠い、起き出しを食らっている。八十四歳、私の睡眠時間はいつも極度に短い。睡眠中に悪夢に魘されると目覚めて、そののちは悶々として二度寝を拒まれる。運良く寝つければこんどは、身体現象ゆえに避けられない、頻尿による起き出しをこうむっている。しかし、私には気になる病なく、年並みに健康体である。
妻・八十一歳、病がち、老夫婦の日暮らしにあっては共に、健康体は望めない。夫婦生活は、自分だけが健康体であるだけでは成り立たない。共に健康体であってこそ、夫婦の日常生活は、ようやく心地良く営まれる。つらいところである。相対する妻の衰えぶりを見るのは、堪えて忍びない。ところが一方、「パパは認知症よ!」と言う、妻の言葉が増えている。私自身にはその自覚はなく、「俺は認知症じゃないよ」と、そのつど反撃の言葉を返している。ところが内心では、認知症かな? と、不安をおぼえるときがある。さしずめきのうは文章を書きながら一瞬、この不安が顕在したのである。このときは懐中電灯という言葉が脳髄に現れず、まさしく苦慮、かなりの時間それを思い出すのに苦労したのである。
長年書き続けてきた「ひぐらしの記」は、もはや限界を超えておのずから、途絶の憂き目を見るところにある。イの一番、その確かな証しは、文章を書くには必然を為す、語彙の忘却がある。私は語彙の忘却防止と新たな習得を願って、生涯学習に掲げてきた。ところが、生涯学習はすでに頓挫しており、新たな語彙の習得など夢まぼろしとなり、それよりなにより蓄えていた語彙の忘却に晒されている。自業自得とはいえ、わが身につらい仕打ちである。
文章を書き続けるには、豊富な語彙に加えて、常に精神(心象)状態の安寧が必須である。ところが現在の私は、どちらにも翳(かげ)りが増す、人生の終末にある。そして、この先はいっそう加速度をつけて、どちらも萎(な)えるばかりである。ゆえにこのところの私は、焦燥感に駆られてまるで、最後の悪あがきでもしているかのように、書き殴りの長文を書いている。確かに、そうである。あれれまたもや、文章は乱れ長くなりそうである。ゆえに、意識してここで書き止めである。
わが認知症罹患の有無は、自分自身ではわからない。妻は不断のわが行動や行為を見て、掲示板を覗く人様はわが文章を読んで、知ることである。だけど、こんな文章を書くようでは、私自身「知らぬが仏」では済まされない。曇天の夜明けが訪れている。きょうの日本社会にあっては、衆議院の総選挙を終えて、第二百十五特別国会が開かれて、第百三代めの首相が誕生するという。精神の乱れの無い、正常な首相指名を願うところである。
人間、命の長らえは一大事業
十一月十日(日曜日)。目覚めは早かったけれど、長い時間寝床に寝そべり、起き出しはほぼ定時である(5:34)。起き出しにあっては、二つのことを心中に浮かべていた。一つは、「生老病死(しょうろうびょうし)」である。あえて、書き記すこともない簡易な四字熟語だけれど、机上に置く電子辞書を開いた。
「生老病死:仏教でいう、人間の免れ得ない四つの苦しみ。『生』は、生まれること。『老』は、年を取ること。『病』は、病気にかかること。『死』は、死ぬこと」。
そして一つは、「衣食住」であった。こちらは電子辞書にすがるまでもなく、日常生活(暮らし向き)の基礎を為すものである。
さて、長く寝そべっていたことの訳を記すとこうである。スマホを手にすると真っ先に、このニュースに出遭ったからである。
【四国の大規模停電、原因は「周波数低下リレー」 何らかの原因で「本州向きの電気の流れが急増し、四国内が電力供給不足」に 最大36万5300戸が一斉停電…最大で香川6万戸、愛媛11万戸、徳島11万戸、高知8万戸(11月9日、8:44、高知テレビ配信】。
こののちは寝そべりながら、詳細記事やこれにかかわる多くのコメントを読み漁っていた。それほどに私は、この記事に度肝を抜かれて、そして突然の停電にかかわる、コメント者の体験上の教えを学んでいたのである。
教えは、人それぞれにかぎりなくあった。それらにあっては、用意周到な備えに莫大なお金を要した人、あるいは当座の光を求めていろんなものを備え置いた人など、まさしく人それぞれだった。貧乏の私は後者の備えに意を固めて、すぐに懐中電灯を部屋のあちこちに置くことを決めた。同時に、予備の備えとしてたくさんの乾電池を買い置くことを決めたのである。だから、この先の買い物にあっては飲食物に加えて、懐中電灯と乾電池が増えそうである。人間だれしも命を長らえるためには、衣食住足りて、さらには金銭の蓄えがあり、自然災害(天変地異の鳴動による)および人為の災難(事故、事件)からの逃れ(防災)ことこそ、最も肝要である。しかしながらこれらは、「言うは易く行うは難し」である。然(さ)もありなん、現下の日本社会にあっては、そんな大それたことではなく、日常茶飯事に詐欺、強盗、人殺し事件の多発にある。生老病死はもとより、人間社会は「備えあれば患(うれ)いなし」とはいかない宿命にある。四国地方の大きな停電は私に、生きることの困難さを教えてくれたのである。まさしく自然災害および人為のもたらさす災難は忘れた頃に、いや突然襲ってくる。夜明けの空は、のどかな初冬の日本晴れである。大空に向かって、叶わぬ神頼みに祈るしかない、儚(はかな)い人間の命の長らえである。
憧憬(あこがれ)
十一月九日(土曜日)。ほぼ、通常(定時)の起き出しにある(5:23)。日長の頃にあっては大慌てでかつネタなく、行き当たりバッタリに指先の空打ちを交えて、走り書きと殴り書きのコラボ(ダブルの作業)に狂奔していた。しかし、現下の夜長の季節にあっては、こんな心境は免れて、不断にも増してのんびりと、キーボードを叩き始めている。もちろん、執筆時間に余裕があるためである。すると、いつもの寝起きの定例文章など撥ね退けて、私は突拍子なことを書きたくなっている。
毎年、年の瀬が近くなると、通例のことしの「流行語大賞候補」がほぼ出そろい、人々は関心を持ってその決定を待っているところである。今やこれは、日本社会におけることしの終わりかけを感ずる、文字どおりの年末の風物詩ともなっている。これにちなんでわが選ぶとすれば、候補に有る無しは知らないけれどこの言葉である。それは国内外の野球界において、希代の名選手・大谷翔平選手(現在、アメリカ・ドジャーズ球団所属)が言ったこの名言である。「憧れるのをやめましょう」。このあとは曖昧なわが記憶を恐れ、そしてそれを正すために、スマホに記述の文章をそのまま下記するものである。著作権にふれるかどうかなど、わが知ったこっちゃない、引用である。
大谷選手は、エンゼルスのマイク・トラウトやドジャースのムーキー・ベッツら名選手の名前を挙げ、「憧れてしまっては超えられないんで。僕ら、今日、超えるために、やっぱトップになるために来たんで、きょう一日だけは彼らへのあこがれは捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」と発言しました。この言葉は、試合に勝つためには憧れる人を超えなければならないという大谷選手の考えを示したもので、言葉通り日本は3-2で逆転勝ちしました。また大谷選手は母校である花巻東高校の恩師である佐々木洋監督の言葉、先入観は可能を不可能にする」を座右の銘にしています(中日スポーツ)。
わが追記。再記すれば、「憧れるのをやめましょう」。この言葉は、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、日本代表チーム「侍ジャパン」の一人として、大谷選手が参加したおりの発言である。このときの大谷選手は、いまだドジャース球団への移籍前であり、NPB(日本プロ野球機構)から離れてアメリカへ渡り、最初の球団「エンゼルス」に所属していた。私は高橋弘樹様の豊富な能力、物事への執拗は探求心、お仕事柄による様々な文明の利器の使いこなし、そして文章(力)の冴えには常に、憧れを抱いている。大谷選手の言葉を借りれば、まさしく「憧れてしまっては超えられないんで」である。私は、高橋様の万能ぶりに憧れている。憧れは憧れ、憧れて損することは何もない。本当のところはこのことを書きたくて、大谷選手の名言を引用したのである。世の中にあって、大谷選手に憧れない人はいないはずである。なぜなら、「憧れを損だ」と、感ずる人はいないはずである。
立冬の季節へ入り、確かに肌身に沁みて寒気は増している。つれて夜明けの日本晴れは、いっそう青く澄み渡っている。
「立冬」に浮かんだ、ごちゃまぜの三つのネタ
語呂のいい「晩秋」という言葉には、それだけで詩情があって、わが好む言葉の範疇にある。しかし、きのうの「立冬」(十一月七日・木曜日)を境にして季節が変わり、おのずからこの言葉も遠のいた。このことでは、いくらか残念無念である。いや、言葉だけではなく立冬を境に、本格的な寒気の訪れが肌身に沁みて無念である。季節に追めぐりにたいして一々、無念などとほざくのは私に詩心がせいであろう。こちらこそ、確かな残念無念である。
きょう(十一月八日・金曜日)の夜明けの天気模様は、まだ知ることはできない(5:32)。ところが、寒気が肌身に沁みて、いよいよ寒気の訪れの自覚は十分にある。寝起きにあっては、いつものようにネタ探しをめぐらしていた。すると、これまたいつものように、まったく浮かばない。それでも私には、書かなければならない寝起きの日課がある。だから、パソコンを起ち上げるとしばし、心中でネタ探しを試みていた。すると、ごちゃまぜに、三つも浮かんだのである。ごちゃまぜだが、我楽多(がらくた)とは言えない。きょうは一つでいいから、もったいなくて、あしたとあさってへ、とって置きたい心境にある。だけどやはり、ごちゃまぜの良さもあり、箇条書きのごとくに、三つを書き連ねるものである。それらは、きのう(立冬)めぐり合わせたそれぞれの事情(事柄)である。
先ずはこれこそ、立冬に合わせたかのごとく伝えられた国内(季節)事情である。きのうの気象予報士は、こう伝えたのである。「東京ではきょう、木枯らし一号が吹きました。去年より六日(気象庁は一週間と伝えている)ほど早いです」。これを聞いて私は、何たる季節の妙、さらには机上カレンダー(先人の知恵)の正確さだと、唖然としたのである。
次には、長く世界の人々の関心事だった世界事情の結末である。すなわちそれは、きのう伝えられてきたアメリカ合衆国における大統領選挙の結果である。それによると共和党・トランプ候補が、民主党・ハリス候補に勝利し、返り咲きで二度目の大統領に決まったことである。こちらはそっけなく、結果だけを記しておけばこと足りる。
さて最後、三つめはわが家にかかわる事情である。もとよりこちらは、そっけなく済むものではなく、あまた書き添えたくなるうれしい事情である。きのうの夕方にあって、ふるさとから今年度産新米の第一便が宅配されて来たのである。三十キロ入りの馴染みのコメ袋を肩に担いだ配達人は、重たくて息を弾ませながらも笑顔を湛えて、上がり框(かまち)に降ろされた。私たちは夫婦こぞって、お礼の言葉を述べた。荷送り人へのお礼の言葉は、私が先にスマホにしがみついて電話をかけた。耳にする声の受話器を持つのは、亡き長姉の長男(甥っ子)である。私から代わった妻もまた、お礼の言葉と互いの近況交歓に長々と話し続けていた。
わが家の米は甥っ子の手を煩わして、ふるさと産米の購入にすがっている。これには数々の理由があるけど、すべてはわが一方的理由である。すなわち、ふるさと産米の美味しさ、さらには配達料を含めて、価格の安さはなどには頓着せず、もっぱら郷愁やふるさと慕情の薄らぎや決別を恐れてのことである。これにはこんなわが思いも絡んでいる。それは、わがふるさとに馴染みのないひとりっ子(わが娘)が、わがふるさとを偲んでくれるのを願って、娘宅へも無償の同時配達である。
おやおや、三つのことをごちゃまぜに書いてしまい、またまた長い文章になっている。だから、尻切れトンボを恥じず、ここで書き止めである。ネタ無し、ネタ有り、共に文章は、私には手に負えない。立冬、確かな寒気の入り日である。なぜなら、きのうの夜明けの頃は、寒さは感じなかったけれど、昼過ぎから一気に冷え込んだのである。そのあおりを食って現在の私は、寒さでブルブル震えている。前面の窓ガラスを通して眺めている大空は、晩秋の日本晴れに変わり、日本晴れだが鉛色を帯びて、確かな冬空である。
机上カレンダーが恵んだ「立冬の日本晴れ」
未だ夜の静寂(しじま)にあって、目覚めとほぼ同時に起き出している。補聴器を嵌めた耳には、雨の音、風の音なく、肌身に寒さはまったくない。洗面と歯磨きを済まして、電気(電池)ひげ剃りで顔面のひげ(髭、鬚、髯)を剃り終え、パソコンを起ち上げている。ひげ剃りには片手に、手鏡を持っていた。老いさらばえて皺くちゃの顔面を見るのは辛かった。けれど、いい年をして悔やんでも、どうなることでもない。
早起きは三文の徳とは言えない。山の「早起き鳥」に代わる、愚かな起き出しである。しかしながら、一文くらいの徳はある。それはたっぷりと時間があるために、キー叩きに焦ることがないことである。こんなのんびりとした心境をたずさえて私は、パソコンを起ち上げる前にはいつもよりもっと長く、机上カレンダーに眼を凝らしていた。私にとって机上カレンダーは、机上に置く電子辞書と共に、わが文章書きにおける大切な役割をになっている。なぜなら、私にとっての机上カレンダーは、単なる曜日の確認にとどまらないところがある。それはネタ探し、すなわち取材行動をしない、代わりの役割である。
机上カレンダー、実際には手のひらサイズほどにすぎない。それでもそれには、椅子に座したままにネタにありつけるところがある。なぜなら、これには単に曜日の羅列だけではなく、日本社会における日日(にちにち)の「行事」(歳時)が記されている。ゆえに、じっと眺めていると、カレンダーが紡ぐ「人生物語」が髣髴(ほうふつ)するところがある。これこそ、机上カレンダーにさずかる、わがネタ探しである。
さてきょうは、滅多に出合えないネタにすがることができたのである。いや、滅多にと、言うには誤りがある。なぜならきょうは、一年に一度(十二か月、紙十二枚)、記されている「立冬」(十一月七日・木曜日)である。立冬、あえて机上の電子辞書にすがることもないけれど開いた。
「立冬:二十四節気の一つ。太陽の黄経225度の時。冬の始め、太陽暦の11月7日頃」
太陽の営みのことなど、安本丹(あんぽんたん)の私には、まったく珍紛漢(ちんぷんかん)だけれど、きょうにかぎればこんな恩恵に浴している。それはネタ無し補う、格好のネタにありついていることである。立冬とは、夏が過ぎてこのあと、初秋、中秋、そして晩秋へとめぐってきた秋が終わり、いよいよ冬への季節変わりを表している。寒さ嫌いの私は、立冬の文字を眺めているだけで、心象風景は寒々しくなる。いよいよ冬の季節に入り、この先のわが日暮らしは、どうなるであろうか。きょうから戦々恐々するばかりである。
きのうの文章にあって私は、晩秋という語呂の良さと、実際にも気候の良い晩秋を称えて、未練がましく表題だけに「晩秋の空に映える、柿の生る風景」と記したのである。立冬を境にしてこの先のわが日暮らしは、おのずから「つらい、冬物語」になる。立冬、この先の寒さを慮(おもんぱか)れば、必ずしも格好のネタとは言えない。それでも机上カレンダーにすがり文章は絶えず、ようよう結びへたどりつくことができたのである。
夜明けの空は淡い彩雲を抱いて、立冬の日本晴れである。
「晩秋の空に映える、柿の生る風景」
十一月六日(水曜日)。時刻は:5:00と刻んでいるけれど、外気はいまだ暗闇にある。寝起きにあっては久方ぶりに、両耳には補聴器を嵌めている。雨の音なく、風の音なく、そして山鳥の声もない。ただ聞こえるのは、五月雨式に響くキイー叩きの音だけである。夜長は年の瀬の「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、正規軌道をずんずん進んでいる。
きょうの私には、妻を「大船中央病院」(鎌倉市)へ、引率同行する予定がある。整形外科における予約時間は午前十時である。このこともあって、現在のわが心模様はいくらか逸(はや)っている。予約を為して定期的に訪れるこの通院は、わが家にとっては面倒であり、しかし必要悪とも言える、大切な繰り返しである。恨みつらみのごとく、妻の引率同行のことばかりを言っておれない。なぜなら、来週の十二日(火曜日)には、私自身の「大船田園眼科医院」への単独通院がある。この通院は、妻の通院よりはるかに質(たち)が悪く、わが命が果てるまでのエンドレスとなりそうである。通院理由は緑内障の経過観察であり、それにかかわる予約は、半年ごとと決められている。ところが、通院しても三分間診察にさえとどかず、二分ほどで「はい、いいでしょう」と、主治医の一方的宣言を聞くだけである。これだけでは会話にさえならず、私はいくらか腹立ちまぎれに主治医にたいし、こんな無謀な問いを投げかけた。薬剤は、一日に一度の点眼である。
「先生。自覚症状はまったくありません。それなのに通院と目薬は、まだ続くのでしょうか。死ぬまで続くでしょうか。私の自己診断では、もうどちらも打ち切りでいいかなと思っています」
すると、ようやく会話が成り立ち主治医は、怒りの表情や悪びれる様子もなく、「まだ、続けましょう。命果てるまでこのままで済めば、儲けものじゃないですか」「はい。分かりました。きょうは目薬を六本、お願いします」。
書き殴り特有に突然、用意しないネタを入れ込み、無駄な文章を長々と書いてしまった。いまだ途中だけれど、早やてまわしに平に詫びるところである。
薄々と夜が明け始めているけれど、朝日はまだ隠れていて、空の色は鉛色である。きょうの天気予報では午前中は曇り、午後にはしだいに晴れ間が覗くという。
さて、アメリカ合衆国では、長い間の「大統領にかかわる選挙戦」を終えて、日本時間のきのうの夜から開票が始まっている。共和党候補・トランプ氏と民主党候補・ハリス氏の一騎打ちは、日本の総選挙とは異なり、全世界の関心事で明け暮れてきた。選挙戦は終了間際まで両者、ほぼ五分五分と伝えられていた。こんなことでやはり、海の向こうとはいえ私も、新たな大統領の誕生には関心がある。
他国の選挙ゆえに、わが意を披露することは構わないであろう。両者の政策などには関係なく、テレビ画面を通して見た目、私はハリス氏の当選を願っている。そしてそれが叶えば、アメリカ合衆国における初めての「女性大統領」と言われている。現下の世界は、ロシアとウクライナの戦争のみならず、あちこちの国々おいて戦争勃発の危機が高まっている。こんなおり、トランプ候補の仏頂面は、真っ平御免蒙りたいものである。
ここまではきょうの文章の出まかせの付け足しであり、書き出す前に構えていたネタの本旨は、このことだったのである。すなわち、「晩秋の空に映える、柿の生る風景」だった。表題もあらかじめ決めていたのに、付け足し文のお邪魔虫に遮られてしまったのである。自分自身、わが頓珍漢には呆れるばかりではなく、もったいない気分横溢である。
机上のカレンダーを見遣ればあすには「立冬」(十一月七日・木曜日)とある。わが好む語呂のいい「晩秋」は、中途半端にこの文章の尻のところでちょっぴりの書きおさめである。残念無念の思いつのる、晩秋の無駄な一文となってしまった。
大空は予報どおりに昼過ぎから晴れるだろうか。その兆しは見えて大空は、少しずつ鉛色を蹴散らして、薄青く日本晴れになりつつある。実のない書き殴りは、草臥れ儲けさえにもならず、もう懲り懲りである。未練たららに「晩秋」、表題だけでも留め置くものである。文尾にあってはやはり、二度目の詫びを入れなければならない。いやいや、何べんも詫びを入れたい心境にある。
好天気が恵んだ、わが家の好日
十一月五日(火曜日)。いまだ夜明け前にあり、夜明けの天気を知ることはできない。しかし、雨の音、風の音はない。きょうの気象予報士の予報は、雨無しの曇りである。予報が当たれば雨は免れるけれど、好天気は望めそうにない。雨よりはましだけれど、おととい、きのうと続いた好天気が途絶えることは残念無念である。だけど、自然界(気象)現象のことゆえに腹を立てることはできない。いやいや顧みて自然界(気象)は、三連休の残り二日にあっては、人間界この場合は日本社会に限定し、至上の粋な計らいをしてくれたのである。具体的にはおとといの「文化の日」(十一月三日・日曜日)、それに続くきのうの「振替休日」(十一月四日・月曜日)にあっては、日本社会にこれ以上はないほどの好天気をもたらしたのである。
わが思う「文化の日」は、長年にわたり日本社会に尽くされてきた人たちを称えて、日本国民こぞって感謝と祝意を示す日であろう。さらには日本国民のだれもが日本文化を尊び、いっそうの醸成を願って、「国民休祭日」として定めているのであろう。わが当てずっぽうゆえに、文化の日の定めの本旨については、文章を書き終えたのちに、ネット記事からの学びをする心づもりにある。
さて、「文化の日」にあっては功労者(式典や祝辞)を称え、かつまたこののちの日本社会における、文化の醸成を願う大切な日にあって、自然界(気象)は絶好・絶妙の秋晴れを恵んでくれたのである。文化の日に続く「振替休日」にもまた、それを超えて絶頂とも思える好天気を恵んでくれたのである。確かに、三連休の初日(十一月二日・土曜日)には、土砂降りをともなう雨嵐だった。しかしながらこの日の雨は、気象予報士が伝える予報の想定内だった。明けて自然界(気象)は、三連休の残りの二日、すなわち三日と四日にあっては、予報どおりの好天気をもたらしてくれたのである。このことでは文化の日の祝典、明けて振替休日にあっては物見遊山、共に晩秋の絶好の秋晴れに恵まれたのである。物見遊山ではその絶好の証しにも思えて、わが家近くの「天園ハイキングコース」には、私が意図して掃き清めていたわが家周りの道路を踏んで、老若男女(ろうにゃくなんにょ)多くのハイカーがコースの入口へ向かっていた。
私はいつものように独り、秋晴れに誘われていつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。好天気の下、すこぶる気分の好い買い物だった。買い物に繰り出していた多くの人たちもまた、好気分だったのであろうか。物価高のおりにもかかわらず、多くの品物を手あたりしだい籠に入れて、レジでは躊躇なくお金を支払っていた。現下の日本社会は総選挙を終えてまだ日が浅く、人心の乱れるところにある。しかしながら、三連休の残りの二日の好天気は、総じて日本国民の気持ちに和みを恵み、日本社会にいっときの平和をもたらしていたのである。この間は、21号台風のニュースも薄らいでいた。さらには、天変地異鳴動のニュースも免れていた。繰り返しくどくほど書いたのは、わが自然(界)賛歌の極みに遭遇し、その幸運を堪能していたからである。
あれれ、夜明けは朝に向かうにつれて、大空のところどころには白雲を浮かして、日本晴れの風景を見せ始めている。欲深い私は、曇りの予報を覆し、三日続きの秋晴れを願っている。秋晴れでも、きょうには買い物の予定はない。きのう、たくさん買い込んだからである。きのうの買い物帰りにはバスを降りて、わが家へ続く道の途中にあっては、私は背中のリュックの重さと、両提げの袋が道路に這いそうなのを気遣って、何度も立ち止り、フーフーと息を吐いた。秋晴れはわが額(ひたい)から、地上に汗を垂らした。見上げる大空は、隈なく日本晴れだった。重たい足取りは弾んだ。
玄関口のブザーを押すと、かなりの時間が経って、妻がにこやかにドアを開けた。
「ありがとう」
私は倒れ込むようにして土間へ入った。
「ご苦労さん。パパ。汗がいっぱいよ」
私は、妻から渡されたタオルで汗を拭いた。秋晴れが恵んだ、わが家の好日だった。
祟りと幸運
きのうの「文化の日」(11月3日・日曜日)を挟んで、3連休最終日の「振替休日」(11月4日・月曜日)の夜明けにある。夜明けの空はいまだ薄っすらだけど、だんだん明るみ始めている。昼間へ向かうにつれて、二日続きの好天気になりそうである。
3連休にあっての空模様は、気象予報士の予報に違わず、初日(11月2日・土曜日)の雨嵐は、日を替えるとぴたり止んだ。この後には一日じゅう、予報どおりに胸の透く好天気が訪れた。きょうの予報は、二日続きの秋晴れである。夜明けの空を見るかぎり、気象予報士の予報は、三連休にわたり満点になることは確かである。突然、雨が降り出さないかぎり私は、今回の予報いや気象予報士にたいして、万雷の拍手喝采だけではすまなくて、心中で声なく(あっぱれ!)と雄叫(おたけ)している。
私はほぼ定時(6時)近くに起き出している。起き立ての気分は、きのうの祟(たた)りはとれて良好である。きのうの祟りとは、深夜にあってかつまた長文を書いてしまい、それによりほぼ一日じゅう、眠気と疲れをこうむっていたことある。これすなわち、きのうの私が見舞われていた悪の報(むく)い、祟りだったのである。祟りは就寝時までこうむっていた。ところが就寝中にはその反動で幸運に恵まれたのである。普段の就寝中には頻尿で何度も起き出し、悪夢にもしょっちゅう魘(うな)され、挙句には一度目覚めると二度寝にありつけず、悶々として長く寝床に寝そべっている。ところが昨夜は、就寝中の三悪を免れたのである。ゆえに現在の私は、なんだかきのう祟りが罪滅ぼしでもしてくれたかのような、ウキウキした「たなぼた気分」にある。しかし、好事魔多し。
このところの私はパソコン、実際にワード機能に戸惑い、書いては消えまた書くという、憂き目に遭遇している。挙句にはこんな短い文章にさえも四苦八苦をこうむり、時間はいたずらに過ぎてゆく。だからもう懲り懲り、尻切れトンボのままを恥じて、ここで結文とするものである。伏して、詫びるところである。幸いなるかな! 夜明けから朝、そして昼へ向かう日光は、もう全天候型に大空を日本晴れに輝かしている。しばし大空を眺めていると、祟りの気分は失せて、幸運の気分に変わりつつある。きょうの私は、不断の「自然(界)賛歌」に浸れそうである。ワード不調のせいで、いやわが無能のせいで、なさけなくも、ずいぶん苦労した文章である。
深夜、「よふけ」の意味調べ
目覚めて二度寝にありつけずに、しかたなく起き出している。パソコンを起ち上げる前に、机上に置く電子辞書を開いて、簡易な日常語「よふけ」の意味調べを試みた。
夜更け・夜深け:夜がふけたこと。また、そのころ。深夜。
さらには「ふける」の意味調べを試みた。
ふける『更ける・深ける』:夜が深くなること。深更になる。
現在のデジタル時刻は目覚めてからかなり時が過ぎて、1:53と刻んでいる。簡易な日常語にもかかわらず、なぜ時間をかけてまで電子辞書に縋ったかと言えば、その理由はこうである。「夜がふける」という言葉の用い方に、不安を抱いていたからである。意味調べのあとでは、不安なく用いられそうである。
私が目覚めたのは、きのうときょうの境(区切り)あたりの12時頃だった。それゆえに、「よふけ」の用い方に戸惑っていたのである。電子辞書の「よふけ」には「深夜」ともある。すると「よふけ」は、日替わりの区切りに関係なく、どちらにも用いることができることを確信できたのである。
私は電子辞書を寝るときには枕元に、起き出して来てパソコンを起ち上げるときには机上に置いている。言うなれば電子辞書は、枕元の友であり、机上の友でもある。電子辞書は国語辞典に比べれば、雲泥の差のごとくにかけ離れて、軽量ゆえの簡便さがある。このことに味を占めて、かつて(六十歳の手習い初めの頃)の私は、買い物のおりの背中のリュックには、必ず電子辞書を入れていた。
わが不断の買い物の街・大船(鎌倉市)までは、定期路線のバスに乗り、片道20分ほどかかる。もちろん、往復乗らなければならない。途中、バスが渋滞に巻き込まれるときなどには、往復にすれば1時間ほどかかる場合がある。そんなとき、バス乗車に強いられる長い時間に沸き立つ腹立たしさを収める役割をしてくれていたのは電子辞書だった。
携帯電話の頃までもときには、私はリュックの中には電子辞書をしのばせていた。買い物帰りのわが姿は、背中には買い物を入れてダルマのように膨らんだ国防色の大型リュック、さらには気を引き締めていないと、今にも地に這いそうになる両手提げの買い物袋を持っている。だからバスを降りてこの姿は、戦時中あるいは疎開先での買い出し風景の丸写しだなと思い、自分自身自嘲気味に横揺れ、ヨタヨタしながらわが家への道を歩いている。
携帯電話をスマホへ買い換えて以降は、おのずから電子辞書の役割はスマホに代わり、大助かりである。しかしながら、スマホにも難点がある。すなわちそれはすばやい電源切れである。ところがこれに気付いて以来、私は携帯用の充電器を購入しリュックに入れて、臨戦態勢でバスに乘っている。
もちろん、こんなことを書くために深夜に起き出しているわけではない。けれど、きょうの咄嗟のネタ代わりにはなっている。語彙(言葉と文字)調べにあっては、電子辞書とスマホの効用はどっこいどっこいである。だから私は、電子辞書およびスマホ共に、特長を理解して使い分けている。
かつて、愛読書とおして馴染んでいた国語辞典類は書棚の中で、終活の対象物として怯(おび)えている。だけど、かつての恩恵を鑑みれば無下(むげ)にはできない。一方、電子辞書とスマホはわが命尽きるまで持ちこたえそうである。ところが、こんなに有効便利なものがありながら、わが生涯学習はすでに頓挫している。
山の早起き鳥の鳴き声を待たずに目覚めて起き出したのは、私は気狂い(認知症)なのであろうか。自分自身にはその自覚(認知)はないけれど、人様の認知は知りようがない。「文化の日」(11月3日・日曜日)の「ダジャレ文」と願うところである。夜長にあってはまだ、よふけ(深夜)と書いてよさそうである。時間がありすぎるのも、書き殴りが長くなるばかりで、困ったものである。
「文化の日」はさむ三連休、天気模様あれこれ
11月2日(土曜日)。夜長にあって、気狂いでもしたかのように、早い目覚めと起き出しをこうむっている(3:36)。せっかくの夜長にあっては熟睡、できれば安眠、すなわちダブルの睡眠を貪ればいいのに、それが叶わず大ソンソン(損々)の心境にある。やはり私は愚か者である。しかし、起き立ての気分は良好であり、さらにはいつもであれば襲われる朦朧頭や眠気眼はない。これらはまったく久しぶりに短い時間で深い眠りに陥り、かつまた悪魔に魘されることを免れたためなのかもしれない。もとより、きょうは雨の予報である。
起きてきてパソコンを起ち上げる前に私は、最寄りのカーテンと窓ガラスを開いて、雨模様を確かめた。山の法面に立つ一基の外灯は、淡く道路を照らしていた。すでに道路は濡れて、小降りの雨がチラチラしていた。雨の予報は、早い降り出しだった。私は気象予報士が伝える雨の予報にたいしお門違いに、気象予報士にたいしてかなり腹を立てていた。それはわが心中にこんな、二つの悔い心を浮かべていたからである。一つは(たった二日ほどで、もう秋晴れを断つのか)。一つは(きのうは3時間半ほどをかけて丹念に、山の側壁、その下の側溝などからすべての草を抜き取り、道路および周辺をきれいにしたばかりなのに……)という、無念の思いだったからである。半面、悔い心へのわずかな慰めは、これまた気象予報士が伝える予報だった。それには、こんな予報は加わっていたのである。雨はきょう一日限りで、三連休にあってあすの「文化の日」(11月3日・日曜日)、そして翌日の「振替休日」(11月4日・月曜日)にあっては、好天気になるという。私にとってこの予報は、大いなる救い(僥倖)だった。なぜなら私は、日本列島の南あたりでさ迷っている、台風21号の「雨降らし」を懸念していたのである。
あすにはわがテレビ観戦を構えている、「男子、全国大学駅伝」がある。現在開催中のプロ野球の日本シリーズ、すなわち横浜ベイスターズ対福岡ソフトバンク戦は、球場を再び福岡から横浜へ戻して、きょうあすに最後の決戦(あと、1あるいは2試合)が予定されている。「文化の日」前後は、気象(庁)データ的に晴れの日が多いという。そのため、この日あたりを狙ってなのか? この前後には高校や大学では、文化祭あるいは大学祭の盛りにある。あいにくきょうは雨だけれど、幸いにもあすとあさっては晴れの予報にある。こんな好季節、なかんずく三連休にあって、雨続きは真っ平御免蒙りたいものである。なんだかくだらないことを書いて、なおこの先を書けばいっそうくだらくなりそうである。だから、ここで心して結文とするものである。
この文章とは結びつかないけれど、書き添えて置きたいものがある。それはこれである。高橋弘樹様からはいつもの「大、大、大エール」に加えて、きのうはテレビ番組の「録画取り」へのアドバイスをいただいた。高橋様のエールとアドバイスには、常々、感謝しきりである。録画取りに関して、あえてわが家の事情を書き添えればこうである。録画機能は妻の独占状態にあり、わが好む番組が入り込む余地(隙)はまったくない。実際には妻が好む、歌と料理番組の録画ばかりが詰まり、いつも余りはまったくない。妻の場合は、すでに観た番組さえ消さず、残しぱなっしである。外出がままならず、かつまたテレビ視聴は、妻の唯一の愉しみでもある。だから私は、これには逆らえず、いや老いてこんなことで口喧嘩をするのは野暮天でもある。だから私は、録画取り機能のすべては妻へ譲っている。高橋様の貴重なアドバイスへの御礼を兼ねて、わが家の貧弱な事情(テレビは一台しかない)書き添えるものである。高橋様には失礼窮まりなく、伏してかたじけなく思うところである。
夜明けはまだお訪れないけれど、たぶん雨の夜明けであろう。きょう限り、一日じゅうの雨は、もとより我慢のしどころである。