ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
命、考える夜長
十月十三日(火曜日)、台風十四号が去った後には日中の秋晴れと、秋の夜長における飛んでもない暖かさが訪れている。台風十四号はおおむね大過なく去った。それでも、被災地や被災者は存在する。それらの人たちにはきわめて噴飯物だけれど、秋晴れと暖かさは台風十四号のおもてなし、すなわち小粋な罪の償いと思うところがある。気象庁によればそののち、すでに台風十六号が発生しているという。台風シーズンにあっては、まだまだのほほんとはしておれないところである。
現在、パソコン上のデジタル時刻は2:20である。いつものようにパソコンを起ち上げると、私はメディアが報じるニュース項目に目を凝らした。それらの中にあっては、新型コロナウイルスの蔓延という時節柄にあってか、私はひときわこの記事に目を留めた。日本社会にとっては、もちろんありがたくない現下の世情の一つである。
【9月の自殺、昨年比8%増…女性は28%増】(10/12・月曜日、20:04配信 読売新聞オンライン)。「9月の全国の自殺者は速報値で1805人に上り、昨年の同じ月と比べて8・6%(143人)増えたことが、12日、厚生労働省と警察庁の集計で分かった。女性は27・5%増えており、さらに8月をみると、20歳未満の女性(40人)が前年同月(11人)と比べて4倍近くに増えていることも判明した。厚労省は『新型コロナウイルス感染拡大の影響で女性や若者を中心に生活リズムが変化した。不安を独りで抱えこまず、メールやSNS、電話などで相談してほしい』と呼びかけている。自殺者の総数は近年、減少傾向だったが、今年7月は対前年比で増加に転じた。女性は7~9月の3か月連続で600人を超え、7月は15・6%増、8月も40・3%増となっている。」
この記事は、数値で示された日本社会の生き難い証しであろう。一方で日本政府は、「GO TO トラベルキャンぺーン」の盛り上がりで、当初の政府予算が不足して、追加予算を講じるという。(なんだかなあー)、私には「強気(金持ち)を助けて、弱気(貧乏人)を見捨てる」という、虚しさを感じるところもある。
これまでのわが夫婦は、インフルエンザの予防注射とはまったく無縁に過ぎてきた。それでも共に、インフルエンザの罹患を免れてきた。ところが共に、今年は早々とインフルエンザの予防注射の初体験を済ましている。しかしながらこれで、罹患を免れる気持ちにはなれていない。いやいや案外、初めてインフルエンザに罹るかもしれない。得てして物事には、こんな矛盾が付き纏っている。
昨年の二つの大きな台風、すなわち「令和元年房総半島台風」(九月九日)、そして「令和元年東日本台風」(十月十二日)の復旧は、今なお置き去りにされたままである。人は、生き続けることに汲々としている。そのため、日本政府が「GO TO 何々キャンペーン」に自画自賛を決め込むのは、私には心して慎むべきと思うところである。
秋の夜長にあって、短い走り書きで文を結ぶことでは、夜明けまではなお長い夜となる。すると、二年前から空き時間の埋めにしている、英単語の復習で有り余る時間を埋めるつもりでいる。わが身に照らせば三度の飯を食うのは易しいけれど、生き続けることはほとほと難しいところがある。人みなに、共通するところであろう。そうであれば生きることにこそ、自己責任とは言わず、何らかの「GO TO LIVE(生きる手だて)キャンペーン」が欲しいところである。秋の夜長にあって、わが気迷いは果てしない。
切ない「柿談義」
十月十二日(月曜日)、飛びっきり暖かい秋の夜長に身を置いている。いつもの倣(なら)いにしたがって、パソコン上に表示のデジタル時刻を見れば、3:21と印されている。私は二時半近くに起き出して来た。これまたいつものようにすでに、メディアの配信ニュースの主なところを読み終えている。幸いにも心中を脅かす大きなニュースはない。台風十四号にかかわるニュースも、後追いなく途絶えている。明るい話題で目を留めたものには、京都が世界一魅力のある都市という記事があった。京都は昨年の二位から一位へ躍り出て、一方東京は、一位から六位へ沈んだという。
台風十四号は恐れていたけれど、わが家を含めて総じて神奈川県は、大過なく去った。その後にはいっとき、台風一過の秋晴れに恵まれた。待ち望んでいた、久しぶりの胸の透く秋晴れだった。待ってましたとばかりにきのう(十月十一日・日曜日)の私は、胸躍る思いに引かれて、いつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。街へ足を踏み入れて真っ先に驚かされたことは、繰り出していた人出の多さだった。わが定番コースの店のどこかしこに、買い物客がごった返していた。まるで、新型コロナウイルスの感染恐怖など過ぎ去ったかのような光景に、私は度肝を抜かれた。確かに私自身、その光景の一員を成していた。
この光景にわが思いを映して、こう考えた。すなわち、この人出の多さは台風予報に足止めを食らい、そのうえに日曜日が重なったせいであろう。この証しは、どこの店でも見られた。それは普段はあまり見られない若い夫婦や、家族連れの買い物客の多さだった。
私はいつもの買物用の大型リュック、さらにはレジ袋に代えて持参の買い物袋に、はち切れるばかりに品々を詰めて帰宅した。買い物の品には果物の場合、この日から蜜柑に新たに柿が加わっていた。そして、夫婦共に大好物の柿の、試し食いをした。現在、わが夫婦は共に歯を損傷しており、恐るおそる柿が食えるかどうかのテストを試みたのである。いつもであれば皮を剥いて齧(かぶ)りつく私も、包丁で薄く裂いて神経を尖らして口中に差し込んだ。それでも私は、「もういい、参った」、とは言わなかった。ところが妻は、早々に音を上げて、
「パパ。わたし、食べられないわ。パパ、柿はもう買ってこなくていいわよ!」
と、言った。私にすれば好きなものを諦めろ! という、最後通牒を受けた思いだった。それゆえに、抵抗を試みた。
「そうか。それでもおれは食べたいから、たまには買うよ。おまえには、熟れた柿(熟柿)でも買ってくるよ」
仕方なく相和して、「切ない柿談義」の矛(ほこ)を納めた。それでも、夫婦して実りの秋のイの一番の愉しみを失くした思いだった。
台風一過のわが家の柿の木には、葉っぱのすべてを飛ばし枝に、五個の柿が台風に逆らい生っていた。私はそれらを千切り、その一つを果物包丁で薄っぺらに切り、これまた恐るおそる口中へ運んだ。いつもの美味しい味覚に加えて、切ない愛(いと)おしさがつのっていた。