ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

なさけなく、そして無念

 令和二年(2020年)十二月一日(火曜日)、悪夢に魘(うな)されて起き出してきて、文章が書けません。現在、2:10。新型コロナウイルスには罹病してなくても、意馬心猿(いばしんえん)、百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)に脅(おびや)かされる年の瀬を迎えています。ひたすら、煩(わずら)わしい人間を演じています。長い夜はまだ先、「冬至」(十二月二十一日)まで続きます。休みます。

ああーあ、パソコン

 私にとってパソコンは、文明の利器と言えるのか? おそらく、最重要な利器と言えるであろう。一方でパソコンは、そうとも言えないところもある。私はパソコンがなければ、文章が書けない。一方、パソコンが無ければ、文章を書くことから免れる。私にとってパソコンは、確かな文明の利器である。一方、精神を虐め尽くす悪魔でもある。
 実際のところ私は、日々心中で「もう書けない、書きたくない」と、呟きながらパソコンを起ち上げている。登山家は「山があるから登るんだ!」と、言う。これに準(なぞら)えれば私は、パソコンがあるから起き立てに開いている。確かに私は、パソコンが無ければ文章が書けない。一方、パソコントラブルに見舞われたときの私は、たちまち精神破綻を招いて半狂人さながらになる。これらのことをかんがみればパソコンは、私にとってはどっちつかずの文明の利器と言えるかもしれない。
 パソコンにかぎらず世の中には、文明の利器ともてはやされるものにあっても、必ずしも便益ばかりをもたらすことはない。ふと浮べても、芋づる式に連なって浮かんでくる。自動車が無ければ、自動車事故は免れる。嗜好するアルコール類が無ければ、アルコール中毒は免れる。日常生活にあってこんな得失現象は数多あり、もちろん一々挙げれば切りがない。すなわち、文明の利器と思えるものであっても得ばかりとは言えず、多くは得失相まみれにある。その挙句、人は得失をコントロールしながら日常生活を営んでいる。その決め手は、コントロールの巧拙と言えそうである。上手くコントロールできる人にとっては文明の利器となり、一方コントロールできない人にとっては、人間喪失さえ免れない悪魔ともなる。
 パソコンの利便性に救われて私は、ブログ上に文章を書き続けている。そのことで私は、多くの人様との出会いにさずかっている。私にとってのパソコンは、やはり文明の利器と言えそうである。パソコンには、長い夜の時間潰しの恩恵にもさずかっている。文章を書く苦難を強いられているのは、パソコンのせいではなく、わが無能力すなわち「身から出た錆」のせいである。

蔓延(はびこ)る「新型コロナウイルス」

 感染症の恐ろしさを新型コロナウイルスのせいで、私は日々実感している。もとより、日本社会は為すすべなくお手上げ状態にある。このところ、新型コロナウイルスは蔓延状態になりつつある。
 『第3波「見えにくい」クラスター、感染拡大か』(産経新聞)。「新型コロナウイルスの『第3波』の感染拡大要因に、『見えにくい』クラスター(感染者集団)の存在が指摘されている。無症状や軽症の感染者が検査前に水面下で感染を広げ、職場や大学、外国人コミュニティーなどの多様なクラスターを生み出している可能性がある。専門家は市中感染の蔓延期に差し掛かっているとみており、接触機会の削減を求めている。」
 目に見えない水面下であれば、もはや防御のしようはない。唯一、カタツムリやミノムシのごとくに、身動きを止めて静止状態を貫くことこそ、最大かつ最良の防御策であろうか。しかしながら、動きを止めた人は、それこそ生きる屍(しかばね)であり、寸時さえそれはできない。だとしたらどうすればいいのか? その答えは、まるで幼(いと)けない子のままごと遊びさながらに、老若男女(ろうにゃくなんにょ)一様に、マスクを着けて行動するよりほかはない。
 確かに、思いついた浅知恵のごとくにだれもかれもが、マスクを着けて動いている。ところが、新型コロナウイルスはその行為をあざ笑うかのように、へこたれず感染力を強めている。だから、「打つ手なし」、と言って防御策を諦めてはおれない。おのずから現下の日本社会は、新型コロナウイルスの防御策に大わらわである。しかしながら、いまだ確たる効果の見える決め手はない。つまるところ、だれしもがみずからを守ることこそ、ひいては日本社会の蔓延を防ぐ、社会貢献と言えそうである。
 きょう(十一月二十九日・日曜日)、現在のわが身は新型コロナウイルスの感染恐怖に怯(おび)え、さらには突然の寒波に見舞われて、わが身はブルブル震えている。確かに、生きることは、日々苦難の闘いである。

来る日も来る日も、「コロナ、コロナ」

 わが下種の勘繰り、すなわち未熟な私見にすぎない。そして、きのう(十一月二十七日・金曜日)書いた文章の二番煎じを免れない。政府もっと具体的には関係者は、(来年・二〇二一年)の「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催にこだわり、新型コロナウイルス対策を意図的に小さく抑え込んでいたきらいがある。このことにからんで、再び記憶をそのときへ戻すと、IOC(国際オリンピック委員会)・バッハ会長の来日のおりの主たる関係者のはしゃぎようがよみがえる。ところが、皮肉にも新型コロナウイルスの感染力は、そのときから堰が切れたかのように勢いを増して、日本列島を蹂躙し始めたのである。そして、現在の日本社会(国民)は、感染の広がりに恐怖(感)をいだいて、日々あたふたとしているありさまである。ひと言で言えば新型コロナウイルスの感染の広がりにあって、今や政府は打つ手なしの状態にある。だからと言って、政府の対応を非難することはできない。なぜなら、まさしく魔界のウイルスがもたらしている、人類への脅威だからである。
 結局、新型コロナウイルスへの対応策は、人類こぞってのそれに打ち勝つ英知しかない。言わずもがなのことだけど、英知の確かな現われはワクチンである。アメリカを先駆けに、ワクチン投与が近づいているという。そうであれば人類共通の願いとして、開発されているワクチンの著効に期待するところである。さらには、「ワクチンに国境無し」を切に願うところである。
 さて、政府の分科会の尾身茂会長は、衆議院厚生労働委員会で、「多くの人に分科会のメッセージに対して協力してもらい、個人の努力を十分にやってもらったが、ここまで来ると、個人の努力だけで、今の感染が拡大している状況を沈静化することはなかなか難しい。問題の核心は一般の医療との両立が難しくなっている状況であり、個人の努力だけに頼るステージはもう過ぎたと認識している」と述べられた。関係者のメンツや保身にかかわる、オリンピック開催願望などかなぐり捨てて、新型コロナウイルスにたいし待ったなしの、いよいよ政府の本格出番を望むところである。
 オリンピック開催で日本の国の力を誇示しようとするのは、もはや関係者の傲(おご)りと言えそうである。もちろん、国民はそんなことは望んでなくて、目前の新型コロナウイルスのやっつけだけを望んでいる。そして、それが叶えば世界の人々は、おのずから日本の力を称賛するであろう。こうありたいものである。

目覚めのいたずら

 十一月二十七日(金曜日)、二度寝叶わず仕方なく、起き出して来た。現在、パソコン上のデジタル時刻は1:55である。この頃は、こんなどうでもいいことを書いている。寝床に寝そべりながらしばし、心中にこんなことを浮かべていた。今さらながらに日本社会は、新型コロナウイルスのせいで、ごちゃごちゃめちゃくちゃである。どうせまともな大会など望めようがないなら、「東京オリンピックおよびパラリンピック」(来年・2021年)は、潔(いさぎよ)く返上したらいいと、思う。なぜなら、これが足枷(あしかせ)となって日本社会は、新型コロナウイルスの本格的な防御策が打てないのであろう。オリンピック開催願望は、もはや関係者のメンツと、本音隠しの独りよがりにさえ思うところがある。臆測をしたがえたこういうわが思いは、おそらくバッシングを受けるであろう。しかしながら一方、日本社会の非常事態であれば、バッシングを恐れず本音を吐露しなければならない。オリンピックを目指している「アスリート(競技者)の思いをおもんぱかれば……」という建前は、もはや必ずしも適当ではなさそうである。アスリートとて、個々の練習環境の違いに直面しているはずである。さらに言えばこんな状況下にあっては、オリンピックにおける日本選手の活躍(金メダル)が、日本社会の鬱憤晴らしになるとは思えない。憚(はばか)らず言えばオリンピック開催願望は、もはや関係者の幻想の隠れ蓑と言えそうである。
 私はこよなくスポーツ好きである。まして、このたびのオリンピックは、わが生存中における有終の美を飾る一大イベントである。それでもやはり、新型コロナウイルス禍にあっては、私はオリンピックの返上を願うところである。大会返上の理由は、素直に「新型コロナウイルスに負けた!」と、言えばいいはずである。案外、世界中の人々から、さらにはアスリートから、拍手喝采を浴びるかもしれない。とうに日本社会は、新型コロナウイルに負けているのである。この負けを長々と引きずるのは、日本社会の面汚しとも言えそうである。
 きょうもまた私は、悶々とする長い夜に身を置いている。時刻は、いまだ真夜中(2:52)である。

長い夜

 十一月二十六日(木曜日)、現在の時刻は3:02と表示されている。ほぼいつもの起き出しである。体感温度はそう低くはない。きのうはくだらないという理由で、久しく視聴を止めていた国会中継(参議院予算委員会)に、チャンネルを回した。ところが、やはりくだらなかった。国会審議は審議とは言えず、めちゃくちゃである。なぜなら、討論の体(てい)を成していないからである。わが一つだけ望むのは、質疑の内容はともかく、真摯な討論会である。これが見えないと、端(はな)からくだらないこととなる。
 これまでの私は、国会中継で胸の透く質疑応答に出合ったことは滅多にない。きのうの国会中継を見たかぎり、おのずからこの先、またまた視聴が遠のくであろう。憤懣やるかたない思いでいっぱいである。新型コロナウイルス禍にあって、現在の日本社会は混乱状態にある。それゆえに真摯な質疑応答は、待ったなしのはずである。しかし、まったくそれが見えなかった。日本の国の舵取りは為政者の善し悪し、すなわち一つ言葉で言えば為政者の「良心」にかかっている。つまり、良心の見えない舵取りや質疑応答は、私にはくだらないと思うところがある。万事、良心あってこそ、人の世である。至極、残念無念である。
 長い夜にあって、書くこともない。この先、夜明けまで悶々とするばかりである。

夜長を脅かす悪魔、ままならない睡眠

 十一月二十五日(水曜日)、零時頃、二時頃、そして三時頃、とろとろと三度寝にありついて、起き出して来た現在は、4:13の時刻表示である。二度寝ならず三度寝にありついて、私は子どもみたいな心境で、うれしい気分である。普段は一度目覚めれば二度寝がままならず、布団の中で時を浮かべて悶々とすることが多いからである。
 かつての私はこの季節の夜長を、寝ても起きても心ゆくまで堪能できていた。ところがこのところの私は、日々夜長の時間を持て余し、恨めしくさえ思うところがある。寝ては熟睡できず悪夢に翻弄され、無理やり起きればおのずから文章を書く気分を殺がれている。
 身近なところで人間は、睡眠なかんずく熟睡ほど、幸福につながるものはない。正直者と言えばそうだけれど、せっかくの夜長にあってこんなことを書くようでは、私はほとほと愚か者である。ときには初恋物語などを浮かべて、スヤスヤと長く一度寝をまっとうしたいところである。いかんせん、私には初恋はない。結婚とて、友人すがりの出会いがしらにすぎない。この頃の私は、夜長を堪能することに全神経を遣っている。つくづく、バカな私である。
 きょうは決まって水曜日にめぐって来る、歯医者通いである。夜長にあって、「嗚呼、無情」の一文である。私には睡眠薬服用の体験はない。もとより、容易で愉しい睡眠に際し、薬剤にすがるバカではない。自然体の睡眠こそ、わが幸福である。

初冬の寒気

 きのうの「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日)を含む三連休が明けて、「コロナ、コロナ」と、騒々しい週が始まる。特に今週は、「GO TO トラベル」や「GO TO イート」キャンペーンなど、政府施策の見直しで喧(かまびす)しくなりそうである。言うなれば政府と、専門家や分科会との喧々諤々の鬩(せめ)ぎ合いとなりそうである。いずれも、日本の国を案じてのことであれば、無関心ではおれなく、帰趨(きすう)を心して見守るべきであろう。それにしてもこのところの新型コロナウイルスの増勢ぶりには、確かにこの先が思いやられるところである。
 こんな中にあって起き立てのわが身は、思いがけない寒波に見舞われて震えている。初冬の気温であれば、このくらいの冷えは当たり前ではある。ところが、このところの暖かさに感(かま)けて私は、冬防寒重装備の着衣を脱ぎ去り、寒気に気を許していた。そのため、現在こうむっている寒さは、虚を衝かれたしっぺ返しと言えるだろう。
 きょう(十一月二十四日・火曜日)の私は、「寒気、いよいよ来たか!」の思いつのるばかりである。なんら実のない、起き立ての約十分間の殴り書きに甘んじて、文章を結ぶものである。現在時刻は、夜長にあっては真っ暗闇の夜明け前である(5:34)。早々と文章を結ぶのは、脳髄が寒気に怯えて、指先に何も伝えないからである。現在のわが脳髄は、俗に言う「空っぽ」である。夜が明ければ厭々する心身に鞭打ち道路へ向かい、落ち葉模様の見回りに出向くつもりである。実際には見回るまでもなくこの時期は日々、道路の掃除は免れない。いくらかの余得は、初冬の自然界のおりなす夜明けの風景を眺めて、起き立ての気分直しにありつけることである。
 まだ夜が明けない(5:44)。初冬の夜は長い。わが身は寒気に震えている。

九州場所、大関貴景勝賜杯

 メディアの報じる配信ニュースから、意図的に新型コロナウイルスにかかわる記事を避けようと思えば、わが意に沿うものは指折るほどもない。きのう(十一月二十二日・日曜日)、大相撲九州場所は千秋楽を閉じた。異例まみれの九州場所だった。九州場所でありながら、例年の福岡開催ではなく、「両国国技館」(東京都墨田区)で行われた。観客は五〇〇〇人に制限された。これらは新型コロナウイルスがもたらした一つの異例である。言うなれば外部異例である。
 もう一つは、今場所限定の内部異例である。二人の横綱と一人の大関は初日から全休し、さらにもう一人の大関(新大関正代)は、早々に途中休場を余儀なくした。結局、五人の横綱と大関の中で、九州場所をまっとうしたのは、大関貴景勝だけにすぎなかった。ところが、幸いなるかな! 貴景勝は奮戦し、大関の面目を保って優勝した。
 前段を長々と書いたけれどわが魂胆は、貴景勝の優勝を伝える配信ニュースを引用するためのものだった。
 【貴景勝、来場所は綱取り「レベルの低い優勝も困る」】(2020年11月22日19時33分 日刊スポーツ)。「大関貴景勝(24=千賀ノ浦)が18年九州場所以来2年ぶり2度目、大関としては初めての優勝を果たした。本割一発で決めることはできなかったものの、最後は勝ち切った。伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)は来年初場所が貴景勝にとって綱とり場所になると明言した。横綱昇進には『2場所連続優勝もしくは、それに準ずる成績』という横綱審議委員会の内規がある。同審判部長は『当然、優勝となればそういう話になる』と説明。今場所は初日から白鵬、鶴竜の2横綱休場に加え、大関朝乃山、目玉だった新大関正代も途中休場した。この状況もあってか、来場所について『当然、優勝となればそういう話になる』と優勝を絶対条件にした。」
 長い夜にあっては真夜中同然(2:32)、私は夜明けまでのあり余る持ち時間を思案するところである。

強風が見舞った「落ち葉しぐれ」

 きょう(十一月二十二日・日曜日)は、明日の「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日、祝祭日)」を前にして、三連休の中日(なかび)にある。晩秋から初冬にかけての好季節にあって、行楽シーズンは大団円の賑わいを見せるはずだった。しかし、三連休前には新型コロナウイルスの感染を恐れて、「我慢の三連休」という、行楽を控える警告(警鐘)が飛び交った。
 ところが、きのうのメディアのテレビニュースには、我慢をしきれない行楽客の人出の様子が、あちこちの観光地から伝えられていた。それほどに人は、政府肝入りの施策である「GO TO トラベル(旅行)」や「GO TO イート(飲食)」キャンぺーンを当てにした、物見遊山を決め込んでいたのである。もちろん、新型コロナウイルス禍にあっても、それにありつく人たちを非難すべきことではない。おのずから、日本経済浮揚のためという、大義名分も成り立つところがある。
 しかし一方、施策を敢行した政府は、人出の多さに得たりやおうとほくそ笑むどころか、大慌ての状態を強いられている。専門家や分科会のメンバーからは、新型コロナウイルスの感染者数のぶり返しは、明らかにそれらのキャンペーンのせいだ! と、あからさまにお咎(とが)めをこうむるありさまである。
 そのため、政府はにわかにそれらのキャンぺーンの中止や、見直しをくわだてざるを得ない状態にある。肝いりのキャンペーンはにわかに袋小路入りに状態にある。もちろん、キャンペーンにありつけないわが面白(おもしろ)がりばかりではなく、ちょっぴり政府に同情するところはある。
 さて、きのうの鎌倉地方は、ほぼ一日じゅう強風に吹き晒された。私は朝の道路の掃除を昼間へ後回した。山の枯葉は、夜明けからやたらと道路に舞い落ちていた。私はこの光景に業(ごう)を煮やし、昼前への後回しを決め込んだのである。天高い日本晴れの下、落ち葉しぐれは胸の透く眺めでもあった。桜の頃の桜しぐれと異なるのは、壁に吹き寄せられた落ち葉の重なりだった。一方ではこれには、強風の吹き晒しの恩恵があった。おかげと言うにはいくらか語弊があるけれど、しかし確かな恩恵であった。自然界の自浄作業のごとくに道路の落ち葉は、わが箒を這わせることもなく、吹き清められたのである。私は内心で(よしよし、シメシメ)と呟いて、壁に吹き寄せられていた落ち葉を何度も、70ℓ入りの半透明袋に塵取りから詰め込んだ。何度かは両手で、白菜を大樽に漬け込むかのように、力いっぱい押さえ込んだ。それでも袋は、はち切れんばかりに膨らんだ。しかし、やはり強風のおかげで、あっけないほどの短い時間で、掃除は済んだ。
 私は頭上の山の木々の梢(こずえ)を見上げた。だいぶ空いていたけれど、強風に踏ん張りまだたくさんの枝葉が残っていた。私はこの先、なんどかの強風の吹き晒しを願っていた。もちろんそれは、寒風の吹き晒しではなく、暖かい陽射しをともなう強風の吹き晒しという、独りよがりの身勝手な願いである。このところは鎌倉地方のみならず日本列島全体に、季節狂いの暖かい日が続いている。そのため、寒気を極端に嫌う私は、うれしい悲鳴にありついている。
 夜明け前にあってきょうもまた、まったく寒さを感じない。天恵、素直にありがたいことであり、文字どおり感謝感激である。夜明けには風が止んでいる。私は文章を閉じて、生前の起き立ての父の水田の見回りを真似て、道路の汚れぐあいの見回りに急ぐこととなる。区画の壁際の落ち葉の袋入れで、済めば万々歳である。