ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

きようは、書きません

 11月30日、現在の時刻は4時あたりです。頻尿によるトイレ起きを繰り返し、眠れない夜長をこうむっています。眠りたくても、眠れないのです。極めて厄介です。この文章は寝床に寝そべりながら、スマホで書いています。起き出して、パソコンへ向かえばたっぷりと執筆の時間があります。しかし、幸いにも朦朧頭と眠気眼で書くことを免れています。
 たまごさまご投稿第二作品『河童と白猫』を拝読いたしました。読後感は極めて秀逸です。ただ、私には作品の批評はできません。そちらは大沢さまにおまかせです。私ができることは身勝手にも、自分自身の疲れとりと、邪魔をしないことです。秀逸な作品のご投稿に授かり、同士として感謝申し上げます。共に、がんばりましょう。

季節は、初冬の「落ち葉しぐれ」

 11月29日(金曜日)。三日続いて、ほぼ定時(5時)の起き出しにある。それゆえに執筆時間に焦りや寝とぼけはなく、淡々と指先でキーを叩いている。夜長の季節にあっては、寝床に寝そべりながらいろんな瞑想に耽るところがある。しかしながらそれらの多くは、やたらめったらと迷想まみれである。きのうの昼間にあっては、私は似非(えせ)の茶の間のソファに背もたれながら、窓ガラスを通して外の風景を眺めていた。主(あるじ)を失くした空き地の植栽には一本のイロハモミジと、黄みを帯びた灌木(かんぼく)が雑然と初冬の美的風景を醸していた。この風景に輪をかけて、「落ち葉時雨」が山の木の葉を視界一面に吹き曝(さら)していた。物見遊山に出かけるまでもなく居ながらにして私は、まさしく絵になる風景の満喫を極めていた。そしていっとき、私は都会の僻地の不便さを遠のけて、山際に求めた宅地冥利に耽っていた。
 落ち葉時雨の間隙を突いては、私は掃除における三種の神器、すなわち箒、塵取り、透明袋(70リットル入り)を携えて、ときおり木の葉を禿げ頭にあてながら道路へ向かった。落ち葉時雨は文字どおり、まるで間欠泉のごとく、止んでは吹き曝しを繰り返していた。言うなれば落ち葉時雨は、まだ吹き曝しの途中にあった。こんななかの掃除は馬鹿げた行為だと悟り、「まだ早いよ」と、自分自身を諫(いさ)めた。ところが、わが家の宅地の側壁は吹き溜まりになっており、すでに落ち葉は側壁に沿って、長くこんもりと積んでいた。これらを除かなければ、隣からなお先へ吹き流されて、面倒をかけることとなる。私は吹き流れを止める決意をしたのである。
 決意の後はやおら、渋々の一度目の落ち葉かきである。私は自分自身が入れそうな大きなゴミ袋に、枯れてまったく重量のない落ち葉を何度も両手で押し込んだ。落ち葉時雨は止まず、ときおり止むと、私はまた溜まり具合を見に出かけた。この仕上げにはこの文章を閉じてのち、道路へ向かう心づもりにある。しかし、夜長にあっては、夜明けの天気模様を知ることはできない。雨や雨上がり、いやそうではなくても風が強ければ、仕上げ行為は余儀なく、打ち止めお陀仏である。立って窓際へ寄り、外気模様を確かめた。雨もない、微風さええない夜の佇まいにある。仕上げ敢行の決意をして、結文を急ぐものである。
 きのうの昼間、落ち葉時雨の風景を見ながら、(よし、きょうは今、書こう)と、決意した。ところがそれは果たせず、記憶頼りにいつどおりの執筆時間になっている。わが決意は、いつも哀れである。夜明けになり、のどかな朝ぼらけである。さあ、道路へ急ごう。

冬風邪、いや風邪大事に至らず

 11月27日(水曜日)。わが起き出しの定時は、5時と決めている。すると、きょうはほぼ定時の起き出しにある。定時あたりだと執筆にあたり、慌てふためくことを免れる。これより遅ければ大慌てになり、逆に早ければ朦朧頭と眠気眼の抱き合わせをこうむることとなる。しかし、夜長の候にあって現在は、未だ夜の静寂(しじま)にある。このことはいっそう、執筆気分を落ち着かせている。
 きょうは、(文章は書けないかな)と、思って就寝した。きのうの風邪症状を引きずり、風邪薬を服用して寝たからである。ところが、幸いにも風邪症状は遠のいていて、執筆にありついている。私は今夏にあっては夏風邪をひいて、長く拗(こじ)らせていた。そのおり、こう書いた記憶がある。すなわちそれは、夏風邪という言葉は、電子辞書に記載がある。けれど、春風邪、秋風邪、冬風邪の記載はない。このことを今思い起こすと、夏風邪をひくことは異例のことであり、逆に四季のうちその他の季節にひく風邪は、あたりまえだからであろう。すると、ほぼ毎年夏風邪をひく私は、文字どおり異例の愚か者である。
 インフルエンザの予防注射は、効く、効かないはどうあれ、すでに打っている。このとき、信頼する主治医は、
「コロナワクチン、どうされますか?…… 自費になり、結構高くなりますけれど……」
 と、問いかけられた。すると、結構高いという言葉がわが判断を狂わせて私は、
「コロナには罹らないと思いますから、やめていいでしょうか……」
 と、返答した。すると、主治医は機嫌を損(そこ)なわれることもなく、こう言われた。
「わかりました。打ちたいときに来てください。そのとき、打ちましょう」
 ところが、私はまだ打たないままである。たぶんこの先、打ちたい気分にはならないであろう。もし運悪くコロナに罹り、主治医に「あのとき、ワクチンを打っていれば良かったですね」と言われても、天邪鬼の私は「そうですね」とは、言わないかもしれない。言葉を返すとすれば、「人と交わるのは買い物くらいだから、コロナには罹らないと思っていました。仕方ないです。自業自得です」。
 いや、こんな言葉が、主治医の前で言えるだろうか。もとより、きょうは書くつもりのない文章だから、こんなことを書いて、お茶を濁すこととなる。このところの無駄に長い文の償いともあって、ここで結文とするものである。出まかせの文章はスラスラと書けて、まだ夜明けの光が見えない、夜の帳(とばり)の中にある。仕方なく窓際に立ち、暗闇の様子を見る。雨は止んだばかりのようで、道路はベタベタに濡れている。新聞配達のバイクが尾灯を光らせ、けたたましく音を立てて過ぎ去った。

書かずにおれない、他人様(ひとさま)のご好意

 十一月二十六日(火曜日)。ほぼ定時(五時)の起き出しにあり、気分には余裕がある。かてて加えて、これまでの夜遅くまでの野球のテレビ観戦が無くなり、就寝時間が早く、輪をかけて目覚めの気分は良好である。しかし、夜長は「冬至」(十二月二十一日)へ向かい加速度を増しており、いまだ夜明け模様を知ることはできない。きょうは自然界賛歌は脇において、他人様(ひとさま)からさずかったご好意を書こうと思い、パソコンへ向かっている。
 わが家の貧相な柿の木になった柿の実は、まだ旨味を深めつつある中秋の頃、リスとの戦いに先駆けて、勝って一つさえ残さず食べ尽くした。食べ尽くした後には、旨味の深まりまで、待てばよかった、と悔いを残した。柿の生る風景は、広い当住宅地にあっても、わが家と向かいに建つ大武様の庭中だけである。大武様は先住者の家を買われて、綺麗にリニューアルされた後、六月頃から住まわれている。
 私の場合、柿は食べて好し、生っている風景を眺めるのもまた佳しの筆頭にある。柿の旨味と眺める風景には最も好都合の晩秋のある日、先方は庭中に立って、私は門口に立って、思いがけなくこんなやり取りに遭遇した。私は柿の生る風景が好きなままに、大武様の庭中に立つ、柿のなる風景をしばし堪能し、奥様のお姿を目に留めず盗み見をしていた。ところが奥様は、文字どおり奥のほうでしゃがんで、何かの作業をされていたのである。奥様は私に気づかれると立って、訝(いぶか)しそうな面持ちで、庭際に近づいて来られた。(これはまずい)。私は心中にこう思い、大慌てで盗み見の怪訝(けげん)をとり払った。
 奥様との面識はこれまで、引っ込しのおりの初対面における、一度の短いご挨拶言葉だけだった。私は近づいて来られた奥様にたいして、盗み見を詫びて、こう言った。
「すみません。私は熊本の田舎育ちで、柿の生る風景が好きです。だから、お宅様の柿の生る風景を眺めていました。ことしは例年よりいっぱい、見事に生っていますよ」
「そうですか。柿、お好きですか?……」
「はい。夫婦共、生っている風景、食べるのどちらも、大好きです。この頃の買い物では、柿が矢鱈と増えています。長く眺めていて、すみません」
「そうですか」
 このわが柿の実を強請(ねだ)るような言葉が会話の引き金になり、二つ三つ短い会話を為して、私はいつもの買い物の道を辿(たど)った。
 するとこの晩、ご主人がわが家の玄関口に立たれて、柿の実をショッピングバグに入れて持って来てくださったのである。そのお返しに私は、数日後に届いたふるさと産新米を少しばかり届けた。ところがきのうの晩、またもやご主人は、二度めの柿を届けてくださったのである。きょう書きたかった一編はこれで書き止めにして、次の二編はこのお便りの引用である。
 妻が「玄関口の取っ手に下がっていたわよ」と言って手渡したのは、小菊あるいは野菊とも言える、レジ袋入りの草花とお便りだった。忘れかけていたけれどほぼ例年、散歩ご常連(高齢のご婦人)の人から賜るご好意である。
「前田様 暑い暑い夏もようやく終わり、秋を味わう時も無く、初冬を迎える頃となってしまいましたね。永らくお目にかかりませんが、お元気ですか。ワイルド感満点のわが家の庭に、菊が乱れ咲くのは 毎年のこととなりました。今年も少し秋をお届けします。楽しんでいただければ幸いです。十一月二十四日、鈴木」。
 私は読み終えて、文章の素晴らしさにしばし感嘆し、あすはこの文章を「ひぐらしの記」に書こうと、決めたのである。文中にある「永らくお目にかかりませんが」の理由はこうである。このところは雨の日が多く、雨が降らない日は強風が吹き荒れて、風が道路の掃除をしてくれる。また、寒気が強くなり、おのずから朝の掃除は昼間へ移行がちになっている。
 また文章が長くなってしまった。他人様からさずかった二つのご好意を書き記すと、もはやこの文章は要なしである。ゆえに、ここで指収めをするものである。
 初冬の夜明けは雨なく、しかしかなり風の強い、淡い日本晴れである。文章を閉じれば私は、お礼の出会いを求めて、道路へ向かうこととする。なんだか、老い者同士の「恋愛ごっこ」みたいである。文章が長くなり、出会いはずれて、会えそうにない。

テレビ観戦、お疲れ様

 11月25日(月曜日):6時07分。夜長の頃にあって、薄っすらと雨の無い夜明けが訪れている。このところの就寝の遅れをようやく遠のけて、ぐっすりと眠れて気分良く起き出している。きょうの文章は、このところ書き続けてきた「WBC12」(野球の国際試合、東京ドーム)の結末と、きのう千秋楽を迎えた「大相撲九州場所」(福岡国際センター)における、優勝争いの結果を綴るものである。
 前者にあっては、優勝決定戦と3位決定戦が行われた。先ずは昼間、アメリカ代表チーム対ベネズエラ代表チームによる3位決定戦が行われて、アメリカがベネズエラに勝利し、3位と4位に分けた。ナイター(夜間試合)では、日本代表チーム・侍ジャパン対台湾代表チームによる優勝決定戦が行われて、こちらは台湾が4対0で勝利し、台湾が優勝を決めて、日本は2位に甘んじた。
 閉幕まで長くテレビ観戦を続けてきた私には、愉しみと同時に就寝時間の遅れがともない、この間、浅い眠りを強いられていた。ところが昨夜は、侍ジャパンの敗戦を見終えて、いつもより比較的早く、11時前に就寝した。侍ジャパンの敗戦に観念し、また長い間の観戦疲れなのか昨夜は、トイレ起きも三度くらいで済んで、かなりぐっすり眠れた。熟睡の効果は、寝起きの気分を和らげている。
 もう一つの15日間における大相撲のテレビ観戦にあっては、きのうの千秋楽において、大関琴桜が初優勝で飾った。千秋楽の最後の取り組みは、共に大関で東西に分かれ、かつ13勝1敗で相対した琴桜対豊昇龍戦だった。豊昇龍は二度目、大関になっては初優勝を狙っていた。琴桜(佐渡ケ嶽部屋・二十七歳)は、先大横綱・亡き祖父「琴桜」、そして現在の佐渡ケ嶽親方、元関脇「琴の岩」を父親とする力士である。今場所の優勝から繋がり来場所は、「綱取り・横綱」へ向かうという。まことに晴れがましい琴桜の初優勝だったのである。
 この二つのテレビ観戦を見終えて、きょうからわが日常が始まることになる。11月は残りの今週が過ぎると、来週からことしの最終月・12月に入る。二つのテレビ観戦を終えて私は、寂しさと侘しさつのる、ダブルの心象に脅かされる年の瀬を迎えることになる。しかし自然界は、わが切ない気分などつゆ知らず、冬空の満天に真っ青の日本晴れを輝かしている。いや自然界はありがたいことに、わが切ない気分を宥(なだ)め賺(すか)している。

草臥れ儲けかな?……

 十一月二十四日(日曜日)。定時より二時間ほど遅い起き出しをこうむり、気が焦っている。すっかり夜が明けた、朝の天気模様にある。冬空には雨なく、地上は強風に晒されている。このところは朝だけでなく日中にあっても、強風が吹き荒れている。そのおかげで私は、道路の掃除を免れている。寒さが身に堪える冬の日における、僅かばかりの利得である。
 きのうは、土曜日と重なる「勤労感謝の日」(十一月二十三日)だった。職業(労働)を離れた私の場合は、ひたすら人様の勤労に感謝するのみで、自分自身は日本社会のお邪魔虫さながらである。それでもやはり、人様の労働のありがたさは身に沁みており、あまねく感謝せずにはおれない。執筆時間の制限時間を取っ払って以降の文章はだらだらと長くなり、ご常連の人たちには読みにくさをおかけして、自分自身には草臥(くたび)れ儲けのところがある。だからきょうは遅い起き出しのこともあって、短い文章で済ますつもりでいる。しかしながら書き殴りの文章の停車場は、もとより自分自身も知るよしない。だったらやはり、このところの文章の流れから、昨夜の「WBC12」(野球の国際試合)の結果だけは、記して置かなければならない。
 昨夜の試合はスーパーラウンドにおける第三戦(最終戦)、日本代表チーム・侍ジャパン対台湾代表チームだった。すると、スコア(得点)九対六で、日本が勝利した。この結果、きょうには優勝決定戦と三位決定戦が行われて、今回のすべての試合は閉幕する。ところが、優勝決定戦および三位決定戦共に、きのう試合とまったく変わらぬチーム同士であり、すなわちこうである。優勝決定戦は日本対台湾、そして三位決定戦はアメリカ対ベネズエラである。奇しくもこんな変てこりんな組み合わせになったのは、「WBC12」の規定であり、私が目を剥いてじたばたしたところで、どうなることでもない。だから私は、きょうもテレビ観戦にありついて、侍ジャパンの優勝を願うのみである。続いていたテレビ観戦が閉じることには、一抹どころかかなりの寂しさつのるものがある。その一方ではテレビ観戦を終えたのちの、就寝時間の遅さを免れるところはある。昨夜は十二時過ぎの就寝に見舞われた。今夜の試合は優勝決定戦でもあり、勝敗の余韻を引きずり、また就寝時間は遅くなりそうである。
 きのう書いた文章にもあるけれど、開催中の「大相撲九州場所(福岡)」は、きょうは千秋楽である。そしてこの優勝決定戦は、どちらも十三勝一敗の成績を引き下げて、東西の大関同士、琴桜対豊昇龍である。琴桜は初優勝、豊昇龍は二度目、大関では初優勝。こちらのテレビ観戦には就寝時間の遅さによる寝不足は免れるけれど、やはりテレビ観戦の終息には寂しさつのるものがある。書き殴りはまたもや、わが意に逆らって長くなっている。ゆえに大慌てで、ここで結文にするものである。
 冬空の日本晴れは汚れ無く、胸の透く真っ青である。こんな文章、草臥れ儲けかな?……。

二つのテレビ観戦

 「勤労感謝の日」(十一月二十三日・土曜日)。勤務の身の人にとっては悔しい、土曜日と国民休祭日との重なりにある。ほぼ定時の起き出しだけれど、夜長にあっては未だ、夜明け模様を知ることはできない。なんだか、夜長どきの決まりきった表現の繰り返しにある。しかしながらこの表現は、省みることなくまだこの先へ続きそうである。
 起き立ての私は、心中にこんな思いを浮かべていた。
「俺は死に際になってまで、わが人生の悔いごとを浮かべている。究極のマイナス思考は、わが心の襞(ひだ)に張り付いている。なさけないわが人生である。たとえ嘘っぱちでも格好つけて、『わが人生に悔いはなし』」と嘯(うそぶ)いて、死線へ赴(おもむ)くべきであろう」。
 ところが一方では、こんな思いが充満していた。
「片田舎生まれの洟垂れ小僧が、よくも八十四歳まで生き延びて、都会生活をまっとうしている。案外、俺は幸せ者なのかもしれない」。
 起きてネタがないと、なんだかんだを書いて、文章を埋めなければならない。すると、いつものように平に詫びるところである。
 起き立ての私は、両耳には補聴器を嵌めている。しかしながらこの時季にあっては、ウグイスの声はもとより、山鳥の鳴き声は聞けない。山に、フクロウはいない。ところがこのところ、茅ヶ崎市、藤沢市、逗子市、葉山町、そして鎌倉市の山場には、サルが出没しているという。そのため、それぞれの市の広報では、警戒警報(注意)が呼びかけられているという。
 しかし、サルはわが家近くの山にはいないだろう。ただ、懸念するところはある。このところ、わが家の庭中にウロチョロするリスの数が減っている。リスはサルの出没に怯(おび)えて、どこかに隠れたり、あちこちへ逃げ回っているのであろうか。現在は、山からの鳴き声や音は一切なく、風の音だけが戸袋に置く雨戸を叩いている。
 ようやく書きたいこと、いや書かなければならないことへたどり着いた。昨夜の「WBC12」(野球の国際試合)・スーパーラウンド第二戦、日本代表チーム・侍ジャパン対ベネズエラ代表チーム戦は、九対五で日本が勝利した。前日のアメリカ戦に続いて侍ジャパンは2勝して、きょうの第三戦(最終戦)では、台湾代表チームと戦うこととなる。そして、日程的にはあした(二十四日・日曜日)が優勝戦と三位決定戦となる。
 昨夜の試合は十一時過ぎに終了し、そのためテレビ観戦を続けていたわが就寝時間は、十二時前になっていた。こののち、テレビ観戦のために就寝時間が遅くなりそうなのはきょうと、侍ジャパンが運よく決勝へ向かえば、あしたの二日間になる。野球のテレビ観戦の愉しみが消えるのは残念だけれど、就寝時間は元に戻ることとなる。
 こんな状態にあっては、「痛しかゆし」という、言葉は適当(使える)だろうか。生涯学習には難易差はなく、きわめて日常語にもかかわらず私は、机上に置く電子辞書を開いて、わが知識への補充を試みた。
 現在、テレビ観戦中のものには、「大相撲九州場所(福岡)」がある。ところが、こちらも「WBC12」と軌を一にして、きょうは十四日め、あすは千秋楽である。わが好むテレビ観戦が共に、終了することには寂しさつのるものがある。わがテレビ観戦は、試合や取り組みだけに限るものではなく、球場内や館内の観客の姿を見る愉しみもある。テレビ映像は、留まることを知らず鮮明度を増し続けている。私は観客の姿を見ながら、その恩恵を貪(むさぼ)り続けているのである。わが欲深い、二兎を追うテレビ観戦の仕方である。
 夜が明けている。強風吹き荒れる、鉛色の冬空に、日本晴れの兆しがチョロチョロ見え始めている。

言葉

 十一月二十二日(金曜日)。定時(五時)よりかなり遅い起き出しをこうむり、気が焦っている。すっかり、夜が明けている。雨の無い冬空の夜明けである。焦りの気分にネタ探しの迷いが加わり、焦りは弥増(いやま)している。するときょうは、みずからの文章はほどほどにして、多くはスマホの記事を引用しようと、思っている。まるで、コソ泥の心境にある。
 きのうの「WBC12」(野球の世界大会)・スーパーラウンド第一戦、日本代表チーム・侍ジャパン対アメリカ代表チーム戦は、侍ジャパンが9対1で圧勝した。優勝に向けて、侍ジャパンは幸先の良いスタートを切ったのである。
 私は学童の頃より野球好きである。「好き」という言葉は、あらゆる物事に共通し普遍的であり、きわめて重宝する言葉である。まさしく、アイ、ラブ、ユウ(物事)である。ところが、好きを外来語(主に英語)で表されるようになると、スポーツ競技などでは好きという言葉は遠のいて、野球ではファン、サッカーではサポーターなどが混み入ってきた。馴染みのある、ファン一辺倒でよさそうである。確かにファンは、心地良い共通語ではある。「ファン:特定の人や事象に対する支持者や愛好者のこと」。だから、「私は大相撲ファンです」と言っても、人様から眉を顰(ひそ)められることはない。もとより、大相撲は世界のスポーツ(各競技)とは出所が異なり、日本誕生である。ゆえに、大相撲界特有(特異)の言葉が内在している。今さらスマホにすがることもなく、すでに知りすぎているけれど、きょうはネタ切れにともない、二つの言葉をスマホ片手におさらいするものである。
 【タニマチ】「相撲界の隠語で、ひいきの力士を無償で援助する、個人的スポンサーをさします。力士を食事に連れて行ったり、金銭的な援助をする存在です。『タニマチ』という語源は、明治時代に大阪・谷町筋にいた相撲好きの医師、薄恕(すすきじょいち)一氏に由来しています。薄氏は、相撲部屋の宿舎が集まる大阪の谷町で外科病院を開業し、力士を無料で治療したり、土俵を作ったりしていました。力士たちから慕われ『タニマチ』と呼ばれ、そこから広く後援者をタニマチと呼ぶようになりました。現在では力士だけではなく、他のスポーツ選手や芸能人にもタニマチがいます」。
 【好角家】「角力(すもう)を好きな人のことを意味する慣用句です。相撲(角力)は古くからあり、ファン(fan、熱心な愛好者)という言葉が認知される以前は、一般的に『相撲(角力)好きの人』を好角家と呼称していました。昨今では『相撲ファン』という言葉で通じることが多くなっています」。
 なんだか、二日続いてだれも読まない長い文章を書いてしまった。またまた平に詫びるところである。だんだんと遠のいて行く生涯学習には、切ない思いがつのるばかりである。気分晴らしは、朝にかけて照り始めている胸の透く日本晴れである。

きょうは「ごちゃまぜ文章」を詫びる

 十一月二十一日(木曜日)。生きて目覚めて、起き出している。わが心中にはふるさと言葉で言えば「だごじゅる」のごとく、いろんな思いが渦巻いている。「だごじゅる」とはさしずめ、日本社会における普遍的なレシピ(献立)に置き換えれば、「すいとん」と言えるものかもしれない。もちろん「だごじゅる」は、小麦粉を練った団子にごちゃまぜの野菜の多さからすれば、ハイカラなスープにはなりきれない代物である。戦時中(わが五歳の頃)はもとより、戦後しばらくは、矢鱈とわが家の食卓にのぼり続けていた。そのせいでトラウマ(精神的外傷)をこうむり、私はスープさえ好むレシピの埒外(らちがい)にある。ところが、今や「だごじゅる」は人気のある食べ物のようである。世の中の健康志向に合って、救われているのであろうか。しかし、不断郷愁まみれの私だけれど、今でも「だごじゅる」だけは、反吐(へど)が出るほどに食べる気はしない。
 渦巻いているいろんな思いにあっては、図らずものっけから最も変なことを書いてしまった。どうしてなのか? はわからない。いよいよ、ごちゃまぜ文章の本番に入る。定時近くの起き出しだが夜長の季節にあっては、外気はいまだ真っ暗闇である。ゆえに夜明けは未だ遠く、空模様を知ることはできない。きのうの目覚めにあっては、冬将軍に打ちのめされて起き出しを渋り、そのまま寝床に寝そべり続けていた。
 生来、私は寒気には弱虫である。きのうは、その証しをこうむったのである。実際には起き出して、パソコンへ向かう気力を殺がれていた。挙句、枕元に置くスマホを手にとり、継続を断たないだけの思いで、文章を書き始めた。しかし案の定、これまた生来不器用の指先が駄々をこねて、文章は尻切れトンボのままに頓挫した。これに懲りて現在は、完全冬防寒重装備に身を包(くる)んでいる。それは自然界の仕業に敗けまいと、人工の暖とり装置である。人間の知恵は大(たい)したものであり、大(たい)して金要らずの着衣にあずかっている。
 知恵ある科学者は夏の間には特に、地球の温暖化傾向へ警鐘を鳴らし続けている。ところがへそ曲がりの私は、このことには常に下種(げす)の勘繰りを続けている。なぜなら、私には冬の間の寒気が身に堪えるからである。同時に私は、本当に地球は温暖化傾向にあるのであろうかという、疑心暗鬼に囚われるのである。できれば科学者こぞって、冬の時期にこそ地球の温暖化傾向へのデータや証しを添えて、警鐘を鳴らしてほしいものである。なぜなら、そうであれば地球温暖化傾向への確信が持てるからである。
 主に夏の間だけの警鐘では、なんだか私には、嘘っぱちに思えるところがある。挙句、地球は温暖化および寒冷化共に傾向を深めているという警鐘であれば、私にも然(さ)もありなんと思うところがある。バカ丸出しを曝(さら)けてまで、こう言いたくなるほどのきのうから続くきょうの寒さである。
 次の思いはこうである。わが命(八十四歳)は疾(と)うに、賞味期限はおろか、消費期限さえも切れている。きのうは、テレビで馴染んでいた二人の訃報が伝えられたのである。一人は、大相撲界における元横綱・北の富士の訃報だった(享年八十二歳)。そして一人は、俳優・火野正平さんの訃報だった(享年七十五歳)。これらにかかわるしんがりの思いは、わが八十四歳にかかわるものであり、わが命の絶え、おのずから「ひぐらしの記」の潮時を覚悟するものだった。もはやわが命短し、寒気に耐えるのもゴールテープ間近にある。
 こんな実のないだらだら文章は、見ただけで読んでくださる人はいないはずである。そう思わないと、書けない文章でもある。スマホ書きは懲りた。パソコンだと指先はちょっぴりスムースに動いて、ようやく夜明け頃にある。雨の夜明けは、冬特有に寒気が酷(ひど)い冷雨(ひさめ)である。

冬将軍に打ちのめされている

 11月20日(水曜日)、3時40分。頻尿によるトイレ起きを繰り返し、寝たきはまったくしない。起きれば寒気にぶるぶる震えて、寝床入りを繰り返している。不甲斐なく、情けなく、こんな決意をしている。それは寒気に打ちのめされて、わが弱虫のせいである。きょうは寒くて、身体現象の起き出しは仕方ないけれど、寒ざらしのパソコン部屋に、長居は無用と决めこんだ。パソコンを立ち上げなければ文章は書けない。寒気に負けて、休むことに決めた。ゆえに、起き出すことなく、体温で温めた寝床に寝そべっている。ところが、文明の利器スマホが枕元にある。電子辞書もある。よし、試しにスマホで書いてみよう。間抜け、愚か者の不甲斐ない決意である。しかし、指先不器用のせいで、途切れ途切れに、だらだらと書いても、文章にはなり得ない。ゆえに、お試し文はここで書き止めである。夜長にあって、寝つきにありつけず、パソコン部屋にも向かう気のない私は、根っからの弱虫である。
 気狂いの追記
 短い文章ながら、誤字と抜け字があり、やはりスマホでは文章にならず、もうこりごりです。詫びて謝ります。
 寝床から起き出しみると、雨の夜明けにある。この世では寒気や頻尿で寝入りありつけないけれど、あの世では永遠に眠れかもしれない。この世は恨めしく、あの世はさぞかし極楽、パラダイスであろう。だけど、あの世へ急ぐことはない。永遠の眠りこけには、何らの楽しみもなさそうである。わが好きな柿は、鱈腹食べ頃、食べ盛りである。