ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
欲ボケの文章
9月27日(金曜日)。小雨そぼ降る夜明けが訪れている。なさけなくて書くまでもないことを浮かべて、パソコンを起ち上げている。すなわち、風邪薬服用のせいで深く寝入り、寝坊助を被(こうむ)り文章書く時間が殺がれている。悪夢に魘されて二度寝にありつけず、悶々として仕方なく早く起き出すよりは、いくらか増しではある。しかし、起き立てに文章を書く習性にある私にとって、そのことではこちらがはるかに痛手である。挙句、私は切迫時間に急かされて、殴り書きと走り書きの抱き合わせを被ることとなる。もとより、こんな急(せ)いた心象では文章は書けない。結局、わが能力の限界を知り、私は臍(ほぞ)を噛むばかりである。
私は、長年ヨチヨチ歩きで文章を書いてきた。今は、袋小路に入りさ迷っている。こんなとき常に浮かぶのは、「もう潮時」という、諦念の繰り返しである。先走りするけれどきょうは、この先の文章は諦めて、キー叩きはここで止めることとする。続ければ文章とはなり得ず、おのずから私は、いっそう悶々とするばかりである。こんな文章を掲示板へ移行して、継続の足しにすることには、恥じ入るところがある。しかしながら、恥晒しに慄(おのの)いていては、もとよりわが文章の継続はあり得ない。長く下手な文章を書き続けてきた私の場合、案外、恥晒しは継続を叶えた「飯(めし)の種」だったのかもしれない。
小雨はこの先、大雨になるのであろうか。一時の大雨は構わないけれど、秋の長雨だけは御免蒙りたいものである。こんな文章には表題のつけようはない。けれど、せっかく書いた文章だから没するに愛惜きわまり、私は何らかの表題を付けて残す浅ましさにある。
欲ボケは認知症に次いで、年寄りにいや私に、顕れる症状なのかもしれない。私は心中で(くわばら、くわばら……)と叫んで、逃げる態勢で欲ボケに抗(あらが)っている。飛んだ文章を書いてしまった。こんな文章、あすは書きたくない。
寝起きの一筆、無念
9月26日(木曜日)。山の早起き鳥は鳴かなくても、一晩じゅう悪夢に魘されて眠れず、やむなく夜明け前に起き出している。雨戸やカーテンの造作のない窓ガラスを通して見る外気は未だ暗く、夜明けの天気模様を窺うことはできない。暗い中にあって一つだけわかることは、空き家を崩して空き地となっている植栽に立つ、高木の枝葉の揺れはまったく無く無風状態にある。また窓ガラスには、雨粒や雨筋はいっさい見えない。強風が吹きまくっていたきのう夜明けとは現在、様変わりの状態にある。このことではたぶん、夜明けにあってはのどかな朝ぼらけが訪れるかもしれない。
一方、わが身体のことでは寸分変わらず、きのうの風邪の状態を引き継いでいる。挙句、すでに何度も机上に置く箱に手を伸ばし、テイッシュを取り出して垂れそうな鼻汁を未然に防いでいる。テイッシュを取り出して両手で鼻を擤(か)むたびに、指先はキー叩きを止める。おのずから文章は、遅々として進まない。さらには指先と言い合したかのように脳髄もまた、気鬱を言い訳にして働きを止めている。ゆえに、この先の文章は書けない。いや、ここまで書くのに長い時間が経っている。その証しにこの間に、夜明けが訪れている。
雨・風はなく、ところどころに彩雲を抱く、のどかな日本晴れの夜明けである。わが気鬱晴らしは、しばし大空すがりである。
弱り目に祟り目
彼岸明けの夜明けにある(9月25日・水曜日)。曇り空にあって、強く風が吹いている。外にしばし佇めば、かなり寒いであろう。昼間の秋風は心地良いけれど、朝夕の風は冷えていて、寒さに身が縮むことになる。きのうの昼間は、もっと強風に晒されていた。わが清掃区域から遠く離れて見えないところから、まるで「枯れ葉川」を成して、わが宅地の側面にぶち当たり止まっていた。私は強風のさ中、箒、塵取り、そして70リットル入りの透明袋を持参しそれらを浚い、両手で力いっぱい押し込んだ。こののちは、やっとこさビニールテープで結んだ。
きょうは週一、木屑、落ち葉、薪、木々の伐採物などを、ごみ置き場に持ち込んでいい日である。だから、文章を閉じた後に、庭中に置いている袋をそこへ運べば、きのうからの一連の流れはようやく終結となる。反面、幸いかな! 今朝の道路の清掃は免れている。しかしながら今の風の吹きようを鑑みれば、昼間にあってはきのうの二の舞を強いられるかもしれない。
彼岸の入り日(9月19日)、中日(秋分の日、9月22日)、そしてきょうの彼岸の明け日へと続いた一週間にあっては、すっかり気候を変えている。すなわちそれは、思いがけなく早い寒気が訪れにある。私は机上に置く電子辞書を開いて、これらを見出し語にしてあえて確かめた。こんなことばを電子辞書にすがる私は、たわけも者である。見出し語にしたのは、「夏風邪、秋風邪、冬風邪、続いて夏風、秋風、冬風」である。ところが、電子辞書にすがるまでもなく案の定、見出し語に応じて記述があったものは、「夏風邪と秋風」の二語にすぎなかった。分かりすぎていたことなのに、あえて電子辞書で確かめたわが行為だった。これこそ、たわけ者のゆえんである。
二語を用いて、短く文章を綴ればこうである。「私は秋風が吹く頃までにとうとう夏風邪を引きずり、それに加えてきのうから、本格的な風邪を重ねてしまったのである」。本格的に替わる、秋風邪あるいは冬風邪の言葉があれば、もちろんそれらのいずれかを用いた。ところがそれらはなく、だから場当たり的に「本格的」という言葉を用いたのである。実際のところ「本格的風邪」などとは、曖昧模糊としてその場しのぎにすぎない。ただ私の場合、体験的に言えることは、わが夏風邪症状は鼻炎症状をあからさまにして、実際には頭重と鼻汁がひどく、始終不快感を被るものだった。しかしきのうからはこれらに加わって、咳とクシャミの連発、さらには鼻汁の垂れ流しに見舞われている。これらこそまさしく、自分的には本格的な風邪症状と言えるものである。もちろん、気鬱症状はなおいや増している。これにみあう成句を用いれば、飛んだ「弱り目に祟り目」である。
長々と書いたけれど彼岸の明け日おける、風邪の現在地である。寝起きの書き殴りの文章はこりごりで、この先は書き止めである。夜明けの風は、きのうの昼間を超して強風になっている。私には、きのうの二の舞が案じられるところである。
一足飛びの寒気の訪れ
「秋分の日」(9月22日)が日曜日と重なり、その「振替休日」(9月23日・月曜日)へと繋いだ、三連休明け(9月24日・火曜日)の夜明けが訪れている。窓ガラスを通して見ている外気は、風強く秋天高い日本晴れである。わが身体は、かなりの寒気をおぼえている。
明日(9月25日・水曜日)は、入り日(9月19日)から一週間を経ての彼岸の明け日である。カレンダーをなぞったようなことをあえて書いたことには、こんな理由がある。すなわちそれは、彼岸の中日(秋分の日)を挟んで、気候があまりにも劇的に変化したゆえである。秋分の日に書いた文章の表題にはずばり、「秋分の日、礼賛」と付した。もとよりそれは、古来言われて来た「暑さ寒さも彼岸まで」そのままに、このあたりの暑くもない、寒くもない凌ぎ易い気候をあらためて、礼賛したくなっていたからである。
続いてきのうは、彼岸が過ぎればこの先は日を追って、わが身体の嫌う冬へ向かうことを書いた。ところが、これらの表現には言葉遊びのごとく、安易な気持ちがあった。しかし、この気持ちは、きのう一変に覆(くつがえ)ったのである。
そして現在は、書いた文章自体、反故にすべき思いに陥っている。それにはこんな理由がる。端的にひとことで言えば、予期を超えた極度の気候の変化ゆえである。まどろっこしい言い方を止めれば、すなわち一足飛びに寒気が訪れたのである。風の冷たさはきのうから、すべての網戸を用無しにした。着衣には肌着を重ねた。エアコン(冷房)は駆動を免れた。就寝時あっては、寒くて冬布団を掛けた。いちいち上げたらきりなくきのうは、自分自身そしてわが家は、思いがけない寒気に遭って、冬支度におおわらわを強いられたのである。
きょうはきのうの延長線上にあって寒気は緩まず、するとこの先が思いやられて、こんな文章書く羽目になっている。
夜来の雨
きのうの「秋分の日」にともなう「振替休日」(9月23日・月曜日、休日)の夜明けが訪れている。過ぎた「敬老の日」の日に書いたように、9月のカレンダーには三連休が二度ある。するときょうは、二度目の三連休の最終日である。好季節にあって、勤務で働く人たちにとっては、うれしくてたまらない一日と言えそうである。
勤務時代を顧みて、怠け者のわが身に照らしての切ない思いである。大降りではないけれど、夜明けにあっては雨が降っている。なんだか、この先一日じゅう降りそうな、しとしと降りである。三連休最終日にあって、近場に物見遊山を当て込んでいた人には、憎たらしい雨と言えそうである。就寝時には雨なく、そののちの夜来の雨である。間抜けな私は、閉めていた最寄りの窓ガラスを開いた。すると、強い風が、冷たい雨をわが身体へぶっつけた。私は冷たさに驚いた。いやいや、寒気に身震いした。秋分の日が過ぎて季節は、文字どおり確かな屈折点を迎えている。好季節はこの先、日を追ってわが身体の嫌う、冬へ向かうをことを知らされたのである。
さて、私はスポーツにおいて「時の話題」を浮かべて、起き出している。野球界では、連日の大谷選手(アメリカ・ドジャース球団)の活躍ぶりである。一方、きのう千秋楽を迎えた大相撲秋場所においては、関脇大の里が二度目の優勝を果たし、同時に大関昇進を確かなものにした。大谷選手の活躍ぶりは今や、国の内外に沸騰している。だから、わが寸評を添えることはない。一方の大の里は、こののちの大相撲界にあっては、敵なしの「一人天下」になりそうである。すなわち大の里は、大関からすぐに横綱へ昇進し、無敵の大横綱になりそうな予感と、それを確かなものにする強さがある。
きょうのプロ野球では、今シーズンの「セ・リーグ」の優勝・覇権を分ける、天王山と言える試合がある。それは宿敵同士と言われている、読売ジャイアンツ対阪神タイガースの試合(兵庫県、阪神甲子園球場)である。私は兵庫県の雨無しを願い、試合あってファンとするタイガースの勝利を願っている。
ここまで終始パソコントラブルに怯えて、挙句、訳の分からい文章を書いてしまった。ゆえに、恥を晒したままに、結文にするものである。夜来の雨は、まだ降り続いている。私の脳髄は、歪(ゆが)んでいる。
「秋分の日」礼賛
「秋分の日」(9月22日・日曜日)。薄く晴れて肌身が和む清々しい夜明けが訪れている。肌身に当たる風は、確かに暑くもなく寒くもない、満点の心地を恵んでいる。ゴルフのプレイに例えればさしずめパープレイであり、ケチのつけようはない。84年生きてきていまさらながらだけど、身体的には体験上も科学的にもきょうあたり、最も凌ぎ易い気候と実感している。
秋分の日に対抗する「春分の日」にあっては、確かに冬の寒さを脱するけれど天候はぐずついて、心地良さにおいて秋分の日には大負けである。着衣を鑑みても秋分の日あたりまでは、上肢は薄い肌着一枚に半袖シャツ、下肢は家内ではステテコ、外向きでは半ズボンでも構わない。夜具はまだ薄手の夏蒲団、あるいはそれさえ撥ね退けてごろ寝でも構わない。入浴時における着脱の面倒くささは未だ免れる。精神的には暑さが遠のいて、入れ代わる涼感が安楽をもたらしてくれる。自然界は実りの秋を恵んで、おのずから日々「食欲の秋」旺盛となる。
これらに加えてわが関心事を一つ記すと、秋分の日前後あたりから気候に恵まれて、スポーツの秋はまたたけなわを成す。パソコンに怯えてようようこれまで書いたけれど、きのう同様にいつ断たれるかと、現在は戦々恐々の状態にある。それゆえにこの先は書かず、尻切れトンボを厭わず恥じず、ここで結文を決意する。わが意の半ばにも満たない生煮えの文章だけど、没するには惜しいゆえに表題を決めて残した。すなわち、「秋分の日」礼賛である。いやいや、正直なところきわめて恥ずかしい心地にある。
おやおや、先ほどの晴れ模様の天気は、一変雨模様へ変わっている。「女心と秋の空」の成句が浮かんでいる。
おはようございます
彼岸を迎えて、好季節到来です。せっかく書いた文章は、パソコン操作の不手際で、最後のところで消えました。
「文は人なり」。わが器量「小」
9月20日(金曜日)。久しぶりに梅雨の朝みたいに、今にも雨が落ちそうなどんよりと曇った夜明けが訪れている。きのうの夕方にあっては、稲光と雷鳴をともなって、しばし激しく雨が降った。雷鳴には肝を冷やしたけれど、雨は待ち望んでいた。なぜなら、このところは雨の無い日が続いていて、私は庭中の樹木や雑草の仲間になり、共に一雨を望んでいた。幸いにも雷鳴や雨は、程良い時間で切り上げて、見知らぬ彼方へ去った。
今朝(9月20日・金曜日)の曇り空は、きのうの名残なのであろうか。しかし、昼間へ向かうにつれてたぶん、胸の透く秋日和になるだろう。そうなれば天界の粋なはからいである。きのう、きょうの天気予報は聞かずじまいである。あれれ今、前面の開けっ広げの窓ガラスを通して、タイワンリスが電線をすばやく這って、横切り消えた。
寝起きの私は、掲示板上のご投稿文を読んで、こんな思いに耽っていた。「文は人なり」。高橋弘樹様と大沢さまの文章は常に前向きである。ところが、私の文章は常に後ろ向きである。すなわち、あからさまに器の違いを露わにしている。悔いてどうなることでもないけれど、ないものねだりはわが欲ボケであろう。夏風邪を長く引きずり、さらにはこれにいろんな体調不良が重なり、わがモチベーション(意識、意欲)は、下降線をたどるばかりである。もとより、これを撥ね退ける気力は失せて、きのうはとうとう「休みます」の表題に、逃げてしまった。
確かに、きょうもまだ、その延長線上にある。けれど、こんなみすぼらしい文章に託して、みずからを鼓舞している。おやおや、雲間が晴れて、昼を待たず、朝日射す清々しい秋日和へなり変わっている。それにさずかりわが気分は、いくらか持ち直している。
休みます
9月19日(木曜日)。曇り空の夜明けにある。不甲斐なくもいまだに夏風邪が治りきらず、気分落ち込み文章は書けません。
悔いごと
9月18日(水曜日)。寝坊助を被った夜明けが訪れている。満天、朝日輝く日本晴れである。のどかにさわやかに、絶好の秋の朝の風景である。それなのにわが心象は、どたばたと焦っている。寝起きに定着している文章書きは、昼間に移行しないと、まともなものは書けない。長年のわが思いと、それを果たせぬ悔いごとである。
寝起きは執筆時間にせっつかれて、おのずから殴り書きと走り書きの抱き合わせを被ることとなる。寝起きの朝は、朝御飯の支度とNHKテレビにおける「朝のドラマ」の視聴が制限時間を成している。すなわち、朝の寝起きに書く習性は、これらにせっつかれるのである。加えてこの習性には、もとより凡愚の脳髄は未だ稼働せず、半眠りの状態にある。
きょうはこんなわが果たせないことに愚痴をこぼして、朝の支度へ入るためこれで結文に陥る。せっかくの心地良い秋の気候は、わが悔いる習性で台無しである。