ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

わが生涯学習は「臨場主義」

 2月25日(火曜日)。世界世相の一端とひねくって、寝起きに浮かべていた言葉を電子辞書の記述を丸写し、復習を試みたものである。ちなみに、ゼレンスキー大統領(ウクライナ)とプーチン大統領(ロシア)の争いにあって、「漁夫(ぎょふ)の利」を得そうなのは、ずる賢いトランプ大統領(アメリカ)である。
 【鷸蚌(いつぼう)の争い】(戦国策・燕策)。「(鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)とが争いに夢中になっている間に、両方とも猟師にとられたという故事から)、二人が利を争っている間に、第三者にやすやす横取りされて、共倒れになるのを戒めた語。
 【漁夫の利】(戦国策・燕策)。「双方が争っているすきにつけこんで、第三者が利益を横取りすること」。
 わが生涯学習の教材としては極めて適当で、すんなりと理解できるところがある。この文章は、書くつもりがなかった余分である。

近場の妻だけの慰安旅行

 午前10時過ぎにわが家を出発。午後
5時近くに帰宅。行き先1番、妻の髪カット(1500円)。行き先2番、高級回転寿司(4210円)。行き先3番、昼カラオケ(2600円)。行き先4番、タイの刺身ほか惣菜の買い入れ(3260円)。最長在所時間・昼カラオケ店三時間半近く、妻5曲歌い我れ無し。私はほぼ昼間じゅうお金払いだけに付き添いました。2月24日(月曜日、振替休日)。妻は喜び勇んで、いっとき若返りました。これは良いほうの我が日暮らし。 だから、ためらうことなく書きました。

三連休最終日「振替休日」

 働き者がしばし浮かれて、心身を休める三連休最終日、すなわち天皇誕生日にかかわる「振替休日」(2月24日・月曜日)の夜明け前にある(5:41)。職業を持たない私は、三連休にかぎらず年がら年じゅう休日状態にある。喜ぶべきか! いや、こんな厚遇にあるのは、すでに働く気力を失くし、終末人生を無為いたずらに生きているせいである。加えてこのところの私は、身体五官機能のあちこちに不良を生じて、とみに気分が滅入っている。かてて加えて寝起きの現在は、予報に違わぬ大寒波の襲来を身に受けて、気分の滅入りは極限状態にある。おのずから文章を書く気力は殺がれ、気分の落ち込みは輪をかけて、抜け出ようのない陥没(穴倉)に嵌っている。ゆえに無理してこの先を書けば、自分自身では制御(制動)のしようのない「知っちゃかめっちゃか」の文章になること請け合いである。それを恐れかつまた恥じず、尻切れトンボをも厭わず、この先は書かずじまいにある。
 一つだけ涙雨を零しながら付け足せば、きょうのわが行動予定には、妻の髪カットにともなう引率同行がある。併せて書けば、きょうの鎌倉地方には、小雪予報が出ている。だから、足止めを食らうほどの降雪にならないことを願っている。
 つと立った。カーテンと窓ガラスを開いて、薄明りの夜明け模様を確かめた。しめしめ、まだ雪は降っていない。現在の時刻は、再び寝床へ潜るに十分である(5:59)。

天皇誕生日

 ほぼ定時(5時)に起き出し、パソコンを起ち上げた。ところが、あまりの寒さで咳ひとつ、身体震えて、風邪をひきそうになり、大慌てでとんぼ返り、再び布団に潜り込んでいる。
 天皇誕生日(2月23日、日曜日)。浩宮様は、65歳になられている。昭和、平成、令和。年代とは、命の期限にともなう、巡回なのであろう。そして、社会とは当該時代を生きる人間の集合体であると、私はあらためてひしひしと実感している。昭和の日本社会には戦争があった。その終戦年(昭和20年・1945年、8月15日)からことし(令和7年・2025年)は、80年を迎えている。戦後のこの間にあって日本社会は、新たな戦争を免れている。現在のわが年齢は、昭和の戦争をわずかに知る84歳。幼い心に、警戒警報や空襲警報の恐ろしが張りついていた。その体験を呪(のろ)う老婆心は絶えない。戦争のない平和こそ、人間の集合体の価値であろう。寒波に震える私は、つくづくなさけない。

三連休は「大寒波と大雪」

 2月22日(土曜日)、夜明け前にある(5:29)。そして、あすの「天皇誕生日」(23日・日曜日)、それに続く「振替休日」(24日・月曜日)へ繋がる、三連休の初日を迎えている。
 「三連休 大寒波が到来、警報級大雪のおそれ」(tenki.jp)。
 予報に違わず、大寒波の中の寝起きにある。身体のみならず精神共に震えて、この先、たわいない文章を書く価値は無さそうである。それでも私は、価値ない文章を、継続の途切れを危ぶんで書き始めている。読んでくださる人にはひたすら詫びて、まったく自己都合の文章にすぎない。人間も動物に含めて「動物社会」は、もとより弱肉強食旺盛の社会である。生きることに強い者がいて、生きることに弱い者がいることはしかたがない。しかし、「人間社会」にあって、悪人(悪徳者)が蔓延(はびこ)ることだけは、真っ平御免蒙りたいものである。ところが、現実の人間社会にあっては、悪人の横行跋扈(おうこうばっこ)が絶えない。もし仮に、人間社会が善人だけであれば、人間はどれほど住み良く、かつまた広く地球は、どれほど「円満の球(たま)」であろうか。つくづく、(もったいない、なあ……)と、嘆くところである。
 人間社会は人の集合体なのに、為政にあってはたった一人の最高権力者の施政や人格の良し悪しで、こうも変わるものかと呆れるばかりである。幸いなるかな! 日本社会ではなく、限られた他国から伝えられてくる「つきまくる悪態現象」である。もちろん施政に限らず世の中には、悪徳者の為す大小あまたの詐欺、強盗、殺戮(さつりく)、傷害、その他の事件は、日常茶飯事に絶えることはない。もっと腑に落ちないことには、進化を続ける文明社会の現代の世にあってなぜか? 私にはこの手の事件が累増(るいぞう)しているように思えているからである。すると、これらの元凶は、富を分ける格差社会のせいなのか、国境を跨(また)ぐグローバル社会のせいなのか、情報の入手を容易(たやす)くするデジタル(SNS)社会のせいなのか。
 もうやめよう。なぜなら、寒気に震えてまでして、究(きわ)めることでもなさそうである。いや、わが老耄(ろうもう)の知恵の及ぶところではない、犯人捜しだからである。わが柄でもなく、そして書くまでもないことを書いたのは、寒気を言い訳にして、文章の絶えを恐れからである。大寒波の訪れは夜明けて、寒空にあって胸の透く日本晴れとのコラボ(協奏)を演じている。

「カンフル注射」と「慌て者の春」

 2月21日(金曜日)。「春眠暁を覚えず」。ネタ無しをこの成句にすがるには、まだ早い。慌て者の春が来たのだろうか? 朝寝坊をこうむり、時間に急かされて文章が書けない。きょうはこんな言い訳をして、凡愚のわが身を守っている。きわめて身勝手で、頓珍漢な言い訳である。
 きのうは迷いかつ萎えていたわが心象に、名医・大沢さまから効果覿面のカンフル注射が打たれて、寸でのところで以降の文章断ちを免れた。いや、カンフル注射が打たれる前は、死人同然の状態だった。だから、確かな生存(生き返り)の証しには無傷で、できれば流暢(りゅうちょう)な文章を書けばいいのにそれは叶わず、心臓の鼓動だけにありつく、体(てい)たらくの文章を書いている。しかしながら、文章が拙(まず)いことはそっちのけにして、寝起きにありついていることには快哉(かいさい)をおぼえている。すなわち、この文章は、ただいたずらに、生きている証しだけの文章である。
 「ひぐらしの記」の誕生にあって大沢さまは、「前田さん。何でもいいから書いてください」と言われた。この言葉に甘えて私は、身の程知らずに三日坊主を恐れて書いてみた。ところが以後、果てしなく長く続いてきたけれど、文章の体はいまだにヨチヨチ歩きである。この文章はまさしく、その証しでもある。
 きょうは朝早く、妻を伴って外出の支度が待っている。行き先は、神奈川県横須賀市内にある「眼鏡市場」である。用件は、先日購入済みの妻のメガネの出来上がりの報を得て、その受け取りである。大沢さまのカンフル注射は、文章の出来は悪いけれど、願ってもない継続を可能にしたのである。まるで気狂いみたいな文章だけれど、心情は確かな御礼の文章である。慌て者の春は、それなりに清々しい春の息吹ただよう、日本晴れを恵んでいる。わが心身は、無償のカンフル注射の効き目で、潤(うるお)い華(はな)やいでいる。

起き立ての心境

 2月20日(木曜日)。寒気がぶり返している。「春の音」を足踏みして、自然界の見え見えの悪戯(いたずら)と言えそうである。いや、春の音を悦ぶ人間界に対する、自然界の僻みや妬みなのかもしれない。一方、私もなさけない。なぜなら、こんな様にならない心境を携えて起き出している。
 寝起きにあって、文章を書かなくて済めば極楽気分である。ところが一方で、寂しい気分でもある。だから、いまだ二者択一を決めかねて、私は常に迷いの気分を同居させて起き出している。しかし、正直な気持ちではもう書かずに、安楽な気分に浸りたい思いのほうが勝っている。だけど、まだ迷っている。大沢さまから授けられているご好意を無下(むげ)にすることには、もったいない気分が横溢しているからである。
 このことはすでに一度、書いた記憶がある。すなわちそれは、途絶えていたわが生涯学習のヨロヨロの再始動のことである。私は就寝中の枕元には地震や停電に備えて、大慌てで「ヤマダ電気」から買って来た、懐中電灯を置いている。これに加わるものでは、スマホ、電子辞書、「難解語便覧」(三省堂)、はたまた市販の薬剤(風邪薬と便秘薬)などがある。どれもが、わが刹那(せつな)の命を助ける、「生存備品」と自認するものである。二つの辞書類だけは、それには役立たずと思うところはある。だからと言って、付け足しとも言えない。なぜなら共に、わが生存における「生き甲斐づくり」の一端を担っている。
 わが心中には常に、(もう書かない、もう書けない)と、声なき声が蠢(うごめ)いている。だから、きょうも書けそうにない心境で起き出している。ところが、こんな様にならない文章を書いている。それはやはり、大沢さまから授かっている、わが生涯学習の実践の場を失くすことを恐れているためである。私は、大沢さまのご好意に食いつく「ダボハゼ」さながらである。
 子どもの頃の私は、春になればふるさとの「内田川」で釣り糸を垂れて、「ゴーリキやシーツキ」(川魚のハゼ類)などを嬉々(きき)として釣り上げていた。翻って私はなけなしの脳髄に怯えながら、大沢さまのご好意に食いつき釣り上げられている。だけど、大沢さまのこの好意が無ければ、わが定年後の世界は闇の中であったのである。
 春の音の足踏みはしばし止んで、春霞の夜明けが訪れている。こんな、起き立て、出まかせ、相同居する文章など、書かないほうが身のためだったのかもしれない。文章書きは、わが凡愚の脳髄には負えない。挙句、常に出鱈目(でたらめ)文章である。

心境を吐露する、メール文

 2月19日(水曜日)。寝床に寝そべり、スマホ片手に書いている(2時37分)。こんなずぼらな行為や気分ではもとより、書かないほうがましである。恥を晒すことに併せて、掲示板を汚すことにはほとほと忍びないものがある。それを承知で書いているのは、こんな文章でも書かないと、この先、文章は沙汰止みになる。
 きのうはずる休みをして、継続をすがる惰性書きを断った。すると、おのずからわが文章の継続はあり得ない。だから、もとより文章とは言えないこんなことを書かいて、沙汰止みの寸止めを願っている。「ひぐらしの記」にあらず、苦肉のメール文にすぎない。わが身、哀れである。

無念!

 2月17日(月曜日)。痛憤をおぼえ、虚しさ、切なさ、遣る瀬無さを募らせて、起き出している(5:00)。拉致被害者・有本恵子さん(失踪時23歳)のお父様が亡くなられたという(2月14日、96歳)。拉致被害者の親世代で残る人は、横田めぐみさんのお母様(89歳)、お一人だけという。きょうはこれらのことだけで、ほかは書く気になれない。手抜きではない。書く価値がないからである。老いて、私は84歳。一人娘の親の心情は、他人事にはできず痛切きわまりない。書くべきではなかったのかもしれない。なぜなら、無傷のわが心情は、めぐみさんのお母様のつらい心情を逆なでしているのかもしれない。いたずらに「時」が過ぎてゆく。無念!

人生の「コストパフォーマンス」(費用対効果)

 2月16日(日曜日)。気違い沙汰のことを心中に浮かべて、起き出している。寒気はまったく感じない。だから、気分が緩んでいるためなのか。そうであれば、飛んだとばっちりをこうむっている。私は、まったく価値のない妄想に取りつかれている。「コストパフォーマンス」(費用対効果)とは経済界において、いや、あらゆる物事において、効率度合いを測る重要な尺度と言えそうである。この言葉を当て嵌めると人生には多くの金額の費消に対し、どれほどの見返り(利)があるのであろうか。「衣食住、その他」にかかわる金額だけではなく、もとより金額に換算できない精神の費消(負担)もある。これらを鑑みれば、人の生存(命)には、どれほどのコスト(費用)が掛かっているのであろうか。もちろん、測りようはない。だけど生き様に、それら(負担)に見合う、生き甲斐や楽しみは適(かな)っているのであろうか。野暮ったく言えば、生存(命)の「コストパフォーマンス」(費用対効果)は、利にのっているのであろうか。幸いにも私は、こんなことには無頓着に日暮らしを続けている。こんなことを書くようでは、もはや「ひぐらしの記」はおしまいである。
 自然界は冬衣(ふゆごろも)を脱ぎ捨てて、春を近づけている。のどかな朝ぼらけにある。アホの私は変わらず、間抜けなことを書いている。